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私立探偵・河合レイの手記

                                       筆:zero
もっと食べたい 河合レイ 桜田伸治 阿部川幸村

怪異のはじまり

その日、私こと河合レイは日頃お世話になっている人たちを集めてお気に入りの中華料理店に来ていた。
「本当に奢りなんだよな? じゃあ、ラーメンと餃子と回鍋肉。あとビールで」
私にそう念を押してくるのは、桜田伸治さん。
大手企業に勤めるプログラマーであり、一流のハッキング技能の持ち主。
以前仕事を受けた縁で、時々仕事を手伝ってもらっている。
本業が忙しいらしくなかなかお会いすることはできないのだけれど、お食事を御馳走しますと言ったら今回はすんなり来てくれた。
「じゃ、僕も同じで。あ、ビールじゃなくてジンジャーエールにしてください」
続けて、注文をしたのは画家の阿部川幸村さん。
こちらも先月依頼を受けた縁なのだけれど、その依頼が「自作の筆を探して欲しい」。
何でもその筆がないと創作意欲が湧かないんだとか。
何とか解決することはできたものの、芸術家ってやっぱり私たちとは違う思考回路が流れているんだと実感した一件だった。
「私はウーロン茶で」
「おいおい、それだけで足りるのかよ?」
私の注文に桜田さんが口をはさむ。
「じゃあ、彼女にはシューマイを」
阿部川さんが私の分としてシューマイを頼む。
此処は私の支払いなんだけれど。
何も食べないのももったいないか、とメニューをめくって春巻きと鶏肉のカシューナッツ炒めを注文することにした。
「たまごスープ・・・をお願いします」
最後につぶやくように注文したのは、菊池陽介さん。
社会性のある事件を中心に取材をしている最近名の売れ始めたフリーのジャーナリスト。
普段はもっとはつらつとした印象を与える人なのだけれど、どうも元気がないように見えた。
寝不足なのか目に下にはクマが浮かび、肌は荒れて、顔色も悪いように見える。
「あの…、今追ってる仕事のことで相談したいことがあるんです」
ふと、菊池さんが耳打ちしてきた。
菊池さんが私に取材対象について調査依頼をしたり相談をしてくることは珍しくなかった。
「えぇ、私でよければ。今回はどんな仕事を追っているんですか?」
「摂食障害についてなんですけど。実は・・・俺もいつの間にかそれになってしまったみたいで」
「摂食障害…どちらですか?」
摂食障害には二種類ある。
過食症と拒食症。
「過食の方です。気づくと何か食べ続けていて・・・酷い時には調味料までそのまま口にしてしまうんです」
「それは、大変ですね……」
「お待たせしました」
その時、店員が料理を運んできた。
次々とテーブルに料理が並んでいく。
私が気づかないうちに桜田さんと阿部川さんが追加で注文したらしく、食べきれるのか不安なほどの量の料理が運ばれてきた。
「さ、食べようぜ」
桜田さんが料理に手を伸ばした、その瞬間だった。
先ほどまでの緩慢な動作が嘘のように、菊池さんがたまごスープを一息に飲み干した。
湯気の立った熱々のたまごスープをごくごくとまるで水でも飲むかのように。
「菊池さん?」
熱くないんですか、とかけようとした声は喉から生まれることなく消えてしまった。
菊池さんは、テーブルの上の料理を一心不乱に、私たちに目をくれることもなく食べていた。
それは、飢えた獣が久しぶりの食事にありついたかのような――まさしく貪るという表現が似合う勢いだった。
流し込むように料理を食べ続ける菊池さん。
ついには箸を使うのももどかしく、料理を手づかみで食べ始めている。
私はそのどうにもおかしい光景が信じられず、声をかけることもできなかった。
桜田さんも阿部川さんも呆気に取られている。
そうこうするうちに菊池さんは料理をすべて平らげ、ぎらぎらとした眼をテーブルに走らせた。
そして、醤油差しに目を留め手に取ったかと思うと蓋を開けて一気に飲み干した。
「菊池さんっ?!」
思わず声を上げ、静止しようと立ち上がる。
その時、バリバリ、ずちゅずちゅと何かをかみ砕き啜るような音がテーブルの下から聞こえてきた。
私はテーブルの下を覗き込み、直後その行動を後悔した。
テーブルの下に広がっていたのは、私の日常とも常識ともかけ離れたものだった。
菊池さんの脚がなくなっていた。
この店に来たときは確かにあった彼の脚は、太ももの半ばまで最初から何もなかったかのように消えてしまっていた。
異常はそれだけでは終わらない。
バリバリ、ずちゅずちゅ。
貪るような音とともに、菊池さんの残っていた太ももから皮膚が上半身へ向かってめくれあがっていく。
皮膚がめくれ上がった後には何も残らない。
血の一滴すらも、肉の一欠片すらも。
「ひぅ……っ」
一瞬飛びかけた意識を何とか繋ぎとめて体を起こす。
「顔色悪いよ。大丈夫?」
阿部川さんが声をかけてくれる。
少しだけ気持ちが落ち着いた。
夢だったのか、それにしてはやけにリアルだったけれど。
そう思った時だった。

