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La marièe noblee 3」(2015/08/04 (火) 01:34:28) の最新版変更点

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 アスタリカで暮らし始めた時、イツエが最初に衝突した壁は、ひとびとの接し方の違いだった。  アスタリカの島は、海と風に阻まれ、閉ざされている。外側からは神秘の楽園を想起させたし、事実辿り着いた陸地は、穏やかな空気と人々で完結している土地だった。  常春の島アスタリカ――神に愛されている島。  アスタリカの島民は島を出る必要性を感じないだろう。海を渡る危険を冒してまで外を目指す動機は持ち得まい。  必然的に島の中はみんな身内になる。島の中の豊かな財産を分かち合い、争わず、和やかであることを尊ぶ。  ヤギホは、人間が相争うことを前提に社会を築いている。  少ない資源を奪い合い、少ない食糧を奪い合い、少ない女性を奪い合う。部族間対立は絶えず、ステラクス人やクレスティン人どころかヤギホ人同士でも排他的に振る舞う。同じ言語を話していても、ことばは通じていない――力、それも武力での『会話』を是とする。身内以外を助ける発想はないし、いざとなれば親兄弟をも切り捨てる。  それほど過酷な環境にあったのだと、言えなくもない。けれど、ステラクス帝国下でもそんな振る舞いを続けたヤギホ人を思うと、イツエはヤギホ人を庇えない。  イツエ自身、己れのヤギホ人としての考え方を嫌悪している。主張が通らなければ怒鳴り殴り力ずくで解決しようと思う姿勢――ヤギホの蛮族たるゆえんだ。これ以上ヤギホの外にそんな恥じを晒してはならない。  自分はまだ良かったとも思う。ホカゲ族以外の部族と交流した経験をもつ自分だからこそ、アスタリカではヤギホ人やホカゲ族の掟が通用しないということを理解することができた。  さて、ステラクスは、と言うと、イツエには、何よりもことばによる対話を重視するように感じる。  小さな集落ならばともかく、湖周辺や宿場町など人口の多い町では、隣の家に何人が住んでいるかも分からない状態だ。それで毎日喧嘩をするわけにはいかない。共通の言語であるステラクス語を使って、自分たちは何者でいったい何をしたいのか、どうにかこうにか話さねばならなくなる。通じ合えれば争いも回避できるだろう。  イツエの思う『文明国』とは、こういう文化のある国だ。  トオヤが保とうとしていた文化で、ヤギホでは鼻で笑われていた文化だ。  そこへ、ヤギホの戦士の理想そのままを人の形にしたような――ヤギホの悪しき文化に首までどころか髪の一本一本まで浸かり切り、自分のことばで自分の意思のみならず感情さえ説明する能力を養うことのないまま放り込まれたのが、 『ねえ、ココノエ?』  この娘だ。  誰よりも勇ましく誰よりも愚かな娘だ。  よくよく見てみると、ココノエも雰囲気がかなり変わっている。あくまで容姿の話であり、眼光はむしろ硬さを増した気はするが、ずいぶんと柔らかい印象だ。最後に会った時は確か十三で、今がそろそろ十七になるはずだから、当然と言えば当然なのだが――  イツエは、溜め息をついた。  ココノエは女になったのだ。男と褥を共にしている女の雰囲気を纏い始めたのだ。鎧のような筋肉を捨てて男を受け入れるようになったのだ。 『ちょっと見ない間に、綺麗になったもんだね。昔はホカゲのみそっかすなんて言われてたのが嘘みたい。今ならヤエと比べたって全然見劣りしないよ』  見劣りどころか、イツエには、先日会ったヤエより、今目の前にいるココノエの方が、美しく艶かしく見えた。原因は明らかだ。ヤギホの乾燥した空気に晒され栄養の乏しい食事をとっているヤエと、ステラクスの湿潤な空気に守られ栄養の豊かな食事をとっているココノエとでは、肌と髪の質がまるで違っている。  