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 ココノエは泳げない。
 ココノエの生まれ育ったホカゲの森には、泳げるところがなかった。川や泉はあったが、どれも浅く、もっとも深くてココノエの腿の半ば程度がせいぜいだった。入って遊んだこともある。顔をつけたこともある。けれど、体をどう動かせば水に浮いたまま前へ進めるのか、は、分からない。
 ステラクスの宮殿は、この大地で海の次に大きな母なる水地に抱かれている。足を伸ばせばすぐ、湖畔に出られた。
 湖は大きい。広く、そして深い。
 はるかかなた遠くに、山々が連なって見える。
 あの向こう側から連れてこられた時、ココノエは、舟の上で、もう戻れないことを実感したものだ。
 縁にしゃがみこんだ。
 手を伸ばして、指先を水に浸す。指先が透けて見える。ホカゲの森の泉もそうだった。
 手を引っ込め、少し前の方へ視線を伸ばした。
 ホカゲの森の泉は浅かったので、底の石や砂、草や魚の動きも、すべて見ることができた。
 ステラクスの湖は、広く、深く、途中から青色がどんどん増していって、やがて底が見えなくなっていた。
 底が見えない。
 自分がこの湖を歩いて渡ることはできない。
 籠の中にしまわれた気分だ。
 ここにはたくさんのものがある。けれど、自由だけはない。ここから外には出られない。
 膝を抱えて、首を横に振った。
 自分は売られてきたのだ。ヤギホとステラクスの平和と引き換えに自分はここにいるのだ。
 ヤエも、ティグリムとリュンクスも、これ以上の戦を望んでいない。自分が平和を無視してここを出ていけば、皆の望みを踏みにじることになる。
 みんな、みんな、平和を望んでいる。
 自分以外のみんなが、平和を望んでいる。
 自分ひとりで戦っても、何の意味もない。
 そして、自分は、戦うこと以外何も知らない。
 だから、仕方がない。
 みんなの望むとおりに、戦うことを捨て、平和のために籠の中で大人しく暮らすのだ。戦うことしかできないのなら、戦ってはいけない今、何もせずにひたすら黙っているべきだ。
 立ち上がり、遠くを見た。
 水の青が濃い。
 あの辺りに行ってみたい、と思った。
 湖の中だから外に出るわけでもない、けれど自分にとっては知らない世界の一部だ、ひとつの探検、ひとつの勉強、誰にも背かない範囲で新しい楽しみを見つけられるかもしれない。
 着物を着たまま、足を水に突っ込んだ。音を立て、雫をはねさせ、迷うことなく前へ進んだ。
 しばらくの間はそれで良かった。浅瀬にいるうちは難なく進めた。
 膝まで浸かった辺りで、足が重くなり始めた。足を前に運ぶのに、腿の力が要る。
 腿の付け根まで浸かると、もはや一歩を踏み出すのも一苦労になっていた。
 視線を前にやる。目的地の青はまだ遠い。
 胸の下まで浸かった頃、ココノエは初めて怖いと思った。臓物が冷やされているからだろうか。急に自分が危険なことをしているような気がしてきた。
 一度立ち止まって、首を横に振る。戦の場では、もっと、いくらでも、命を危険に晒してきた。こんなに静かで見通しの良い、敵の姿はまったく見られないところで、いったい何が危険だと言うのか。
 胸の上まで浸って、ココノエは、ようやく、自分が泳げないことを思い出した。
 ここから先に進むと、自分は動けなくなるのではないか。自らの意思で進んだり戻ったりできなくなるのではないか。
 風が吹いた。さほど強い風ではなかったが、湖面に立った波はココノエの顔面を濡らすのには充分な高さだった。少し水を飲んでむせてしまった。
 胸まで浸かっている。
 足元を見ようとした。見えなかった。幾重にも重なった水はすでに重い色をしている。
 とても深いところまで来た。
 体がよろけた。波に負けたのだ。
 とっさの判断で息を吸ったのが良かった。泳げないし潜れないが、水の中では息を止めていた方がいいということは知っている。
 水の中は思いの外明るく、多少の濃さはあっても一応底まで見通せた。
 ココノエは目を丸くした。
 底に、水草を掻き分けるようにして、何か棒状のものが刺さっている。錆びて朽ちかけ赤鈍色になってしまっているが、きっと刀か剣だろう。
 それがなぜか自分と重なって見えた。
 抜こうと思った。腕を伸ばした。けれどまったく足りない。
 もっと近づかなければ、と思ったが、その進み方が分からない。
 息苦しくなってきたので、急いで顔を上げた。首から上しか水の外に出なかった。ずいぶん遠くに来たものだ。