「ウガ……クトゥ……ユフ」

菊池さんから聞こえた、聞いたことのない謎の音節と、
「おい、そいつ大丈夫か」
桜田さんの張りつめた声に、私はさっきまでの異常な光景が夢じゃなかったことを悟った。
菊池さんの『侵食』は上半身にまで及んでいた。
今や胸から上だけが重力を無視して浮いている、そんな状態にも関わらず菊池さんはまだ食べ続けていた。
すでに口にしているものは食物ですらない。
紙ナプキンを一心不乱に口に運ぶ彼を正気だとは到底思えなかった。
そうしている間にも菊池さんの『侵食』は進み、胸が消え、首が消え、腕が消え、目も耳も食い尽くされて、最後に口だけが残った。
「もっと……食べたい」
“それ”が囁き、次の瞬間私に飛びかかってきた。
恐怖のあまり避けることも動くこともできず、私はただ目を見開いたままそれを見ていた。
しかし、“それ”は私にぶつかる瞬間、ふっと煙のように消えてしまった。
「いったい何だったんだ……?」
呆然とした桜田さんの呟き。
ドッドッと鼓動が早鐘を打つ。
今さっきまで目の前に居た、菊池さんが消えた。
私はそれを見ていた。それなのに、その情報が信じられない。
常識では考えられない現象を、脳が理解することを拒もうとしていた。
「ぁ、ぅ、……あぁぁぁぁぁぁっ!」
異様な叫び声が部屋に響く。
我に返った私が見たのは、テーブルに飛びつく阿倍川さんだった。
阿部川さんは、テーブルの上のものをなぎ倒しテーブルクロスを手繰り寄せるとそのまま口に運び出した。
獣のような形相でテーブルクロスを咀嚼する阿部川さんが、先ほどの菊池さんの面影に重なって再び恐怖を呼び起こす。
「ちったぁ落ち着け!」
桜田さんが阿部川さんを殴りつける。
阿部川さんはそのまま勢いよく吹き飛ばされ、壁にぶつかってようやく止まった。
「痛たたたたたた……」
壁に打ち付けたのであろう頭をさすりながら、阿倍川さんが起き上がる。
その瞳は正気を取り戻しており、私は胸をなでおろした。
「すいません、さっきのは一体……」
「思い出さない方がいいですよ。多分、脳の防衛本能だと思います」
受け入れがたい状況を脳が受け取るのを拒否した結果、正気を失ってしまったのだろう。
私も阿部川さんの叫び声がなかったら、危なかったかもしれない。
改めて辺りを見回す。散々な様子だった。
軒並み割れている食器類、床に散乱したカトラリー。
不自然に“食いちぎられた”紙ナプキンに、ぐちゃぐちゃのテーブルクロス。
まるで台風でも通り過ぎたかのような有様だった。
そして、
「お客様、どうされましたか?」
先ほどの物音を聞きつけたのだろう――店員の姿だった。
「えっと、あの……」
この部屋の惨状をどう説明したものかと考えあぐねる。
短時間に色々なことがありすぎてどこから説明するべきか、一部始終を話したところで信じてもらえるとは到底思えないし――。
「すいません、ちょっとこいつが酔っ払っちまったみたいで」
すかさず、桜田さんが阿部川さんを指さしながら店員さんに話しかける。
しかし、酔っ払って暴れたにしては荒れすぎている室内に店員は懐疑的な目を向けただけだった。
私たちの取り繕うような、はぐらかすような態度を感じ取ったのか店員は「店長を呼んできます」と言い残して部屋を後にした。
「どうしましょう。本当のことをいうわけにもいきませんし」
目の当たりにしたものが思わず発狂してしまうような光景を、言葉で説明できるとは到底思えなかった。
それに、私自身“あれ”を他人から説明されたところでそのまま信用するとは思えない。
大体の人が精神異常者だと思うだろう。
しかし、目の前で起こった光景のインパクトが強すぎて他に取り繕う言葉が出てこなかった。
「僕に考えがあります」
壁に打ち付けたところがまだ痛むのか、阿部川さんが顔をしかめながら名乗りを上げる。
「では、お任せします」
そんなやり取りを終えた頃、店長さんらしき男性がやってきた。
筋骨隆々の逞しい体つきと、向けられた視線の鋭さに思わず身を硬くする。
「すみませんね、お客さん。ちょっとお話を聞かせてもらえますか」
語調は穏やかだが、有無を言わせない威圧感があった。
穏便に此処から出られるのか……私の脳裏をそんな不安がよぎる。
安部川さんはそんな店長さんに臆することなく近づくと、
「お騒がせして大変申し訳ありません。ちょっと酔っぱらってしまったみたいで……」
手にした自分のバックからおもむろに一枚の絵を取り出した。
「お詫びに、私の描いた絵を差し上げましょう」
「「「……え?」」」
その場にいた全員の声がハモる。
「そうです、絵です。絵は良いですよ。ほら、この壁にかけたらいいと思いません?」
「いや、お客さん…」
阿倍川さんの営業トークは止まらない。
「私の絵はその筋では有名でしてね、マニアには高く売れたりするんです」
「そういうことじゃなくて」
「もしかして、絵はお嫌いですか? でしたら、筆はいかがです? 僕、筆を作るのが趣味でなかなか良い出来のものがちょうど此処に…」
「そういうことじゃねぇっつってんだろ!」
イライラがピークに達したのか、店長さんが荒々しい声をあげた。
さすがの阿部川さんも口をつぐむ。
店長さんは私の姿を見つけると、
「請求先は事務所でいいかな?」
にっこり笑って見せた。
ただし、目は笑ってない。
「嬢ちゃん、此処は頼む。今度格安で仕事請け負うから」
懐は痛むが、背に腹は代えられない。
悪質ないたずらとみなされて、警察に突き出されるよりはましなはず。
「申し訳ございませんでした……」
こうして、私たちは何とか店の外に出ることができた。
騒動のおかげで食事にはありつけない上に、弁償を負うことになってしまったけれど。

