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 何もない、真っ暗な闇の中から、赤子の泣き声が聞こえてきた。
 気づいた時には遠く感じた声だったが、次第に近づいてきているのか、少しずつ、少しずつ、大きな声へと変わっていく。
 すぐ傍で聞こえるようになってから、背筋が冷えるのを覚えた。
 ウワナは上半身を起こした。
 夢だと思っていた。今夜も死んだ弟妹の泣き声が自分を呼んでいるものと勘違いしていた。
 本物の赤子が、今まさに、泣いている。
 自分はいつの間に眠りへ落ちていたのだろう。こんなところで寝ている場合ではない。自分がここにいることすら、ひとに知られたらおおごとになるのだ。赤子に起こしてもらえて助かった。
 窓の外を見た。森の梢の向こうに、明るい月が見えた。
 月がすでに天高く昇っている。こんな時間まで宿舎に戻っていないことが見つかったら――
 そこまで考えてから、ウワナは、自然と力の入っていた肩を落として、大きく息を吐いた。
 もはやいまさらだ。《護人》サルトモが、自分を責めることはないだろう。
 サルトモは、先の女王ヒコガネとともに葬られた先の《護人》イワナリの死後、いけしゃあしゃあと《護人》の後任に納まった男だ。面の皮の厚さは歴代の《護人》随一と言われている。実際彼は武力ではなくその頭脳をもってしてその地位まで上り詰めたと見える。ただでさえ不器用な自分が、あのサルトモを騙しおおせているとは思えない。分かっていて泳がせられているに違いない。
 サルトモは何もかも把握している。知っていて、何も言わずにウワナの動向を見ている。どこまで知っているのかも教えてくれないまま、にやついた笑みを浮かべてウワナの行動を観察し続けている。
 それが自分にとって幸運なのか不運なのかは、ウワナには、分からない。考えない方がいいとも思っていた。サルトモの手につながれているうちは、少なくとも命は、保証されている。サルトモが動くまで、サルトモにつながれた状態のまま、思考を放棄し沈黙して働き続ける――それが、今の自分にできる最善のように思えた。
 ついこの間まで要るのか要らないのか分からない命だったが、生きてやらなければならない大きな課題ができた。今は粛々と目の前の課題を取り崩すことだけを考えていた方がいい。誰にも代わりを頼めない、自分にしかできない仕事だけに専念するのだ。
 寝台から降りようとして体を捻った途端、顔の左半分に強烈な痛みが走った。肉を裂かれる痛みだ。
 傷を負ってすでに五日が経とうとしているのに、痛みも熱も未だひかない。
 包帯の上から、左目を押さえる。
 とうとう巻き慣れてしまった包帯は固く、数刻横になった程度では乱れないようだ。嫌なところで努力が実ったものである。
 床に立とうとして、壁に頭をぶつけた。平衡感覚がおかしい。片目が見えない不便さがもどかしい。
 一生このままだろうか。やらなければならないことは増えたのに、と思うと、胃臓の辺りが重い。
 赤子の泣き声が、大きくなったり小さくなったりを繰り返している。疲れてきたのだろう。
 寝台の方を見た。
 赤い寝間着を纏った、華奢な若い女が、横たわっている。
 壁に手をついて平衡感覚を確かめつつ、女の顔を覗き込む。
 もともと白かった肌が、月明かりでいっそう蒼ざめて見えた。乾燥しひび割れた唇は、荒い呼吸をひっきりなしに繰り返している。黒髪は汗で額や頬に張りついていた。未だ熱が下がらない証だ。
 彼女の熱と自分の熱は違う。自分は傷口が膿みかけて発した熱を感じているだけだが、彼女は、心身にかかった極度の疲労に蝕まれ、全身を冒されていた。発熱してからというものずっと意識が曖昧で、何日もこの部屋を出ていない。
 高熱でうなされた彼女に、今夜は傍にいるよう乞われて、汗を拭い冷や水で湿らせた手拭いを額にのせてやっていた。それがいつの間にか自分も寝ていたのだから、自分も疲れが溜まっているのかもしれない。
 赤子はまだ、泣いている。
 女は目を、覚まさない。
 女を起こす選択肢は、最初に外した。彼女の眠りを妨げたくなかった。深く眠れているのならばそのままでいてほしい。
 手拭いを手に取り、汗を拭おうとして、やめた。女が身じろぎしたからだ。赤子の泣き声に気づいたのかもしれない。このままでは起きてしまうだろう。
 赤子を黙らせる方が先だ。
 部屋の隅に目をやった。
 乳幼児用の柵がついた小さな寝台で、赤子が座った姿勢で泣いていた。
 赤子と言っても、すでに一歳半になる子だ。前歯も生え始めて、つかまり立ちをしては歩く素振りも見せ始めた。赤子と幼児の中間くらいにいる、過渡期の生き物だった。
 向こうは、濡れた大きな目でウワナを見ていた。丁寧にも、両腕をウワナの方へ伸ばしている。抱き上げろと言いたいに違いない。
「うっせーな……」
 誰にも聞こえぬよう小声で呟いたつもりの言葉は、この子の耳には優しく聞こえたのだろうか。泣き声が弱まり、唇の端が持ち上がった。
 子供の扱いには慣れていた。
 子の両脇の下に手を差し入れると、そのまま上に持ち上げた。
 自分の胸近くに引き寄せてから、左腕を子の尻の下に回した。自分の胸へもたれかからせる。片腕でも安定して抱ける状態になる。
