絵空事の溺死

セーラー少女の瑞生と紫歩。
全ての始まりはないぞうさんのイラストから。
参考小説:
ちゅたさん「失速限界」
http://privatter.net/p/407004
政岡さんの「それはひとつのお話」
http://privatter.net/p/411123
環さんの「虚飾少女と航行少女のスペクトル」
http://privatter.net/p/411996
鴨虫さんの「姫雛鳥のブレス」
http://privatter.net/p/412902

美術室の、油のにおいを覚えている。
たぶん純然たる油絵の具のにおいだけではなくて、粘土だとか木の香りも混ざっている。
紫歩の鼻が油絵の具のにおいばかり感じるのは、嗅ぎ慣れているから。
雜賀瑞生との思い出は、ほとんど美術室から生まれている。

絵空事の溺死

え、紫歩って中学の同級生居たんだ?
冗談めかして、目の前の空色に包まれた少女はきゃらきゃら笑う。
昼休み。教室は喧騒で埋め尽くされている。
居るわよ。言ってなかったかしら。
好奇心で、きらきらと光り出した友人の目に、紫歩は呆れたように返した。
聞いてないよ! 紫歩は自分の話をあんまりしないもの。でも、誰かはわかるよ。雜賀瑞生さんでしょ。
正解。
その名前を聞くだけで、紫歩の顔つきは穏やかになる。智由利は面白いものを見つけたとばかりに、質問責めにするが、紫歩は上手く交わした。そうこうしていたら、50分の休憩時間はあっという間に過ぎてゆく。
チャイムで終わりを告げられ、教室は50分前の整理整頓された状態に戻る。机はきちんと並べられ、さっきまでの笑い声はどこへやら。次は質問され、答えられないと立たされっぱなしなんてことをする生物の教師だ。予習のために教科書と資料集が開かれる音が、あちらこちらから聞こえる。
一連の変化は生き物みたいだ、と紫歩は思った。
足を一歩踏み出して、もう一歩、としていけば歩けるように。
学校は化け物じみている。
たくさんの少女たちを毎朝同じ時間に吸い込んでは、時間が来たら吐き出す。それは毎日、飽きることなく行われる。授業時間を確保するために、前期と後期のシステムを取るようになってからも、それは変わらない。
朝学習なんてもののために8時30分には登校しないと遅刻扱いになり、6時間みっちりと授業が詰まっている。
先生はみな口を揃えて、大学進学の話をする。
どこにでもある地方都市の、その地域では名を出すと賞賛される偏差値の学校なのは事実だ。だが、それだけだ。
日本にはもっと賢い学校が山ほどある。
ちっぽけな誇りなんて、あるだけ生きづらい。
貴重な三年間は、少しずつ、少しずつ若さに焼かれて消えてゆく。少女たちは、さなぎになって、そして蝶になってゆく。
瞬きしている間に、みんな大人に近づく。少女の瑞々しさはだんだんと失われ、やがて凛々しい顔つきに、丸みを帯びた身体つきになるのだ。
生物教師が入ってきて、日直の号令が静かな教室に響き渡る。同時にがたがたと音を鳴らしながら、少女たちは一斉に立ち上がり、一礼してから、また座る。
春夏秋冬問わず長袖の黒セーラーを着続ける紫歩にとって、この退屈さは、嫌いではなかった。
端的に言えば憧れの作家を追いかけ入ってきた公立の女子高。入学日初日から、今となっては生徒会長を務めている彼女の、研究者然とした視線を浴びた。
あれから半年か。黒板の右隅に書かれた九月の文字に、ちら、と紫歩の関心は向けられる。
自分とは質の違う色の白い彼女のことが、不意に思い出された。
