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~前268年(446年前)6月18日~ 「フォスカ」  アウラが呼ぶ。 「ねえ、フォスカ」  何度も、何度も。  アウラが呼ぶ。 「フォスカ。そこにいるのでしょう。入っていらっしゃいな」  アウラは美しい。誰もが認めるところだ。  たとえば腰まで伸びた彼女の髪は、一の島に注ぐ光にこの上なく映える。星のない夜を溶かしたような黒髪に、三日月に似た麗しい輪が時に浮かび、時に消える。  白い細面に嵌まった瞳はまるで極上の翠玉で、これまた筆舌に尽くしがたい。初めてこの両目に見つめられた者は決まって、胸奥を細い矢で射られる心地がしたと口をそろえる。  フォスカもかつて同じ体験をした。死の床についた父の枕元で、この島の主である彼女と引き合わされたとき、確かに感じた息を呑むような恍惚を決して忘れない。見た目どおりの15、6のただの女では、決して醸し出されることのできぬ気高さを忘れない。  今後も忘れることはないと思う。  忘れまいと、思っている。 「いいから入っていらっしゃい、フォスカ。何をぐずぐずしているの」  声音が苛立ちを帯びた。  さすがにこれ以上部屋の前で突っ立ってはいられまい。ダッファ侯フォスカ・ヴェントゥーラは扉を開けた。  うっすらと緑を帯びた白が、彼の視界を支配した。  壁に絨毯、寝台天幕に寝台そのもの、アウラの閨房を占める色だった。  アウラは緑を好いていた。どこまでも深くそれでいて澄んだ彼女の瞳の色が、同系の色彩を欲しているのかもしれなかった。あるいはダッファ島にかつて在った森、とうに昔に戦乱で焼けてしまった幻の場所を懐かしんでいるのかもしれなかった。  フォスカは部屋の床に片膝をつき、心臓の位置に手を当て頭を垂れた。 「ミガターヤ島に出向いたそうね?」 「ええ、我が君アウラ。ほんの一刻ほどですが」  千年を生きたアウラがなぜ緑を好むかフォスカは知らない。アウラは自らは何も語らない。そして彼女が黙しているなら、フォスカに尋ねる資格はない。  フォスカはただの奴僕だ。ダッファ侯と讃えられこの島を統べていても、他国から君主として扱われても、アウラたち竜の前ではひざまずいて頭を垂れ、下される命をただ待つしかない。  何もフォスカに限らない。群島の領主などこんなものだ。  この島に生きとし生ける人の子は、すべて竜に仕えるべく生まれついている。  アウラは寝台の上にしどけなく寝そべり、ひざまずくフォスカを見下ろした。貴種の眼だった。 「眠たかったから私は行かなかったけれど。キムリはいたのかしら」 「三の島の君はご気分が優れぬとの仰せでご欠席でした」 「それは良かったこと」  アウラが笑う。 「青い竜は信用できないわ。お腹の中と顔とが天と地ほどにも違うのだもの。まあ、イズラフィヤやスンバーリの白い連中よりはましだけれど。その点頭の足りない赤い連中はいいわね。本当に楽」 「無事に停戦合意を取り付けました。これで12の島の全てが合意。停戦記念としてささやかながら贈物も置いて参りました。我らが群島に平穏な日々がおとずれます」 「あらそう」  柔らかな羽毛が詰まった枕の上で、アウラは指先をもてあそんだ。生き物の肉体の部分というよりは、それ自体が一羽の優雅な鳥のようだった。  そう、鳥だ。黒石を積んだ高き塔の群れ、一の島の象徴ともいわれる尖塔群を越えて飛ぶ鳥。青く晴れわたった空によく映える、白い鳥。 「私はあまり気が進まなかったのだけれど、まあ、いいわ。あまり長いこと続けると人の血が絶えてしまうものね。この前のようにまた10年か20年停戦して、増えてきたらまた続けましょう。次こそ決着をつけたいわね。白い連中は今度こそ根絶やしにしなくては。頼むわよ、フォスカ」 「……我が君の仰せのままに」  この《しくみ》がいつ始まったのかは分からない。  少なくともフォスカは知らずフォスカの父も知らなかった。恐らく祖父も曽祖父も高祖父も、同じように知らなかったに違いない。ただひたすらに連綿と、「そういうもの」だと言われてきた。  12の島は竜族のためにある。