目が覚めたら、ココノエの姿がなかった。トオヤのすぐ傍で双子の赤ん坊がそれぞれ好きなように寝転がっているだけだ。
 寝返りを習得した双子は、柔らかく広い寝台の上でよく転がる。今も満足げな顔で眠っている。
 双子の母親であるココノエの姿だけが忽然と消えている。
 トオヤは血の気が引くのを感じた。
 ココノエが神子に背いてまで手に入れた我が子との生活を自ら手離すわけがない。それなのにここにはいないということは、誰かが強引に連れ去ったのではないか。
 いくら産後の身とは言え、ココノエが本気で抵抗すればそんな簡単にさらわれるわけがない。何かが起これば大きな騒ぎに発展するはずだ。
 そうと分かっているからこそ、ココノエがここから消えたことに気づけなかった自分に失望する。自分は神子と王らにココノエを預かっているのだ。
 取り戻さなければと、急いで起き上がった。枕元に立てかけていた剣を握った。
 あの地であの女に押しつけられた剣とは異なり、神子に授けられた新しい剣はトオヤに勇気を与えてくれる。

 すぐに見つかった。離宮を出て少し左手に行った辺り、湖の岸辺近くの少しだけ深くなっているところで、ココノエは一人水浴びをしていた。
 臍まで水に浸かり、上半身を洗っている。一糸纏わぬ姿だ。
 トオヤは仰天して「何をしているの」と怒鳴ってしまったが、ココノエ本人はあっけらかんとした様子で、いつもの無表情に無感動な声で「何を怒っているんだ」と逆に問い返してきた。
「無断で出ていって、どこに行ったのかと思ったら、こんな――」
「仕方がないだろう、お前は寝ていた。それにどうしても気持ちが悪くて我慢ができなかった」
「気持ちが悪くて? 何が」
「乳が張りすぎて、寝ているうちに爆発を起こしたようで、首から腹まで乳まみれでな。たまたま双子がぐずったのでたんまりと飲ませたが、まだ出る気がして、洗うついでに搾って捨てようと思った」
 言われてから気づいた。普段は透明で美しい湖の水がココノエの周辺だけ白濁している。神聖な湖に対してなんと不敬な、とトオヤは目眩を感じたが、水と戯れても平気そうな様子のココノエを見ていると、水を司る神はココノエに育児中ならではの煩雑な厄介事を湖の水で清めるのもお許しになっているのかもしれない。どこまでも恵まれた女だ。
「ひとが見たらどうするの」
「どうせ見回りの兵士がたまに来るか来ないかだろう。女官は乳が多くて困っていることを知っているし、怒るのはおまえくらいでは?」
「いい加減にして」
「何をだ」
 ここはヤギホではない、という言葉を、呑み込んだ。
 トオヤも分かってはいた。ココノエはステラクスでの環境に適応しようと必死なのだ――子供たちをなんとしてでもステラクス人として育てるために、だ。そしてようやくためらわずに水へ浸かれるほどステラクスに慣れた。
 そんなココノエに、ヤギホ人みたいなことはするな、と叱るのは、トオヤには、ためらわれた。
「……少し無用心過ぎるし、胸や尻まで誰にでも見られるほど無防備に晒すのは、王らのご不興を被るのでは? あと『湖に捨てる』という言い方が良くないよ、湖の恵みをわざと汚すみたいに思われる」
 ココノエは「説教が長い」と悪態をついてから、「しかしおまえの言うとおりだ、上がろう」と言って水から上がった。離宮に来てから鍛え直し始めた肢体は赤ん坊を産んだ後だとは思えぬ引き締まり方をしている。
「さっぱりした。早く着物を着なければ」
「そう、そうしなさい」
 よく見ると、足元に手拭いが置かれていた。トオヤはそれを拾って、広げ、ココノエの肢体を抱き締めた。ココノエが少し苦笑した。
 そして、思うのだ。
 また張ってきた時に吸ってくれる子供たちが傍にいるという事実が、彼女を穏やかにしている。

 神のお求めに背くということは、トオヤにとっては恐ろしいことだった。どうにか間を取り持とうと必死にとりなしたものの、すべてはココノエを安心させるためだけにしたことだ。本音を言えば、神に背いたがためにココノエ自身や双子の赤ん坊に災いが降りかかってもやむを得ないと考えていた。むしろ、ココノエはそうして子を失う方が納得しただろうと思えたからこそのことだ。ヤギホ人である彼女は、産んだ子を第三者に託して関われなくなることより、母親の手違いで子を死なせてしまうことの方がずっと自然なことだと思っている。ならば一度身をもって神の怒りを受ければ、次からは、と思っていた。
 しかし、ステラクスの神々が罪のない子らの命を奪うことなど、冷静に考えれば、あり得ない。仮に将来ココノエが神罰を受けることになろうとも、その頃にはきっと子らはもうココノエの乳を必要としなくなっているに違いない。
 ここはヤギホとは違う、道理のないことは何もない、罪のない子に無慈悲なことはしない。
 できることならば、彼女が滅ぶ日には自分もともに、もしくは自分が代わりに、と祈ってはいる。けれど、今はまだ、考えなくてもいいはずだ――そう思いながら、トオヤはココノエの体に残る水滴を拭った。



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最終更新:2015年09月07日 19:43