足音を立てずに歩くのは得意だ。
 見張り番の兵士に見つからないよう、隙をついて後宮を抜け出した。
 ココノエも、本当は、知っている。見張り番の兵士が見張っているのは、自分の脱走ではなく、見知らぬ不逞の輩の不法侵入だ。
 後宮――と言っても今は単に王とその妃のための住居として使われているだけの、もともとは三神官が使っていた何らかの施設のお下がり――は、ステラクスを象徴する巨大な湖の中の浮き島にある。したがって、そもそも攻め込む手段がない。ヤギホの戦士たちに近づくことすら許さなかった、難攻不落の宮殿だ。戦乱が落ち着いた今となってはなおさら、無断で訪れようという者はないだろう。
 それでも番をする兵士がついているのは、過保護な宮廷の主たちの意向だ。
 多忙を極める彼らは、日中、気軽に後宮へ戻れない。可愛がっている子犬をひとり置き去りにしてしまう。神子の予定の調整がつけばステラクス文化の教養の授業のため宮殿の中枢部に呼び出され拘束されるが、授業の開催は不定期で、ひとり放っておかれることも多かった。
 宮殿の中にヤギホ人の娘がいることに、番の兵士たちや世話役の女官たちも少しずつ慣れてきたようだ。ココノエがふらついていても、怒られることはなくなった。
 でも、何となく、落ち着かない。ヤギホのホカゲの土地に住んでいた頃、ひとりでふらふらと遊びに出るのが当たり前だったせいだろう。誰かに許可をとって、どこに行っていつ帰る、と連絡することが、束縛されているような気がして窮屈だ。
 今日も、兵士の目を盗んで出掛ける。心の中だけで、日が暮れて王たちが戻る前に戻るから、気にするな、と告げる。もちろん、聞こえない。気づいていない兵士は、まったく関係のない反対方向を見張って律儀に警備していた。
 宮殿の周りに生えた木々は、どこか華奢な印象だ。幹が細い。島の地盤が緩いのか、本当に浮いていて島の底が湖の底についていないのか、根が弱そうな気がする。そこだけは、ホカゲの土地の木々に似ている。ただ、ここの木々は根が島からはみ出しても水を得られるので、枝葉はいつでも元気だ。ヤギホの木々はたまに干からびている。
 葉と葉の隙間から零れる光が、今日は少し弱い。風が肌に吸い付く。雨が降るかもしれない。
 木々を分け、島の縁を目指した。
 ある一点を超えると、見渡す限りの水が湛えられていた。
 かろうじて向こう側に山があるのが見える。
 あの山々を越えると、ヤギホの土地になる。
 ここからでは、遠すぎて、とても低い山々のように見えた。
 しゃがみこんだ。
 着物の裾が、水に浸かった。この程度なら、どうせすぐに乾く。放っておく。
 水は透明で底が透けて見えた。よく晴れた日には底の石がきらきらと輝いて見えるけれど雲の多い今日はなんだか白っぽい。
 ふと、ココノエの視界の端を何かが通った。
 動くものを視線で追いかけた。
 魚だ。
 ココノエは目を輝かせた。
 ホカゲの森の泉には、魚は少ない。神の山から湧いた水との相性が悪いらしい。たまに小魚のいる泉もないわけではないが、今ココノエの視線の先にいるのは、ココノエの手よりも大きそうな魚だ。銀色に輝いている。
 兎を獲るつもりで、息を潜めた。草を鳴らさないのと同じだ、水面を乱してはいけない。鼻で大きく息を吸い、吐かずに我慢する。そしてゆっくりと上半身を前屈みにする。
 手を伸ばした。影で悟られないよう、斜め後ろから近づいた。
 一瞬だ。
 指の先を五本とも一斉に水の中へ刺した。そして握り締めた。その中に、魚の胴体が納まった。
 思わず笑みを漏らした。
 水の中に足まで分け入る。膝上まで浸かったがもう気にならない――というより、着物を着ていることなど忘れてしまった。
 水から引き抜くように、魚を取り出す。当然魚は激しく抵抗しているが、ココノエの握力からは逃れられない。
「こら」
 声をかけられ、はっとして振り向いた。
 英雄王様のお出ましだ。声だけでは区別がつかなかったが、顔を見たらリュンクスの方だった。
 彼は目を細め、かすかに笑っていた。