島の民は身を捨て魂を賭して竜族に尽くせ。  大陸の者に竜族の存在を知られてはならない。魔女に精霊、分に過ぎた力を手にした人の子、そのような下賤な輩に神聖なる血を冒涜させてはならない。  竜族に統べられた島は、己が主の存在を隠し続けてきた。千年か。二千年か。三千年か。あるいはそれ以上か。それより前にどのように生きていたか、忘れ去るほどの長きにわたって。 「フォスカ」  ひらり、と白い手がさし招いた。 「いらっしゃい」  立ち上がり寝台に近づき、また跪いた。アウラの手が伸び、白い髪に包まれた彼の頭を抱きかかえた。 「お前は本当に可愛い子ね」 「畏れ入ります」  甘い香りが鼻をくすぐった。父に彼女を紹介されてから夜ごと嗅いできた香気だった。声音は鈴を転がすよりも澄み、小夜啼鳥の歌声よりも優しかった。 「マリク……お前の祖父も良い子だったわ。きれいな顔をしていた。賢くて気がきいて、私の言うこともよく聞いた。即位するのが遅かったからすぐ年を取って皺くちゃになってしまったけれど。お前はあの子に似ているわね、本当に」 「光栄に存じます」  フォスカの祖父マリクは手記をものしていた。アウラが何を好み何に怒りを爆発させるか知り抜いていた。アウラについてありとあらゆることを記したこの手記はフォスカにとって、アウラの歓心を買う道しるべとなっていた。  フォスカの頬を愛おしげに撫で、歌うような声でアウラは続けた。 「でもお前の父親は駄目だったわね。マリクがいけないのだわ、あんな女を娶るから。何が良かったのかしら、あの女。鼻が潰れて、歩き方もおかしくて。そのくせマリクは気に入ってあんなにも可愛がって」 「はい、我が君」 「おかげでお前の父親ときたらマリクの子のくせに不細工で愚図で、受け答えもまるで気がきいていなくて。本当に苛々したわ。あれが死んでお前に替わったとき、私は本当に嬉しかったのよ。わかる? フォスカ」 「はい。我が君。手に取るように」 「次の戦が始められる頃にはお前はいくつかしら。楽しみね。華やかにやりましょう。この前ゼラズニィの島を焼いたように」 「はい、我が君。ぜひ」 「あれは綺麗だったわ。白い街に赤い火がよく映えて。そうだわ10年もすれば街も元に戻るわねまた焼きましょう。東の海岸からならよく見えるわ。2人でワインでも飲みながら見物するのよ、きっと風情があるわ」 「はい、我が君」 「そうだわ10年後までには子も作らないと。お前によく似たきれいな子を。前のあの子のようなのは駄目よ、ちっとも可愛くないのだもの。だいたいあれは母親からして悪かったのよ。やっぱり妻選びから考えなければね。私が選んであげる。頭は空っぽで良いのよ、良い子を産めればそれで」 「はい、我が君」  アウラの手がフォスカの顎に伸びた。指で軽く持ち上げ、上を向いた唇に口をつけた。 「可愛いフォスカ。永遠に私のもの」 「はい。我が君」  唇が離れ、フォスカは頷いた。 「永遠に――」  そのときだった。  アウラの目が大きく見開かれた。翠の瞳が窓の外、黒い尖塔の立ち並ぶ首都の風景を見た。 「何の音?」  フォスカの耳には聞こえなかった。並はずれた聴覚を持った竜だからこその感覚だった。  だが、聴こえずとも何の音かは知っていた。 「鐘の音です、我が君」 「鐘……?」  美しい白い喉が、ひく、と音を立てた。  このときようやくフォスカの耳に音が届いた。  泣きさけぶような。  胸を掻きむしるような。  別れを告げるような。  鐘が鳴っていた。  あの塔から、この塔から、島中のどこひとつとして音の聴こえぬ場所のないよう、高らかに鳴り響いていた。  フォスカが命じた通りに。  アウラが身を折る。香り立つような薔薇色だった頬は青ざめている。黒絹糸のような髪を振り乱し、唇を震わせて悶える。悲鳴が上がる。 「祖父の手記にこう書かれていました、我が君」  フォスカは立ち上がった。寝台の上で身をくねらす竜の女を見下ろした。  悲鳴は絶えない。聞く者の鼓膜を裂かんばかりに続く。フォスカ、と呼ぼうとしたのだろう、だが言葉は言葉にならない。ただ意味をなさぬ音の羅列になって天井に吸われていく。 