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血も涙も流れてゆけ

三年中山涼海と一年間宮紫歩
はじまり

この学校の屋上には人が多い。鍵が壊れているのを知らないのか、何なのか。高い柵が設けられているから、あわや転落事故も、はたまた心中も何も起こらないだろう。
それでも中山涼海は屋上に行くことを三年間、拒み続けた。
旧校舎の保健室。電気は、メーターが変わってばれたら困る、とめったにつけない。
家に帰るまでの数時間の猶予稼ぎとして、この場所を選んだ。
好きなはずなのに、共に住む彼女との距離は、想像できないほどに膨れ上がっている。

最近、闖入者が現れたことは容易にわかった。おそらく自分がいない日にやってきて、どういうわけか軋むベッドのシーツを取り替えていた。新しく用意されたシーツからは、柔軟剤の華やかな香りがしている。
ドラッグストアで嗅いだことはあれど、涼海の居候先ではいつも一番安い無難な香りのもので、こんな匂いがするものがあるのだ、と暗に知った。
椅子さえあれば、ベッドを使うつもりはなかったから、闖入者はベッドを使う人間なのだろう。
重い重い煙を吸って、また吐く。
今日はひどい雨だから、涼海の愛する彼女はバイクに乗れないと朝から散々怒っていた。
乗れないことはないが、汚れるし乗りたくはないが正しかったか。
そばにいられる幸せを噛み締めてもいいはずなのに、どこかで、早く卒業して、予定通り学費免除の合格通知をもらった大学に入り、格安の学生寮に入ってしまいたかった。
居候している友人の枠を飛び越えて、口にできない関係を持ったのも、たぶん雨の日だった。
彼女が恋人としているのとは、まったくの別種だろう暴力でしかない行為に、包まれて震える自分がいた。
そのことを、彼女もわかっている。だから止まらない、終わらない。
今朝から降り続ける雨のように。

ガラガラと引き戸が悲鳴をあげながら開かれる。小さく息を呑んだ。闖入者は、この子だったのか。
「あら? 中山涼海ね。あんたがこの部屋をタバコ臭くした犯人か……」
諦めたように笑いながら、闖入者もとい間宮紫歩はベッドに吸い込まれてゆく。
「どうしたの」
「私だって一人の家に帰るのは寂しいのよ。学校には賑やかさが封じ込められている。なんとなく、寂しくない」
「君には、美術部のあの子とか、生徒会長がいるのに、どうして、孤独だって顔をするの」
二人を思い出したのか、紫歩の顔が引きつった。
「甘えちゃえばいいじゃないか。寂しい、って。君が甘えたら、あの二人はきっと拒まないよ。いっそ嬉しがるんじゃないかな?」
喪服、と呼ばれた少女は目立つ。彼女が関わるメンバーもまた目立つ者ばかりで、そのまばゆさに目を惹きつけられていた。
自分はどうあがいても甘えることなど、できないのに。
「だって、大切なんだもの」
先輩だろうが鼻っ柱の強さで向かって行く彼女らしからぬ弱気な声だ。
これこそ、その二人、どちらかの前で出してしまえばいいものを。
あの二人は、それぞれ温かな視線を、紫歩に注いでいるというのに。
視線だけでは伝わらないと、年下の彼女たちに教えてやるべきなのか。
「ぼくが泣かせたみたいになってるよ。ちゅんちゅん。困るなあ、お姫様。そんなに庇護されているのに、まだ足りないの」
内心のあだ名でつい呼んでしまった。
紫歩自身の繊細な美貌と、彼女を取り巻く保護者たちの寵愛を見ていたら、そう呼びたくなっても不思議じゃない。
何が足りないというのか。
「壊したくないものはあるの。やっと、見つけられたものだってあるの」
ベッドの上で縮こまって、めそめそしている黒衣の少女のそばに腰掛ける。
大げさに身構えられたが、ゆっくり近づいて、ゆるく抱きしめると、何も抵抗はなかった。
夜中に過去をフラッシュバックさせて、暴れる美馬より、よっぽど楽だ。
女の子らしい甘い甘い香りに、タバコの香りが吸い込まれて行く。
制服で隠しているのだろう、骨と皮ばかりの痩身に優しく触れた。
「ちょっと……」
「ぼくなら、きっと傷つかないし、傷ついても痛くないよ? お互いに」
言葉は勝手に出ていた。
彼女が欲しいものは、生温かい遠くからの赤外線のような愛情じゃないのだ。
そばで感じられる、身を貫く激情。魂をも揺り動かすような。
涼海が欲しいものと、まるきり同じだった。
間宮紫歩は愛されたいのではない。
ただ、必要とされたい。
かつ、身体に刻み込んで欲しいだけなのだ。
それを保護者たちはわかっちゃいない。紫歩は雛鳥なんかじゃない。立派に羽ばたいてゆけるだけの翼を持っている。
それは自分も同じく。
スズメだって、羽ばたいてゆける。
人の温もりに、目の前の少女は簡単に落ちてくる。
「君はいいの。きっと、ばれたらあの子たちは君を許さないよ。泣いちゃうと思うな。それくらい君のことが大事なんだよ」
「いいの……もう」
何がいいのか。
よくわからないままに、その甘い甘い香りに包まれて行く。
たぶん、あの二人は、この子が愛を受け入れる器を持っていないことを知らないのだ。
夜通し抱きしめて、囁いてやるくらいの勇気がなかったら、彼女は変わらない。
こうやって、似た孤独を抱える哀れな者を捕まえて、きっと傷ついてもいない羽を休めているのだろう。

雨はまだまだ、止みそうにもなかった。