抽選のゲームとしての麻雀


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 「抽選と選択の繰り返し」―麻雀のゲーム性をこれほど端的に表した言葉もないでしょう。プレーヤーは配牌、ツモという抽選を受けて、打牌、鳴き、リーチ、倒牌といった選択を行います。その抽選と選択の繰り返しにより1局の結果(和了、放銃など)が出て、更にその繰り返しにより1試合の結果(着順、持ち点)が出ます。仏教的に言えば、選択が因、抽選が縁とでもなるのでしょうか。どんなに最善の選択(因)を尽くしても、抽選(縁)に恵まれなければ良い結果(果)を得ることはできません。

 

 抽選のランダム性

 

抽選はランダムに行われ、他の選択や結果の影響を受けることがないとするのが原則です。雀卓は撹拌の問題でランダムとは言えず、ネット麻雀も牌操作無しが謳われているとしても意図せぬバグが発生する可能性があるので、厳密な意味でのランダムとは言えないかもしれません。

とはいえ、ランダムで無いことを利用できないのであれば、「ランダム」とみなしても戦略上差し支えないでしょう。(麻雀以外のゲームではランダムでないことや意図しないバグを検証し、それを利用してゲームを有利にすすめることが多々行われていますが、麻雀界では何故かランダムでないと主張している側が検証を試みているのを見たことがありません。)

 

「流れ」の正体

 

逆に、抽選は選択や結果の影響を受けるし、選択によって抽選を変えることができるという考え方があります。(私は、この考え方に肯定的な打ち手をオカルト派、否定的な打ち手をロジカル派と呼んでいます。)雀聖こと阿佐田哲也氏が提唱された、「流れ論」が代表的です。この考え方については、既に様々な書籍物で否定されており、私も同じ立場を取ります。

しかし、いわゆる「流れ論者」で、それでも、「流れ」が存在しないわけではないと主張する人もいます。但し、そこで言われる「流れ」とは、抽選が選択や結果に影響しているという意味の「流れ」ではありません。

例えば、「ツモが悪いから弱気になってミスをしてしまう」のであれば、ツモが悪いという抽選が、ミスをしてしまうという形で選択に影響を与えたことになります。

 

「持ち点が少ないから押したくない手でも押さざるを得なくなり放銃してしまう」のであれば、それまでの結果から持ち点が少なく、押さざるを得ないという形で選択に影響を与え、その選択の為に放銃という結果になったわけです。

 

また、「仕掛けで他家を警戒させてうまく流局に持ち込んだ」のであれば、仕掛けという選択が他家の選択に影響を与え、流局という結果になったわけです。

 

そうです。抽選が選択や結果の影響を受けているのではなく、選択や結果が、別の選択や結果、あるいは抽選の影響を受けているに過ぎず、「流れ」という言葉で一括りにされる現象は、全て「抽選」、「選択」、「結果」の関係性で説明がつくのです。全く異なる概念に同じ「流れ」という言葉が用いられるのは、戦術を語る上では極めて不便です。他の競技に比べて、麻雀界では優秀な戦術がなかなか生み出されなかったのも、この「流れ論」が大きく影響しているのではないでしょうか。

 

 繰り返しになりますが、イカサマでもしない限り、抽選が選択や結果の影響を受けることはありません(ひょっとしたら流れ論は、イカサマ師が自分のイカサマを誤魔化す為にでっち上げたのが始まりなのかもしれません)。麻雀で勝つためにできることは、抽選によって良い結果になりやすいような選択を行うことだけであり、後はただ抽選結果を待つよりありません。