部の数は同好会含め多いものの、少子化の煽りを受けて学校全体の人数が減るばかりのこの学校。美術部はここ数年、たまたま志望者が少ないらしい。迷うことなく入部を決めた彼女の、唯一の心の安らぎは上手く機能しているのだろうか。
絵のことは、紫歩はさっぱりわからない。彼女から説明されるわけでもないし、美術室の壁に設置された本棚から、暇な時にランダムにピックアップして眺めては、また戻す。
きっと退屈さは隠しきれていない。
「無理して来なくていい」
そう、彼女は言う。私の製作過程を見て、紫歩が楽しいとは思えない、と。
「瑞生の絵は、好きだから」
そう言えば、片耳だけ出ている瑞生の肌がうっすら朱に染まるのを知っている。

染髪可。どんな色でもよし。
小さな生徒手帳に書かれたその言葉に、入学当初の瑞生が、やった! と柄にもなく叫んだのは記憶に新しい。
さらさらのショートボブなのは変わらないまま、黒髪から、外国人めいたホワイトアッシュブラウンに変わった衝撃は今も、シンバルの余韻のように紫歩の中にある。
まったく傷まない強い髪質らしく、少しでも地の黒髪が出てくると、瑞生は足繁く市街地のお洒落な美容室に足を運ぶ。
どこまでも感覚で生きている彼女のことは、誰よりも眩しく紫歩の目には写る。
生物教師の目が注がれない程度に、真剣な顔で、紫歩は記憶を辿る。
瑞生と出会ったのは、中学生の時だ。この高校から、そう遠くは離れていない。市が区切った学区に悪意があるように感じられた。貧富の差が激しいところで、荒れた学校だった。暴力問題が起こっている、とか、窓ガラスが割られてしまって風がびゅうびゅう吹き込んでくる、なんていう話はなかったものの、偏差値が低かった。
当時、まだ工藤姓を名乗っていた紫歩は小学校に上がってすぐに塾に入れられた。成績は悪くなく、県の私立女子校を当たり前に勧められた。中高一貫であり、附属の大学も悪くない。工藤の父親は、ぜひとも入るべきだと言って聞かなかった。
その当時から、紫歩の話を聞いてくれる人は家庭にいなかった。今日あった出来事すら、母親もまともに耳を貸せない人間で、紫歩は都合が悪いと貝のように黙りこくる子どもになっていた。
あれよあれよと話は進み、受験日当日。紫歩は小さい反乱を起こした。
全教科、白紙で出した。
この事実は伝えられることはなく、親が知るのは、ただ、不合格という歴然たる事実だった。
模試でもなんでも、A判定だったはずなのに。なぜなのか。
両親は、当日紫歩の調子が悪かったからでは、だなんていうことは露にも考えなかった。期待していた一人娘の中学受験失敗は、工藤家の崩壊に繋がっていった。
ただ親の言いなりになるのが嫌というだけで、入ることになった、その荒れた中学のことも、紫歩は大嫌いだった。
何人かはまともだが、他の三十人くらいがまともではない。授業中に立ち歩くのは当たり前で、飲食を行う者まで出る始末。これだったら、あの女子校に入れば良かった。そう自分の選択を悔やむほどだった。
かと言って家に帰っても、両親が居ても居なくても紫歩の心は癒されない。携帯電話を持つことも許されなかったので、下校時間までぎりぎり、学校を探索する他なかった。
グループ行動が苦手で、決まった友人は一人も居なかった。アイドルの話も、ドラマの話も、漫画の話も、好きな人の話も、どれにも興味がなかった。
くだらない。
一言で片付けて、静まり返った校舎内を歩く。
