旧校舎の保健室

セーラー少女、三年中山涼海と一年間宮紫歩。
そんやまさんのも合わせて読まれると爛れます。


身体が、熱い。
平熱が低く、ちょっとの疲労で紫歩は熱を出す。ふつうなら大したことがない体温でも、慣れない身からすれば、それは苦痛でしかなかった。
原因は好きな人とのデートだ。緊張した。めちゃくちゃ緊張した。生徒会長にまとわりつく、じゃじゃ馬な姫だとか魔女という噂は大勢の女所帯、あちらこちらで立っているが実際のところ紫歩は恋愛ごとに初心者だった。
中学の時も悪くなってゆく家庭環境のことで頭がいっぱいで、言い寄ってきた男子にも惹かれず、同級生である雑賀瑞生のそばの居心地の良さに、思わず、付き合うならあんたとがいいわ、と言って盛大に顔を顰めさせたこともあった。
件の好きな人と行ったのは安いファミレスだった。紫歩は家族と来たことがない喧騒の中で、目を輝かせた。
物珍しそうにしている紫歩に、想い人は何食べる? と優しくしてくれた。会話だって楽しかった。離れがたかった。
結果として紫歩は現在、微熱でふらふらしている。体力と気力のなさに、本人が驚いていた。
さて、どうするか。放課後であるのだし、家に帰る必要性は紫歩にはなかった。誰かと放課後遊ぶ約束も今日は取り付けていない。
鍵が壊れていることに先生たちは気が付いていない旧校舎にするりと身体は吸い込まれる。木造とはいえ、味がある。ただ耐震性の問題で新たに無骨な新校舎に生まれ変わっただけの話だ。
一階の廊下の端には、保健室がある。埃臭いシーツなことさえ我慢すれば、充分に眠れる。
なんなら勝手に洗って干してしまおうか、とすら考えている。
そして実行してしまった。

この学校は今時珍しいくらい品行方正で、悪巧みを考えない生徒で溢れていた。それは入学してから半年間で、おおよそ掴めた。
遠くから、けたたましいエンジン音が聞こえる。
鈴木美馬だな、と軽く舌打ちした。そんな破天荒なことをする馬鹿は彼女以外に居ない。珍しくバイク通学が許可されているとはいえ、誰が敷地内に、校舎内に乗り込むというのだ。えびちゃんと、からかわれている、あの可愛らしい少女に詰め寄っているのだろう。元気なら喧嘩を売りに行きたかったが、今は無理だ。

部屋に足を踏み入れ、窓が開け放たれ、新鮮な外の空気が吹き込んでいること、隠しきれない煙草のにおいに、紫歩は息を止めた。
「中山涼海ね?」
「ちゅんちゅん。三年生の先輩に生意気だな」
「たった二歳差がなんだっていうの? 喫煙だなんて何一つメリットがないことをしているあなたを敬えだなんて、馬鹿馬鹿しいわ」
ずいぶんと重そうなにおいだった。一瞬で身体にまとわりつくような。窓際で吸う涼海の手元に置かれた薄黄色のパッケージ。校内清掃で拾ったことがある。12mmだなんていう、肺が食道が気管が、すべて悲鳴をあげるだろうニコチンの量だ。
途端に、涼海が激しく咳き込みだす。噎せやすい体質だから、紫歩はその苦しさが少しだけわかる。
涙目になり、顔が赤くなり、視界がチカチカすることくらい。
ぜぇはあと肩で息をしながら、思わず足で踏み潰した煙草を虚しそうに涼海は見つめていた。
「口寂しいからって吸うなら、キスしてもらえばいいじゃない」
「誰に」
「あなたが好きなほうに。本多涼でも、鈴木美馬でも」
「ぽんとも美馬とも、そんなんじゃないよ。ぼくは」
「片想いって、一番楽しいと思わない? 相手に勝手に夢を見て、相手とのこれからを考えて。終わることも、始まることもない、その関係」
「ぼくには、お姫様が何を言いたいのかわからない」
「誰がお姫様ですって」
「生徒会長のお姫様。間宮紫歩」
気まぐれにトローチを涼海は口の中に放り込んだ。くしゃくしゃになったゴールデンバットのケースも、ポケットに入れられる。どことなく美術部の腐れ縁に似たその光に透ける髪色に、女を感じさせないマニッシュな着こなし。すずめは確かに可愛らしい見た目をしているし、目の前の彼女に愛されるだけの要素はあるように窺えた。
紫歩が言っているのは、ほとんどはったりだった。なにも、彼女たちのことに詳しくはない。
涼海の虚しい目を避けるように、埃臭いベッドの中に潜り込んだ。
出て行く様子もなく、ただ、彼女は黄昏ているようだ。
遠くから聞こえるエンジン音に何か思うところがあるのかもしれなかった。
−−あれは、あなたを探しているんじゃないの。
そんな言葉すら、野暮に思えた。

