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 話が食糧と宝玉の交換でまとまり、会合は解散した。
 ヤギホの神官たちとアスタリカの神官たちがそれぞれ席を立つ。ヤギホの側の神官たちは、アスタリカの側の神官たちを見送るため、部屋に留まる。
 その時を狙い、イツエは腕を伸ばした。
 左右から屈強なヤギホの兵士たちが腕を伸ばしてくる。それぞれがイツエの右の二の腕と左の二の腕をつかんだ。
 背後でアスタリカの神官の誰かが何事かを叫んだ。しかし、イツエの耳には入らない。イツエはかつて戦士としての鍛錬を積んでいた者だ。戦の最中に一対一の正々堂々とした対決を阻む者たちはすべて邪魔者だ――たとえそれが自分の身を案じた結果発してくれたことばであったとしても、だ。
 兵士たちに囲まれた、神官たちに守られ中央に立っていた女が、伏せていた目蓋を持ち上げた。
 長い睫毛をさらに際立たせるよう化粧し、艶やかな黒い髪を結い上げ、絹の衣を幾重にも纏った、若く美しいその女は、イツエの知らない女だった。
 知らない。
 こんな女など、自分は知らない。
 女が、紅を刷いた形の良い唇の端を、持ち上げた。
「よしな、お前たち」
 放たれた声は紛れもなく、三年前に別れた異母妹のものであるというのに――この女は、何者だ。
 女が虫を払うような手振りをすると、兵士たちがイツエの腕を離した。
 兵士たちだ。
 戦士たちではない。
 戦士たちはいったいどこへ消えたのか。
 戦士たちはいったいどうやってこの女に消されたのか。
「――ヤエ」
 腰の刀の柄に手をかけつつ、かつて呼んでいたその名を呼ぶ。
 兵士たちは警戒してイツエ同様に刀の柄へ手をかけたが、中央に立つ女は、動じない。
 背はイツエよりだいぶ低いはずなのに、見下ろされているかのように感じた。
 この女は、自分と同じ土には立っていない。
 悪しき神に魂を売ったのだ。そうでなければ、このような所業はできまい。
「何だい」
 けれど女は応える。かつてイツエら姉たちが呼んでいたその名を今同じように呼んでも、女は応えるのだ。
 そうであればなおいっそう、許せない。
 イツエが奥歯を噛み締めている間に、女――ヤエは、周囲のヤギホ人たちを見回した。
「およしよ、殺気をしまいな。相手はしょせんあのイツエさ、私を殺す度胸なんざありゃしないよ」
 発されたことばはヤギホ語のものだった。アスタリカの神官たちに聞かれたくないがゆえのことだろう。ヤギホ語を解するのは、今となってはヤギホ人の中でもとりわけ豊かな土地をもっていた一部の部族の者だけだ。
 好都合だ。
 イツエもヤギホ語に切り替えた。
 ここからは、アスタリカとヤギホの問題ではない。それどころか、ヤギホ人の問題ですらない。
 自分たち――ホカゲの女たちの問題だ。
「もう一度聞くよ。ヤエ、あんた、ココノエをどこにやったって?」
 ヤエはさも当然のことを述べるかのように、無感動な笑みのまま、繰り返した。
「何度言わせるんだい。ステラクスに売ったよ」
 頭が沸騰しそうだ。
 柄を握る手に力を込め、どうにか激情を抑える。それでも堪え切れなかったおもいが声を震わせる。
「どうしてよりによってココノエを……!」
 肩をすくめるヤエは美しくもひょうきんで愛嬌があり、魅力的な妙齢の女に見えた。化け物のくせにと吐き捨てたかったが、取り巻きたちも今すぐイツエに飛びかからん気配だ。
 思えばヤエは昔からそうだった。イツエはヤエに感情というものを感じたことがない。周囲はそれを冷静沈着と評したが、イツエにはとてもそうとは思えないのだ。
 背筋を寒いものが駆け抜ける。
 自分が危機感を抱いていなかっただけで、ヤエは生来そういう女だったのかもしれない。ステラクス人でも裏切った部族の者たちでもない、ヤエこそが、一刻も早く滅ぼすべき悪しきものだったのかもしれない。
「向こうが誰かよこせと言ってきたんだ?」
「そうだよ」
「どうしてココノエを選んだの」
