駆けているはずの足音が聞こえない。対する自分の方は、大地に浅く根を下ろした草や草たちを覆う砂を荒々しく踏み締める音を立てながら走っているというのに、前を行く彼女の足音はまったく聞こえなかった。
 思い知らされる。
 これが、ヤギホの戦士として生まれ育った者とそうでない者の差か。
 自分より一回り小柄な女性が、圧倒的な速さで夜の闇の中を駆け抜けていく。追いつけない。ただでさえ肩幅が狭く華奢に見える背中が、輪をかけて小さくなっていく。
 頼りになるのは視力だけなのだ。彼女の背中を見失ってはいけない。
 幸か不幸か視界は開けている。
 かつてこの辺りで鬱蒼と茂っていた森は、ほとんど焼けてしまった。今や炭と化した樹木の名残と生まれたての低い野草しかない。
 ――ホカゲの森は山の神の火によって焼かれた。ホカゲは山の神に穢れとみなされたのだ。現にナナツ殿も火に呑まれた、もはやホカゲに山の神の護りはない。
 言ったのは、確か、ネアブリ族の長だったと思う。
 目を細め、寄り合いの夜のことを思い出す。
 山の神の怒りがすべての土を焼いた日から数えて、もう、幾度目の寄り合いのことだったか。
 その夜も、七部族の長たちがかがり火を囲んでいた。かがり火を囲んで、詮無い議論をする。
 否、トオヤに言わせれば、あんなものは議論などではない。この未開の野蛮人どもに議論する能力などない。己が部族の益を主張しがなり立てているだけだ。だから何も決まらず進まないのだ。
 ホカゲどころか、僕はヤギホ全体に神の護りを感じない。
 そう言ってやれれば良かったのだろうけれど、トオヤは所詮紛い物の長に過ぎない。ホカゲ族の長として寄り合いにいるというのに、発言権はなかった。早く終われと念じるより他はない。
 そんなトオヤの隣で、音もなく立ち上がった女がいた。
 ――そう。ホカゲは一度滅んだ。
 夜の闇よりも黒い瞳が、炎を映して輝く。白く滑らかな肌が妖しく照らし出される。
 ――我々は一度終わりを迎えた。そして新たな始まりの時を迎えた。
 背筋が凍りついたのを、今でも克明に思い出せる。
 ――神は一からやり直すことをお求めになっているんだ。古い習わしに囚われ閉ざされた森なんざもはや要らないってことなのさ。我々の時を、我々の国を、一から創るよう――神はそうお求めに違いないよ。
 一回り以上も年かさの男たちが未だ二十歳前の若い女の声とことばに支配されている。
 とうとう、場を諫めることに成功した。
 女は、あの時すでに、王であり、神であったのだ。
 ――きれいになったじゃないか、実に結構なことだね。ご覧よ、森を伐る手間が省けたというもの。
 ――……しかし、ヤエよ――
 ――いいから黙ってお聞きよ。
 真っ赤な唇の両端が、持ち上がる。
 ――ここに都を造ろう。ヤギホ人によるヤギホ人のためのヤギホ人の都を。我々の王国の礎を、我々の王国の源を。我々は何もないところから立ち上がる。神の火が、それを望んでいる。我々ならば、できる。
 ――だが山の神はお怒りだ。
 ――いいかい? 大事なのは今ホカゲに山の神の護りがあるかどうかじゃない。もうホカゲだけの話じゃないんだ。ヤギホ人である我々全体が、次はこちらから、山の神の護りを得られるかどうか試されているのさ。
 首を横に振って意識を元に戻した。
 彼女の背中が消えていた。
 迂闊だった。余計なことを考えている場合ではなかった。自分は足だけでは彼女を捕捉できない。彼女を立ち止まらせる方法を考えなければならなかったのだ。
 立ち止まり、周囲を見回した。
 どれほど走ってきたのだろう。木々がまばらに生えている。それなりの高さと太さのある木だ、若木ではない。神の怒りを逃れたホカゲの森の生き残りらしい。
 困惑し、狼狽した。
 誰の姿もない。焼け爛れた幹の木々に囲まれている。
 こんな時、トオヤは恐ろしくなる。
 山の神が穢れとみたのは自分ではないのか。自分を異物とみなし焼こうとしたのではないのか。ホカゲが神の護りを失ったのは自分が戻ってきたからではないのか。
 風に揺れる梢が、自分を罵っているように聞こえる。