かつてはマンモス校だったらしく、教室の数はたくさんある。最大では12クラスあったと聞くが、今や4クラスしか残っていない。余った教室は大体が荷物置き場になっている。ビニールをかけられ、時を止められた部屋たちの前を通り過ぎる。外は土砂降りで、傘を忘れたから、帰るに帰れなかった。
親に迎えに来てもらうんだ、と、にこやかに笑う同級生が心底羨ましかった。中学受験の時点で明確に走っていた亀裂は、紫歩が毎朝目覚めるたびに深くなっていた。父親は自宅に帰るのをやめてしまった。母親も、ご飯代だけ無造作に机の上に置いて、紫歩とほとんど顔を合わせなくなった。父親と上手く行かなくなってから、仕事の量を増やしたらしい。
苗字が変わるのは時間の問題か、と他人事のように感じていた。
特別教室棟に足を進め、薄ぼんやりした棟に唯一光る教室を見つけた。芸術科目は音楽選択で、気晴らしに歌っている紫歩の記憶の中を辿れば、そこは美術室だった。
お箸で絵を描くんだっけか。器用なことね。
最高学年になっていた紫歩に怖いものはなかった。後輩なら、紫歩のスリッパの色で気づくだろうし、同学年なら顔だけは知っているはずだ。
煌々と照らされた美術室に、人の姿はなかった。付けっ放しで帰ったのか、トイレにでも行っているのか。
明らかに、今、描いていますといった風のキャンバスを見つけた。椅子の上にはパレットと絵筆が置かれている。
紫歩の中には絵を描いた記憶なんて小学生までしかない。黄色く小さいポリバケツに水を汲んで、ひたすら塗りたくっていたら紙はしわしわになった。何を作っても、描いても思ったように手は動いてくれなかった。毎回褒められる子は決まっていて、なぜ彼女や彼のように輝かしい作品を作れないのか、と紫歩は憤慨した。小学生の時の成績は図画工作だけ一段階低かった。他は全て最高評価なのに。はっきり言って苦手だった。
「うわ、綺麗」
声がたまらず漏れていた。
紫歩の上半身はあるかというキャンバスに、真っ青な空と、似つかわしくない夕暮れの街並みが広がっている。
「光の帝国オマージュなのかしら」
村上春樹が単に好きなのだろう国語教師は三年に上がる時に異動してしまった。彼以外を読むか、と市の大きい図書館に足繁く通った結果、出会ったのが恩田陸だった。
光の帝国と名付けられた短編集は、常野と呼ばれるところから来た、不思議な力を持つ人たちの話で彩られている。
はっきり言って明るい話ではなかった。戦時中に能力ゆえに捕らえられ無残に殺されてゆく話が表題作だった。タイトルの不思議さに惹かれ、調べたら、マグリットという画家の描いた絵画を見つけた。
たまたまタイトルが同じなのか、筆者の遊び心なのかは知らない。
ただ、紫歩はその青空と夜の街並みという奇怪さに惹き込まれた。
目の前の絵は、それに似ている。
「あなたも、この絵に興味があるの?」
突然声をかけられ、痩躯はびくりと震えた。
「ええ、まあ……」
肩につかないおかっぱめいた髪型に、花の髪飾り。セーラー服。
「あなた、ここの生徒じゃないわよね?」
この中学は、ブレザーだ。昨今の侵入者防止策は最低限、行っているだろうに。この学校への信頼がまた一つ下がった。
「私は、そうね。生徒じゃないわ」
「この絵の作者ではないの?」
「私は、こんな絵は描けないもの。描けたらこんな姿になってないわ」
「こんな姿……?」
すわ幽霊か、とひらめいたその先に、セーラー服の少女の姿はなかった。
見てしまった! と勢い良く教室を飛び出て、トイレから出て来た誰かにすれ違いながらも、紫歩は急いで靴箱に向かった。
久しぶりに出した全速力で、肩で息をする。
幽霊だ、幽霊だ、幽霊だ!
