雨空
「ほーん……」
女陰のような、獣の顎門のような意匠の球体チェアに身を預けながら、丸瀬十鳥は手にしたタブレットが表示する情報にそう漏らした。
プロレスラーのミスターチャンプに女性代議士の飯田カオル、有名な２人が共に『迷宮時計』の所持者達に向け、ネット上でメッセージを発している。
両者のそれに共通するのは「所持者間の争いを穏便に収めたい。名乗り出た所持者の安全を保障する」ということだった。
恐らく近日中、所持者のほぼ全てにこの件は知れ渡るだろう。
迷宮時計の完成に執着の無い者ならば、身の安全を優先して名乗り出てもおかしくない。
そして彼自身は所持者では無いが、手元に１人、飼っている。
彼の目と鼻の先でスナック菓子を食い散らかす少女――その名を「一切空」。その胸に空いた穴には、迷宮時計があった。
『名乗り出なさいませ』
老境の画商・藤高がそう囁いた気がした。
亡霊か、自分の中のあの男が言ったのかはわからない。ただ、どちらにしても答えは決まっていた。
「無いね」
一切空も弱いとは思わないが、ミスターチャンプとリング上で対戦するのは明らかに分が悪い。彼の意図はどうあれ、その提案は身の安全の代わりに時計を諦めろというのとほぼ同義だった。飯田カオルは論外だ。
彼の至上命題は「迷宮時計」の、一切空の完成なのだ。
「魂を国家に管理させるな」と説いたロックスターがいたが、丸瀬には一切空がそれだった。一切空のイデアは何人にも、渡瀬自身にも管理されてはならない。
一切空の運命が自分を管理し、命じているのだ。勝たせよ、完成させよと。
「なあ、そうだろう？」
「ア゛ー？」
声をかけるとぎゅるん、と少女はこちらを向き、そしてすぐにまた菓子を貪り始めた。
それから数分、丸瀬がネットで調べ物を続けていた時のことだった。
「アッ」
食うのをやめ、少女が短く声をあげる。
「ウゥーイゥ……アアァ」
「なんだ」
「アイヨーウォ……」
少女が白痴というわけでも無いのはわかっていたが、これまで言葉らしき言葉を発したことは無かった。しかし今のそれは、ただの呻き声というには、何か……。
「ウューイン……アアアア、アイヨーウヨゥ……」
恐らく同じ言葉だ。
「名前、か……？」
その意味するところを何となく思いつき、言った。
何の名前だろうか。拾ってからこれまで、丸瀬の口から出る情報に何ら関心を見せなかった彼女が発した名前。これは……。
「対戦相手……？」
丸瀬は立ち上がると、少女の元に歩み寄る。立ち上がらせてパーカーのファスナーを下ろす。
肌蹴た胸元に穿たれた、林檎大の虚空。そこに収まった迷宮時計。
その文字盤に刻まれた数字がⅠ～24へと変化していた。
先ほどまで現在時刻を指していた短針が今指すのは24。
「そうか……決まったのか」
丸瀬は変化の意味を察し、口元に笑みを浮かべる。24時間後、一切空は雨竜院暈々と大浴場にて対戦する。時計がそう告げてきたのだ。
・・・
――試合開始30分前。
雨竜院暈々は雨を浴びていた。
倒れる直前まで体内の水分を排出し、降り注ぐ雨水を「シフト＆ウェット」の特異体質で取り込んでいく。
枯れた肌が潤いを取り戻す中、暈々の脳裏で蘇るのは当然あの時の記憶だった。
（覚悟しなさい……暈々）
今、自分は生死の瀬戸際にいる。
間もなく、「一切空」なる相手と生死をかけて戦うのだ。ミスターチャンプや飯田カオルに助けを求めることは出来なかった。
ネットでも、電話でも、何度試しても繋がらなかったのだ。恐らく「迷宮時計」の妨害によって。
既に対戦相手が決定した後だからか、それとも選ばれた以上時計の定めからは抜け出せないということなのか、それはわからないが。
だから、自分しかいない。嘗て自分を生かした魔人能力、雨竜院家で育ち、修めた傘術。全てを以って、自分を守らねばならない。
（必ず勝って、帰る……この身体に溶けた雨が、私とこの世界の絆だから）
――同時刻。
丸瀬十鳥の眼前で、一切空は裸を晒していた。
不健康に痩せた肢体、青白い肌に穿たれた数多の「穴」を。
「少し、広がったか」
丸瀬は指で胸の穴の縁をなぞる。拾ってからの数週間、彼女の穴は徐々にその大きさを増していた。
「いつか、穴に呑まれて消えちまうのか？」
「ア゛ー？」
丸瀬の問いかけに少女は首を傾げ、いつも通りの答えを発する。
彼を見下ろす少女の瞳もまた、深い深い虚に思われた。
迷宮時計の短針が24に近づくと、丸瀬は少女に服を着せる。いつも通りのパーカーとスラックス。足元は裸足だ。
丸瀬がデザインした穴あきナイフを手にし、ただただその時を待つ。
「楽しみにしてるぜ。『完成』に近づいて帰ってくるのを」
「アー」
そのやり取りの直後、一切空は光に包まれ、丸瀬の前から消失した。
最終更新：2014年10月12日 00:59