だが、それを伝えてもココノエは喜ぶまい。彼女は自分より姉が衆目を集め讃えられるのを好んだ。たてた手柄もすべてヤエに譲っていたくらいだ。  この世で最初にヤエをヤギホのすべてを統べる女神として認めたのは、ココノエだったのかもしれない。  三年の時を経ようが、ステラクスに移住しようが、ココノエの本質はあまり変わっていないようだ。 『あねさまを侮辱するのか』  イツエのことばに、ココノエは顔をしかめた。彼女はやはり、自分よりヤエの方が美しくなければ嫌なのだ。 『ヤエを落としてんじゃなくてあんたを持ち上げてんだよ』 『ずいぶんな嫌味だな。貴様がそんな奴だとは思っていなかった』  否、少し、刺々しくなったかもしれない。どうも苛立っているらしい。  嫌がられる原因は星の数ほど思い浮かんだ。しかも、どれもこれも釈明したところでココノエは言い訳だと切って捨てるだろう。 『さっさと用件を言え』  何から話したら良いものか。 『――ステラクスでの暮らしには慣れた?』  ココノエが腕組みをした。態度がさらに固くなった。 『世間話をしに来たのか』 『そうだよ、あんたが普段ステラクスでうまく立ち回ってんのか様子見に来たんだ。あんたがヤギホを出るとは夢にも思っちゃいなかったからね』  ココノエが息を呑むのを、イツエは見逃さなかった。これは何かあると本能的に悟った。  ここからが勝負だ。できる限りことばを引き出すのだ。 『あんた読み書きできたっけ? ステラクス語は分かるの?』 『貴様には関係ない』  つまり、ステラクス語の読み書きは分かっていないということだろう。 『ステラクス王は――予想外に二人もいるけど――あんたに優しい?』 『何が知りたいんだ』  つまり、そもそも優しさというものを分かっていないということだろう。 『一応婚姻の儀は挙げたってのは聞いたけど、あんた、オキサキサマとしてちゃんとやれてんの?』 『よくもぬけぬけとそんなことが言える』  つまり、ステラクスの王室の人間としての仕事はできていないということだろう。  やっと、断片が見えてきた。離してはいけない。たたみかける。 『何ができないの。ステラクス語? ステラクス王との関係? 王の伴侶としての公の務め?』  ココノエが牙を剥くように歯を見せた。 『全部だ』 『全部』 『笑いたければ笑え』  次にココノエの口から出たことばに、イツエは目をむいた。 『しょせんわたしは蛮族ヤギホの戦士で教養も品性もあったものじゃない。ステラクス人にはなれない。ヤギホ人である以上わたしはステラクス人より劣っているんだ』  ヤギホの戦士として生まれ、ヤギホの戦士として育ち、ヤギホの戦士として生きてきた――ヤギホの戦士であることに誇りをもっていたココノエが、初めて、ヤギホの戦士であることに否定的なことばを口にした。  まずいと思った。何かがココノエを抑圧している。  けれど、何がココノエの自尊心を削り取ったのか見当がつかない。夫たちだろうか、ステラクスの民だろうか、はたまたステラクスの文化すべてからココノエ自身が何かを感じて自分を押さえつけ始めたのか――どれもこれもありえる話だからこそ、特定できない。  もう少し話さなければと焦って、言葉選びに失敗した。 『でも、あんたは一応ステラクス王の妃になったんでしょ?』 『一応だ。あくまで一応だ』  『ステラクスには奴隷もいなければ妾をもつ習慣もない』と言った辺りから、ココノエの声が急に速度を増し出した。 『だからわたしがやらないといけないらしい。宣誓を交わしてしまったから、わたしを捨てることができない』  胸の鼓動が速くなっていくのを感じる。 『わたしを捨ててくれない、わたしの代わりを見繕ってくれない』 『いいことじゃないか、あんたがちゃんとひとりの人間として、て言うか妻として一番だと思ってくれてるからこそなんじゃないの』 『違う! 