「私じゃないよ。向こうがココノエを欲しがったのさ、理由は知らないよ」
「拒むこともできたはずだろ。だって、」
 ココノエ自身に物事を決定するだけの意思能力はない。
 そのことばを口にするのはためらわれた。
 自分たちが、戦士の中の戦士を故意に作ってきたことが露呈する。
 ヤギホ語での会話だ。アスタリカ人たちに聞かれても内容が知られることはないだろう。
 それでも、今のイツエには耐えがたい。この事実を、異なる大地で生きてきたひとびとに知られたくない。
 あれほど誇らしく思っていたヤギホの戦士の作り方が、今は唾棄すべきもののように思える。
 自分たちは、生まれついての戦士として育てられた者たちの人間らしさを、踏みにじってきたのだ。
「……あんたの妹だろ。あんたが、責任もって、見てあげなきゃ」
 そんなイツエの心の内を読んだかのように、ヤエが笑って答えた。
「そうだねぇ。ココノエはおつむが空っぽになるよう育てられたから、同じ腹から出てきた私が一から十まで決めてやらなきゃならなかったんだよねぇ」
 そして、続ける。
「そう考えたら、私が今イツエにそんな目で見られるのはおかしいんじゃないのかい」
 この女は、物の怪だ。
「戦が終わって役立たずになった戦士を、土に還さ貰い手まで見繕ってやった。これほど妹想いの姉が――」
「ふざけるんじゃないッ!!」
 意味は分からなくとも、イツエの怒鳴り声に反応したのだろう。背後からひとが寄ってくる。アスタリカの神官団に随行してきた護衛の騎士たちに違いない。足音だけは確認した。音を聞き分けることは戦の場では重大な務めだったのだ、今なお体に染みついている。
 単に戦士として育てられた自分でさえ、この通りだ。生まれつき戦士としてさだめられて育てられた者たちは、戦のなくなった今、どこで何をしているのか。
 今ヤエを取り囲んでいる者たちが、戦士であるとは思えない。彼らはあくまで兵士だ。戦いを求め戦いに生き戦いに死ぬ覚悟をもった者たちではないだろう。ただ主の命に従って戦うだけの奴隷だ。
「仕方がないじゃないか、欲しいと言われたんだから」
 ヤエが口を尖らせる。悪びれた様子はまったくない。
「本人も自分で行くと言ったよ、私が言わせたんじゃない」
「何を言ってるんだ、たった今自分でココノエには自力で自分の将来のことを決める力がないって言ったくせに」
「それに、他の女もいないし」
 イツエは目を、丸くした。
「他に、女がいない、だって?」
 ヤエが「何か疑問でも?」と微笑む。
「ヒトエとフタエは」
「それぞれカガリ族とテルハゼ族にやったよ。と言うかそもそもあの双子はもうこぶつきだったんだよ、大変だったんだから、元の旦那から引き剥がして嫁に出し直すの」
「ミエは」
「イツエがアスタリカに行ってすぐくらいに戦死してね、とっくにこの世の者でない」
「ムツエは」
「マオキ族にやったよ。イツエがアスタリカに行ったせいで代わりにマオキ族へ行ってもらう女を見繕わなきゃいけなくなったんだ、それこそ責任を感じてもらいたいものだね」
「ナナエは」
「死んだ。戦が終わる少し前かね、戦で負った傷の治りが悪くて、高熱を出してそのままぽっくり」
「じゃあ……、」
 その名を出すのが、禁忌のように思えた。
「ヨツエ、は」
 イツエのすぐ上の姉の名だ。イツエの母ととりわけ親しい女性が産んだ娘で、イツエも幼い頃はよく一緒に遊んだひとだ。
 ヨツエはとても美しい娘だった。同時に、誰よりも、速く、強く、たくましい。戦について誇りをもち、戦の中だけで生きることを誓っていた。戦の場で生き戦の場で死ぬ、ただそれだけがヨツエの望みでありさだめであった。
 ヨツエは、生まれついての戦士だったのだ。ただただ戦うためだけに生まれ育った娘だったのだ。
 ココノエとまったく一緒だ。
 ヨツエは、どこへ行ってしまったのか。
「私じゃあ、ヨツエはなかなか飼い馴らせなくてねぇ」
 困ったように眉尻を垂れ、ヤエが軽い口調で言う。
「しばらく縄で地下の牢につないでたんだけど、そのうち自分で自分の首に縄を巻いて死んだよ」