 神々が、そこに、確かに、宿っている。
 山の神の護りがないのは、他でもなく、自分ではないのか。
 自分はここから一人で寝床まで戻ることすら叶わない。
 叫び出しそうになった、その時だった。
 突然、背中に何かが衝突した。
「ひゃっ」
 強い力に押されて、そのまま地面へ倒れた。顔が砂まみれになる。痛いし汚い。
 しかも、押し倒した状態のまま――自分の腰の上にまたがり、座り込んでいる。
 こんな悪戯をする者は、彼女しかおるまい。
 上体を捻って、後ろを見ようとした。
「ちょっと、何をす――」
「女みたいな声を出すな」
 あくまで退く気はないらしい。起きられない。かろうじて肩が横を向くくらいで、首より上しか彼女と向き合えない。
「情けない奴だな。成人男子のくせに、わたしひとりも振り払えないのか」
 夜行性の獣めいた黒く丸い瞳が、自分を見下ろしていた。長い三つ編みの房に似た先端が、自分の脇腹を撫でている。
「ココノエ……っ」
「ほら、振り落としてみろ。できないのか? わたし、すごく、軽いのに」
「本当だね、僕より頭ひとつ分小さいし……っ」
「そう、お前より頭ひとつ小さい。小さくて軽いぞ。可愛いだろう」
「そういう、ところだけ、ヤエに、似なくても」
「あねさまに似ている? えっ、どこがどう!? その辺を詳しく聞かせろ、少なくとも別嬪だということには違いないんだろうけどっ」
「もういいや、もう黙っておくれよ。君と話していると疲れるんだよ……」
 馬乗りになったココノエをそのままに、トオヤは地面へ突っ伏した。顔や着物が砂で汚れることはもはやどうでもよかった。それに、ココノエ本人の言う通り、どこにあの瞬発力を生み出すばねを仕込んでいるのかと思うほど、軽い。だからこそ跳んだり跳ねたりするのかもしれないが、とにかく、軽かった。少しの間背中に乗せていても、さほどの負担にはならないような気がした。
 小さくて、軽い。
 ヤエは重厚だが、ココノエは軽快だ。ヤエの強大さは、ココノエにはない。同母の姉妹のはずなのに、不思議だ。
 二人とも、自分の姉なのか、と思うと、トオヤは不思議でたまらない。
 一緒に育ったわけではないからだろうか。トオヤにとって、ヤエとココノエの姉妹は、三年前から行動をともにしているだけの『家族』だ。顔立ちと髪質以外に共通しているものはない気がする。言葉遣いも振る舞いも、好みの料理や着物さえ、何一つ、姉妹と合わない。
 ヤエの強靭さも、ココノエの俊敏さも、自分には、ない。
 女たちの方がよほど戦士らしく、自分は――
 いきなり後頭部を叩かれた。首を持ち上げると、ココノエが不満げに口を尖らせて「おい」と声をかけてきた。
「上を見ろ」
「上?」
「上。空」
 うつ伏せたまま、斜め上を見た。
 木々の生え方がまばらなので、空がやたらと広く見えた。
 紫黒の空に、星が輝いている。満天の星が空いっぱいに広がり、瞬いている。砕かれ散らされた大小の輝きが大空を満たし自分たちを包み込んでいる。
 小さな星の群れや、大きな星の流れが、幼い頃に見たものと、寸分違わず見えた。
「お前、星を見るの、好きだろう」
 ココノエが歌うような声で言う。
「よく見えるところまで連れてきてやったぞ。どうだ、機嫌は直ったか」
 トオヤは深く息を吐いた。
「ココノエの足が速過ぎて、星なんか全然見えていなかったよ」
「わたしが速いんじゃなくて、お前が遅いんだろう」
「どちらでもいい。とにかく――」
 ――こちらは、家を飛び出していったココノエを捕まえて、何とかなだめて連れ帰ろう、と決心し、必死でついてきていたのに。そちらは、こちらがついて来ていることを承知の上で、そんな悠長なことを考えていたのか。
 そんなはずはない。
 上半身を起こした。
 トオヤは無遠慮に腕を振り強引に体を動かしたが、ココノエはと言うと、何のこともないように腰を浮かして、そのまま横に座った。相変わらず大した反射神経だ。
 ヤギホの娘ならではの身体能力だ。
 彼女は、ヤギホに生まれ、ヤギホで育った娘なのだ。
「あのね、ココノエ」