代わりがいないだけだ、いればわたしは解放される、わたしは逃げられるのに』  声が大きくなっていく。聞いているこちらの声も大きくなっていく。 『できないのに! できないのにやれと、毎日ただやれと言われる、剣を持つことも弓を持つことも許されない、ただ毎日ステラクスの着物を着て筆と書に囲まれて周りのステラクス人どもに白い目で見られ夜になったらあいつらに抱かれるだけだ』  瞳孔が開いているように見える。呼吸が荒くなっているように見える。  異常に興奮している。 『神々の声も聞こえない! ヤギホの神々にも捨てられてステラクスの神々にも拾われない、わたしは死んだのと同じだ、誰もわたしを守ってくれない』 『ココノエ』  イツエが伸ばした手を、ココノエは叩いて払った。 『わたしに触るなッ!!』 『落ち着きなさい!』 『貴様には分からない! アスタリカでのうのうと暮らしている貴様には』 『ココノエ、分かった、わたしが悪かったよ、だから――』 『最近月のものもなくなった、わたしにはもう子を産むこともできないかもしれない、だったら毎晩毎晩何のために股を開いているんだ、あんな無防備で恥ずかしいこと――しかもわたしは何にも知らないで嫁いできて何の技もない上に一回りも二回りもからだが小さくて最後まで全然もたないんだ、これではあの二人を満足させられているかどうかも分からない、何のためにもならない』  開けてはならない蓋を開けた。 『死にたい』  急いで抱き締めた。ココノエは腕の中でもがいて抵抗した。しかし振り払う力もなさそうだ。  あれほど強かったココノエに、自分の腕を振り払えるほどの力すらなくなっているらしい。  本当に、この宮殿から外出することもないのだ。ろくに運動していないのだ。  毎日鳥籠の中にいる。  ヤギホの大地に足をつけて駆け回っていた日々は彼女にとってもはや遠い昔のことなのだ。 『死にたい。死にたい。もう死にたい!』  空気をつんざく叫び声が響いた。  そんな言霊は本当に吐き出した者を殺してしまう、自分に呪いをかける行為だ、黙らせなければ――まず浮かんだのがそれだった。こんな大声では双子王やシルヴェーヌに聞こえてしまうと思ったのはその次だ。  自分もヤギホ人だ。 『でもわたしは勝手に死んだらいけないんだ、ヤエねえさまの新しい国を助けるためにわたしはここにいないといけないんだ、わたしがここにいるからヤギホとステラクスは戦にならないって、わたしがいなかったらまた戦になってたくさんの人が死ぬって、もう誰も戦はしたくないって――わたしの価値はそれしかなくって、生きていること以外何にもできないし決められたことの他は何もしてはいけなくて――もう、もう、何にも、何にも頭に入らなくて、何をどう頑張ればいいのかもう、全然、』 『ごめんね……っ』 『同情するなら今すぐ殺してくれ』  イツエの腕の中で、ココノエが半狂乱の形相で首を横に振った。 『分かっている、貴様にはできないだろう、ヤギホの魂を捨ててアスタリカに自ら望んで行った貴様にはヤギホとステラクスの間のごたごたなんて遠い国の話だろう、間に入りたくないんだろう、自分のいるところでわたしに問題を起こしてほしくないんだろう』 『違――』 『わたしが戦士に生まれなければこんなことには――』  大きな声が上がった。  泣き声というより、鳴き声のようだった。悲鳴だった。  その大きな目は見開かれたままで涙さえ流さない。涸れてしまったのか。  ココノエがようやくイツエを突き飛ばすことに成功した。どちらかと言えばイツエが力を抜いたために成功したことだったが、ともかくココノエはイツエから脱出した。  しかし、逃げ出すこともなかった。そのまま床に崩れ落ち、座り込み両手をついて叫び続けた。もはやステラクス語でもヤギホ語でも、ことばですらない、ただの叫び声だった。  それでも逃げることは許されない。 ----
