「おなごが若く美しくあらまほしく思うのは、何ゆえかと思う?」
 唐突な母の言葉に、カグホは戸惑った。あまりにも、唐突であった。
 カグホは、今、書を記している。母の言い付けだ。母より口伝で習った神話を、ヤギホ語でつづっている。
 その仕事について、カグホには何ら思うところはない。母の言い付けに唯々諾々と従い、ただ、筆を運んでいる。幼き時分より語り聞かされてきた話で、すべてそらんじている物語だ。それを書に起こす作業は、カグホにとって難解な仕事ではなかった。民の前で何らかの演説をしなければならない時が来るであろうことを思えば、屋内作業は今の身分に甘んじていられるがゆえのむしろありがたい仕事だ。
 母がここにあることにも、カグホは、さして深い意味を感じていなかった。
 半分は、政務の息抜きであろう。珍しく、もの思いに耽った面持ちで、窓の外を眺めている。カグホにとっては、静かで穏やかな母の姿は珍しい。最近は外遊よりこの館にて来賓をもてなすことが多く移動の労はないはずだが、何かあったのだろうか。
 もう半分は、一応、ヤギホ語をカグホに授けたこの世で唯一の存在として、カグホがことばに詰まった時、語彙の補充をしてくれるつもりでいるらしい。むしろ、母本人は当初そう言って滞在を始めたのだ。けれど、カグホに分からないヤギホ語のことばはなかったし、母はカグホの手元など見てはいない。二人の間に会話はなかった。
 そんな折のことだったので、
「はっ?」
 カグホは、いつから母が自分の顔を見ていたのかすら、気づいていなかった。
 顔を上げると、目が合った。
 カグホは、母と目を合わせて話すことが苦手だ。
 ヤギホ人にはもともと会話をするために目と目を合わせる習慣がない。カグホに行儀作法を授けた女官たちは、目と目を合わせるのは対面して刃を交える武士の挑発的な態度であり、女子がそのような姿勢で会話に臨むのはよろしくない、と言っていた。
 しかし、母は、ひとと話す時、相手がヤギホ人であれ異国人であれ関係なく、相手の目を見てことばを発する。
 母は、そんな自らがどう見られるかを知っていて、あえてやっているのだ。
 その夜闇色の瞳に見据えられて嘘偽りを奏することのできるヤギホ民族は、この世に存在しないだろう。異文化に育った者とて、良くも悪くも、その目を深く記憶するだろう。
 カグホには、できない。
 わざと手元の紙に視線を戻した。
「そなたの肌は白うてきめ細やかだと思うてな」
 カグホはさらに混乱した。母が何を言いたいのか、まったく読めなかった。あるいは、もしかしたら、本当は何も考えていないのかもしれない――と兄と弟は言うけれど、カグホには、とてもそうとは思えない。
「は……は上様も、お肌の色が白うございます」
 声が震える自分の胆の、なんと小さきことか。
「さようか。まあ、言われてみれば、そなたの白さはわらわに似たのかしらんなえ」
 外見は、非常によく似ている、と言われる。特に七部族の上の方は自分を母の少女時代と重ねて見ていると感じられるほどだ。あのウワナでさえ、時折、似てきたと呟く。顔立ちやその他容貌を構成する要素は、ほとんどすべてを母から受け継いでいるらしい。
 姿かたちだけの話だ。
「いや、言われてしもうての。『白塗りし過ぎだ』と。最近知り合うたチンコン人の黒き衣の何とやらも、ヤギホの古い白粉は肌に良うないゆえ、アスタリカの植物を使ったものを買えだの何だの」
 世の中には恐ろしいひとびとがいたものだ。異国人は女王ホヅカサヅチオオキミにそのようなことも進言できるのか。
 否、その前に、
「いづこの不敬者が、そのような――塗り過ぎだなどと、たわ言を……」
 即答だった。
「クロガネだ」
 カグホは安堵した。弟ならば言いかねない。これが平民か、あるいはウワナか兄だった日には、今頃大変なことになっていただろう。
 震えを抑えて、筆を動かした。平静を取り繕い、続きを書き始めた。
「さような些末なこと、母上様には無縁のことと存じます」
「ほう」
 母が小さく笑った。
「そなたがそれを言うのかえ」
 背筋が冷えた。
「ヤギホの女神の正体を、わらわの次くらいに理解しておるのであろうそなたが」
「も……申し訳ございませ――」
「何ゆえ謝る。わらわが求めておるのはさような返答ではない」
 反射的に出た謝罪を否定され、肩を縮ませる。
 本当に、母が何を聞きたいのか、分からない。
 字を書けそうになかった。保存する以上最上級に丁寧でなければならないだろうに、カグホには堪えきれなかった。
 分からない。
 こわい。
「な……、何、を」
「ん」
「何を、お聞きになりたい、のか……わたくしには、分かりかね……ます……」
 降参して、目蓋をきつく閉ざしながら言ったことばだった。
 想像に反して、叱責は飛んでこなかった。
「ふむ。成長したなえ」
 何をどうとったらそう思うのか、まったく分からない。
「なんの、さほど難しいことは言うておらぬぞ。そなたは、おなごが若く美しくありたいとあらまほしく思うのは、何ゆえか、と思うか、と。そなた自身が今若く美しゅうて悩みなどないと申すならば致し方ないが、二十年もすればそなたもわらわのように厚塗りせねばならぬようになるのだ、それは恐ろしゅうないかえ」
「つまり――母上様も、若く美しくありたいとお思いなのですか」
 口を滑らせてから、とんでもない失言をしたように思って蒼くなったが、母は溜め息をひとつついたのみ、カグホを責めることはなかった。
「さようだ。わらわは時折そなたの若さが妬ましゅうなるのだ。今も、そなたの横顔を見ていて、わらわにもかように若く愛らしい頃があったのであろうかと考えておった。しかれば、いつ失なったのであろうかとも」
