熱に浮かされて

その人は不思議な人だった。深みの青の制服に半端丈のパンツ。背が高く、運動神経抜群で、チーム競技で同じチームになった暁には勝利が約束されている。
その時だけは、輝かしいまでに顔が生き生きとするのに、普段はいつも眠そうで、目は死にかけで、しかも勉強もろくにできない。
事情はよく知らないが二度目の一年生を送っているというのに、焦りも何も見えなかった。いっそ悠々自適に過ごしている。
「彩霞」
相手の名を呼び、身体を揺り動かす。この高校の下校時刻は季節によって変わるが、冬は午後六時だ。それ以降に残りたい場合は担任の先生もしくは部活動であれば生徒会を通じて先生方への申請が必要となる。
会長となった人に憧れて、生徒会役員になった間宮紫歩の仕事として、決められた曜日に見回りをして早く帰れと催促する仕事がある。それを通じて顔見知りは増え、学年問わず顔の広い存在になれた。
そして、どれだけ揺り動かしても起きる気配のない目の前ののっぽとも。
「葉梨彩霞、起きて。じゃないと……何したら嫌がるかしら、この鉄仮面。そうね、キスするわよ」
カーディガンを上から羽織っても寒い時期である。いつから寝ているかは知らないが、このままでは風邪を引くだけだ。
これが、居眠り常習犯かつ彩霞のクラスメートである雑賀瑞生なら足蹴にしても何とかなるだけの親しさがある。だが、彩霞とは瑞生伝いに知り合いなだけだ。ついでに城村優雨花という紫歩のクラスメートで、かつ、紫歩よりもえらく顔の広い少女繋がりもあって、たびたび昼ご飯を共にしているが、勉強ができないことしか知らない。できないのか、やらないのかは定かではないが、頭を使うことは嫌いと宣言している瑞生と並ぶ赤点祭り女である。
「本当に起きないのね」
朝早くに起きて新聞配達のバイトをしているらしいのは聞いていた。親との縁は薄いが金銭面で一度も困ったことのない紫歩からすれば、苦労しているのだろうなと心の中で同情する。
瑞生なら起こし方を知っているかもしれないが、あいにく彼女は今日、所属している美術部の部長、桑城素子と都会の美術館に足を運んでいる。優雨花とて演劇部の活動中か、帰宅しているかだろう。
「あーもう、面倒臭いわね」
紫歩は生来、好奇心旺盛である。何事にも、体力のなさゆえに倒れようがお構いなしに首を突っ込み、周りを巻き込んで、自分のやりたいことをやる。その強引さから冷たい目で見られたり、指を指されたり、ろくでもない噂を流されることもあるが、つまらないことは楽しくないのだ。仕方ない。付いてこれないというのなら、関わり合いにならなくていい。
鼻っ柱の強さで、入学からここまで、おかげさまで楽しいことだらけで過ごしてきた。
気の迷い、だった。
顔を覆う彩霞の黒艶のある髪の毛を払い、その白い頬にキスをする。
ほんの一瞬。
そばの校舎はすべての窓が真っ暗で、人の気配はなくて。手分けして点検している甲埜美南はまだもう一つ向こうの、部室だらけの棟にいるだろうと予測して。
ぬっと背後から伸びてきた、がっしりとした手に頭を掴まれる。キスをしたまま、逃げられない。目をパチパチとさせ、その手を払いのけようとするが、力の差は歴然だった。あれだけ体育ができるということは相応の筋力があってのことだ。柔軟性だけが取り柄の、一時は拒食に陥り今もまだ体重が戻りきっていない紫歩の腕力なぞ、たかが知れている。
少しの間をおいて、拘束が解かれる。立ち上がって、後ずさる。彩霞はなんの表情の変化もないままに、目を開けて、そして、立ち上がった。
「……何のつもりよ、あんた」
「それは私が訊きたい」