「竜族は強靭な一族であると。火では焼かれず刃でも傷つかず、およそこの世に彼らを滅せるものなど何ひとつないと。ただひとつを除いては」  幾重にも重なって鐘の音は続く。 「およそ40年前、貴女と祖父のもとにひとりのリュート弾きが訪れたとき。そのリュート弾きが弾いたとある曲のとある部分に、貴女は大変な拒否反応を……いえ、むしろ苦痛を訴えられたそうですね」  フォスカは答えられない。ただ悶える。  青い空の下で塔は鐘を奏でる。ただひとつの音階を。 「たったひとつの音階を一定の大きさで、数分の間ただひたすら繰り返す箇所。曲の演奏はすぐさま止められましたが、ほんの十数秒間でも大変に苦しんだ貴女は、大層ご立腹になりリュート弾きの首をねじ切らせた、と。これを覚えていた祖父はこう考えました」  窓の外を鳥が飛んでいく。  うららかな暖かい日だ。 「ある一つの音階を、一定の音量、一定の波長で響かせ続ける。これが貴女がた竜族を殺す方法ではないか、と。――祖父が正しかったようで何よりです」  メリメリと音が響いた。  アウラの白い肌が変貌を始めていた。引き裂けるように腕の皮膚が破れ、下から黒い鱗が覗いた。手指からは鉤爪が伸び、悲鳴をほとばしらせる口からは牙が覗き、舌の先端は二叉に裂けた。 「祖父の手記の内容を踏まえて造らせた、特注の鐘です。一の島だけで200個設置して一斉に鳴らしています。多すぎるかとも思いましたが、手を抜いてしくじっても困りますので。他の島にも同等かそれ以上の数の鐘を。今日のこの時間に鳴らすことになっていますから、他の島のお仲間の方々もきっとご同様でしょう」  背を突き破って生まれるのは翼。  羽ばたこうと広がり、風を打とうと蠢き、しかし結局無為に終わる。 「どの領主も喜んで賛成してくれましたよ。貴女がたは少々やりすぎた。ご存知ないでしょうね。この200年で群島の人口がどれほど減ったか。白だの黒だの赤だの青だの、貴女がたのくだらない意地の張り合いのせいでどれだけの人間が死んでいったか。きっと知らないし興味もないんだ。それに――」  もはや半身を竜に変じながら、それでもアウラは苦しみ続けていた。寝台から転がり落ち床に叩きつけられ、それでももがき足掻いて床を掻きむしった。 「祖父の妻は貴女に殺された。貴女は彼女を広間の中央に立たせ、周囲を囲ませた兵士にいっせいに槍で突かせた。祖父はその光景を目の前で見ていなければならなかった。祖父は繰り返し書いていましたよ。亡きの妻への愛と懺悔、そして貴女への呪詛を」  右半分が鱗に覆われたアウラが血を吐いた。床を汚した血は人の子と変わらぬ赤黒さだった。 「それから」  澱みなく続けてきたフォスカが口をつぐんだ。『それから、』と言い直しかけてまた言い澱み、息を吸って吐いてからまた続けた。 「貴女は、私の妻と子を焼き殺した」  覚えている。顔を火照らす熱、雨のように舞い上がる火の粉、気管から肺を燻しあげる白い煙。  朱色の海に金粉を撒いた光景に重なるのは。 「あの日聞いた声がまだ忘れられない。妻の悲鳴、泣き叫ぶ我が子、それから、貴女の高笑い」  アウラの鼻から耳から血が噴き出した。水が細い穴から沁んでいくような、ゴポゴポという音をフォスカは聞いた。  鐘は鳴る。すべての竜を死の淵にいざなう音色を、ただひたすらに奏で続ける。 「もうたくさんだ。貴女がたのために生きるのは。ここは私たちの島だ。貴女がたはもう、要らない」 「フォ、スカ」  前足と化した腕を伸ばし、アウラはフォスカを見上げた。もはや人の顔をしていなかった。 「フォス、カ」 「手を取り合うことはできない」 「フォ、ス、カ」 「すべてがもう、遅い」 「フォス……」  伸びた前足の先が震えた。  そして、床に落ちて動かなくなった。 「人の子の、人の子による、人の子のための世を」  鐘が止む。  尖塔の島に静寂がおとずれる。  事切れた竜の女から視線を外し、フォスカ・ヴェントゥーラ・ラタ・ダッファは顔を上げる。 「私たちの時代を……」  鳥が鳴いた。 ~前268年(446年前)6月18日~ ~《調和の鐘条約》締結~ ~《竜の時代》の終焉~