ホラー番組にホラー文庫は好きだったが、まるで本物を見られるなんて。さすがに気分が高揚する。
「……あの」
低めの落ち着いた声に話しかけられ、またも紫歩は飛び跳ねた。
壊れたブリキ人形のように、ぎしぎし音を立てながら首を回す。
見慣れないが知らない顔ではない同級生が立っていた。
「かばん、忘れてる」
紫歩の無駄に荷物が詰め込まれた重たいスクールバッグを片手に、少女は追いかけて来たらしい。暗がりでもわかる、その紅潮に、紫歩はどきりとした。
この子が、あの絵の作者だ。
清潔な印象の短めの黒髪に、意志の強そうな目に高めの鼻。小さい口。お人形さんだな、と、よく自分に向けられることを思った。
「雑賀瑞生?」
「知られてるの、私」
「同学年よ。私は工藤紫歩」
「ああ、あの頭良い子か」
「何よ、それ」
「事実だろ」
話は終わったと言わんばかりに、瑞生はかばんを置いて、元来た道を戻って行った。
雑賀瑞生が、よく全校集会で表彰されている美術部部員だと思い出すのに、さして時間はかからなかった。三年連続で体育祭も文化祭も欠席していたから、彼女の作品を見る機会がまったくなかったのだ。
この学校に入って、初めて興味を惹かれた。
そこから、美術室に押しかけては、心根が優しいのか冷たくしてこない瑞生との距離を縮めた。

「ああ、よく覚えてるね。描いたなあ、そんなの」
「綺麗だった。好きよ、あの絵」
放課後、夕暮れも終わりかけの暗い教室。電気をつけるその直前に、紫歩はふと、瑞生の描いている絵に見覚えを感じた。
「あれ? この景色……中学の靴箱?」
「そう。紫歩と私が初めて話したところ」
「なんでまた」
「なんとなく」
「何それ」
「説明するの面倒臭い」
「教えてよ」
「うるさい」
軽口の応酬をしつつ、紫歩はパチンと部屋の電気をつけた。
記憶の中と同じく、外は土砂降りだ。
明るく染まった瑞生の髪に、なんとはなしに触れる。
「……何?」
「さらさらよね」
「何もしてないよ、別に」
気分が乗ってきたのか、絵を描き出した瑞生を見て、紫歩は後ろに置かれた椅子にちょこんと座った。野村茉莉に頼まれた原稿がまだできていない。どうせ瑞生と帰るつもりだし、とかばんの中から印刷した原稿と、カフェオレを取り出した。
作業中に喋るのは好きじゃない、と瑞生は言うから、静かにしているに尽きる。他の人からはサイボーグのように見えるらしい瑞生だが、彼女の感情の起伏の激しさは紫歩より余程のものがある。顔つきも声も話し方も落ち着いているが、内心はかなり熱い。頃合いを見計らってあれこれ尋ねたら、饒舌に語ってくれる。
その、瑞生の不器用な優しさが紫歩は好きだ。
描く作品の品のある色使い、独特の線はもちろん、見た時に与えられる鮮烈さまで全て、たまらなく愛している。
自分以外には片手で数えられる程度としか交流を持たず、本人ではなく、顔の広い紫歩に彼女へのラブコールが届けられるくらいだ。
直接言わないと、あの子信じないわよ? と返しても、雑賀さんは不思議な人だから、私なんかじゃ話かけられないよ、と苦笑いされる。
紫歩に対しては思う存分の軽口を叩いてくるが、慣れない人と話す時は見るからに緊張しているのもわかる。
変わった子だ、とは思うが、瑞生の心象風景の美しさには何度も感嘆のため息をついてきた。
見た瞬間に引き摺り込まれ、息をすることを忘れる世界。二次元に三次元が生み出されている。絵のことは今もなお詳しくないが、瑞生の絵がいかに素晴らしいかは、少しだけ理解している。
偏差値は高いが、美術に関してはからっきしなこの学校ではなく、美術科のある学校に行くものだとばかり思っていたのに。

「私を狙う幽霊に出会ったんだ」