……弁償費用は均等割りしても罰は当たりませんよね?

菊池の足跡

「お二人はこれからどうします?」
中華料理屋を出たところで、私は二人に問いかける。
「河合さんは菊池さんの失踪事件を追うんですよね? でしたら、お手伝いしますよ」
「俺も手伝うぜ。さっきの一件で嬢ちゃんには借りがあるしな」
「ありがとうございます。助かります」
消えてしまった菊池さん。
私たちはその足取りを追うことにした。
「とりあえず、菊池さんのアパートに行ってみましょうか。何か手がかりがあるかもしれません」
「場所はわかるんですか?」
「えぇ、何度か仕事の関係で行ったことがあります」
私たちは、さっそく菊池さんのアパートに行ってみることにした。

「大体こんなところでしょうか」
菊池さんのアパート――鍵は桜田さんが友人と名乗って借りてきた――で私たちは手がかりになりそうなものを探した。
取材記録や取材対象者の名前を記したメモ、あとは摂食障害に関わる資料。
それを読んでいくうちに、一人の女性の名前が浮かび上がる。
「過食症をメインに扱うカウンセラー、柴崎佳苗……いかにもって感じですね」
菊池さんの取材記録に頻繁に名前の挙がっていた人物、それが柴崎だった。
菊池さんの原稿によれば、元々は証券会社に勤めるOLだったが2年前に退職し、都内にメンタルクリニックを開設。
過食症に劇的な効果があると口コミで広まり、患者の中には彼女を信奉する者までいるらしい。
彼女の経歴上、精神医学を学んだことがないのを疑問に思う内容が綴られていた。
その他に見つかった取材対象者は、2人。
1人目は平木大吾。
近衛製薬という製薬会社に勤務する営業で、柴崎のクリニックに出入りがあったらしい。
柴崎が精神医学を用いずにカウンセリングを行うのは違法な薬物の使用によるものではないのか、その薬品の入手先が平木なのではないか……という観点なのだろう。
もう1人は浅沼ひより。
市内の高校に通う女子高生で、こちらは柴崎の患者。
実際にカウンセリングを受けて、効果を実感した人として取材をしていたようである。
本当にお茶を飲みながら数時間話をしただけで過食症が治まったのか、と疑問に思っている様子が窺える内容だった。
「ちょっとお茶するだけでって胡散臭ぇな」
桜田さんが取材メモを見ながらつぶやいた。
「過食症はそんなに簡単に治せるものではないようですよ」
私は菊池さんの本棚から見つけた過食症に関する資料を二人に見せる。
そこには、摂食障害が厚生労働省の特定疾患――難病に認定されていることが書かれていた。
数時間のカウンセリングだけでは到底治るとは思えない。
「他には何かありませんでしたか?」
「気になることと言えば、さっき柴崎の患者たちの交流サイトってのを見つけたんだが」
桜田さんが菊池さんのノートパソコンを弄りながら答えた。
「掲示板にウガァ・クトゥン・ユフ? って言葉が頻繁に出てくるのが気になるっちゃぁ気になるところだな」
「ウガァ・クトゥン・ユフ……」
桜田さんの発した呪文のような言葉には聞き覚えがあった。
「英語じゃないですし、おまじないか何かみたいですね」
「それ、私聞いたことあります。……菊池さんが消える寸前、菊池さんの体内から聞いたことのない呪文らしきものを聞きました。それがこれだったように思います」
「なら、菊池の失踪に関わりがありそうだな。もうちょっと調べてみるか」
桜田さんがパソコンに向き直る。
「ん、これなんでしょう?」
ふと、阿部川さんが傍らのゴミ箱から何かを取り上げた。
「なんでこれだけこんなに念入りに丸めてあるんだ?」
確かにゴミ箱の中にあるのは書き損じの原稿などのようで、そのままだったり半分に折り曲げられたりする程度なのだが、阿部川さんが手にしているのは念入りに丸めてあった。
阿部川さんは破れないようにそっと開いたそれをしばらく見た後、言葉少なに差し出した。
「……これ」
覗き込んでみると奇妙な生き物のようなイラストが描いてあるのが見えた。
蟇蛙を思わせる大きく膨らんだ腹部に、頭部は蝙蝠に似ているだろうか。
兎にも角にも何とも形容詞し難い、この世のものとは思えない生物。
しかし、創作にしては良くできている・・・むしろ出来すぎている。
こんな生物は存在するはずがない、それなのに何故か感じるリアルさ。
段々と胸にこみ上げてくる気持ち悪さから、私は目を逸らした。
「気持ち悪ぃスケッチだな」
言いながら、桜田さんがイラストを丸めなおした。
その表情は少し青ざめているように見える。
「さて、こっちは面白いもの見つけたぜ。嬢ちゃんにひと肌脱いでもらえると嬉しいんだが」
桜田さんがノートパソコンの画面を見せてくれる。
そこには、ちょうど明日オフ会があることが書かれていた。
「オフ会ですか。確かにそれだと私が適任になりますね」
過食症の患者は女性が大半だという。
そうなれば、私が行くのが一番自然だろう。
しかし、これまでに見た異常なものが二つ返事で引き受けることを躊躇させる。
得体のしれない恐怖に心が竦む。
けれどせっかく掴みかけた糸を此処で手放すわけにはいかない。
虎穴に入らずんば虎子を得ず、である。
「わかりました。潜入してみましょう」
「なら、掲示板に書き込んでみるぜ。過食症の女子高生を装って・・・は無理か」
「せめて大学生ですかね」
桜田さんの軽口に安部川さんが合わせる。
「何気に失礼ですね……」
「さて・・・っと。こんなもんだろ」
私のささやかな抗議をスルーして、桜田さんが掲示板に書き込みを終えた。
その内容を見て、私は思わず絶句する。