「たまたま、なんとなく」
「理由になってないじゃないか。私のことが好きなのか?」
淡々と告げられ、紫歩は頬が熱くなる。誰にもしたことがなかった、頬に口づけなんて。興味本位とはいえ、何てことをしてしまったのだろうか。胸がばくばく鳴り出したのが嫌でも伝わってくる。
彩霞の目が、だいぶ頭上から紫歩を射抜く。単に気になるだけなのだろう。紫歩だって逆なら問いただす。まず野外で居眠りなんてしないものの。
「わからないわ。理由なんてないのよ」
「紫歩らしくない答えだな。いつもはあれだけ、うるさいのに」
「は? 誰がうるさいですって?」
「……口が滑った」
「あーもう、とにかく。ごめんなさい。あと、下校時刻なので帰ってください」
「嫌だ」
「え?」
「私は、今までさっきみたいなことはされたことがない。瑞生にもシロにも、誰にも。だから、理由が知りたい。紫歩にだってわからないみたいだけど、あるはずだから」
「なんであんたいきなり頭が回りだすのよ」
「よく寝たから、かな」
紫歩は、たまらず舌打ちしそうになる。理由を問いただされるのは幼少期から苦手だった。親の、どうして? に答えられなかった。理由なんてない。相手を納得させられないなら、何にも言わずに、ただ相手の興味が潰えるのを待ったほうが早い。やがて親は、紫歩に何を訊いても無駄だと諦めるようになった。
紫歩も最低限しか親に話さないようになり、親子の亀裂は走って深まってゆくばかりだった。
「君はよく表情がころころ変わるんだね。前から知ってたけど。隠してるつもりで、隠せてないよ、それ。そこが紫歩の魅力なんだろうけどさ。私が、もういい、って言うと思ってる?」
「そういうわけじゃ」
「じゃあ、誰にでもさっきのことするの? 瑞生にも? シロにも?」
「しないわよ!」
「ふぅん。じゃあ、そういうことで」
「は?」
彩霞は一歩ずつ、その大きなコンパスを活かして、あっという間に紫歩の目の前に立った。ぐっと見上げないと目が合わない。
先ほど紫歩の頭を押さえた腕が伸びてくる。
「何すんのよ……」
「お返し」
軽く、ではあったが抱き着かれた。
もう時間がない。
このままでは美南が合流地点に約束した一階の渡り廊下までやってきてしまう。そこに紫歩がいなければ心配して、こちらに探しにやってくるだろう。
「ほら、生徒会の見回り中だよね? 早く行きなよ」
「言われなくても」
何食わぬ顔でヒラヒラと手を振られた。その顔は見たことがないまでに、にやにやしている。
「何よ、あんたそんな顔できるんじゃない」
「うん」
「最低」
「何が? 寝ている人間のほっぺたにキスしちゃう子が言うの?」
「うるさいうるさい! 早く帰れ!」
言い捨てて、渡り廊下へと向かう。肩をいからせ、顔はまだまだ真っ赤なままで。人の機微に目敏い美南に察されないように、深呼吸を何度もして気分を落ち着かせた。
「あれ? なんか困ったことあった?」
今度は紫歩よりも低い位置で、お団子頭が揺れ、心配げにまあるい柔らかなタレ目が紫歩を見遣る。
「ううん……大丈夫です、美南さん。変な虫に追いかけられただけだから」
「変な虫? それって紫歩がちょっかい出したんじゃないの」
「ち、違うもん……」
美南は穏やかに笑って、じゃあこれで見回り終わりだよね、お疲れ様、紫歩。と声をかけ、私は実花と帰るから、と去っていった。
遠くに消えてゆくお団子頭をぼーっと見つめて、さっきの場所に戻ったら彩霞はまだ居るのか考える。
「おっ!」
「きゃっ……!」
背後から何者かに大声を出され、すわ幽霊かと紫歩は全身飛び跳ねるくらい、びっくりした。固まって動けず、振り返って血塗れの女がいたりでもしたら嫌で、何もできないでいると、声の主がわかった。