 左腕に子の体重がのしかかっている。
「重くなったな」
 すぐに声が大きさを下げた。しゃくり上げてはいるが、涙は止まったらしい。
 子が、ウワナの着物のあわせ目をつかんで、着物の胸に涙や鼻水を押しつける。赤子のすることだ、仕方ない。そう自分に言い聞かせつつ、戸の方を見る。
 特にむつきが湿っている様子でもない。男の自分が抱き上げても大人しくなるということは、腹が減っているわけでもなさそうだ。単なる夜泣きか。外に連れ出してあやしてやれば、満足して再び寝てくれる、と信じたい。
「あんまり母上を困らせられるな……」
 腕の中の赤子が、覚えたての言葉を口にする。
「たた」
 高貴な身分の幼児は、母親のことを『おたあさま』と呼ばせられるそうだ。この子の母親である女も、この子に話しかける時は自分を「たあさま」と言う。そのかいあって、子は最近、母を呼ぶ時に『たあ』やら『たた』やらと言うようになった。
 寝台を見やる。
 女は荒い息をしたまま動かない。
「『おたあさま』はお休みになられている。俺で我慢なされよ」
 分かったのだろうか、子はそれ以上声を上げなかった。大人しくウワナの着物の胸をつかんだまま、何かを待っている。
 大きな黒い瞳が、自分を期待の眼差しで見つめている。
「……ちょっとだけだからな」
 赤子をしかと抱き直して、ウワナは部屋を出た。

 森の中を歩く。
 鬱蒼と茂る森の木々は、月を見せたり隠したりした。月が顔を隠して遊んでいるかのよう――赤子をあやしてくれているかのようだった。赤子を抱えている自分の姿も、月に、照らされたり、隠されたり、する。少しずつ闇に馴れ、片目で歩くことへの不安もなくなった。
 夜の森は自分たちにも優しい。
 腕の中の子は、泣きも騒ぎもせず、月を見上げて大人しくしている。時折月に話しかけているのか、「あー」とか「うう」とかといった大人には意味の分からない言葉を発するが、大声で喚くことはない。もともとあまり手のかからない子だという印象だったが、それがよりいっそう強まった。
 ただ、寝てくれる気配はない。夜風が刺激になるのか、自分の抱え方が悪いのか。
「まだお休みになられないのか」
 腕の中の子に問いかける。子は話しかけられていることは認識できるらしく、森の方を向いていた顔をこちらに向け、「あー」と返事をしてくれたが、鳴き声に似てウワナに理解できる言葉ではなかった。
 仕方がない。一歳と数ヶ月しか生きていない彼が発する言葉で、母親以外の大人にも意味が通じると思しき言葉は、彼の母親が言うには、母を示す『たた』と、食事を示す『まま』と、飲み物を示す『ぶぶ』の三つだけらしい。
 男の子は言葉が遅いと聞いたことがある。それを思えば、この子は頑張っている方かもしれない。
「……いい子だなぁ」
 褒められていることも分かるようだ。笑みを作り、小さな手で着物の胸を叩いてくる。嬉しそうだ。
「こんなにいい子なのに、母親の他は、誰も、可愛がってくれないのか」
 ウワナの表情や声色に、何か喜ばしくないものを感じ取ったのかもしれない。胸を叩くのをやめ、大きな瞳で見上げるばかりとなる。
 ホカゲ族は神の直系の子孫だ。どの部族よりも神聖で、霊的な力が強く、奇跡を起こせる、と云う。その力が、母から子に伝えられるものなので、他の高貴な部族の母子とは異なり、乳母をつけず、産みの母が自ら乳を与えなければならない――という理屈までは、分からないでもない。
 だが、乳母の仕事は乳を与えることだけではない。子の世話を請け負ったり、若い母親に子の世話の仕方を指南したり、同じく育児の悩みを聞いたり――弱みを見せられぬ高貴な女性にとって、乳母は育児に欠かせぬ存在だ、と思う。
 ましてこの子の母親は、他の誰にも委ねられぬ仕事をしている。働いている間に安心して預けられる先がない、というのも、彼女の負担になっているはずだ。
 それでもなお、彼女がこの子を誰にも預けない理由を、ウワナは知っていた。
 神殿の女官たちは、異人を思わせる風貌の赤子を、忌み子と呼んで気味悪がっている。
 母親である彼女も、愛しい忌み子を誰かが己れの知らぬところで神のもとへやってしまうのではないかと、日々怯えて暮らしている。
 考えるたびに胸の苦しさや頭の重さを覚える。成人男子が、それもいっぱしの武士が、と思って堪えた涙のせいで鼻の奥が詰まった。
「……ごめんな」
 子を強く、抱き締めた。
 子は、真っ赤な癖毛に、二重目蓋の大きな目、浅黒い肌をしていた。
 真っ黒な直毛に、切れ長の一重目蓋、白い肌をした母親とは、まったく似ていなかった。
「お前は何にも悪くないのにな」
 この子を見た時、誰もがこの子の父親のことを想像するだろう。口に出さないのは、神の祟りを畏れているか、母親の不興を恐れているか、分かった上で利用する気でいるか、のいずれかだ。
 そのいずれでもない者はいない。
 正確に言うならば、今はもう、いない。去年くらい――この子が生まれてから数ヶ月ほどの間には、いた。
 それが、母親となった彼女が背負っている、罪業と覚悟だ。
 背負わせたのは、自分だ。
「俺の、せい、だよな。……ごめんな……」
 森の静寂だけが優しい。
 腕の中の子の体温を感じる。この世で二人きりになった気分だ。



後編に続く