『はじめまして、zeroと申します。柴崎先生のカウンセリングに興味を持っています。
 皆さんのお話を聞かせていただきたくてコメントしました。
 オフ会にも参加したいのですが、今からでも参加可能でしょうか☆(๑ゝω・๑)vキャピ』

「す、すごいですね……」
「普段女子高生になりすまして、掲示板にカキコとかしてるからな」
さりげなくネカマをカミングアウトされても。
どう返答したものか考えていると、
「あ、もう返事来たみたいですよ」
安部川さんが画面を指さす。
掲示板を見てみると、確かに返事が来ていた。

『それでしたら是非オフ会にいらしてください。
 柴崎先生のカウンセリングは本当によく聞くのでお勧めですよー。
 ウガァ・クトゥン・ユフ       絵都 』

「またあの“呪文”だね。いよいよ怪しい」
「この絵都ってのがサイトの管理人らしい」
言いながら、桜田さんはよろしくお願いしますという旨の返信をした。
「ところで、このzeroってハンドルネームですか?」
「レイちゃんだからもじってzero。いい名前だろ?」
私の質問に桜田さんが得意げに答える。
とりあえず、問いかけに対しては言葉を濁しておく。
「そういえば、クリニックの方はどうする? とりあえず行ってみる?」
「今一番怪しいのはクリニックですよね。中に入るのなら予約を取らないとダメかもしれません。何しろ人気の“先生”のようですし」
飛び込みで行っても待たされたり、最悪の場合断られる可能性もある。
「電話してみるくらいならいいんじゃねぇの」
確かに、電話でクリニックの感触をつかんでおくのもいいかもしれない。
「うん、じゃあ電話かけてみるよ」
阿部川さんが携帯を手に立ち上がる。
そして、番号をプッシュすると相手がすぐに出たのだろう話し始めた。
「あの、過食症に悩んでいて……えぇ、そうなんです。はい。えぇと、患者の名前ですか」
ちらりと阿部川さんがこちらに視線を向けた。
「河合レイと言います。あ、僕は彼女の恋人で……はい」
「!」
阿部川さんの意図に気付いたときには、電話は終わっていた。
「予約取れたよ。明日の夕方だって」
「……そうですか。そうですよね」
確かに過食症は『女性』に多い病気である。
そして、この中の『女性』は私だけ。
明日はどうやら、過食症患者として一日過ごさなければならないようだ。

異変の前兆

「……?」
此処はどこだろう。
意識がふわふわする。
これは、夢?
思考がまとまらない。
私は何をしてるんだろう――

「……!」

急激に意識が浮上する感覚。
靄が晴れたように視界が開けていく。
気が付けば私は自宅の洗面台の前に立っていた。
辺りは真っ暗で、まだ夜は深い。
コチ、コチ、と時計が刻む針の音がやけに大きく響いている。
何でこんなところにいるんだろう。
寝呆けて歩いてきたのだろうか。
まぁ、いいか。
難しいことは考えずに寝直せばいいと洗面所を後にしようとしたその時、私は鏡を見て息を呑んだ。

そこには、自分の爪を食いちぎる私が写っていた。

口元に添えられた自分の指。
その指先、爪は無造作に剥がされたように血に塗れていた。
そして、口の中にはざらざらとした感触。
反射的に吐き出す。
シンクに落ちてカラカラと軽い音を立てる白い破片。
蛇口をひねり、口を濯ぐ。
感触が消えない。
何度口を濯いでも、食い千切った爪が頬の内側をチクチクと刺すような感覚が残っている。
ぶつり、と不意に音がした。
次いで、つう、と口の端から血が一筋流れ出す。
唇を噛んだらしく、口内に溢れる鉄錆の味。
そこで、私の意識は途切れた。