「何だ、そんな、改まった顔をして」
 彼女の両の手首をつかんで引く。彼女の上体が自分の方へわずかに傾く。顔と顔が少し近くなる。
「まだ、決まっていないから。決定ではまったくないから、心配しないで」
「何をだ」
「今度こそヤエに僕から話をする。僕は、お飾りの長だけれど、一応、ホカゲ族の成人男子なのだから。ヤエ一人に好き勝手させないから」
 ココノエが小首を傾げた。
「それこそ、掟を破ることになるのではないの。ヤギホの掟では、部族皆がひとつにまとまらなければ他の部族と交渉しないのではなかったの。まして他の国となど」
 ココノエが首を横に振った。
「違うの?」
「お前は勘違いをしている」
「何を」
「あねさまは、もう、部族の枠など超えた者だから。ひとつひとつの部族がどうかなど、もう、あねさまには関係ないんだ。あねさまのことばはすべてに先んじる」
「は」
「まして――そう、国。国か。とつくに、になるのだなぁ、ステラクスは、それもなんだか不思議な感じだけれど……、あねさまが、すべての部族の長として――この国の長として、他の国の長である、ステラクスの何とかという新しい王との間で取り決めを交わしたと言うのなら、まあ、仕方がない」
 何を言っているのか、理解できなかった。したくもなかった。
「あねさまは、この、新しい国の礎となり、母となる。新しい女神となる」
 いつになく冷静に淡々と言葉を続けるココノエが、知らない生き物に見えた。
「民であり臣下であるわたしは、従わねば。だって、ヤギホ人だもの」
「――なに、それ」
 ココノエが眉根を寄せ、「ステラクス育ちのお前には難しいのだろうか」と呟いた。他のヤギホ人に言われれば嫌味にしか聞こえないのだろうが、数え切れないほど同じ言葉を繰り返してきたココノエの声だと、本当に、ただ純粋に違う世界で育ってきた弟へ自分の育ってきた世界をどう説明すべきか困っているように聞こえる。
 実際に、そうなのだろう。彼女が誰かを謀ったり陥れたりしたことなど見たことがない。疑っているところすら、見たことがない。
 彼女は、何度も何度も、欺かれ、騙されて、戦わされてきたのに。
「神に護られて生きてきた。だからわたしも神に応える。それだけのことなんだ。とてもとても、簡単で、単純なことなんだ」
「……間違っている。ヤエは人間だよ、神子ではない。神託を受けたわけでもない、ココノエの方こそヤエとはずっと一緒に育てられたきょうだいでは――」
「どうやらステラクスの連中というのは目に見える奇跡しか信じられないようだな、可哀想な連中。誰かが神となり、何かが神となる――ヤギホではよくあることだぞ、覚えておくといい」
 「神であるために生まれながら人でないものである必要なんかないんだ」と続けたココノエの、声も表情も、穏やかだった。
 覚悟を決めた、顔だった。
 トオヤは、ココノエの手首から、手を離した。
 自分は無力だ。こんな細い手首の姉一人すら、守れない。
「お前の方こそ、心配するな」
 ココノエが笑った。
 彼女が笑顔を見せるのは、珍しいことだった。家の中では母親に抑圧され続け、家の外では戦闘に明け暮れていた彼女が、このような笑顔を見せたことなど――
 そうか。
 彼女は、姉として、弟である自分を、なだめているのか。
「わたしは強い! どこでだって生きていけるんだ。ヤギホの魂も絶対に忘れない。忘れなければ、大丈夫、揺らがない。揺らがないので、障りもない」
「ココノエ……」
「いつだって、どこでだって、護られる。神の火はわたしの中に宿り続ける。だから、何にも、心配要らないんだ」
 腕を伸ばした。
 彼女を強く、抱き締めた。
 こうしているだけで折れてしまいそうだと感じるのに、本当は、しなやかで、自分よりもずっと柔軟で丈夫なのだろう。
「大丈夫」
 ココノエが、繰り返す。
 けれど、トオヤは、知っている。
 ココノエは饒舌な人間ではない。むしろひとより口数が少なく話下手だ。
 そんなココノエが、ここまで流暢に語った、ということは、この語りが、滑らかになるまで何度も、ココノエ自身の中で繰り返されていたことを暗示している。