通称、ぽん軒という中華料理屋で鍋を振るう本多涼を知り、そこでバイトする美馬と出会った。みな、同じ高校の生徒だというのもあるし、先から常連だった甲埜美南が全員をつないだ。美馬が家にいても暇だろうから、と連れてきていたのが涼海だった。
紫歩は、場の空気というものに非常に敏感だった。ラーメンを美味しく食べながらも、三人の軽快なトークに、何か引っかかるものを感じた。
美南に連れられてやってきたのは、五月ごろだったか。次は美術部の腐れ縁と来るか、と思っている中で、紫歩は自分の中に美南への想いがあることを自覚していた。
隣でエビチリをちまちま食べる自分の視線と、あの三人が互いに向ける自然の色は、おんなじだった。
三角関係、か。
きっと報われない。誰か一人は不幸になる。だったら一生、終わりも始まりもない緩やかな関係の中で朽ちてゆけばいいのだ。
なんら親しくない人間たちの恋模様など知ったこっちゃない、と思えど、気にはなっていた。
そのうち、紫歩は思い詰めるあまり心因性の摂食障害を患った。傾向は中学の頃からあったが、倒れるまでになったのは、ひとえに美南への恋に苦しんだからだ。
素直になれない。息が詰まるほどの優しさに、息ができなくなる。永遠なんてあるのだろうか、彼女の優しさは恋情なのだろうか。
目の前に現れた脆い脆い穴だらけの自分に向けられた憐憫ではなかろうか。
考えてみても答えが出なくて、将来を悲観して、夜中に涙する。
人を信じること、が紫歩は苦手だった。信じたって裏切られるばかりだ。
それならば信じなければいい。ほんのちょっと、相手が自分と距離を置こうとすれば容赦なく縁を断つ。
傷つかないために。泣かないために。
欠陥だと指摘されても構わない。それは紫歩の髪の毛が明るめの茶だったり、目の色もずいぶんと明るいことと同じものだ。
自分を守るために虚飾は派手派手しく、毒々しくなってゆく。
甘い家庭で育てられた、わがままな娘。
そう見られることが、いっそ嬉しかった。
甘やかされたかった。
見放されたくなんてなかった。
身に余るだけのバイタリティーは紫歩の心を蝕む。
助けて、と言える相手がいなかった。誰がこんな自分を受け止めてくれるというのだ。
相手に、何がしてやれる?
フェアじゃない関係は紫歩の中で、いびつなものとして扱われる。
髪の毛を手で触る癖がやめられない。
空っぽの冷蔵庫の前で、ヨーグルトだけで紫歩はカロリーを得るようになっていた。

あの三人のことを私は笑えないな、とぼやけてゆく中華料理屋が目に浮かんだ。
食べられない以上、足は遠のいたし、誘ってくれる美南も不調を察したらしい。
美術部の腐れ縁は、ただ黙って紫歩の止まり木になっていた。
小柄な美南とは反対に、すらりと背の高い彼女は、紫歩の支えだった。魔法のように描かれる絵を見ていたら、紫歩はすべてを忘れられた。
夏を経て、紫歩がようやく人並みに食べられるまでに回復したのは、止まり木がただただ温かったのと、美南の想いがこちらに届いたからだった。どこか無機物めいていた美南が、確かな熱をもって、紫歩の気持ちを受け入れた、ような気がする。
理由は定かではない。思ってもみない幸福に、今もまだ、紫歩は浮かれている。
そしてまだ、信じられないでいる。気のせいだ、自分が夢見ているのは虹のような幻覚なのだ、と。確かめるのも怖くて、何も訊けない。
自分があまりに熱心に想うから、向こうがこちらにほだされたのでは、とも考え込んでしまうのだ。
美南には未来がある。自分なんかと付き合うメリットが、見えない。
夜も眠れない不安に、告白することもできなければ、させる雰囲気をも壊すようになっている。

目の前の少女は沈み込んでいる。どうにもならない状況に、きっと疲れている。
昼休み、放送室から届く気の抜けた緩い校内放送は、言わば相手へのラブレターなのか、と紫歩はぼんやり感じる。
彼女たちはあと半年も経たないうちに、この学校から飛び立っていく運命だ。居候生活だなんだと聞いているが、その関係が今後どうなるのか、聞ける雰囲気ではなかった。
涼海は、のんびりとした喋りの陰に、わざわざあの馬から隠れてまで、煙草を吸っている。
どんよりとしたものを感じた。雨が降る前の、黒い雲めいた。
鳥は、濡れないためにその羽根に油をまとっているという。今の彼女はその油を失っているように見えた。ぐっしょりと海水にでも浸かったかのように、鳥なのに羽ばたくことも許されず、鳥かごの中に閉じ込められている。
雑菌を恐れるあまり、誰も彼女には触れてやらない。可愛がるくせに。
これ以上の飼い殺しがあるだろうか。
「ねえ、中山涼海」
「なに」
「あなたたちのこと、小説にしてもいいかしら」
「……ちゅんちゅん。ぼくたちのこと? なにも面白くないよ」
「だからいいの」
「自分のことでも書いてなよ、お姫様」
「その呼び方は好きじゃないわ。それに、私小説なんて流行ってないし、恥ずかしいだけ」
「いいよ。ぼくは。他の二人が、なんて言うか」
「どうせ読まないでしょう? なにかに載せるためじゃないの。ただ、書きたいだけ」
ふぅん。
どうでもよさそうに涼海は頷いた。また、ひとつ煙草を取り出して、ライターで火をつける。
部屋にまた濃厚な煙が広がる。
今日は絶対に好きな人と会わないように帰ろう、と決意しながら、なぜか熱っぽさが吹き飛んだことに気づく。
目を閉じて、寝ているふりを続けながら、そばにいる彼女の健やかさを願った。
とてもとても、無責任な祈りだった。

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最終更新:2014年12月20日 18:19