「おい! 大丈夫か!」
桜田さんに叩き起こされて目が覚めた。
なんで桜田さんが? と思ったのも一瞬。
私が泊まっていってほしいとお願いしたのだった。
菊池さんの一件もあって、一人で夜を迎えるのが少し怖かったのだ。
それにしても随分深く眠り込んでしまっていたらしい。
すごく嫌な夢を見た気がする……。
体を起こそうと手をついた瞬間、指先に電流が走った。
「痛……っ」
チリチリと痛む指先を確認する。
私の爪は無理矢理剥がしたかのようにボロボロになっていた。
口の中にもあのざらざらした感触が戻ってくるような気がして、気分が悪くなる。
「いったい何があったんだよ。目が覚めたら嬢ちゃんの手が血塗れでびっくりしたぜ」
「実は……」
簡単に昨晩見た“夢”のことを二人に話す。
そして、それがただの夢ではなく現実だったことも。
「大丈夫? 病院行く?」
阿部川さんが心配そうに顔を窺う。
「いえ、大丈夫です。何とか手当してみます」
簡単な応急救護程度ならば心得ている。
「お二人は今日はどうしますか?」
手当てをしながら二人に問いかける。
私は依頼もないのでこのまま事件を追うつもりでいた。
「俺は会社に行くぜ」
「僕は特にやることもないしお手伝いするよ」
桜田さんは会社員なのでこちらにばかり構っていられないらしい。
それにしても働きすぎなのではないかと思うけれど。
「私たちは製薬会社を当たってみましょうか」
精神医学なしで過食症を抑えるなら、一番確率が高そうなのが薬物の使用だというのが菊池さんの見解だった。
菊池さんの取材メモに平木の勤める製薬会社の名前があった。
会社に行く桜田さんと別れて、私は阿部川さんと件の製薬会社――近衛製薬に向かった。

「近衛製薬では特に情報は得られませんでした」
午後になって、私たちは桜田さんとオフ会会場のファミレス近くで合流した。
オフ会がファミレスで行われるとのことで桜田さんと阿倍川さんには後方の席で、護衛兼見張りをお願いすることにしたのだ。
近衛製薬では受付で“製薬部”の佐藤さんを呼び出すことに成功したものの(偶然河合って知り合いがいたらしく呼び出されてくれた)、そもそも平木は“営業部”の所属だし外部に影響を及ぼすような噂は聞かないとのことで目ぼしい情報はないようだった。
ゴマすりがうまいだとか、社内での賄賂があるとかそういう情報はあるみたいだったけれど。
今回の調査には直接関係がなさそうなので、いったん脇に置いておく。
「オフ会で何か目ぼしい情報が得られるといいね」
「とりあえず、気になることがあったらLINEで連絡な」
「わかりました、いつでも携帯は見られる状態にしておきます」
簡単な打ち合わせを終えて、私はオフ会の会場であるファミレスへと足を踏み入れた。
店内を一通り見回して、掲示板で知らせてもらっていた『特徴』を目印に目的の人物を探す。
窓際の席にその人物を見つけて、そっと声をかける。
「はじめまして。“zero”と申します。絵都さん…でよろしいでしょうか?」
昨日桜田さんが掲示板で書き込んでいた名前を名乗ると、彼女は微笑んで答えてくれた。
「はじめまして、絵都と申します」
そのテーブルには絵都のほかに3人の女性が座っていた。
全員10代から20代と言ったところだろうか。
他の参加者が順番にアッキー、リンネ、ぴよ☆りんとそれぞれ名乗ったところで席に着く。
私はぴよ☆りんと名乗った女性に注目する。
年齢は10代後半くらい、HNが本名をもじったものだとしたら彼女が浅沼ひよりなのではないかと思ったのだ。
「さて、全員揃ったことですしそろそろ始めましょうか」
絵都が参加者に声をかける。
すると、私以外の参加者が声を揃えて、
「「「「ウガァ・クトゥン・ユフ。ウガァ・クトゥン・ユフ」」」」
あの『呪文』を唱えた。
私は、突然のことに驚いてしまって目を瞬かせることしかできなかった。
そんな私の様子に気づいたように絵都は笑う。
「びっくりされました? これ、柴崎先生から教わった“おまじない”なんですよ」
「心を落ち着けるおまじないらしいですよ」
アッキーが絵都に続く。
そのまま和やかな雰囲気でオフ会は進んでいく。
女性が集まってお茶を楽しんでいる会なので、お茶会や女子会に近い雰囲気である。
思い思いに雑談を楽しむ中で、私はクリニックの中での様子を聞いてみる。
菊池さんの取材メモにあった通り、やはりカウンセリングはお茶やケーキを食べながら雑談をするだけのようだった。
カウンセリングで出されるお茶やケーキについても患者が持ち寄ったものをそのまま出しているようで、何か特別なお茶や薬の存在は窺えなかった。
「みなさんの治療はもう完了しているんですか?」
「いえ、カウンセリングの効果は長くて1か月くらいなんです。だから、1か月に1回は先生に診てもらってます」
彼女たちの話によると3週間から1か月ほど経つと、食欲が戻ってきてしまうらしく繰り返しカウンセリングに通っているらしい。
ふと見ると、彼女たちの肌は荒れてボロボロになっていたり少し頬がこけている印象を受けた。
確かに完治したようには見えない。
そして、過食症の治療が順調に進んでいるようにも思えなかった。
「先生はすごいんですよ。ずっと過食で苦しかったのをあっという間に治してくれたんです」
「自分以外の誰かが代わりに食べてくれる感じになるんです」
「だから、たくさん食べても罪悪感がないっていうか」
彼女たちは柴崎にかなり傾倒しているようで、それこそ熱心に話してくれた。
その中に気になる単語を見つけて、質問してみる。
「自分以外の誰かってなんです?」
「よくわからないけど、夢の中で大きな黒い影みたいなのがいる気配がするんです」
重ねて質問してみても、その影の実体を見たことある人はいなかった。
そのとき、私の携帯がメッセージの着信を告げる。
〔kikiku:注文した料理の量多くない?〕
メッセージは阿部川さんから。
オフ会中に連絡を取り合うために、昨日のうちに3人のグループを作っておいたのだった。
桜田さんがハンドルネームもつけてくれて、私がzero(これは言うまでもないけれど)
、阿部川さんがkikiku、桜田さんがuomega。
阿部川さんの言葉通り、テーブルの上には女性5人では食べきれないほどの料理が並べられていた。
〔uomega:カウンセリングを受ける前と後で食べる量に変化はあったのか?〕
桜田さんの質問を彼女たちにぶつけてみる。
「変わらないですね。でも、食べちゃったって罪悪感がない分気持ちが楽なんです」
〔kikiku:吐いたりすることは?〕
「吐くことはなくなりました」
しばらく質問を続けていく中で、ふと思いついたことを私は2人にメッセージで送る。
〔zero:あの呪文唱えてみてもいいですか?〕
彼女たちがおまじないと呼ぶあの『呪文』。
菊池さんが消えた時に聞こえたのと同じ『音節』。
どこか不気味な響きをもつそれに、恐怖を感じないわけではないのだけれど。
〔kikiku:何かあったら可能な限り対処するよ〕
阿部川さんからの返信を確認して、私は絵都に話しかけた。
「絵都さん、私もあの『呪文』唱えてみてもいいですか?」
「是非。心が落ち着きますよ。じゃあ、みなさんもご一緒に」
にっこりとほほ笑む絵都を少しだけ怖いと思ったのは錯覚だったのだろうか。
深呼吸して、心を決める。
もしも、何か起こったとしても手がかりが掴めれば――