~前268年(446年前)6月18日~ 「フォスカ」  アウラが呼ぶ。 「ねえ、フォスカ」  何度も、何度も。  アウラが呼ぶ。 「フォスカ。そこにいるのでしょう。入っていらっしゃいな」  アウラは美しい。誰もが認めるところだ。  たとえば腰まで伸びた彼女の髪は、一の島に注ぐ光にこの上なく映える。星のない夜を溶かしたような黒髪に、三日月に似た麗しい輪が時に浮かび、時に消える。  白い細面に嵌まった瞳はまるで極上の翠玉で、これまた筆舌に尽くしがたい。初めてこの両目に見つめられた者は決まって、胸奥を細い矢で射られる心地がしたと口をそろえる。  フォスカもかつて同じ体験をした。死の床についた父の枕元で、この島の主である彼女と引き合わされたとき、確かに感じた息を呑むような恍惚を決して忘れない。見た目どおりの15、6のただの女では、決して醸し出されることのできぬ気高さを忘れない。  今後も忘れることはないと思う。  忘れまいと、思っている。 「いいから入っていらっしゃい、フォスカ。何をぐずぐずしているの」  声音が苛立ちを帯びた。  さすがにこれ以上部屋の前で突っ立ってはいられまい。ダッファ侯フォスカ・ヴェントゥーラは扉を開けた。  うっすらと緑を帯びた白が、彼の視界を支配した。  壁に絨毯、寝台天幕に寝台そのもの、アウラの閨房を占める色だった。  アウラは緑を好いていた。どこまでも深くそれでいて澄んだ彼女の瞳の色が、同系の色彩を欲しているのかもしれなかった。あるいはダッファ島にかつて在った森、とうに昔に戦乱で焼けてしまった幻の場所を懐かしんでいるのかもしれなかった。  フォスカは部屋の床に片膝をつき、心臓の位置に手を当て頭を垂れた。 「ミガターヤ島に出向いたそうね?」 「ええ、我が君アウラ。ほんの一刻ほどですが」  千年を生きたアウラがなぜ緑を好むかフォスカは知らない。アウラは自らは何も語らない。そして彼女が黙しているなら、フォスカに尋ねる資格はない。  フォスカはただの奴僕だ。ダッファ侯と讃えられこの島を統べていても、他国から君主として扱われても、アウラたち竜の前ではひざまずいて頭を垂れ、下される命をただ待つしかない。  何もフォスカに限らない。群島の領主などこんなものだ。  この島に生きとし生ける人の子は、すべて竜に仕えるべく生まれついている。  アウラは寝台の上にしどけなく寝そべり、ひざまずくフォスカを見下ろした。貴種の眼だった。 「眠たかったから私は行かなかったけれど。キムリはいたのかしら」 「三の島の君はご気分が優れぬとの仰せでご欠席でした」 「それは良かったこと」  アウラが笑う。 「青い竜は信用できないわ。お腹の中と顔とが天と地ほどにも違うのだもの。まあ、イズラフィヤやスンバーリの白い連中よりはましだけれど。その点頭の足りない赤い連中はいいわね。本当に楽」 「無事に停戦合意を取り付けました。これで12の島の全てが合意。停戦記念としてささやかながら贈物も置いて参りました。我らが群島に平穏な日々がおとずれます」 「あらそう」  柔らかな羽毛が詰まった枕の上で、アウラは指先をもてあそんだ。生き物の肉体の部分というよりは、それ自体が一羽の優雅な鳥のようだった。  そう、鳥だ。黒石を積んだ高き塔の群れ、一の島の象徴ともいわれる尖塔群を越えて飛ぶ鳥。青く晴れわたった空によく映える、白い鳥。 「私はあまり気が進まなかったのだけれど、まあ、いいわ。あまり長いこと続けると人の血が絶えてしまうものね。この前のようにまた10年か20年停戦して、増えてきたらまた続けましょう。次こそ決着をつけたいわね。白い連中は今度こそ根絶やしにしなくては。頼むわよ、フォスカ」 「……我が君の仰せのままに」  この《しくみ》がいつ始まったのかは分からない。  少なくともフォスカは知らずフォスカの父も知らなかった。恐らく祖父も曽祖父も高祖父も、同じように知らなかったに違いない。ただひたすらに連綿と、「そういうもの」だと言われてきた。  12の島は竜族のためにある。島の民は身を捨て魂を賭して竜族に尽くせ。  大陸の者に竜族の存在を知られてはならない。