そうブレザーに身を包まれていたころ、真剣な口調で言っていた。
「姉が出身だから知っているんだよ。絵描きや字書きにしか見えない、出会えない守り神があの高校には居るってね」
「ふぅん、そうなんだ」
「だから、私はここに入った。そしたら、守り神だか地縛霊だか悪霊だか知らないけど、ほとんど毎日来るんだ。その子」
なんとなく、その幽霊の気持ちがわかる気がした。
きっと瑞生の絵が好きで、瑞生の優しさが愛しいのだろう。
話終わりに見上げた瑞生は、少し背が伸びたように感じられた。色素を抜いた髪の毛が、蛍光灯に照らされて透けて光る。化粧っ気はまったくないが、きめ細やかな色白の肌はつやつやしている。
見惚れていると、視線がうるさいと小言を口にされた。歯向かうか悩んで、紫歩は目の前の原稿に向かう。あとは推敲だけなのに、思うように進まない。目の前の女の子にちょっかいを掛けたい気持ちがどんどん膨れてゆく。
「あのさ」
「なぁに」
「紫歩、好きな人でもできたの」
「は?」
「だって顔が変わったもの。幸せそうだ」
あひゃひゃと独特の笑い声を上げながら、瑞生の手は魔法のように動き回る。油絵を始めた、と言っていた。
描かれる世界は、確かにあの中学の雨の日の靴箱で。口元が緩むのを抑えられない。
「変わった? 変わったなら、それは良かったのかしら」
「生徒会長?」
「何のことよ」
「お相手。紫歩があの人のこと話す時、すごく幸せそうな顔するから」
さみしさも何も込められていない、ただただ楽しそうな声色だ。
「美南さんはそんなんじゃ……。ていうか、私が一番噂されてるのは瑞生との関係なんだけど」
「紫歩と? 私が? 何それ、化け物同士」
確かに二人とも、そんなあだ名を付けられている。はたから見たら、そんな風に見えるらしい。こんなに無害な清廉な人間なのに! と憤る。
「じゃあ本当に付き合う? 瑞生」
後ろから声を掛けているから、瑞生の顔は見えたりしない。どうせ、嫌な顔をしているんだろうと思った。からかわれやすいが、プライドはかなり高い。いじりすぎると嫌がるし、近づきすぎると逃げてゆく。その魅力に惹かれて、何人か、距離を計らず瑞生に構っているが、あくまでも懐に入れるつもりはないようだった。
「……紫歩が本気で言うなら、考えるよ」
「え」
「嫌じゃ、ないから。でもお前、それ冗談で言ってるだろ。どうせ本気で受けとめた私を笑ってるの、知ってる」
「どんだけあんたの中で、私は嫌な奴なのよ。さすがに付き合おうなんて嘘じゃ言わないわ」
かたん、と瑞生が絵筆を落っことした。床を汚す前に素早く拾う。小さく身体が震えているのがわかる。瑞生がそんな反応をするだなんて、見たことなかった。
苗字、変わるんだよね、と話した時も、そうなんだ。お疲れ様。と返してきたくらい、他人のことには首を突っ込まないタイプで、動揺すらしたことがなかったのに。
「紫歩は、私とどうなりたいんだ?」
腰掛けることなく、視線が一気に紫歩を貫く。この目は、紫歩の数倍、いや、数千倍は輝かしい世界を見ているのだろう。
「このまま、仲良くしていて」
そう、とぶっきらぼうに瑞生のは返し、また元の位置に座った。
確かな期待を、感じてしまった。紫歩は人の感情の機微に過敏である。両親を怒らせないために掴み取った力だった。
間違いなく、瑞生は紫歩に期待していた。珍しく、彼女から紫歩が仲良くしている他人の名前が挙がったのだ。
そんなこと、めったに起こらない。
瑞生に気づかれないように、小さくため息を吐いた。
想いは、ここにある。
絵空事ではなく、確固たる現実として。
やっと最近、胃が食べ物を受け付けるようになったばかりなのに。また、きりきりと痛み出す。泣きそうになる。