「「「「「ウガァ・クトゥン・ユフ」」」」」

――何も、起こらなかった。
異常に食欲が湧くわけでも、体が内側から食われるわけでもなく。
何も起こらなかったことに安堵はしているものの、気持ちが落ち着いたわけでもなく。
本当に何も起こらなかったし、何も変わらなかった。
「そろそろお開きにしましょうか」
ドキドキはおさまらないままに時間が経って、オフ会は滞りなく終了となった。

オフ会を終えた私は2人と合流する。
「さて、次は柴崎先生のクリニックですね」
「俺は会社に戻るわ。残業時間になったしな」
そう言って去っていく桜田さん。
午後休って残業とかあるんだ? と思わなくもないが彼が仕事熱心もとい社畜なのは知っている。
そのまま見送って、私たちは柴崎メンタルクリニックへと向かった。

危機との接触

柴崎のクリニックは普通のマンションの一室にあった。
阿部川さんがインターホンを鳴らす。
「どちら様ですか?」
「予約をお願いしていた河合と申します」
ガチャリと内鍵を外す音、次いで扉が開かれる。
たおやかにほほ笑む女性は話に訊いていた通り、美人で優しそうな印象を受ける。
「どうぞ」
私たちは彼女に促されるままに、部屋の中へと足を踏み入れた。
部屋は一般的な2LDK。
元々居住空間だったところをそのままクリニックとして開放しているのだろうか。
リビングはアイランド型キッチンになっていて、広い印象を受ける。
キッチンの端には何やら紫色の布で包まれた一抱えくらいある置物のようなものが置かれていた。
「それは他の患者様からの預かりものなので触らないでくださいね」
こちらの視線に気づいたのだろう、柴崎がやんわりと注意する。
「お好きなところにかけてお待ちください」
リビングダイニングの中央に置かれたテーブルに座るよう指示してから、柴崎はキッチンに入っていった。
とりあえず、キッチンの様子が見えるように並んで座ることにした。
お茶の準備をしているのであろう柴崎の手元に注目する。
特に怪しい様子は見られないまま、お茶の準備を終えて柴崎が席についた。
「改めまして、柴崎佳苗と申します」
いよいよカウンセリングが始まる。
カウンセリングは至って普通で、名前や症状を尋ねたり過食症に関する簡単な解説をしてくれたり。
それを聞きながら用意された紅茶に目を落とす。
菊池さんの取材メモにあった『薬物』の文字が脳裏に浮かぶ。
準備の時点では特に怪しいところは見られなかったけれど。
ふぅと息を吐いて、カップを取り上げ……ゆっくりと流し込む。
呑み込んだ液体は、至って普通の紅茶の味がした。
そんな私に柴崎が言う。
「ずいぶん緊張されてますね。ひとつおまじないを教えましょう。ウガァ・クトゥン・ユフ。中世ヨーロッパの魔女の呪文なの」
思わず息をのむ。
その私の反応をどう捉えたのか、柴崎の言葉は続く。
「魔女って言っても、占いをしたり薬草を煎じたりしていた良い魔女だから心配しなくて大丈夫」
「何か意味のある言葉なんですか?」
阿部川さんが横から質問を投げかける。
「中世ヨーロッパに伝わる美容に効く呪文らしいです」
「先生はどこでこの言葉をお知りになったんですか?」
阿部川さんが質問を重ねる。
「信じてもらえないかもしれませんが……まだ私がOLをしていた頃に夢の中でこの言葉を訊きました。気になって調べてみたところ、それが中世の魔女の呪文だと知りました。そして、それを診療に取り入れてみようと思ったのです」
「その言葉を唱えていたものの姿は見ましたか?」
阿部川さんがさらに質問する。
私も注意深く柴崎に目を向ける。
「いえ、あまりはっきりとは……覚えていないというか」
はぐらかす口調。
話したくないような口ぶりである。
嘘ではないけれど、彼女は何かを隠している。
それを追及しようと口を開きかけたその時。
「では、一緒に『呪文』を唱えましょう」
柴崎が微笑んだ。