 もう、本当に、いったい何を言っているのだろう。
 言われてみれば、母と妹は常に化粧をしているが、自分だけは儀式の時にしか化粧をせずにいる。今も素顔のままである。他の部族の者と会うわけでもないのに、化粧をする必要性を感じない。
 妹の方は、化粧そのものを――もっと言えば、化粧をすることで変身することを楽しんでいるようだが、母の方は、そうではないと、若く美しくあるためにしていると、そういうことであろうか。
 それこそ、何ゆえか問いたい。仮に女王ホヅカサヅチオオキミが若くも美しくもなかったとして、ヤギホ人の誰がそれを指摘できるのか――弟をおいては、のようだが――異国人だろうか、異国人とてヤギホに揉め事を持ち込むために謁見を望むわけではない以上面と向かってそのような暴言を吐く者はない、とカグホは思う。
 と言うより、そもそも、母が自らの容色の衰えを気にしているということ自体が、カグホにとっては驚きだ。そのような考え方は俗世のものだと――
 そこまで考えてから、気づいた。
 そうであるからこそ、母は自分に問うているのだ。
 いづれ俗世とまったく無縁の存在として扱われることになるであろう自分に、女王とは、女神とは、何であるかを、一番感じている自分に、問うているのだ。
 この世に二人きりなのかもしれない。
 カグホは初めて、そう思った。
 母と二人きりで話していてそう感じたのは、これが初めてのことだった。
 自分たちは、この世に二人きりだけの存在なのかもしれない。
 自らの容色の衰えを気に病むことすら不自然だと思われてしまう者というものは、自分たち、たった二人だけ、なのかもしれない。
「――母上様は、」
 ようやく、声が滑らかに出てきた。
「かようなことを、お考えにならずとも。わたくしは、おなごの美とは、肌の質などではないと思うておりまするゆえ」
 母が「ほう」と相槌を打つ。衣擦れの音で身を乗り出したのが分かる。
 目を見ればまた声が出なくなることを、カグホは知っていた。母が近づいたことを察しても、わざと顔を上げずにことばを続けた。
「おなごに限らずとも、おのこでも同じにございます。わたくしが思う美とは、内的な――何と申し上げたらよいのやら――気迫……? 自信、矜持、のような、気持ちの裏打ちのある――そういう、立ち振る舞い、でございましょうか……」
「興味深い。続けてたもれ」
 促す声が、穏やかに聞こえた。続けることを許されている――素直にそう思えた。
「巷ではいかに話されているのか存じ上げませぬが、わたくしは、わたくしども兄弟の中でもっとも美しいのは、クロガネだと思うておりまする。あの者の、忌憚なき物言いは、瞳を輝かせ、背筋を伸ばさせるような……。わたくしは、さような者を美しいと感じますれば……、母上様の堂々たるお振る舞い、他のどのおなごより輝いてあらせられる、と」
「なるほど。そなたの考え方でゆくならば、このヤギホにおいてわらわより美しいおなごなどおらぬであろうな」
 心の中で、出た、と呟いてしまったが、
「わらわがそなたくらいの年の頃には、生意気な姫だと言われたものだがなえ。可愛いげがない、と」
 ウワナだ、ウワナも若い頃はそんなことまで言えたのだ、と直感的に思ってしまったのは、何ゆえだろうか。しかしそれこそ、けして口に出してはならない話だ。
 けれど、そうなのだ。
 思い切って、カグホは筆を置いた。
「わたくしに問うても、母上様のお望みの答えは、出ぬように思われます」
「何ゆえ」
「誰が誰の容貌をいかに捉えるかなど、ひとの数だけあるように思われますれば、母上様ご自身が、いかに捉えられたいか、どなたにそう捉えられたいか、という問題になるように思われます。その上で考えまするに、母上様は、きっと、わたくしに母上様を美しいと言わせたいわけではございませんのでしょう。どなたをお考えかは存じ上げませぬが、母上様がさように言わせたい相手に、いかなるおなごを佳いと思うのか、若いおなごの方が佳いのか、お聞きになられてはいかがでございますか」
「この子はまた」
 突然耳たぶをつかまれた。思わず「ひゃっ」と甲高い声を出してしまった。
 顔を上げてしまった。
 ほぼ同時に、母は立ち上がっており、御簾の向こう側へ歩き出していた。目は合わなかった。
「はっ、母上様っ?」
「続きはよきにはからえ」
「えっ、あの、わたくし何か――」
 顔も見えない。
 足取りがどことなく乱暴である気がしてカグホは不安を感じた。だが、先方はカグホに引き留められる相手ではない。
 去り際、御簾を持ち上げてから、一度だけ、振り向いた。
「そなた、言うようになったな。生意気でたいへんよろしい」
「なま――」
「早急に見合いの予定を整えるので覚悟しておくように」
 呆然としているカグホを置き去りにして、女王は部屋を出ていった。





「ウワナ。ウワナ!」
「御前に」
「お仕事中たいへん申し訳ございませんが、可及的速やかにしていただきたきことができました。お時間を頂戴致したくお願い申し上げまする」
「いかがなさった。次期女王のお求めとなれば常の務めなど。仰せられよ」
「大至急母上様に『可愛いのでご安心ください』と奏上なさってください」
「は!!?」
「よいですか、早急にでございますよ。ヤギホノミヤマ王国の存亡がかかっているとお思いになっていただきたく」
「ちょっ、何をいきなり――」
「よいですね、わたくし確かに申し付けましたからね、おっしゃっていただけなかった場合この国に危機が訪れるとお思いあそばせ! では失礼致しますね!!」




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最終更新:2015年06月21日 17:41