大切すぎる、のだ。雑賀瑞生のことが。
黙ってそばにいて、癒される存在は彼女しかいない。
自由奔放に他人をたぶらかしている、と、専らの評判だが、それらは全て瑞生という不変の存在があるからこその話だ。
彼女に見捨てられたら。きっと、ぼろぼろになる。取り繕うことすら、できなくなる。
夢にまで見た虹は、いつか消える。代わりに雨はやまない。足元まで、いや、鼻まで全部、雨水に浸かる日が来るだろう。
まだ寒くないはずなのに、紫歩の身体には鳥肌が立った。
このままでいい。
このままがいい。
飲み干したカフェオレの残り味は、やけにほろ苦かった。
盗み見た瑞生の剥き出しの片耳は、赤く染まっている。さっきより、乱暴にキャンバスに向かっている。
居た堪れなくて、しかし逃げ帰る勇気もなく、その日は終始無言で過ごした。

明くる朝、眠れなかったことがわかる目の下のクマに、智由利から散々心配された。
はて? この子はこんなキャラだったか、と疑いつつも、食べなさい寝なさいと母親のようにまくし立てる智由利を宥めた。
「さっき、実花と美南とすれ違ったの、気づいてないよね? 紫歩」
「え、いつ?」
「紫歩らしくない。あの二人から揃って、紫歩は調子が悪いのか? ってメール入ってるんだからね。本当に大丈夫? 話なら、いつでも聞くよ。今週は飛ぶ予定もないし」
「暇なんだ」
「そうとも言えるけど」
「大丈夫よ。何ともないの。ただ、眠れなかっただけ」
1月の誕生日まではまだ遠い。15の身体に耐えられる感情は遥かに超えていた。これまで以上に瑞生を意識することになれば、きっと向こうが逃げてゆくだろう。
あの子は、重いものが嫌いだからなあ。
相談役にされては、解決した途端、無下に捨てられてきてばかりだった、と、いつか語っていた。自分はそんな気持ちを味わわせたくない。だから、彼女に深入りしないできた。仲の良さのわりに、彼女のことをほとんど知らない。いつも二人で話すのは、他人の噂話ばかりだ。
目を閉じる。一時間目は寝ていても何も言わない古典教師だ。ましてや、紫歩は睡眠学習の天才という通り名があるくらい、よく寝ている。一学年上の、美南の教室になに食わぬ顔で座って、授業内容を完璧にこなすくらいは朝飯前に行える。出来る人間に対して、教師たちは厳しく指導しなかった。
目を閉じたら、昨日、彼女が一心不乱に青を塗りたくっていた海の絵が思い出された。色を重ねているのに、どうしてあんな透き通るような海を作り出せるのだろう。
野村茉莉の文章がどこまでも世界を白く焼き尽くすものならば、雑賀瑞生の絵はどこまでも世界を青く染める綺麗な海だ。熾烈で、鮮烈で、何度生まれ変わっても出会いたいし惹かれるに違いない。
何度も、後悔があった。あの幽霊が、ここの学校に住まうものらしい、と胡散臭いことを知ってから、瑞生の興味が向いたのを機に、野村茉莉−−菱沼綾葉と出会ったあの文化祭の一日から、ここを志望してきた紫歩は自然に、あくまでも自然に、瑞生がここを受けるように先導してきた。怪しい壺売りの都市伝説のように、騙くらかしたと言っても過言ではない。
この学校が、美術を専門的にするには弱い環境だと知っていて、それでも連れて来たのだ。
冗談めかして後悔を伝えたら、瑞生は小さく笑って、別に大学で本格的にやれたらいいと思ってるから、いいよ、と返す。
決して瑞生は、紫歩に対して、紫歩のことをどう思っているのか明かすことはない。
どちらかといえばネガティブで、鬱屈した感情を溜め込んでは、絵に昇華する、その瑞生の姿を見て、たまらなく惹かれてきた。