≪ウガァ・クトゥン・ユフ≫

「心を空っぽにして。何も考えずに何度も繰り返し唱えてみて」
柴崎が語りかけてくる。
その言葉に従って、『呪文』を繰り返す。
「人の精神は感情にコントロールされるもの。精神の抑圧を解放すれば、精神をコントロールできるはず」
私の唱える『呪文』、それに乗って滔々と響く柴崎の声。
脳の奥が痺れてくる。
世界が輪郭を失って、ぼやけていく。
そして、

≪ウガァ・クトゥン・ユフ≫

意識が体から切り離された。
体は指の一本すら自分の思い通りに動かせない。
今のわたしは、体という箱の中から外の世界を見ることしかできない。
「あなたは何者ですか?」
柴崎の声は薄い壁を隔てたような、ひどくくぐもった響きで聞こえた。
意識を失った体が、柴崎の問いに答えようと口を開く。
「……わたしは」
「彼女はこういう診療は初めてなんです。つらそうなので、ちょっと止めていただけませんか」
横から阿部川さんの声が聞こえた。
彼は正気を失っていないらしい。

「≪ウガァ・クトゥン・ユフ!!!!≫」

柴崎がひときわ大きく『呪文』を唱える。
今のわたしにはその『呪文』は柴崎の命令として聞こえた。
阿部川を殺せ、と。
体は抵抗することなく、その命令を実行しようと右腕を振り上げ力任せに振り下ろした。
その手にはフォークが握られている。
「……っ!」
突然がり、と手首に引っかかれたような痛みが走る。
勢い余ったフォークは阿部川さんの代わりに、わたしの体を傷つけていた。
傷口から滲んだ血は流れ落ちない。
まるで重力を失ったかのようにふわりと浮きあがると、キッチンの端にあった置物に向かって飛んでいく。
阿部川さんはその様子に一瞬呆然としたものの、すぐに我に返ると私の体からフォークをもぎ取った。
フォークを奪われたくらいでは、命令は止まらない。
わたしの体は阿部川さんに殴りかかる。
阿部川さんは再び私の攻撃を避けると、キッチンへ向かって走り出した。
紫の布に包まれた置物を手に取り逃げる柴崎を追いかける。
わたしの体も阿部川さんを追いかけるように走り出していた。
廊下を駆け抜け玄関で手間取った柴崎に、阿部川さんの後ろ上段回し蹴りが炸裂した。
その衝撃で、柴崎の手から置物が零れ落ちる。
なすすべなく床に叩きつけられた置物は、がしゃんという音を響かせ

――――――視界が暗転した。


激しい衝撃と共に、意識を取り戻した。
先ほどまで切り離されていた意識と体が、今は繋がっているのを感じる。
(ウガァ・クトゥン・ユフ……)
どこからか幽かに聞こえてくる祈祷文。
見渡す限り、どこまでも白い――それは人の骨だった。
その中心に、それは居た。
黒くて大きな禍々しい気配をもったもの。
その気配は果てしなく邪悪で、私たちの心を容赦なく砕こうと襲いかかってくる。
菊池さんの部屋で見つけた不気味なイラスト。
それとよく似た、いやまったく同じ怪物だった。
恐怖に苛まれて体を動かすことはおろか、声を出すことすらできない。
そんな私たちを気にする様子もなく、その怪物は手元にあった何かを無造作に口に運んだ。
美しい女性。
柴崎佳苗だった。
柴崎は抵抗することなく、喰われていく。
引き裂かれ、咀嚼され、呑み込まれていく。
ほどなくして柴崎は跡形もなく食べられて、私と阿部川さんと、その怪物だけが残された。
「ぁ、ぅ……」
目が、あった。
気怠そうな眼。
それなのに確実に“殺される”という恐怖に包まれる。
いや、殺すのではない。
あれは、壊すのだ。
いまだ動けないままの私を怪物の腕が捉えた。
その腕に包まれた瞬間、言いようのない感覚が体内を駆け巡る。
これは、感じてはいけない感覚だと体中から危険信号が発せられる。
そして、私は理解する。
この世界に通じる鍵、もう1つの世界と接触する一端を。
怪物が吠える。
それは、蟇蛙とも柴崎の声とも取れる不思議な響きで――――


