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「シエル。シエル、起きるんだ。聞いてくれ」
「エリヴァン?」
 赤き竜の子シエルが揺り起こされて目覚めたとき、眼前には次期カッザーレ侯である11歳の少年の顔があった。普段はいつも穏やかな笑みを浮かべている彼の変化に、気づかないほどシエルは愚かではなかった。見た目は人の子でいう5、6歳程度だったが、子竜の知能ははるかにその標準を上回っていた。

「どうしたの、エリヴァン。まさか敵が攻めて……」
「それはない。そうじゃない。戦争は終わる。島は平和になる。もう誰も殺し合わなくていい。お祖父(じい)様がそう話していたの、シエルも聞いていたろう?」
「そうだけど……」
 2日前の話である。元来が優しい性格のエリヴァンは、祖父たるカッザーレ侯のその話に飛び上がらんばかりに喜んだ。父親と叔父を戦乱で亡くしたせいもあったろう。『良かったね』『良かったね』と何十回も繰り返し、あまつさえ祖父とシエルと女官の頬に接吻までした。
 しかし今のエリヴァンは打って変わって、ひどく悲痛な顔をしていた。何をどう考えても嬉しい知らせを持ってくるときの顔ではなかった。

「シエル。今から僕が話すこと、信じられないかもしれないけど聞いてくれ。さっきお祖父様と家来のお話を立ち聞きしてしまったんだ。君に知らせないではいられないと思って飛んできたんだ。いいかい――」
 エリヴァンの言葉は信じがたいものだった。
 一の島領主ダッファ侯フォスカ・ヴェントゥーラが、すべての竜の殺害と完全なる終戦を提案した。すべての島の領主がこれに同意し、殺害計画をひそかに進めている。その決行が今日の正午に迫っているというのだ。
「竜を、殺す、って」
 どうやって? という言葉をシエルは飲み込んだ。
 シエルは今年5歳の幼竜である。竜の成年が50歳と考えれば、まだまだ赤ん坊のようなものだ。しかもシエルの母竜はシエルが物心つかぬうちに寿命でこの世を去った。十二の島カッザーレに住まう竜は今シエルのみだ。竜族として生を受けたのは確かだが、竜族として必要な教育を受けてはいない。エリヴァンを兄代わりにエリヴァンの祖父や母を親代わりにここまで来た。
 それでも、人の子の手で竜族を殺すのが容易でないことくらいは分かる。
 馬ほどもある体躯。あらゆる矢も剣も跳ね返す鱗。種族によっては火や氷を吐くものもいる。それも12の島に散った竜族を全てとなると、もはやどんな方法を取るのか見当もつかない。

「僕も、よく分からない、けど。鐘を鳴らす、って言ってた」
「鐘?」
「たくさんの鐘を島中に吊るして、どこにいても聴こえるようにして鳴らすんだって。その鐘の音を聴いた竜はみんな死んでしまうし、鳴りはじめてから逃げようとしても逃げ場がないんだって。だから、シエルも」
「鐘の音なんかで死なないよ! なんだってそんなわけのわからないこと、」
「でも、シエル……」
 エリヴァンが首を振った。
「シエル、前にお母さまのハープを聴いたときに、1曲だけ嫌がった曲があったよね。『嫌だ』『頭が痛い』『気持ち悪い』って言って」
 シエルは息を吸った。2年前、病死したエリヴァンの母がまだ生きていた頃の話だった。不思議なことに、エリヴァンの母が演奏を止めるとぴたりと不調が収まってしまった。しかしまた同じ曲を弾きはじめると再発するのだ。
「竜は音や曲に敏感なのかもしれない。それを利用して殺そうとしているんだと思う。だから、シエル」
「殺そうと……」
 シオンはうなだれた。
 また小さく息を吸って吐き、エリヴァンの手をきつく握った。

「エリヴァン。お祖父さまが言ったの? 本当に? おれを、殺すって?」
 母なし竜のシエルには現カッザーレ侯の一族、パシュトゥム家の者たちこそが家族だった。エリヴァンの祖父の皺の寄った手で撫でられる時間は、生まれてから今の今まで絶えずシエルにとって幸福なものでありつづけた。エリヴァンの祖父も同じ思いなのだと信じて疑わなかった。
 過去のそうした想い出が、全て幻だったというのだろうか。

「……心から、そうしたいと思って決めたことでは、ないと思う」
 エリヴァンは首を横に振った。
「ただ、お祖父さまはカッザーレ侯だ。島のみんなの命を背負っている人なんだ。嫌な言い方だけど、天秤にかけないといけなかったのかも、しれない。……だからといってこんなことが許されるとは、思わないけど」
 シエルはエリヴァンの他に彼と同年代の子供を知らなかった。少年の顔に浮かんだ憂いの表情が、普通のこの年の子供にはまず見られないものだと気づくことはできなかった。

「シエル。お祖父さまを許しておくれ。あの人だって悲しんでいないはずがないんだよ。だって……」
 柔らかい手がシエルの頭を撫でた。
「シエルだってお祖父さまの孫だ。前も話しただろ、1階の廊下に肖像画がかかってる。シエルのお父さまのシュヴァルム叔父さまさ。シエルが生まれる前に戦で亡くなってしまったけど」
 目に涙が溜まっていた。鼻をすすりあげるとエリヴァンの腕に抱き寄せられた。未成熟な少年の腕だったが、それでも幼児の姿の子竜には頼もしく感じられた。
「人か竜かの違いはあっても、お祖父さまには僕もシエルも変わりない。僕とシエルの立場が逆だって、お祖父さまは同じことをしたに違いないよ。こんなことはしたくないと思っているし、こんなことをしてはいけないって、きっと分かっているんだと思う。きっといつか埋め合わせをしてくれる。……ほら泣くのをおやめ。パシュトゥム家に生まれた男が泣いたらいけないよ。それに、泣いている暇があったら急いで逃げなくちゃ」

