子の柔らかな髪に顔を埋めているうちに、小さな音が聞こえてきた。枯れ葉や小枝が砕ける音――何かが地面を踏む音だ。
徐々に大きくなっていく。徐々に近づいてくる。
慌てず、おもむろに顔を上げ、音の鳴る方角を向いた。
足音の大きさで体重が、衣擦れの音で着物と髪の重みが、拍の正確さで迷いのないことが、想像できていた。神の鎮守の森を文字通り己れの庭として掌握する、小柄で髪の長い女性は、今やこの世にただひとりしか存在しないのだ。
腕の中の子が、短い腕を伸ばした。
「たあ!」
木陰から姿を見せたのは、案の定、赤子の母親だった。
月明かりに、彼女の姿が照らされる。
赤い寝間着の上に濃緋の着物を羽織って、裾を地面に引きずっている。黒く長い豊かな髪も、着物の裾の上に散らしたように乱れていた。頬は蒼白い。月明かりのせいなのか彼女の体調のせいなのかの、区別がつかない。息も上がっているようだが、走ってきたからか胸の不調のせいなのか分からない。
「やっと追いついた」
女がそう言って笑った。
「やはり背があると歩幅が違うのだな。アカルの声が止んですぐ起きて後を追うたのだが、距離がまったく縮まらぬ」
声は明るい。まるで何もなかったかのような平生の陽気さだ。
その程度の演技は造作もないだろう。何せ、彼女は、この国に住まうすべての人間を騙して生きている女なのだから。
「いつも供についてくる時はわらわの歩幅に合わせておったのだなぁ。今知ったぞ。そなたにもかような気遣いができるのだな、知らなんだ」
いつまでも喋り続けそうな彼女を止めるため、わざと少し低い声で「姫」と呼んでみた。
「何ゆえ起き上がられた。何ゆえこのようなところまで」
衰弱しきった体で、冷え込んだ夜の森を、毛皮も身につけずに――自分は何のために夜泣きする子を外へ連れ出したのか分かってくれなかったのか。否、そもそも起きていたのか――起こしてしまったのか。
彼女は口元に笑みを残したまま、肩をすくめた。
「子が泣いておるのに気づかぬ母親があるか」
それでもすぐ体を起こせなかったくらいには弱っているのに――喉元まで来た言葉を呑み込む。彼女はけして認めまい。彼女をそこらの女性と同列に扱うべきではない。
もっとも、そうしたところで、彼女の機嫌を損ねるだけであり、自分もいなかったことになる、というのは、あり得ない話だろう。
彼女の機嫌を、損ねたくなかった。
できることならば、楽しいこと嬉しいこと優しいこと芳しいこと柔らかなもの穏やかなもの静かなもの暖かなもの、そういった事物だけで彼女を包み込んで、永遠に彼女をこの世にはびこるすべての毒から守りたいと思った。
それこそ、彼女をそこらの女性と同列に扱うことであり、許されざることだ。
彼女が歩み寄ってきて、腕を伸ばした。
着物の袖口から、彼女の手首が見えた。
白く細く握り締めたら折れてしまう細枝に見える。
しかもその白い肌には、荒縄の痕がまだ残っている。ようやく薄まってはきたものの、月明かりにも青黒い線が分かる。
「たた、たた」
赤子が無邪気な声を出す。そんな子を、彼女の細腕がウワナの腕から引き抜くようにして抱き上げる。
「よしよし、そぉら、たあさまぞ」
「たぁた」
「なんだ、そなた、ご機嫌だなえ。たあさまが抱くよりずっと高いし揺れぬのであろうなぁ、楽しかったか」
母の問い掛けが分かるのか、子は足をばたつかせ笑った。「これ、落ちるぞえ」とたしなめる母の声もどこか優しい。
「ひどく興奮しておる。寝なかったらどうしてくれる」
「寝ませぬか。夜泣きする赤子は夜風に当たらせてやればよいのだとばかり……」
「アカルには夜の森はまだ刺激がちと強すぎる。それにな、いつもはわらわが抱いておればすぐ寝るのだ、吸わぬようになっても未だ母の胸から離れられぬとみえる」
