大東亜戦争


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日米交渉

ドイツは第一次世界大戦に敗戦したのち、ベルサイユ条約を締結した。この条約により、領土の13%を奪われ、さらに陸軍兵力を10万人に制限されたドイツは、賠償金の支払いとインフレにより経済が破綻していた。

ヒトラーは失地回復、賠償拒否、再軍備などを訴えて国民からの圧倒的な支持を受けた。自信を深めたヒトラーはポーランドにダンチヒの割譲を要求し、侵攻した。

ドイツのポーランド侵攻は英仏に対独宣戦布告を決断させ、第二次世界大戦が勃発した。

その頃日本では、昭和12年7月の盧溝橋事件を発端として中国との武力衝突に発展していた。蒋介石政府は米国からの大量の援助を受けていた。

関係が悪化していた日米だが、日本側としては米国との開戦は絶対に避けなければならないとの立場を強め、米国との交渉を進めていく。

野村吉三郎駐米大使は、コーデル・ハル米国務長官に日米諒解案を提示した。諒解案を受け取った米国政府は以下ハル四原則の立場をもとに米国修正案を回答した。

  • 一、一切の国家の領土保全および主権の不可侵原則
  • 二、他の諸国の国内問題に関する不関与の原則
  • 三、通商上の機会および待遇の平等を含む平等原則
  • 四、紛争の防止および平和的解決ならびに平和的方法および手続きによる国際情勢の改善のため国際協力および国際調停遵拠の原則

野村とハルが中心となり日米交渉が続いたが、折り合いがつかず、米国から提示されたハル・ノートを最後通牒とみなした日本は米国開戦を決意した。

真珠湾攻撃

海軍の軍令部では、石油等の資源確保のため、まずはオランダ領東インド(現在のインドネシア)を中心とする南方を攻略する作戦を計画していた。しかし、連合艦隊司令長官山本五十六大将は、南方作戦の最中に米艦隊から攻撃を受けた場合に防ぐことができない可能性を指摘。初めに制海権を確保する必要があることを主張し、真珠湾の米太平洋艦隊を奇襲攻撃する計画を立案した。最終的には山本大将の職を賭した説得により真珠湾攻撃が実行されることとなった。

南雲忠一中将率いる航空艦隊は、1941年11月16日に択捉島を出航。12月8日、6隻の空母から発進した第一次攻撃隊183機はオアフ島の米軍基地を攻撃し、真珠湾に停泊していた米太平洋艦隊の戦艦4隻を撃沈させるなど大きな戦果をあげた。

マレー作戦

真珠湾攻撃に先立ち、山下奉文中将率いる第25軍がマレー半島北部に上陸した。英国の極東における最大の軍事拠点となっているシンガポールの攻略を目的とするためである。

マレー作戦が開始されると、マレー侵攻を阻止すべく、最新鋭の戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」を基幹とする英東洋艦隊がシンガポールを出航した。

12月10日、サイゴンの基地航空部隊を出発した索敵機が、クワンタン沖で英艦隊を発見。陸上攻撃機約80機による攻撃により、プリンス・オブ・ウェールズ、レパルス共に撃沈した。

マレー半島に上陸した日本軍は途中英印軍との戦闘に行いながらも1100kmを縦断し、上陸から55日目の1942年1月30日、シンガポールを望むジョホールバルに到達した。

2月9日、シンガポール島に上陸した約6万人の日本軍は、2月11日の紀元節(神武天皇の即位日)までにシンガポール占領を目的としていた。しかし、英印豪軍約13万人との激戦により、紀元節を過ぎても一進一退の攻防が繰り広げられていた。2月15日、英軍から停戦の申し入れがあった。同日19時、山下奉文中将は英印軍総司令官パーシバル中将とブテキマにあるフォード自動車工場で会見、英軍の降伏により停戦を迎えた。

インパール作戦

イギリスの植民地支配からの独立を願い、チャンドラ・ボースが日本に支援を求めてきた。日本軍はチャンドラ・ボース率いるインド国民軍(INA)に協力し、インパールを奪取するため3コ師団を送りこんだ。日本軍約7万8千人とインド国民軍約1万5千人によるインパール攻略作戦は、コヒマを占領しインパール周辺まで進駐した。しかし、空輸による潤沢な補給を受けるイギリス軍に対し、食料弾薬の補給が途絶した日本軍とインド国民軍は、1944年7月2日、ついに撤退を余儀なくされた。

この作戦により、日本軍約4万9千人、インド国民軍約3千人が戦死した。

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