 熱を帯びる喉で唾を呑み込み、つんと痛む鼻の奥をなだめた。
 こぼれ落ちる涙をエリヴァンが手巾で拭いた。そして『さあ』とシエルの肩に手を乗せた。
「鐘が鳴るのは正午だ。今ならまだ間に合う。島を出て大陸に行くんだ。どこか助けてくれそうな人がいる国に行って匿ってもらうんだ。そうだラステロイ、ラステロイがいい。あそこなら精霊がたくさんいる。きみたち竜と同じで長生きで、強い力を持っている人たちだ。シエルたちのことは秘密だったから驚くかもしれないけど、そんなの最初だけだ。きっとみんな親身になって助けてくれる」
 エリヴァンは鞄を取り出した。彼が愛用している品で、読書を好む彼はその中に何冊もの書物を常に入れていた。
「これを持っておいき。持ち手を長めに調節しておいたよ。竜の姿に戻っても首にかけて飛べる。中にはお金を少しと、それから、厨房のお菓子をくすねて詰めておいたよ。シエルの好きな生姜のクッキーも入ってる。にしんのパイは汁が出ちゃうから無理だった。ごめんね」
「エリヴァン……」
 次代のカッザーレ侯はシエルの首に鞄をかけた。『今の体だと少し重たいかな』と少し笑って、シエルの癖のある赤毛を軽く撫でた。
 拭かれたはずの涙がこぼれそうになったとき、ふと気づいた。

「エリヴァンはどうするの?」
 竜族を一頭残さず殺し尽くすことが12の島すべてで取り決められた合意なのだとしたら、シエルの逃亡は問題になるはずだ。手引きしたのがエリヴァンと知れれば、事はカッザーレ侯の一族だけでは済ませられまい。
「おれを逃がしたのがばれたら、エリヴァンはどうなっちゃうの?」
 シエルの口元に少年が指を当てた。
「シエルが気にすることじゃないよ」
「でも、エリヴァン! 危ないよ、エリヴァン! 他の島の領主は怖い人が多いって聞いてるよ! もしエリヴァンが」
「大丈夫だから」
 今度は自分の口に指を当てる少年。
「シエルがちゃんと逃げられたら、僕はお祖父様を説得してみる。戦争が終わるのはいいことだけど、こんな終わらせ方はきっと間違っているから。間に合うかどうか分からないけど……」
「エリヴァン」
「ごめんね、シエル」
 微笑む少年の目元には、やはり憂いがにじんでいた。
「僕がもっと大人で力があったら、もっと早く気づいて止められたかもしれないのに。そうしたらシエルは逃げなくてもよかったのにね。ごめん」
「エリ……」
「もうお行き、シエル。ほら、そこの窓から」

 差した指の先には硝子窓。
 開け放たれた先には一面の青い空が覗いている。
 彼方に見える小さな幾つかの飛影は何か。
 亜竜だ。

「人目に触れる海岸線までは、あそこの群れに混じってお飛び。そこから先は全速力で。ラステロイは大陸の南西部だって、この前読んだ本に書いてあったよ」
「エリヴァン、その」
「早くお行き」
「エリヴァン、よかったら一緒に」
 11歳の子供は首を振った。
「行けないよ。僕は人間だもの。シエルが飛ぶ速さに耐えられない」
「耐えられるようにゆっくり飛ぶよ!」
「そしたら今度はシエルが危ないだろ。見つかって追っ手がくるかもしれないし、僕が人質にとられてしまうかもしれないよ」
「それは……」
「それにね、さっき言ったように、僕はお祖父さまを説得しないといけないからね。このままになんてしておけない。そうだろ?」
「エリヴァン」
「お行き」

 背中を押された。
 飲み込んだ唾は塩の味がした。
 床を蹴った。窓の枠に飛び移った。試したことは一度もなかったが、音のひとつもしなかった。
 窓枠の上からエリヴァンを振り返ると、いつもと同じ微笑みを浮かべていた。
 ゆっくりと大きく手が振られた。

「気をつけて、シエル」
「エリヴァン、ありがとう。また会おうね。きっとだよ」
「うん……」

 目を閉じて深く呼吸する。体を巡る不可視の細い糸の、1本1本にまで行き渡らせる。
 思考の必要はない。これは行為でさえない。彼は最初から知っている。生まれたときからそのように創られている。
 彼が彼の姿を取り戻すには、望みひとつがあればいい。
 衣服を突き破って緋色の翼をひろげる。かぼそい腕は鉤爪を生やした前足に変える。地を踏みしめる力強い後ろ足、生命の躍動に溢れた太い胴、金の瞳を光らせる頭部。

 竜。
 それは人を超えた生き物。

「さよなら」
 背中で響いたエリヴァンの声にうっすらと、今まで感じたことのなかったものを感じた。
 それが悲哀だと気づくには、少しばかり彼は幼すぎた。

 広げた翼を大きく羽ばたいた。
 あまりにも青く深い空へと、赤き竜の子は風を打って飛び立った。








~前268年(446年前)6月18日~
~新たな《竜の時代》の幕開け~