「素手で魚を捕まえるお姫様は初めてだな」
「だっ、ダメなのか?」
「欲しくなって、イタズラで捕っちゃったんだろう」
 ココノエは押し黙った。リュンクスの言う通りだ。捕まえることが目的で、今もまだ尾を振って抵抗し続ける魚を今後どうしたいのか、ココノエには何の考えもない。
「悪い子だ。意地悪だな」
「だ、だって、その」
「水に帰してあげよう」
 「持って帰ったらまた怒られるぞ」という言葉が効いた。ココノエは「キハが怒る……」と呟いて、魚を湖に放り投げた。魚は元気良く泳いで逃げていった。
「また今度ティグと三人でゆっくり釣りでもしよう」
「つり?」
「したことないのか? 教えてやるから大丈夫」
「むずかしい?」
「キハの言うことよりはずっと簡単かな。糸の先に針を、針の先に魚用の餌をつけて、魚が針に食いつくのを待って、食いついたら引っ張り上げる遊びだ」
「たのしい?」
「魚が獲れれば。あと、魚がかかるまでの間、ティグがやたら喋る」
「それは楽しい」
「ああ、楽しい。さて、いつやるか――」
 突然、リュンクスの頬に水滴が流れ落ちた。
 それを皮切りに、髪や、肩や、胸や、いろんなところに、雫が落ちてきた。
 梢がざわめく。けれど、恐怖感はない。とても優しい音――世界が静かな一定の拍に支配されていく。
 雨だ。
 空を見上げた。ひっきりなしに降ってくる。
 水が天から落ちてくる。
 神の恵みだ。
「濡れてしまったな」
 そう言いつつ、ココノエはリュンクスの頬に手を伸ばした。リュンクスはわざと声を低く作り「生臭いぞ」と笑った。
「風呂に入ろうか」
「今こんなに水を浴びているのに、風呂が必要なのか?」
「雨も温かいけど、湯はもっと温かいからな。濡れて冷える前にもっと温めておかないとな」
「そ、そうか……そういうものなのか……」
 リュンクスが「おいで」と言いながら、ココノエの手首をつかんだ。あの鳥籠に似た後宮に戻されてしまう、と思うと、少し悲しかったが、明日も明後日も機会は巡ってくるだろう。
 後ろを振り向いた。
 湖面を雨が叩く。梢が濡れて揺れる。広がっては消える輪、乱れぬ拍子、湿った香り――何もかも、ヤギホにはない優しさ。まるで世界中が音楽を奏で踊っているように見える。
「ステラクスは、綺麗だなぁ」
 ココノエが無意識に呟いたことばを、リュンクスが拾った。
「ココがそう言ってくれるなら、守りがいがある」
「……? どういう意味だ?」
「ステラクスにはもっといっぱい綺麗なものがあるから、もっといっぱいココに見せて、ステラクスでのお気に入りを増やしてもらわないとな、ってな。そうしたら、もうちょっとやる気が出るかもな」
「やる気って、まさかまつりごとの?」
 眉間に皺を寄せ、「わたしがどうであってもちゃんとやれ、お前らは王だろうが」と叱ると、リュンクスは「ははは」と笑った。
「いいんだ」
「何がだ」
「ヤギホ人のココが好きになってくれるステラクスこそ、ステラクスが本当に大事にすべき部分なんだろ。と、思う」
 小首を傾げて、「なぜわたしなんだ」と問い掛けても、リュンクスは答えなかった。
 建物が、そして先ほど兵士がこちらを向いてひざまずいているのが見えてきてしまったので、どちらにしてもお喋りは終わりだ。
 リュンクスは不思議なことを言ったが、きっとティグリムも同じ意味の不思議なことを言うのだろう。
 こっそりと、振り向く。
 ステラクスは、緑と青と白でできていて、とても綺麗だ。ヤギホの、赤と黒と白の景色も、美しいと思う。けれど、ステラクスの方がたくさんの色を抱えていて、賑やかなのに、目に優しい。
 ココノエの目には全部綺麗に見えて、とても好きな景色なのだけれど、それを口に出してしまうのはまだ少し早い気もする。



 風呂場に行ったらなぜかティグリムが待っていて、結局三人で湯船に浸かったのはまた別のお話。



タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2015年06月09日 00:46