ジュースミルヒ


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ヨハン・ペーター・ジュースミルヒ(Johann Peter Süssmilch)

世界大百科事典、松川七郎の記述

(1707~67)

ドイツの統計学者。ベルリンの穀物商の子に生まれた。祖先は15~16世紀以降ボヘミアの世襲裁判官。祖父エリアスは、熱烈な新教徒であるがためにボヘミアを追われてベルリンに定住し、父エリアスもまた進歩した教育をうけた人であった。幼年時代から祖父母や父母の影響をうけつつ進歩した教育をうけ、とりわけ語学と自然科学に興味をもった。そして1724年~32年、ベルリン、ハレ、イェーナで医学、解剖学、骨学、植物学、化学、物理学、数学、法学、言語学、哲学、神学を学び、イギリスのダーラムW.Derhamの主著『自然科学』(1713)や啓蒙哲学者Ch.ヴォルフから深い影響をうけ、哲学や神学の研究に数学的方法を用いるという当時のイェーナの風潮に傾倒した。32年から4年間ベルリンのカルクシュタインvon Kalkstein将軍家の家庭教師となり、36年にはオランダに旅行し、37年同将軍の連隊の野戦牧師となった。そして40年の第1シュレジエン戦争の突発とともに、同将軍の連隊に従軍し、陣中で完成したのが最大の主著『神の秩序』Die göttliche Ordnungin den Veränderungen des menschlichen Geschlechts,aus der Geburt,dem Tode und der Fortpflanzung desselben erwiesen(1741)である。42年、フリードリヒ2世(大王)から新教宗務局評議員に任ぜられ、また45年には上記の主著のゆえにアカデミーの会員となり、そこで数学者L.オイラーと交友した。その後、出生・婚姻・死亡の登録制度の確立に尽力し、宗教と政治の調和のために奔走し、他方アカデミーでは、『神の秩序』についてくりかえし講義した。そして以上の諸体験から学んだところを集大成したのがこの主著の第2版(1761)である。第3版は1765年に出版されたが、その翌々年に卒中で死んだ。

『神の秩序』は近代統計学の発達史における1道標として評価されてきた書物であるが、その成立は三十年戦争によるドイツ諸邦の荒廃、プロイセンの興隆、その開明的絶対君主フリードリヒ大王の富国強兵政策等と密接に関連している。そしてジュースミルヒは、人口の諸変動における諸法則性を発見し、これを「神の摂理」として再確認しようという多分に神学的な動機からこの研究に着手したのであるが、彼にとっての神は、万物を「尺度と数と重量で規定したまう」ところの、「無限に正確な算術家」であった。しかも彼の研究方法は、具体的にダーラムに媒介されたところの、グラントやペティをその創始者とするイギリス政治算術であり、そのうえこの方法は、「確率論を人間生活の実用に供しよう」としたヴォルフの数学的合理主義思想によってささえられていた。この点で、彼の方法や成果は同時代者G.アッヘンヴァルの統計学=国家状態学よりもいちじるしくたちまさっていたのである。そればかりでなく、彼の研究は、その資料の豊富さにおいて、またその導出した量的諸法則の大数法則的性格において、イギリス政治算術をもしのぎ、それゆえ、彼は社会現象の数量的研究方法としての政治算術を体系化した最初の人といわれている。が、その反面、彼は初期のイギリス政治算術が創造したところの、このような法則性や数量的諸関連を規定し位置づけるべき社会科学的諸理論を理解できなかった。彼の統計的方法はケトレーにいたって大成され、また彼の人口論はマルサスの先駆をなしている。


グランド現代百科事典、時永淑の記述

(1707~1767)

ドイツの神学者、統計学者。政治算術の最初の体系的論述者といわれる。最初は医学や解剖学を学び、のちに神学を学んで、第一次シュレジエン戦争(1740~42)に従軍牧師として加わり、陣中で主著『神の秩序』(1741、高野・森戸訳、栗田書店・1949)を執筆した。彼はダーラムの理神論の影響から、J.グラント、W.ペティ、G.キングの著書を読んで政治算術の手法を身につけ、『神の秩序』では出生・婚姻・死亡者数の広範な資料収集に基づいて人口動態の数量的法則性を導き出し、それを神の摂理だとした。これは「大数の法則」に先鞭をつけたもので、近代統計学の確立に大きな影響を与えた。


万有百科大事典 12 経済・産業、山田喜志夫の記述

(1707~67)

ドイツの統計学者。1724年~32年、ベルリン、ハレ、イエナで、語学・神学・解剖学・医学・植物学・数学を学び、その後第一次シレジア戦争には連隊づき牧師として従軍し、その陣中で主著『神の秩序』Die göttliche Ordnungin den Veränderungen des menschlichen Geschlechts,aus der Geburt,dem Tode und der Fortpflanzung desselben erwiesen(1741年)をあらわした。この著で「もしわれわれが隠れた秩序的法則を見出そうとするならば、必ずまず個々少数の事例の多数を集め、多年にわたりかつ全国にわたってそれらを観察しなければならない」と述べているが、彼はドイツ各連邦の人口資料を収集し、人口現象における数量的法則性(これを神の秩序の顕現とみなした)を明らかにしようとした。彼はその豊富な資料にもとづいて、死亡、出生、人口増加などに関する規則性を把握しており、統計学史上、人口統計学の創始者と評価されている。