 アスタリカで暮らし始めた時、イツエが最初に衝突した壁は、ひとびとの接し方の違いだった。  アスタリカの島は、海と風に阻まれ、閉ざされている。外側からは神秘の楽園を想起させたし、事実辿り着いた陸地は、穏やかな空気と人々で完結している土地だった。  常春の島アスタリカ――神に愛されている島。  アスタリカの島民は島を出る必要性を感じないだろう。海を渡る危険を冒してまで外を目指す動機は持ち得まい。  必然的に島の中はみんな身内になる。島の中の豊かな財産を分かち合い、争わず、和やかであることを尊ぶ。  ヤギホは、人間が相争うことを前提に社会を築いている。  少ない資源を奪い合い、少ない食糧を奪い合い、少ない女性を奪い合う。部族間対立は絶えず、ステラクス人やクレスティン人どころかヤギホ人同士でも排他的に振る舞う。同じ言語を話していても、ことばは通じていない――力、それも武力での『会話』を是とする。身内以外を助ける発想はないし、いざとなれば親兄弟をも切り捨てる。  それほど過酷な環境にあったのだと、言えなくもない。けれど、ステラクス帝国下でもそんな振る舞いを続けたヤギホ人を思うと、イツエはヤギホ人を庇えない。  イツエ自身、己れのヤギホ人としての考え方を嫌悪している。主張が通らなければ怒鳴り殴り力ずくで解決しようと思う姿勢――ヤギホの蛮族たるゆえんだ。これ以上ヤギホの外にそんな恥じを晒してはならない。  自分はまだ良かったとも思う。ホカゲ族以外の部族と交流した経験をもつ自分だからこそ、アスタリカではヤギホ人やホカゲ族の掟が通用しないということを理解することができた。  さて、ステラクスは、と言うと、イツエには、何よりもことばによる対話を重視するように感じる。  小さな集落ならばともかく、湖周辺や宿場町など人口の多い町では、隣の家に何人が住んでいるかも分からない状態だ。それで毎日喧嘩をするわけにはいかない。共通の言語であるステラクス語を使って、自分たちは何者でいったい何をしたいのか、どうにかこうにか話さねばならなくなる。通じ合えれば争いも回避できるだろう。  イツエの思う『文明国』とは、こういう文化のある国だ。  トオヤが保とうとしていた文化で、ヤギホでは鼻で笑われていた文化だ。  そこへ、ヤギホの戦士の理想そのままを人の形にしたような――ヤギホの悪しき文化に首までどころか髪の一本一本まで浸かり切り、自分のことばで自分の意思のみならず感情さえ説明する能力を養うことのないまま放り込まれたのが、 『ねえ、ココノエ?』  この娘だ。  誰よりも勇ましく誰よりも愚かな娘だ。  よくよく見てみると、ココノエも雰囲気がかなり変わっている。あくまで容姿の話であり、眼光はむしろ硬さを増した気はするが、ずいぶんと柔らかい印象だ。最後に会った時は確か十三で、今がそろそろ十七になるはずだから、当然と言えば当然なのだが――  イツエは、溜め息をついた。  ココノエは女になったのだ。男と褥を共にしている女の雰囲気を纏い始めたのだ。鎧のような筋肉を捨てて男を受け入れるようになったのだ。 『ちょっと見ない間に、綺麗になったもんだね。昔はホカゲのみそっかすなんて言われてたのが嘘みたい。今ならヤエと比べたって全然見劣りしないよ』  見劣りどころか、イツエには、先日会ったヤエより、今目の前にいるココノエの方が、美しく艶かしく見えた。原因は明らかだ。ヤギホの乾燥した空気に晒され栄養の乏しい食事をとっているヤエと、ステラクスの湿潤な空気に守られ栄養の豊かな食事をとっているココノエとでは、肌と髪の質がまるで違っている。  だが、それを伝えてもココノエは喜ぶまい。彼女は自分より姉が衆目を集め讃えられるのを好んだ。たてた手柄もすべてヤエに譲っていたくらいだ。  この世で最初にヤエをヤギホのすべてを統べる女神として認めたのは、ココノエだったのかもしれない。  