「なん――」
「同じような血に飢えた戦士たちと一緒に入れておいたからかね、どうやらまわされて慰み者にされたようでね。ヨツエも馬鹿だったから、男を知らなかったんじゃないのかい? 後から牢にいた連中に話を聞いて分かったことだけれど、相当参ったらしくて、急に大人しくなっちまって、次の日には、だと」
 語るヤエの瞳には、怒りや憎しみどころか、憐憫の情すら、浮かんでこなかった。
「いくらヨツエでも、さすがに私の許可なくホカゲの娘に手を出されちゃあ、ホカゲの威信に関わる。その時その場にいた連中は実際にヤったヤらないに関わらずみんな始末した」
 思わず、その場に膝をついた。
「こういうの、チンコンじゃ『一石二鳥』と言うそうだよ。知っているかい? 二羽どころか、三羽ぐらい得をした気はするがね。飢えて女に手を出す男も、それを黙って見ていた男も、そしてヨツエも。みんないっぺんに消すことができ――」
「ヤエ」
「何だい」
「殺してやる」
 ヤエの周囲に立つ男たちが皆一斉に刀を抜いた。
「殺してやるッ!!」
 ヤエが高らかに笑った。
「やれるものならやってみなァ」
 左膝は床についたまま、右足を立て、一歩を踏み締めた。
 同時に柄を引いた。
 刃がわずかに閃いた。
 抜いた瞬間に何人斬れるかが腕の見せ所だ。
 それまでの、あと、ほんの瞬きするまでの間のことだった。
 月の光を紡いだがごとく煌めく銀の髪が、イツエの視界に飛び込んだ。
「だめです」
 手を止めた。鞘走りも止まった。
「いけません、イツエ」
 鐘を鳴らすよりも強く鈴を鳴らすよりも明るい声が降り注ぐ。
 刀を鞘に納め、再び両膝を床についた。
 目の前に、シルヴェーヌが立っていた。
 唇を引き結び、頬を強張らせ、シルヴェーヌが、立ちはだかっていた。
「……シーラ姫」
「落ち着いてください」
 紡がれることばは、ヤギホ語ではなく、アスタリカ訛りの強いステラクス語だ。この三年間で聞き慣れた、優しいことばだった。
「すみません、私にもっと、教養があれば……イツエにヤギホ語も習っておけば、今までのお話も、少しは分かったのかもしれません、が」
「お耳に入れる必要はございませぬ、シルヴェーヌ姫」
 囁くのはヤエだ。
「身内の恥にございますれば、お聞き苦しいこともたくさん――イツエも姫君にお聞かせしたくはございませぬでしょうよ」
 ヤエは、嫌味なほど滑らかなステラクス語をもって、シルヴェーヌにそう告げた。
 しかし、シルヴェーヌがヤエを振り向くこともなかった。
「イツエにとって、哀しいお話だったということは、何となく、分かりました。イツエは、優しいひとだから。イツエがそんなに怒るということは、きっと、誰かがとても哀しい目に遭っているのだ、と。思う、の、で」
 そのことばが、
「今、イツエが、ヤエ様を斬ったら」
 春の風のように、
「イツエはきっと、その刀を抜くたびに、哀しいことばかり、思い出してしまうようになります」
 心に沁みわたる。
「つらいのは、イツエだと、思います。悔いるのは、イツエだと、思います。……だから、」
「やめます」
 そう言って、自ら柄から手を離した。
 肩から力を抜き、腹から息を吐いた。
「私の刀は、怒りに任せて物の怪を斬るためにあるのではございません。私の刀は、姫をお守りするために、あるのです。それを今、思い出しました」
 シルヴェーヌが「モノノケ?」と小首を傾げた。表情は真剣そのものだが、しぐさは愛らしくて和む。
 自分が、今生きている世界がどこなのかを、思い出す。
 こんな、ヤギホを騙っている、魑魅魍魎の棲む地獄ではない。
 暖かな風と、柔らかな花と、麗らかな乙女が待つ、神の国アスタリカだ。
 そもそも、ここは恐らく自分の知っているヤギホではない。自分のふるさとであるヤギホは、すでに滅んだに違いない。もはやこれ以上この土地に執着することはない。
「お待たせして申し訳ございませんでした、姫。お見苦しいところをお見せしてしまい……。今日はもう、お宿に移ってお休みになってください」
