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「ココは歯並びが良いな」
 頭の上から声が降ってきた。
 顔を上げると同時に、顎をつかまれた。
 ティグリムの、剣を握り奮う戦士の太くたくましい指先が、唇の端の果汁を拭い始める。
 ティグリムの手でむりやり横を向かされていて、少し苦しい。途中まで食べていた果物――ステラクスにはたくさんの果物や野菜があってココノエには区別がつかないのだけれど、とにかく、ココノエの拳より一回り大きく、丸くて食べにくい、果肉と果汁が詰まっていて甘酸っぱいもの――も、途中で放り出して、歯形がついたまま床に転がっていくのを横目で見送ることになった。
 ココノエは、勿体無い、と思った。こんなに果汁を含んだものは、ヤギホにはなかった。
 果汁が床に、点々と、滴っていく。
「皮を剥かずに丸かじり」
「そうやって食べるものだと思っていた」
「豊かな家のお姫様は小間使いに小刀で皮を剥かせたあと何等分かに切り分けるんだ、ココみたいに大きな口を開けて喉まで見せながら食べる子なんて見たことがないな」
 ココノエが口を閉じ、ティグリムを睨みつけると、ティグリムが目を細めた。
「ほら、汁が漏れて顎まで汚れている。拭いてやろう」
 顎をつかんでいるのとは反対の手の指で、顎をなぞる。少しずつ上に動く。
 指の腹が、唇の端を押す。
「歯が見たい」
 変わったことを言う奴だ、と思った。歯の何が面白いのだろう。
 しかし、歯を見せるくらいで減るものもなかろうと、少し口を開く。
 指先が、上の前歯の先端に触れた。
「綺麗な歯だ」
 真ん中から、ゆっくり、ゆっくり、ひとつずつ確かめるように、左の歯へ、指先が動く。
「白くて、小粒だが、しっかり並んでいる」
 それはそうだろうと、貴様らステラクス人と違って顎を使う硬いものを食べて育ったのだからと、言おうと思って、気がついた。
 指が、口の中にある。
 口を、閉ざせない。
 そのうち、唇の端を、果汁とは違う液体が伝い始めたような気がした。
 それでも、許してくれない。指が、奥歯に、触れている。
「食べてみるか」
 笑って言う声が恥ずかしい。このまま口を閉じたら指を噛んでしまう、怪我をさせてしまう、ココノエがそう思って心配していることを、分かっているくせにこんなことをしているのだ。
「きらい」
 できる限り口を閉じぬよう、喉の奥と舌だけでそう搾り出した。
 失敗した、と思った。
 舌が、唇が、指に、触れた。
 逃げようにも、逃げられない。顎はしっかりつかまれたままだ。
「ん……っ」
 だんだん息苦しくなってくる。自然と舌が動く。生き物のように動く温かなものに触れる。濡れた音がする。
「美味しい……?」
 頭の中身がぼやけてきた。
 水の中に沈んでいく感覚。肉は重くなり魂は軽くなる。手足の力が抜ける。
 底がない。どんどん、どんどん、落ちていく。堕ちていく。溺れていく。沈んでいく。止まらない。止められない。
 そして絡めとられる。
「楽しそうだな」
 同じ声が別のことを言い始めた。
 最近ようやく慣れてきた。単純に、二人に増えたのだ。気がつかないうちに、倍になってしまった。
 ティグリムが、指も何もすべてそのまま、もう一人の自分であるリュンクスを振り向いた。
「ココの歯並びが気に入って」
 リュンクスも微笑んで頷いた。
「俺もずっと前から気に入っているんだ。白くて、小さくて、」
「粒が揃っていて、行儀良く並んでいて――歯だけは」
「奇遇だな」
「奇遇だな」
 当たり前のように、手が増えた。
「俺も入れてくれるか」
 耳元で囁くリュンクスに、首を横に振ったところで、伝わるはずもなく――いや、伝わったところで、
「んぐっ」
 口の右側に潜り込んできた。拒めなかった。もともとティグリムの指の分隙間が空いていたところだ、簡単に潜り込んできて、
「中の方に触りたい」
 奥歯の歯茎に、舌の奥に、触れる。
 苦しい。
 でも、先ほどまで食べていた果物より甘い気がするのは、どうしてだろう。
 目を閉じた。
 甘くて美味しい。
 ああ、溺れていく。