制作よもやま話


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■消えた「萌え」

今回僕がいわゆる「ギャルゲー」を作ろう、いや、作らねばなるまいと考えるようになった背景に、純然たる「萌え」が消えつつあることに警鐘を鳴らしたいという、身の丈を越えた想いがあったことを告白せねばなるまい。持論を展開する前に整理するが、そもそも萌えという概念は僕の記憶が確かならば(CCさくらに代表されるように)幼女に対して当てはめられるものであった。

………こういう書き出しをすると構えられてしまうことが多いが、僕は決して手放しに「昔はよかった」と懐古するつもりはなく、当時からその礎が「性的」なものであったという現実から目を背けることもしないし、「萌え」という言葉が飛び交うカルチャーに傾倒することは原則後ろ暗いことだと思っている。昔も今も、性欲というプリミティブな衝動を実世界で解消できないフラストレーションが男オタクというクリーチャーを召喚している。勿論、僕もそうだ。

その当時飛び交っていた「萌え」という言葉には、淫靡なニュアンスよりも、壊れないように包み込むように愛でる「父性愛」のようなものを強く感じた。それは日本人らしい礼節の作法かもしれないし、実世界での女性経験のトラウマ、自分が女性と恋愛関係に発展するなどおこがましいという過小な自己評価の表れかもしれないが、他人と関わり生きていく社会生活を逸脱しないという点において、僕には好意的に感じられた。直接的かつ短絡的な性表現には侘びも寂びもない。

しかし言葉が一般化していく過程でありがちなことだが、「萌え」は一部サブカルチャーの言葉から一般社会に浸透していく中で拡大解釈され、広義に「二次元の女の子キャラクターを恋愛対象として見ること」に発展していった。近年、ネットスラングなどではよく見られる光景だ(マジキチ、壁ドンなど)。

萌え文化は拡大解釈されたわかりやすい「萌え」、すなわち「二次元の女の子とエッチしたがるアブナイ思考」というスタンスでメディアや口コミで喧伝されていた。急にスポットライトを当てられたオタクたちも、嬉々として「人前で女児向けアニメの話をしちゃう俺ってヤバくないですか?」とアピールをし始めた。元々望んで暗がりに行ったわけではなかったから、注目を浴びることが嬉しかったのだ。次第に「俺の方がもっとアブナイヤツだ」というチキンレースがあちこちで開催されるようになった。ヤバい人間であることが面白さの証明だと信じて疑わなかったのだろう。瞼を閉じれば鮮明に思い出される。新緑眩しい陽光の下、「俺の方がロリコンだ!」「俺の方がストライクゾーンが低いぞ!」と言い合っていたあの頃。僕はそれを思うと、いつもB'zの『Pleasure '98』がリフレインする。下らなかったあの頃に、戻りたい 戻りたくない。

話を戻す。メディア、口コミといった偏西風に乗った萌え文化は都会にブームの雨を降らせた。その雨が止むとオタクも堂々とキャラクターTシャツを着てお天道様の下を歩く時代が訪れていた。一部の間では「オタク」をギャップを演出する要素として好意的に取り入れるという不思議な現象まで発生した。しかし、オタクが社会に受け入れられるのと反比例し、「萌え」という言葉は聞かれなくなっていった。


なぜか?


単に言葉が陳腐化した(いわゆる死語になった)だけだとは僕は考えない。オタクとキャラクターの関係性から、重要な要素であった「父性愛」、すなわち温かみが失われていってしまったのだと推察する。血の通わないキャラクターに劣情は抱けても、「俺が守るんだ」という気持ちは生じえない。血の通わないキャラクターに「萌え」という感情は生まれないのだ。


「(広義の)萌え」がカネになるとわかるや、こぞってアニメ・マンガ・ゲームといったサブカルチャーを萌えが席巻した。商業主義を敵視するつもりはないが、廉価で大量に生産される萌え(風味)のキャラクターと、先人たちが心を籠めて、誇りを持って作ったキャラクターでは、やはりクオリティに雲泥の差がある。特に、後者は本筋を追及するが故に副次的に萌え要素が発生するというところが魅力であり、味蕾を控えめに刺激する隠し味に、我々オタクは「やっぱりこの店はいつ来てもうまい」と舌鼓を打つ。それは一切妥協のない、料理人と美食家の関係に近い。これが前述した「血の通う/通わない」の分岐点だ。


シンボリックな「名作」ならぬ「名萌えキャラ」はいくらでもいる。パッと思いつくだけでもさくら(CCさくら)、すもも(ちょびッツ)、シャオリン(守護月天)、スクルド(あぁっ女神様)、ちよちゃん(あずまんが大王)、でじこ(デ・ジ・キャラット)、ラム(うる星やつら)、ナウシカ(風の谷のナウシカ)、マルチ(To Heart)、月宮あゆ(kanon)等、枚挙に暇がない。