「そうだったのか……」
現に母の腕に抱かれた子は母の胸の辺りに頬を寄せると黙った。落ち着くらしい。
「まあ、たまには良かろ」
我が子の髪を撫でつつ、女が目尻を下げる。
「ありがとう、ウワナ」
しかしその笑顔は、
「そなたに抱いてもろうて、この子は幸せな子だ」
月明かりが途絶えれば消えてしまいそうなほど、儚く見えた。
「……俺とあんたが抱いてやらなかったら、誰がその子を抱くんだ」
彼女の声音は一切乱れない。
「誰もおらぬであろうな」
「俺は――」
「案ずるな。わらわがこの子を手離すことなどない。わらわさえ手を離さずにおればそれで済むこと、他の者の挙動などわらわが気に病むところではないのだ。そなたも含めてな」
「この子が成人し自ら離れようと思う日が来るまで」と、赤子に囁く。
「そしてその時、この国はこの子が人目を憚らず暮らせる国となっている」
まるで、未来が決まっているかのような口ぶりだ。
「そんな国にする。わらわがこの手で」
否、決まっているのだ。彼女の中では確定事項なのだ。
先ほどまで高熱に浮かされていたとは思えぬ瞳で、真っ直ぐこちらを見つめている。夜の闇を溶かし込んだ黒い瞳は炎よりも強く激しい光を秘めて輝く。
「見ておれウワナ」
それでも、
「わらわはそなたの母とは違う。わらわはこの子を守りきってみせるぞ。そなたに何もしてやれなかったそなたの母とは違うのだ」
それでもなお、
「姫」
両腕を伸ばした。
左腕で彼女の肩を抱き寄せ、右腕を彼女の膝の裏に回した。
「ひゃっ」
一気に抱き上げた。
一歳半の子を抱いてなお、彼女の身体は軽かった。
華奢で柔らかな、若い女性の身体だ。
ウワナには、信じることが、できなかった。
今自分が抱えている姫君は、ようやく子を一人産んだばかりの、わずか十九のうら若き女性だ。細く柔く白く弱い高貴な身分の婦人だ。
彼女を女神として崇め奉ることは、ウワナにはできない。
ただひとりの女性として、守るべき存在だと、思った。
生涯を捧げてでも、この身が朽ち果てるまで、全身全霊をもって守るべき存在だと、思った。
神などいない。
過酷な環境に堪えかねて熱を出し、我が子の身を案じて熱病と戦いながら夜の森を歩く、人間の女性だ。
「お部屋に戻りましょう」
抱えたまま歩き始めた。女は何も、言わなかった。
子供の頃を思い出す。
異人の血をひく自分は、村の他の子供たちに鬼と呼ばれて石を投げられた。自分は鬼であり彼ら人間とは異なる者として隔離されて生きてきた。
神とみなされる、ということは、一見最高の誉れと尊きをもって崇められているようで、その実、自分が受けていたものとそう変わらぬ扱いのように見える。人間とは異なる者として隔離し、人格を認めない。
そうでなければ、どうして、人の心とやらをもつらしい人間様が、こんなに軽くて柔らかい十代の女性に、種馬として選んだ男の種で血統書付きの子を孕めだの、大きな腹でも舞を舞い文を返し異人の客をもてなせだの、挙げ句の果てには、命を懸けて産んだ息子を『ヤギホ人らしくない容姿だから』などという理由で殺せだの、言うものだろうか。
人間として扱われないひとびとにとって、この世は地獄だ。神も鬼もない。
それならば、せめて自分だけは、彼女を、妙齢の女性として、一児の母として、ヤギホ人の姫君として、扱ってはいけないだろうか。
いつだったか、彼女が、自分をひとりのヤギホ武士として認めたように。
「――姫」
気づくと、赤子は母の胸にすがって目蓋を下ろしていた。
「あの話。まだ生きておりますか」
女が小声で「どの話だ」と問う。
「《護人》の件です。俺に、継がないか、って言ってた」
「ああ」
女は顔を逸らして、「気にするでない」と答えた。