魔女に精霊、分に過ぎた力を手にした人の子、そのような下賤な輩に神聖なる血を冒涜させてはならない。  竜族に統べられた島は、己が主の存在を隠し続けてきた。千年か。二千年か。三千年か。あるいはそれ以上か。それより前にどのように生きていたか、忘れ去るほどの長きにわたって。 「フォスカ」  ひらり、と白い手がさし招いた。 「いらっしゃい」  立ち上がり寝台に近づき、また跪いた。アウラの手が伸び、白い髪に包まれた彼の頭を抱きかかえた。 「お前は本当に可愛い子ね」 「畏れ入ります」  甘い香りが鼻をくすぐった。父に彼女を紹介されてから夜ごと嗅いできた香気だった。声音は鈴を転がすよりも澄み、小夜啼鳥の歌声よりも優しかった。 「マリク……お前の祖父も良い子だったわ。きれいな顔をしていた。賢くて気がきいて、私の言うこともよく聞いた。即位するのが遅かったからすぐ年を取って皺くちゃになってしまったけれど。お前はあの子に似ているわね、本当に」 「光栄に存じます」  フォスカの祖父マリクは手記をものしていた。アウラが何を好み何に怒りを爆発させるか知り抜いていた。アウラについてありとあらゆることを記したこの手記はフォスカにとって、アウラの歓心を買う道しるべとなっていた。  フォスカの頬を愛おしげに撫で、歌うような声でアウラは続けた。 「でもお前の父親は駄目だったわね。マリクがいけないのだわ、あんな女を娶るから。何が良かったのかしら、あの女。鼻が潰れて、歩き方もおかしくて。そのくせマリクは気に入ってあんなにも可愛がって」 「はい、我が君」 「おかげでお前の父親ときたらマリクの子のくせに不細工で愚図で、受け答えもまるで気がきいていなくて。本当に苛々したわ。あれが死んでお前に替わったとき、私は本当に嬉しかったのよ。わかる? フォスカ」 「はい。我が君。手に取るように」 「次の戦が始められる頃にはお前はいくつかしら。楽しみね。華やかにやりましょう。この前ゼラズニィの島を焼いたように」 「はい、我が君。ぜひ」 「あれは綺麗だったわ。白い街に赤い火がよく映えて。そうだわ10年もすれば街も元に戻るわねまた焼きましょう。東の海岸からならよく見えるわ。2人でワインでも飲みながら見物するのよ、きっと風情があるわ」 「はい、我が君」 「そうだわ10年後までには子も作らないと。お前によく似たきれいな子を。前のあの子のようなのは駄目よ、ちっとも可愛くないのだもの。だいたいあれは母親からして悪かったのよ。やっぱり妻選びから考えなければね。私が選んであげる。頭は空っぽで良いのよ、良い子を産めればそれで」 「はい、我が君」  アウラの手がフォスカの顎に伸びた。指で軽く持ち上げ、上を向いた唇に口をつけた。 「可愛いフォスカ。永遠に私のもの」 「はい。我が君」  唇が離れ、フォスカは頷いた。 「永遠に――」  そのときだった。  アウラの目が大きく見開かれた。翠の瞳が窓の外、黒い尖塔の立ち並ぶ首都の風景を見た。 「何の音?」  フォスカの耳には聞こえなかった。並はずれた聴覚を持った竜だからこその感覚だった。  だが、聴こえずとも何の音かは知っていた。 「鐘の音です、我が君」 「鐘……?」  美しい白い喉が、ひく、と音を立てた。  このときようやくフォスカの耳に音が届いた。  泣きさけぶような。  胸を掻きむしるような。  別れを告げるような。  鐘が鳴っていた。  あの塔から、この塔から、島中のどこひとつとして音の聴こえぬ場所のないよう、高らかに鳴り響いていた。  フォスカが命じた通りに。  アウラが身を折る。香り立つような薔薇色だった頬は青ざめている。黒絹糸のような髪を振り乱し、唇を震わせて悶える。悲鳴が上がる。 「祖父の手記にこう書かれていました、我が君」  フォスカは立ち上がった。寝台の上で身をくねらす竜の女を見下ろした。  悲鳴は絶えない。聞く者の鼓膜を裂かんばかりに続く。フォスカ、と呼ぼうとしたのだろう、だが言葉は言葉にならない。ただ意味をなさぬ音の羅列になって天井に吸われていく。 「竜族は強靭な一族であると。火では焼かれず刃でも傷つかず、およそこの世に彼らを滅せるものなど何ひとつないと。