「河合さん、大丈夫?」
阿部川さんに起こされて目が覚めた。
先ほどまでの息苦しいような空気はどこにもなく、ほっと息を吐く。
「戻っ……た?」
気が付けば、再び柴崎のクリニックだった。
目の前に柴崎が倒れている。
さっきの不思議な空間の中で、あの怪物に喰われた柴崎。
まさか、死んでしまったのだろうか。
そっと近づこうとしたとき、柴崎の体に起きた異変に気が付く。
彼女の手足はまるで枯れ枝のごとく痩せ細り、美しかった肌は荒れており、まるで拒食症患者のようだった。
柴崎は不意に起き上がると、ぶつぶつと呪文を唱え始めた。
「≪ウガァ・クトゥン・ユフ…ウガァ・クトゥン・ユフ…≫」
その呪文に合わせるように、私の中の何かが蠢きだした。
内側からだんだんとせり上がってくる感覚。
「あ、ぁ……」
そして、口から黒い液体となって零れ落ちた。
その黒曜石のような艶めきを纏った液体はとろりと滑らかに床に落ちて、腐った沼のような悪臭をまき散らす。
私の中から湧き出たその液体は、その場で1つの塊となり鎌首をもたげた蛇のような形になっていく。
蛇に似たそれは、腹部に無数の節くれだった足を持つ化け物だった。
その化け物は、ゆっくりと柴崎に向き直ると柴崎に襲いかかった。
柴崎は口を大きく開け、化け物を迎え入れる。
化け物は迷うことなく、柴崎の口の中に飛び込んだ。
口よりも大きなその化け物を、恍惚の表情で受け入れる柴崎。
顎が外れようともお構いなしで、呑み込んでいく。
みるみるうちに腹部が膨らんでいく。
その姿は、先ほどの空間で見た怪物に似ていた。
すべてを呑み込んだ柴崎は満ち足りた表情で後ろに倒れ込む。
すると、膨らんでいた腹部がみるみるうちに萎み始めた。
それと同時に腕に顔に皺が刻まれ始め、瑞々しかったその肉体は老婆のように乾いていって――
柴崎佳苗は二度と目を覚まさなかった。


数日後、柴崎の記事が小さく報じられていた。
【摂食障害のカリスマカウンセラー・無理なダイエットによる餓死!】
柴崎の死はあくまで餓死として、菊池さんは失踪人として記録に残るのだろう。
そして、いつしか人々の記憶からも消えるだろう。
けれど、私はずっと忘れないだろう。
菊池さんや柴崎が死んでしまった本当の理由を。

『×月○日
 今日も食べてしまった。
 満足できるのは食べたその時だけ。
 嘔吐するのが苦しい。辛い
 お腹が空いた。何も考えずに思い切り食べ続けたい』
『○月△日
 今日は骨董屋さんで気になる像を見つけた。
 何故かすごく欲しくなって買っちゃった。
 そばに置いておくと、嘘のように食欲がなくなる。
 不思議だけど、すごくうれしい・・・』
『○月☆日
 やっとわかった。
 この像は神様の化身。
 ずっと頑張ってきた私への神様からのご褒美なんだ』
『○月※日
 白い洞窟の夢を見た。
 蟇蛙のような蝙蝠のような不思議な存在。あれこそが神の本体。
 神は私の食欲を食べて、喜ばれた。
 私の食欲が、神の食欲を満たしている!
 私は選ばれた。そして、神の望むままに食欲に溢れた者たちを捧げよう』
『△月□日
 雑誌の取材を受けた。
 私のことをこそこそと嗅ぎまわる嫌な記者。
 私の治療を麻薬によるものじゃないのかと疑っているらしい。
 あんな低俗なものと一緒にされるわけにはいかない』
『△月#日
 神は私に使者を遣わしてくださった。
 これであの記者を食らいつくせる』

柴崎の部屋で見つけた日記には、彼女が異界の淵を覗き込み堕ちていった様子が記されていた。
彼女は彼岸の神に魅入られ、その身を捧げた。
菊池さんはそれに巻き込まれて、殺されてしまった。
こうして、柴崎佳苗を中心とした奇怪な事件は収束した。
私たちは、日常へと戻っていく。
私たちの世界のすぐそばにある、もう一つの世界。
私たちに寄り添い顕現する悪夢、あの異界の気配を感じながら。



【Fin】