 何度も何度も、語り聞かせたのだろうか。自分に言い聞かせたのだろうか。
「大丈夫、大丈夫。何にも怖がることはないから。わたしは小さくて軽くて可愛いから、きっと可愛がられるに違いない」
「この期に及んでそれですか……」
「馬鹿か。一番大事なところだろうが」
 初めて、ココノエの声が震えた。
「ステラクスの男は、体が大きいから……。武器がなかったら――腕力だけだと、勝てないだろうから。あまり、乱暴なことがなければ、いいな、と、は……。ヤギホ人の娘など、こんなことがなければ、貰ってくることもなかったのに、と――思われ、なけれ、ば、いい。な。と」
 さらに腕の力を込めた。ココノエが初めて「痛い」と主張した。
「行かなくていい」
「トオヤ」
「ヤエが誰とどんな契約を交わしたか誰も知らないんだよ。ココノエが本当に妃として迎えられる保証はない。そんなよく分からない状態で嫁になど行かなくていい!」
「ちょっと、トオヤ」
「もういいよ、もうすべてがどうでもいい、ヤギホもステラクスももう知らない。二人でどこか遠くへ行こう、そうだアスタリカがいい、あのイツエでさえ結局帰ってこないくらいだよ、きっといいところで――」
「トオヤ」
 「落ち着け」と、背中を叩かれた。
「思い出せ」
 やはり、穏やかな声だった。
「お前を育ててくれたステラクスというところは、そんな酷いところなのか。わたしがステラクス人の悪口を言うとあんなに怒っていたお前が、ステラクス人と交わした約束を破れと言うのか」
「……う」
「お前は優しい子だから。お前を優しい子に育てた、優しいステラクス人がいるんだろう。ステラクスにも、優しい人がいるんだろう。冷たいばっかりじゃない。ヤギホ人でも使い捨てにはしない、優しいステラクス人だって、きっと、いつかは、出会える。きっといつかは、わたしも」
「けれど、……」
「大丈夫。お前が一番知っているはずだから。わたしはお前を信じているから、ステラクスのことも信じる」
 ココノエの着物の背中をつかむ手が、いつからか震えていた。ココノエの着物の肩も、いつからか、濡れていた。
 情けない。
 自分は弱い。何にもできない。時の流れを止められない。逆らえない。
「最後にもう一回だけ、いいかな」
「何だ」
「お嫁になんか、行かないでよ、ココノエ。ずっと、僕と一緒にいておくれよ」
「だめだ」
「――分かったよ」
 小さな手が、背を撫でる。
 温かい。暖かい。
 星に祈りを捧げる。
 このぬくもりが、永遠に絶えませぬよう。
「きっと、大丈夫だね。三神官はいなくなったそうだし、新しい王は騎士団の出だそうだから、きっと、礼儀正しくて女性に優しくて、あと、ヤギホの女の子の好きそうな強いひとだよ」
「そうか! 強い男はいいな! 丈夫な子ができる!」
「食べ物も美味しいよ。何でも食べてみるといいよ、お腹の中身が驚かないといいけれど――そうだ、牛乳は温めて飲んだ方がいい、慣れるまでは生はよした方がいいよ」
「ぎゅうにゅう? 飲み物か?」
「それに――僕が眠れなかった夜に、母が――あのバケモノではなくて、ステラクスで育ててくれた女性が、ね。よく、出してくれたんだよ。温かい牛乳……よく眠れるようになるんだよ」
「そうか、頑張って覚えておこう……あまり眠れなくなったことがないので要るかどうか分からないけど……」
「そう、少しは頑張って頭を使って――いや、多少頭が足りないままでもいいけれど。――どうか、お元気で」
 ココノエが、また、少しだけ笑った。
「いつか、お前をステラクスに呼んでやる」
 トオヤもまた、少しだけ笑った。
「楽しみに、しているね」




実は↓をきっかけに書き始めたのですが、総執筆時間は3時間でした。サヨナラ! 爆発四散!

【第48回フリーワンライ】本日のお題
まだ決まっていない
間違い
牛乳はあっためて下さい
星を観るには速すぎて
無冠の王


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最終更新:2015年05月10日 01:31