ただひとつを除いては」  幾重にも重なって鐘の音は続く。 「およそ40年前、貴女と祖父のもとにひとりのリュート弾きが訪れたとき。そのリュート弾きが弾いたとある曲のとある部分に、貴女は大変な拒否反応を……いえ、むしろ苦痛を訴えられたそうですね」  フォスカは答えられない。ただ悶える。  青い空の下で塔は鐘を奏でる。ただひとつの音階を。 「たったひとつの音階を一定の大きさで、数分の間ただひたすら繰り返す箇所。曲の演奏はすぐさま止められましたが、ほんの十数秒間でも大変に苦しんだ貴女は、大層ご立腹になりリュート弾きの首をねじ切らせた、と。これを覚えていた祖父はこう考えました」  窓の外を鳥が飛んでいく。  うららかな暖かい日だ。 「ある一つの音階を、一定の音量、一定の波長で響かせ続ける。これが貴女がた竜族を殺す方法ではないか、と。――祖父が正しかったようで何よりです」  メリメリと音が響いた。  アウラの白い肌が変貌を始めていた。引き裂けるように腕の皮膚が破れ、下から黒い鱗が覗いた。手指からは鉤爪が伸び、悲鳴をほとばしらせる口からは牙が覗き、舌の先端は二叉に裂けた。 「祖父の手記の内容を踏まえて造らせた、特注の鐘です。一の島だけで200個設置して一斉に鳴らしています。多すぎるかとも思いましたが、手を抜いてしくじっても困りますので。他の島にも同等かそれ以上の数の鐘を。今日のこの時間に鳴らすことになっていますから、他の島のお仲間の方々もきっとご同様でしょう」  背を突き破って生まれるのは翼。  羽ばたこうと広がり、風を打とうと蠢き、しかし結局無為に終わる。 「渋った領主もいましたが大半は喜んで賛成してくれましたよ。貴女がたは少々やりすぎた。ご存知ないでしょうね。この200年で群島の人口がどれほど減ったか。白だの黒だの赤だの青だの、貴女がたのくだらない意地の張り合いのせいでどれだけの人間が死んでいったか。きっと知らないし興味もないんだ。それに――」  もはや半身を竜に変じながら、それでもアウラは苦しみ続けていた。寝台から転がり落ち床に叩きつけられ、それでももがき足掻いて床を掻きむしった。 「祖父の妻は貴女に殺された。貴女は彼女を広間の中央に立たせ、周囲を囲ませた兵士にいっせいに槍で突かせた。祖父はその光景を目の前で見ていなければならなかった。祖父は繰り返し書いていましたよ。亡きの妻への愛と懺悔、そして貴女への呪詛を」  右半分が鱗に覆われたアウラが血を吐いた。床を汚した血は人の子と変わらぬ赤黒さだった。 「それから」  澱みなく続けてきたフォスカが口をつぐんだ。『それから、』と言い直しかけてまた言い澱み、息を吸って吐いてからまた続けた。 「貴女は、私の妻と子を焼き殺した」  覚えている。顔を火照らす熱、雨のように舞い上がる火の粉、気管から肺を燻しあげる白い煙。  朱色の海に金粉を撒いた光景に重なるのは。 「あの日聞いた声がまだ忘れられない。妻の悲鳴、泣き叫ぶ我が子、それから、貴女の高笑い」  アウラの鼻から耳から血が噴き出した。水が細い穴から沁んでいくような、ゴポゴポという音をフォスカは聞いた。  鐘は鳴る。すべての竜を死の淵にいざなう音色を、ただひたすらに奏で続ける。 「もうたくさんだ。貴女がたのために生きるのは。ここは私たちの島だ。貴女がたはもう、要らない」 「フォ、スカ」  前足と化した腕を伸ばし、アウラはフォスカを見上げた。もはや人の顔をしていなかった。 「フォス、カ」 「手を取り合うことはできない」 「フォ、ス、カ」 「すべてがもう、遅い」 「フォス……」  伸びた前足の先が震えた。  そして、床に落ちて動かなくなった。 「人の子の、人の子による、人の子のための世を」  鐘が止む。  尖塔の島に静寂がおとずれる。  事切れた竜の女から視線を外し、フォスカ・ヴェントゥーラ・ラタ・ダッファは顔を上げる。 「私たちの時代を……」  鳥が鳴いた。 ~前268年(446年前)6月18日~ ~《調和の鐘条約》締結~ ~《竜の時代》の終焉~

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