彼女が何を望もうと、自分がどんな虹色の絵空事を描こうと、きっとこのままで卒業して、離れ離れになるのだ。
思い悩めば食べ物は喉を通らなくなる。この前のように倒れるわけにはいかなかった。瑞生の耳に、そのことが知れるのは嫌だった。自身が面倒で重苦しい存在だと思われたら、一貫の終わりだ。
何を考えているのか知れない、謎の存在でなければ。自分の魅力なんて、強いて挙げるならそこくらいしかない。
あとは、察すること。両親の気持ちを知りたくて、いつの間にか身につけたもの。だけれど、苗字は変わってしまった。紫歩の記憶に、家族団欒という風景は存在しない。本を読んでも、ドラマを見ても、映画を見ても普遍的なテーマとして描かれるそれに、はっきり言えば憧れている。
野村茉莉の書いた『狼とうさぎの寓話』の狼に惹かれるのは、彼が自分自身に似ているからだ。社会不適合者だ、と著者は言ったが、それは紫歩にも言えることだった。
物語に描かれる、自分に似通った存在のことは好きになれるのに。絵空事だからだろうか。
この前、菱沼綾葉に見せられた草稿に書かれていたのは、間違いなく自分だった。あの深い青い目は、じっくり紫歩の隠しておきたい柔な芯まで見抜いていたらしい。とっさに出た台詞は「私は、この主人公は好きじゃない」だった。狼は、紫歩に似ているけれど、紫歩ではない。だから惹かれた。絵本作家なんて職業には、冗談でも就かないだろうし。
だが、あの草稿に書かれていたのは紫歩そのものだった。身近な人間をモチーフにしたんだ、と真顔で言っていたが嫌なことをする女だと鼻を鳴らした。
自分のことを好きになれたら。きっと違う人生があった。そもそも、あの私立の女子校に入学していたのだろうし、この高校に来ることもなかった。華やかなチェックのスカートを履いて、友人と毎日黄色い声をあげていただろう。もしかしたら、工藤紫歩のままだったかもしれない。
全ては、絵空事だ。雨がどれだけ降ろうと、架かることのなかった虹の物語だ。
レインボウ。ラルクアンシエル。アルコバレーノ。英語にフランス語にイタリア語に。世界の虹の名詞を脳内に思い浮かべては、古典教師の解説を右から左へと流す。
悩んでも、解決はしない。結局は、紫歩が紫歩自身を見つめ直すしかなかった。
人間は嫌いだ、と豪語しては、可哀想な子を見る目で見られてきたが、実際は、人間のことが大好きだし、工藤の父親のことも、間宮の父親のことも好きである。だがそれを母親に伝える言葉を、今の紫歩には生み出せない。甲埜美南に伝えたい温かな想いも、菱沼綾葉への敬愛も、飛田智由利への感謝も、雑賀瑞生への気持ちも何もかも。
器用に思われがちだが、本当はずっとずっと不器用なのだ。醜さを隠すために、何物にも染まりたくなくて、黒のセーラーを選んだ。見透かされるのは、自分の空っぽさがばれるから、何よりの恐怖だった。あの日見た幽霊なんかより、よほど怖い。
眠気どころか、身体が火照るほど冴え渡ってゆく感覚に、紫歩は身を委ねた。
このモラトリアムは、もう少し続く。
描く術を持たない自分がその身で描かされる絵空事は、溺死するのか、なんとか蘇生できるのか。
自分のことながら、楽しみだ。
人生は、賭け事だ。楽しんで負けなくては面白くない。一文無しになったって、構わない。
負けるとわかっていても、多額を積みたい時というのは、確かに存在する。
若さという最大の資本は、じわりじわりと、浪費されてゆくのであった。
まぶたの裏に浮かぶのは、光に透ける金色の髪の少女のことばかり。

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最終更新:2014年12月20日 18:22