 言いながら立ち上がったイツエに、腕が伸ばされた。
 突然のことだったので驚いた。
 シルヴェーヌの華奢な体躯から、花の香りがした。
「一緒に行きましょう」
 シルヴェーヌが囁く。
 その腕が、かすかに震えていた。
 本当は、恐ろしいおもいをしていたのかもしれない。
 それでも、この方は、と思うと、
「一緒に帰りましょう。……ね」
 イツエが微笑む。強く抱き返して応える。
「……はい!」
 シルヴェーヌの髪に耳を寄せた時、向こう側で、ヤエが肩をすくめているのが見えた。
 これ以上、この女の相手をすることはない。
「ココノエもあんたたち母娘に囲まれて生活するよりはステラクスで可愛がられた方が幸せかもね」
 ヤギホ語で捨て台詞を吐くと、ヤエは簡単に頷いた。
「そりゃそうさ。ヤギホにいたってやることないんだからさ、高値のつく生娘のうちに売られた方が床で可愛がってもらえる分まだいいよ」
 この女の相手をすることはない。
「行きましょう、姫」
 シルヴェーヌの腕を解き、代わりに腰へ腕を回した。シルヴェーヌは少し戸惑ったようだが、イツエがヤエへ完全に背を向けたことで一緒に歩き出すことにしたようだ。
 イツエは溜息をついた。
「姫、たいへん申し訳ございませんが」
「はい、何でしょう」
「帰りにステラクスの宮殿へ寄れないでしょうか? 女王ヤエが申しますには、どうやら、妹がひとりステラクスに乞われて嫁いでいるようで――」
「構わないと思いますよ。神官の皆さんに相談してみないと、ですけど……」
 何も知らぬシルヴェーヌは、アスタリカに咲く無垢な花がほころぶのを思わせるほど穏やかに、微笑んだ。
「でも、イツエの妹さんということは、ホカゲ族の方なんですよね?」
「はい、母親は違うのですが――」
「なんだか、前にイツエから聞いたお話だと、ホカゲ族はステラクス人をあまり良く思っていないみたいだったから――ステラクスの男性と、何かこう、素敵な恋でもしたのかな、と」
「あはは、あり得ませんね、あの子は動物みたいなものでしたから」
「ど、どうぶつ……ですか……」
「ああいえお忘れください」
 首を横に振りながらも、一緒に歩み続ける。
「いいえ、もともとホカゲ族はステラクス人にそこまで強い敵対感情があったわけではございませんよ、ただ戦のため子供たちをステラクス人に憎しみを抱くよう仕向けた経緯がありまして――むしろホカゲは、独立のために動いた部族の中では比較的穏健派と申しますか、教養を身につけるためにステラクス人に子供を預ける者もあったくらい――」
 自分で説明していて、思い出した。
 振り向いた時、すでにヤエ率いるヤギホ人の一団も、こちらに背を向けて移動を開始していた。
「ヤエ!」
 名を叫ぶ。魑魅魍魎の長が振り向く。
「あんた、トオヤはどこにやったの!?」
 末の子、きょうだいで唯一の男の子は、ステラクスで育てられたのだ。あの子こそ、ステラクスに敵意どころか――
「どうしてココノエじゃなくてトオヤにしなかったの!? ヤギホ人の人質を出すだけでいいんなら、トオヤを出したら良かったじゃないか! あの子にだってホカゲの血は流れてるし、話せば心から望んで行っただろうに!」
 ヤエは「男の長がお求めだと言われたら普通は処女を差し出すもんでしょうよ」と答えたが、ステラクスはそこを前提に人質を欲するほど残虐なひとびとが支配する国ではないということを、イツエは知っている。
「どういうことよ。ホカゲの長もあんたが兼務して、ステラクスにも帰したんじゃなくて――この場にも、いなくて――トオヤは……トオヤは今、どこで何を……」
 ヤエがまた、唇の端を持ち上げた。
 イツエは、背筋が凍りつくのを、感じた。
 ヤエの笑みは、妖しく、美しく、艶やかで、イツエには、人外そのものに見えた。
 もはや、ことばの通じる相手ではない。
「さあてね」
 ヤエはもと目指していた方へ向き直り、静かに歩き出した。イツエには、その背を呆然と見つめていることしか、できなかった。