三年の時を経ようが、ステラクスに移住しようが、ココノエの本質はあまり変わっていないようだ。 『あねさまを侮辱するのか』  イツエのことばに、ココノエは顔をしかめた。彼女はやはり、自分よりヤエの方が美しくなければ嫌なのだ。 『ヤエを落としてんじゃなくてあんたを持ち上げてんだよ』 『ずいぶんな嫌味だな。貴様がそんな奴だとは思っていなかった』  否、少し、刺々しくなったかもしれない。どうも苛立っているらしい。  嫌がられる原因は星の数ほど思い浮かんだ。しかも、どれもこれも釈明したところでココノエは言い訳だと切って捨てるだろう。 『さっさと用件を言え』  何から話したら良いものか。 『――ステラクスでの暮らしには慣れた?』  ココノエが腕組みをした。態度がさらに固くなった。 『世間話をしに来たのか』 『そうだよ、あんたが普段ステラクスでうまく立ち回ってんのか様子見に来たんだ。あんたがヤギホを出るとは夢にも思っちゃいなかったからね』  ココノエが息を呑むのを、イツエは見逃さなかった。これは何かあると本能的に悟った。  ここからが勝負だ。できる限りことばを引き出すのだ。 『あんた読み書きできたっけ? ステラクス語は分かるの?』 『貴様には関係ない』  つまり、ステラクス語の読み書きは分かっていないということだろう。 『ステラクス王は――予想外に二人もいるけど――あんたに優しい?』 『何が知りたいんだ』  つまり、そもそも優しさというものを分かっていないということだろう。 『一応婚姻の儀は挙げたってのは聞いたけど、あんた、オキサキサマとしてちゃんとやれてんの?』 『よくもぬけぬけとそんなことが言える』  つまり、ステラクスの王室の人間としての仕事はできていないということだろう。  やっと、断片が見えてきた。離してはいけない。たたみかける。 『何ができないの。ステラクス語? ステラクス王との関係? 王の伴侶としての公の務め?』  ココノエが牙を剥くように歯を見せた。 『全部だ』 『全部』 『笑いたければ笑え』  次にココノエの口から出たことばに、イツエは目をむいた。 『しょせんわたしは蛮族ヤギホの戦士で教養も品性もあったものじゃない。ステラクス人にはなれない。ヤギホ人である以上わたしはステラクス人より劣っているんだ』  ヤギホの戦士として生まれ、ヤギホの戦士として育ち、ヤギホの戦士として生きてきた――ヤギホの戦士であることに誇りをもっていたココノエが、初めて、ヤギホの戦士であることに否定的なことばを口にした。  まずいと思った。何かがココノエを抑圧している。  けれど、何がココノエの自尊心を削り取ったのか見当がつかない。夫たちだろうか、ステラクスの民だろうか、はたまたステラクスの文化すべてからココノエ自身が何かを感じて自分を押さえつけ始めたのか――どれもこれもありえる話だからこそ、特定できない。  もう少し話さなければと焦って、言葉選びに失敗した。 『でも、あんたは一応ステラクス王の妃になったんでしょ?』 『一応だ。あくまで一応だ』  『ステラクスには奴隷もいなければ妾をもつ習慣もない』と言った辺りから、ココノエの声が急に速度を増し出した。 『だからわたしがやらないといけないらしい。宣誓を交わしてしまったから、わたしを捨てることができない』  胸の鼓動が速くなっていくのを感じる。 『わたしを捨ててくれない、わたしの代わりを見繕ってくれない』 『いいことじゃないか、あんたがちゃんとひとりの人間として、て言うか妻として一番だと思ってくれてるからこそなんじゃないの』 『違う! 代わりがいないだけだ、いればわたしは解放される、わたしは逃げられるのに』  声が大きくなっていく。聞いているこちらの声も大きくなっていく。 