 これでもう一度波をかぶったら、と思ってようやく、ココノエは自分がとんでもなく無謀なことをしていると認識した。
 こわい。
 流されて沈んだら、息がまったくできなくなるかもしれない。
 腕を伸ばした。湖面から腕が出た。しかし空を撫でるだけで何にもつかめなかった。
 空も青かった。けれど、馴染みのない青だ。深い青に白い雲が浮かぶ。雲ひとつない乾いた青とは違う。ココノエにとって馴染みのある青は乾燥していて薄く明るい空の青色だ。
 ここはヤギホではない。
 何も聞こえない。何も感じない。
 波の音しか聞こえない。水の冷たさしか感じない。
 神の息吹が聞こえない。神の視線を感じない。
 自分は守られていない。
「何をしているのですか」
 甘くて高いが、鋭く硬い声が聞こえてきた。
 声のした方を向いた。
 岸辺にキハが立っていた。そのあどけなくも整った顔は硬く陶器の人形のようだった。けれど、瞳だけは確かにこちらを見ている。
「泳げないのですか」
 ココノエはとっさに首を横に振ってしまった。キハに弱点を晒してはいけないという刷り込みが嘘をつかせた。
 キハは異教の神だ。何の守りもない今の自分がまともに話せる相手ではないのだ。
「足はつきませんか」
 問われて、足はついていることを思い出した。
 重い足を動かした。腕も水の中に戻して、掻き分けて進んだ。前に進むのもなかなか大変だったが、できないわけではなかった。
 自分が浅瀬に近づいているだけなのだが、進むにつれ、喉元まであった水が少しずつ引いてきたように思われる。波も頭からかぶるということはなくなった。
 岸辺に辿り着いて、あと一歩で出られるというところに来てから、ふたたび真正面を見た。
 臍の下辺りで両手を組んでいるキハと目が合った。
「何を、していたのですか」
 水際に突っ立ったまま、ココノエは唇を引き結んだ。
 何をしていたのか、自分でも分からなかった。
 最初は、青いところがどうなっているのか知りたいと思っていた。いつからか先に進むことだけを考えていた。どこかへ行きたかったのだろうか。そもそも、なぜ、青いところに行ってみたいと思ったのだろう。この広い湖はとても堅い檻で簡単に出られるものではない。それなのに、自分は何をどうしたかったのか。
 キハが繰り返した。
「何をしていたのかと訊いているのです」
「何も」
 口をついて出たことばを、途中で止めた。
「キハには関係ない」
 何も考えることなく、思いつくままに行動していたことを、キハに知られてはいけない。
 表情こそ変わらなかったが、何となく、キハが溜め息をついたように思えた。
「貴女には王妃としての自覚が足りないようですね」
 何度聞いたことばだろう。眉根を寄せ、鼻から息を吐く。
 もう、うんざりだ。ステラクスの神々も感じられないというのに――自分はヤギホ人でありヤギホの戦士でありホカゲの娘のままだというのに、ステラクス風の振る舞いをしてステラクスの民のために何かができるわけがない。
 ステラクスの神々も理解できない自分を、ステラクスの民は誰も認めないだろう。惨めな思いをするだけだ。晒し者になる。しょせん蛮族ヤギホの娘だと笑われる。そうなれば今度自分はヤギホの誉れも貶めることになるのだ。
 誰も、面白くない話だ。
 ひとりの戦士だった自分には重すぎる荷物だ。これでは大地を駆けることもできない。
「そこまで言うなら、わたしを格下げして新しい妃を迎えればどうだ」
 キハの目元がわずかに険しくなった、気がする。
「それは、どういう意味です?」
「そのままの意味だ。わたしはお前たちが求めるようなオキサキサマにはなれないだろう。なら、オキサキサマになれる女を別に連れてきて、わたしを、二番目か妾か、何でもいいが、オキサキサマの地位から外して、すげ替えればいい」
 「本気で言っているのですか」と問われた。ココノエからすれば、正気を疑われる方が心外だ。
「ステラクスのまつりごとに王の配偶者が必要であればそうすべきだ。時や手間をかけなくてもそれらしく動ける女はいるだろう。宮殿の女官たちだって、」
 先ほど回廊で擦れ違った女官たちを思い出した。
 彼女らは自分を横目で見ながら囁き合っていた。どうしてここにヤギホの娘が、突然暴れ始めたらどうしましょう、入浴はしているのかしら、食事はすべて手づかみなのかしら――そしていつも最後に付け足される、どうせステラクス語が分からないから大丈夫ということば――そうかもしれない、聞き取ることはできるのだが、言い返すことはできない、これでステラクス語ができると言えるだろうか。