「萌えキャラ」というハードを動かすには、様々なソフト(要素)が必要だ。身長、髪型、使命、話し方など、様々なハーブを組み合わせて最高のガラムマサラを作るかのような気の遠くなる作業である。一切の妥協のない作者の想いが消費者に伝わった時、全てのソフトが融合し上記に挙げたような、シンボリックなキャラクターが生まれるのだ。まさに「神は細部に宿る」の世界である。


『ドラゴンクエスト』以降RPGブームが到来したことを例に挙げると、『ドラクエ』の成功以降、現在J-RPGと時に揶揄されるようなコマンドバトル制のRPGゲームが大流行した。成功体験をトレースすることは、加工貿易でならした日本人にとっては容易なものだったのだろうと推察する。『ドラクエ』のように100点は取れなくても、その要素を紐解き、アレンジを加えることで80点のソフトを作ることは比較的簡単だったろう。全く新しい分野やジャンルを切り開く発想(=ドラクエを作る発想)と、顧客のニーズを読んで成功を追体験する手法(=80点のソフトを作る方法)に関する正誤の議論は、製造業におけるイノベーションの議論に通ずるものがあると思うので、ここではクレイトン・クリステンセン著『イノベーションのジレンマ』をお勧めすることで割愛したい。


これと同様にキャラクターもまた、一部のヒットキャラクターのソフトを徹底的に解剖し、方程式化されることとなる。個人の才覚に拠ったものではなく、工業的に進んでいく道を選んだ。文化が崩壊していく様は、哀しいかないつもこのパターンだ。出し殻になり、他のカネになる文化を探す浅ましさには、時に目を覆いたくなる。


キャラクターの方程式の変数はいくつもある。年齢、性別、性格、髪型、瞳の大きさ、肌の色、家庭環境、一人称等だ。その中で、一つの変数に過ぎなかったはずの要素がハードとして飛び出してくる。それが声。声優である。



■ハードとしての声優

性格や髪型、話し方など、キャラクターというハードには様々なソフトがあると述べた。そんな中、声という要素だけがソフトの枠を飛び出し、ハードになれた理由は何か?取りも直さず言うと、他のソフトは全て人工のデータであるにも関わらず、声だけは人工のものではなく、人間自身があてた「ナマモノ」だからである。声をあてることを「命を吹き込む」と表現されることがあるが、成程しっくりくる表現だと感じる。


ひとつの声に対して複数の人格が宿るというのは、俳優などであれば当たり前のことだが、俳優と声優で大きく異なるのは「見た目も毎回違う」ということだろう。外見(キャラクターデザイン)は毎回違うが、声は同じ、そして往々にして声にはキャラクターのイメージが付随している。


鶏が先か、卵が先か―――
それはケースバイケースだと思う。いくらルフィがカッコイイことを言っても、僕には「ゴクウー!」とか言いながら空中でフリーザに爆発させられている坊主頭が脳裏をチラつくし、ガトーとコウ・ウラキがかっこよく言い争っているシーンもムーミンパパと原子力がモメている画が浮かび、集中出来なくなってしまう。それほどまでに声のイメージというのは大きいものである。


しかし、上記の例はそれほどまでにインパクトの強い、名キャラクターの声をあてていたことから来る事象であり、多くの声優はAというキャラクター、Bというキャラクター、Cというキャラクターを演じていくうちに、その共通項が声の、声優のイメージとして定着することが多い。


異論があることを重々承知で言う。僕は女性声優とは高山みなみと日高のり子が二大巨頭だと思っている。この両名を例に挙げて声優のイメージを解説したい。


高山みなみは言わずと知れた「TWO-MIX」のVocalである。変声期前の少年的な快活とした明るさのあるアルトボイスと張りが特徴だと個人的には思っている。余談だが、緒方恵美(代表キャラ:碇シンジ)の声を初めて聞いた時、すごく高山みなみに似ているなと思った記憶がある。

高山みなみの声質は上述の通りであるから、当然少年キャラに起用されることが多い。これはすなわち、「人の声ありき」でイメージが形成されるパターンだ。代表作は誰もが耳にしたことがある有名キャラが多い。味吉陽一(ミスター味っ子)、江戸川コナン(名探偵コナン)、乱太郎(忍たま乱太郎)などが一例である。

代表的なキャラクター群を見ていただければわかるように、彼女の声質とキャラクターのイメージはもはや不可分であるが、どのキャラクターも優劣が付けづらい程の知名度、インパクトであり、「コナンの声の人」とラべリングして整理してしまうのも違和感がある。(もちろん世代や嗜好によっては他のキャラクターを演じる彼女を見ても「コナンの声の人」という整理になってしまうケースもあるのだろうが…)。