『できないのに! できないのにやれと、毎日ただやれと言われる、剣を持つことも弓を持つことも許されない、ただ毎日ステラクスの着物を着て筆と書に囲まれて周りのステラクス人どもに白い目で見られ夜になったらあいつらに抱かれるだけだ』  瞳孔が開いているように見える。呼吸が荒くなっているように見える。  異常に興奮している。 『神々の声も聞こえない! ヤギホの神々にも捨てられてステラクスの神々にも拾われない、わたしは死んだのと同じだ、誰もわたしを守ってくれない』 『ココノエ』  イツエが伸ばした手を、ココノエは叩いて払った。 『わたしに触るなッ!!』 『落ち着きなさい!』 『貴様には分からない! アスタリカでのうのうと暮らしている貴様には』 『ココノエ、分かった、わたしが悪かったよ、だから――』 『最近月のものもなくなった、わたしにはもう子を産むこともできないかもしれない、だったら毎晩毎晩何のために股を開いているんだ、あんな無防備で恥ずかしいこと――しかもわたしは何にも知らないで嫁いできて何の技もない上に一回りも二回りもからだが小さくて最後まで全然もたないんだ、これではあの二人を満足させられているかどうかも分からない、何のためにもならない』  開けてはならない蓋を開けた。 『死にたい』  急いで抱き締めた。ココノエは腕の中でもがいて抵抗した。しかし振り払う力もなさそうだ。  あれほど強かったココノエに、自分の腕を振り払えるほどの力すらなくなっているらしい。  本当に、この宮殿から外出することもないのだ。ろくに運動していないのだ。  毎日鳥籠の中にいる。  ヤギホの大地に足をつけて駆け回っていた日々は彼女にとってもはや遠い昔のことなのだ。 『死にたい。死にたい。もう死にたい!』  空気をつんざく叫び声が響いた。  そんな言霊は本当に吐き出した者を殺してしまう、自分に呪いをかける行為だ、黙らせなければ――まず浮かんだのがそれだった。こんな大声では双子王やシルヴェーヌに聞こえてしまうと思ったのはその次だ。  自分もヤギホ人だ。 『でもわたしは勝手に死んだらいけないんだ、ヤエねえさまの新しい国を助けるためにわたしはここにいないといけないんだ、わたしがここにいるからヤギホとステラクスは戦にならないって、わたしがいなかったらまた戦になってたくさんの人が死ぬって、もう誰も戦はしたくないって――わたしの価値はそれしかなくって、生きていること以外何にもできないし決められたことの他は何もしてはいけなくて――もう、もう、何にも、何にも頭に入らなくて、何をどう頑張ればいいのかもう、全然、』 『ごめんね……っ』 『同情するなら今すぐ殺してくれ』  イツエの腕の中で、ココノエが半狂乱の形相で首を横に振った。 『分かっている、貴様にはできないだろう、ヤギホの魂を捨ててアスタリカに自ら望んで行った貴様にはヤギホとステラクスの間のごたごたなんて遠い国の話だろう、間に入りたくないんだろう、自分のいるところでわたしに問題を起こしてほしくないんだろう』 『違――』 『わたしが戦士に生まれなければこんなことには――』  大きな声が上がった。  泣き声というより、鳴き声のようだった。悲鳴だった。  その大きな目は見開かれたままで涙さえ流さない。涸れてしまったのか。  ココノエがようやくイツエを突き飛ばすことに成功した。どちらかと言えばイツエが力を抜いたために成功したことだったが、ともかくココノエはイツエから脱出した。  しかし、逃げ出すこともなかった。そのまま床に崩れ落ち、座り込み両手をついて叫び続けた。もはやステラクス語でもヤギホ語でも、ことばですらない、ただの叫び声だった。  それでも逃げることは許されない。 [[第4話へ>La marièe noblee 4]]/[[作品一覧へ戻る>ヤギホ関連作品一覧]] ----

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