「いるだろう、まともなステラクス人の女が。ステラクスのことばを話し、ステラクスの歴史を知っていて、わたしより背が高く胸が大きくて正装の似合う女。ステラクスの神々の恩寵豊かな女」
「そのような条件の女性で良ければ、確かに大勢おりましょう」
「ではそれで――」
「ですが。神や王らが選んだのは貴女です、ココノエタキカヒメ」
 また、真名を呼ばれた。ココノエはキハのこういう言い方が嫌いだ。呪縛だ。真名で束縛しようとする呪術はヤギホでは盛んに行なわれたものだ。親であっても簡単には呼ばないものを、と思うと、たいへんな辱めを受けている気分になる。
「わたしはステラクスの神など感じたことはない。それに、あの双子は、長である以上、個人の勝手が許されるべきではない」
 さすがのキハも、ヤギホ人のココノエに今ステラクスの神の話をしたところで伝わらないとは思っているらしい。それ以上神の話はせず、「王らがそれを聞いたらどう思うとお考えですか」と問うてきた。
「ステラクスでは知らないが、ヤギホでは当たり前のことだ」
「何がです」
「一族の長が女を何人も囲うことだ。立場によっていくらでも使い分けられるし、子供はできる限りたくさん産ませた方がいい。何より、女から霊的な力を得られる。男はより強くなり神に近づく」
 沈黙したキハに向かって、一歩、また一歩と岸に上がりながら、話を続ける。
「女にとっても悪い話ではない。誰にでも得手不得手はあるのだから、役割を分担するのは良いことだ。長は豊かな土地や財を持っていることが多いから、暮らしも安定する。極めつけに、健康な子種を得られる――丈夫な子供を産める」
 「あいつらもそうすればいい」と繰り返した。
 ややしてから、キハが問うた。
「その場合、貴女は何の役割を務めるおつもりで?」
 ココノエは悩んだ。頭の中に散らばる欠片を選んで、選んで、選んで――初めに出てきたのは、結局、自分がヤギホ人であるという意識だった。
「『ヤギホ人がステラクスの宮廷にいる』ということが必要なのでは?」
「……そうですか」
「あと、伽の相手も何人かいた方がいいだろう、向こうは二人だからな。子供も、できる限り多く作った方がいい、何人が育つか分からないから――わたしが産むと混血になってしまうけど」
 なぜか、「ここはステラクスです」と言われた。どうしてこの場面でそのことばが出るのか、ココノエには、分からなかった。
「わたしたちのステラクスでは、そのような考え方は致しません」
「お前たちのステラクスでは、か。蛮族ヤギホのならわしだということか」
 キハは一度目蓋を下ろして、会話を切り上げた。
「いいでしょう。今日はここまでにしておきます」
「いいのか?」
 キハは振り向かなかった。ココノエの顔を見ることもなくなった。何か不興を買ったのかもしれない。神罰が下るかも、と思うと、少しだけ怖かった。
 そこで、ココノエはようやく気づいた。
 今の自分は、ヤギホの神々の守りもステラクスの神々の守りもない、とても無防備な状態だ。身を守るための武器やまじないの道具も何一つ持っていないのだ。
 自分は何からも守られない。
 ひとりで縮こまって息を潜めていなければならない。
「――じきに王らが戻ります。着替えをなさい。そのような水浸しの姿で歩き回ってはなりません。可能ならばすぐに入浴を」
「すぐ乾くのでは――」
「すぐには乾きません。ここは乾燥したヤギホとは異なります。それに、王らは恐らくすぐに戻ることでしょう」
 目を細め、「ああ」と頷いた。
「その前に支度をしないと……すぐに相手ができるようにな」
 キハに「短絡的です」とたしなめられたが、ココノエはその単語の意味も分からない。聞き返せばまた勉強不足だと言われるに違いない。押し黙る。
「すぐに支度をする」
「ココノエ姫」
「それくらいならひとりでできる。そこまで子供ではない」
 宮殿の建物に向かってまっすぐ歩き始めた。濡れてまとわりつく着物は重かったが、急いで風呂に入らなければならない、できる限り早足で移動する。
 キハの方を振り向くことはしなかった。どんな顔をしているか知りたくなかったし、知ったところでどうにもならない。
 戦の場の方がよほど気楽だったと思う。
 そう思ってしまう自分こそ、もう、光を浴びるべきではない。今は平和な世で、とても大勢の人が戦の場などない方がいいと思っている。戦の場でしか役に立たない自分は、平和な世では価値がない。
 それなのに、今の自分は、湖に沈んでしまうことすら許されないのだ。