「お返し、その2」
「殺してやるから……いい性格してるわね、あんた。死ぬかと思った……」
「君って、猫みたいだな。よく手入れされてるけど野良猫みたいな黒猫」
「どういうこと」
「そのままだよ」
声だけの存在だった彩霞が、紫歩の眼前に再びやってきた。その手には、紫歩が忘れて置いていたカバンが持たれている。
−−瑞生の時と同じじゃない。
中学の時、瑞生の絵に感動して、そして現れた鹿屋佳菜子に驚いて、走って逃げて、瑞生に追いかけさせたのが瑞生との出会いだった。今では無二の親友で、憎まれ口を叩き合う仲である。
「カバン、ありがとう」
「そのまま渡すと思った? 質問に答えてないよ」
「……え」
「さっきのちゅーはどういうこと?」
「しつこいわね」
「あれ、じゃあこのカバン持って帰っちゃうけど。なんかいい香りするね、紫歩も紫歩の持ち物も」
口をあんぐり開けて、彩霞を見つめるしかなかった。相変わらず、意地の悪い笑顔が浮かんでいる。
紫歩の苛立ちは募るばかりだった。相手に主導権を握られるなんて、紫歩のプライドが許さない。今まで散々、テスト前には世話になってきておいて。こんなに弄ばれる筋合いはない。
彩霞の胸元のリボンを引っ張って、ゴムが伸びるだろ、と腰をかがめ、顔が近づいた彩霞の頬を両手で覆って、その唇に紫歩の唇を合わせた。
無理やり割り開いて、逃げる彩霞の舌を捕まえる。息苦しくなってきて、手を離した。
お互い顔が赤くなっている。何事か、と彩霞がしどろもどろになっていた。
「ざまあみろ」
彩霞からカバンを強奪し、その長身の横を走り抜ける。
ひひっ、と笑いながら、校門まで。今日はどの部からも残ると聞いていないので、施錠されてしまうのだ。守衛に頼めば鍵を開けてもらえるが、迷惑である。彩霞がどうなろうが知ったことではないが、紫歩はもう、とっとと誰もいない家に帰りたかった。
無事、夜の闇の中で黒光りする校門を抜け、駅に向かおうと歩き出す。追ってきてないだろう。勝った勝った、とにこにこする。さっきの彩霞なみに悪どい笑顔を浮かべているに違いない。
「紫歩」
揺れるスカートのサイドについたリボンが、引っ張られる。
「……そっか、あんた、運動神経抜群だったわね」
「私のことが好きなのか?」
「好き、なのかも」
振り返った先の彩霞は、唖然としていた。しかも、さっきよりも顔が真っ赤。熱出てない? 大丈夫? と場違いにも訊きたくなるまでに。
「紫歩が、私を……? まじか……」
「どうする?」
「へ」
「なんなら、付き合う? もう、あんなキスまでしちゃったし」
あくまでも軽いノリで訊く。彩霞の反応がとにかく面白いのだ。今日だけでたくさんの顔を知れた。
思ったより人間臭いどころが、あるじゃないか。
「わかった。付き合おう」
「ひひっ、やったやったやった!」
よくわからないテンションのまま、最寄り駅まで手を繋いで帰った。
二人とも家に帰って、思い返して、叫びそうになるのを抑えて枕に顔を押し付けて、眠れない夜を過ごした。
若気の至り、なのだろうか。
答えは、また、日が昇ってから。
二人で、出すしかない。

「ところで、あんたキス慣れてるの?」
「初めてに決まってるさ」
「は?」
「ファーストキスをあげたんだ。責任は取ってもらうよ」
「私だって……」
「……そうなのか。良いものもらった」
「ばか!」

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最終更新:2014年12月21日 19:26