その結果、特定のキャラクターの色がついていない(詳細に書くと、様々な色がついており、渾然としている)ため、「元気な」「明るい」「無邪気な」「少年」という漠としたイメージが付随している。ギャルゲーで女性キャラを演じることも幾度かあったが、どうしてもしっくりこなかった。恋愛対象として見ることができないからだ。同じことを何度も書き恐縮だが、これは彼女の声質ありき、彼女の声質スタートのイメージ形成方法だ。


一方で日高のり子である。彼女の印象はおそらく時代と嗜好によって大きく変わる。これが高山みなみとの大きな違いである。付随しているイメージを先に述べると「やわらかく」「純粋で」「元気な」「女の子」である。だが、もう一度言うが、このイメージはあくまでも1984年生まれの僕の抱く印象である。何故こんなに注釈をつけるのか。それは彼女の出世作が『タッチ』だからである。なお「日高のり子の出世作は『よろしくメカドッグ』だろ派」の諸氏はマイノリティであることをご自覚いただきたい。(オタクの笑うところです。)

もう30年も前のアニメだというのに、「お願いタッチ、タッチ、ここにタッチ♪」を歌えない日本人は驚くほど少ない。生まれていなかったはず(かく言う僕も1歳だが)の世代だろうが、男だろうが女だろうがお構いなしだ。そんなアニメは他に数えるほどしかない。そんな国民的アニメでヒロインを演じた日高のり子は、今なおバラエティ番組で見かける度に「タッちゃん」と言わされている。『タッチ』はご存知あだち充の作品であり、作中の雰囲気はあだちイズムに満ちている。セリフが極端に少なく、感情の起伏も敢えて描かれていないことが多い。ストーリーは限りなく人情に訴えかけるものであるのに、表現は極端にドライなのだ。南も当然、そのように描かれている。まだイメージのついていない日高のり子は朝倉南を、持ち前の「やわらかな」声質を使って一生懸命演じることで「朝倉南の日高のり子」というイメージが定着するはずだった。すなわち、「控えめ」で「芯は通っていて」「どこか神秘的な」「女の子」というイメージが。

冒頭、僕が抱いている彼女のイメージを述べた。「やわらかく」「純粋で」「元気な」「女の子」だ。この中で僕が最も強く抱いているイメージは「元気な」なのである。朝倉南は健康優良児かもしれないが、太陽のような存在ではない。彼女は朝倉南からはなかなか想像しがたいキャラクターを次々と演じた。意図したキャスティングだったのか、偶然だったのかはわからないが、彼女のイメージは後者で定着した。

日高のり子の代表キャラは天道あかね(らんま1/2)、サツキ(となりのトトロ)、タカヤノリコ(トップをねらえ)だろう。どのキャラも元気良く、作中を所狭しと駆け回るエネルギーに満ちている。はじける快活さを彼女特有のやわらかな声が包むことで、尖りや雑味のない、唯一無二の存在足らしめている。南とあかねという相反するとまでは言わないまでも、かなりかけ離れたキャラクターを演じ、どちらでも違和感を感じさせない日高のり子は芸の幅が広い(というか、汎用性の利く声だ)と言えるだろう。それでも僕を始め、オタクたちに印象を抱かせるのはあかね、サツキ、ノリコというキャラクターの共通項として「日高のり子」が認識されるからだろう。これが高山みなみとの違いである。


キャラクターが与えたイメージなのか、もともとの声質が与えたイメージなのか、もしくはその両方か。様々に形は違えど、声には様々なイメージが付帯する。そしてそれは声優個人への興味・関心へと波及し、声優はそれ単体で成り立つ「ハード化」するという流れが生まれる。


今作において、僕はキャスティングに心血を注いだ。レアルマドリードのような銀河系軍団がここに誕生したと確信している。こおろぎさとみ、かないみかと言った飛び道具をもう少し配したかった、というように上を見ればきりがないが、限られたキャラクター数の中で、最もフィットした編成だと考えている。


自分が信念を持って作った作品は、必ずファンの心に残ると信じている。キャラクターデザインも藤島康介等の名前が挙がったが、気鋭の絵師「Yan-Sato」を起用した。画力はまだまだだが、補ってあまりある魂はきっと伝わるはずだと信じている。


■終わりに

「こんなに声優について詳しく、熱く語っちゃう俺、気持ち悪くて面白いやろ?」という、あの頃のスタンスから僕はひとつも成長していない。陰キャラだったあの頃に、戻りたい 戻りたくない。