「サルトモは殺しても死なぬ顔をしておるし、やりたい者は掃いて捨てるほどおる。そなたが無理に請け負うことはない」
「そなたにこれ以上の負担をかけさせるつもりはない」と言う声は、風にかすれた。
「それゆえ――」
「ひとつ確認させていただきたく」
「何ぞ」
「《護人》は女神を篤く仰がねばならぬものです? 俺は姫を神だなんて思ったことは一度もない。そんな不信心者でもなれるものなんです?」
女は両目を見開いた。彼女がそんな顔をするのも珍しい。
年相応で可愛い。
十九の女の子だ。
女神を守るより、若い女を守る方が、張り合いは出る。
「何をいまさら。そなたがヤギホの神の恵みを何らあてにしていないことなどとうの昔に理解しておる。そなただけでない、《祝刃守》は大半がそうだと心得ておるぞ。サルトモなど今でも平気で言うぞ、自分にはただの小娘にしか見えぬと」
「何だそりゃ……いやおやっさんらしいと思うけど、仮にも女王様だろ……」
「むしろ《護人》など、その方がありがたい」
戸を開けるため一度地面に下ろした彼女の瞳は、先ほどの妖しい輝きを納めていた。代わりに、無垢な乙女の光を灯していた。
「わらわが、本物の神と違うて、斬られたり刺されたりしたら死んでしまう生き物なのだ、ということを、分かってくれる男でなければ、わらわは困る」
彼女の体を、戸に、押しつけた。
覆いかぶさるように顔へ顔を近づけ、唇に口づけた。ひび割れがわずかに引っ掛かったものの、柔らかかった。
「お受けする」
大きな黒い瞳が、潤いを増すのが見えた。
「命を賭して。この身を呈して、女王ホヅカサヅチオオキミをお守りすると誓う。それから、王子アカルマロも」
左腕に子を抱いたまま、右手を伸ばしてきた。震える白い手を、ウワナは強く握り締めた。
「女王と《護人》は一蓮托生。我が母ヒコガネが神のお求めのところとなり『神の火の山』に消えた時、時の《護人》イワナリは殉じたのだぞ」
「忘れるわけないだろ、俺とサルトモのおやっさんでイワナリ隊長を突き落としたんだからな。しかも隊長は一切抵抗しなかった。女王ヒコガネ亡き後自分の処遇がどうなるのか、分かってたんだろう。あれが本来《護人》のあるべき姿で、おやっさんはただのつなぎなんだろ」
「そう……、サルトモは正式な《護人》ではない、《祝刃守》の若い衆に人気があってわらわとも馬が合うたから《祝刃守》隊長としたのだ、まことの《護人》ではない」
「あんたに本物の《護人》が要る。女王ホヅカサが滅ぶ時、ともに消えるさだめを請け負う《護人》が」
「だから、わらわはもう、そなたには――」
「地獄の果てまでお供する」
女が黙った。
「言ったはずだ。ヤギホ武士に二言はない」
言葉の代わりに、涙が溢れ出て、地面までこぼれた。
一度頬に口づけて涙を吸い上げてから、戸を開け、中に女と赤子を押し込んだ。
「今日はもうお休みくだされ」
「そなたは?」
「明日からおやっさんや他の班長連中と大喧嘩しながら《護人》就任の儀式の段取りを考える大仕事が待ってる気がするんで、宿舎に帰って寝ます。寝れるうちに寝ときます」
「寝溜めはできぬぞ」
「どんな無茶でもできると信じてやるのが《祝刃守》というものです」
「相も変わらず無謀だなえ」
「《祝刃守》の宿舎とは、馬鹿と阿呆とかぶき者の飼育小屋のことを指すものですから。いつかまた遊びにおいでになればいい、無法地帯をお楽しみあれ」
「馬鹿」
「お褒めの言葉、ありがたく頂戴致す」
ホヅカサの黒髪を撫でたのち、アカルの赤毛も撫でてから、その身を離した。ホヅカサは穏やかな表情で手を振った。
月明かりは明るく、森を吹き抜ける風は爽やかだった。
最終更新:2015年04月26日 15:11