――どうして怒ってるんだ。 ――怒りたいのはこっちの方だ。
――どうして泣いてるんだ。 ――泣きたいのはこっちの方だ。
――どうして笑えるんだ。 ――こっちはもう笑えないのに。
――どうして「ごめんね」なんて言うんだ。 ――そんな言葉は聞きたくない。
――どうして「さよなら」なんて言うんだ。 ――置いて行かないでくれ。
――どうして。
――
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真沼陽赫プロローグSS『小さな一歩、奈落へ』
―
――
またこの夢だ。
真沼陽赫はベッドの上で自嘲する。
未だに彼女の影は消えてくれない。
鈍痛。また無いはずの、捨ててきた筈の腕が痛む。幻肢痛。
しかしそれは、この胸の痛みに比べれば些細。幻視痛。
思い出すのは、あの日のこと。
―
――
学校からの帰り道。
蝉の声が姦しい。
日が落ちると言うのに御苦労なことだ。少し静かにしてくれ。
長く、長く延びる影。二人分並べて進む。
「……ねえ、ひー君」
君が僕の名前を呼ぶ。
「ひー君ってば」
うるさいな。どうせ喧嘩してきたことを怒るんだろう?
「まーた下校デート?お熱いねえ」
「何々?告る?告っちゃうの?」
蝉の声が姦しい。少し静かにしてくれ。
「……やっぱ何でもない。ごめんね」
「あたし、ちょっと学校戻るね。さよなら、ひー君」
「おい由智――」
君はその日から、どこにも戻らなかった。
―
――
携帯に着信がある。朝からうるさいな。
13:00と表示された携帯を掴む。
表示されているのは、神敷 真智(まさと)の字。
〈――姉ちゃんの部屋。整理したって言ったろ〉
ようやく重い腰を上げていたらしい。おれの言えた義理じゃないが。
〈――陽ぃ兄の物も、あるんだから。いい加減取りに来いよ〉
行きたくない。あいつの帰る場所を残しておいてやれよ。
〈――つっても、どうせまた引きこもって来ないつもりなんだろう?〉
うるさいな。
〈――だから今持って来てる。部屋、開けるぞ?〉
昏く沈んだ部屋に、明かりが射す。
眩しい。陽の光を見たのはいつぶりだ?
「……勝手に開けるなよ」
「どうせ聞いても陽ぃ兄は断りやがるんだろ。汚えなこの部屋」
「……」
「まただんまりか。オレのどこが嫌いなんだよ陽ぃ兄?」
――誰かさん似の苗字と、誰かさん似の顔立ちと、誰かさん似の節介焼きだよ。
「……なあ、陽ぃ兄」
「アンタは、いつまでそうしてるつもりだ?」
「なんで、お前は……真智はもう立てるんだよ。生きていけるんだよ」
襟首を掴まれる。すごい形相だ。
こいつ、こんなに力強かったか?
いや、おれが弱くなっていってるのか。あの日から。
「アンタのお陰さまでな。
アンタがそうやっていつまでもオレたち家族を差し置いて、ずっと一番の不幸な人間面してるもんだから!
だからオレたちはそうならないために立ってるんだよ!アンタみたいにはならないって、親父もお袋も、オレも!」
「……」
「……なんとか言えよ」
「……悪い」
「……ちっ」
乱暴に突き放される。バランスを崩して転んだ。
床に散乱していた工具で手を切った。
掃除しろよ。部屋の主に毒づく。
「……悪かったよ。陽ぃ兄。……別に、喧嘩売り来た訳じゃなくて。ほら」
突き出された箱を受けとる。無骨でボロい金庫。確かにおれのものだと思われても仕方がない。
あいつの私物の小綺麗さからは、これの持ち主という印象は受けないだろう。実際は二人のものなんだが。
「……じゃあ、オレは行くけど。……ちゃんと飯くらい喰えよ。また前みたくウチ来りゃあ、お袋が料理くらい出すだろ」
ドアが閉まる。
あいつ出る前に明かりつけていきやがって。世話焼きめ。
表示されているのは、英数字入力式のパスワード画面。
金庫のパスワードは知っている。子供の頃と変わっていなければだが。
二人で考えたそのパスワードを、入れてみるとその鍵はすんなりと開いた。
中身を見る。時計。見覚えはある。
前に戯れにと、電子工作で作った代物だ。
何故かあいつが欲しがったのであげたんだった。
後から知ったことには、その日はあいつの誕生日だったらしいが。
知らずにのうのうと居た自分に腹を立てたりもしたが、そんなことはどうでもいい。
厚く積もった、外箱の埃を払う。
なんでまたこんなもんを、あいつは厳重に隠していたんだか。
灯の消えたデジタル表示器に手を触れる。
――“欠片の時計”に火が灯る。
――
―
痛みはもう引いた。立ち上がり、軽くストレッチをする。全身の機能は万全。支障はない。
時計の争いに、いつ巻き込まれようとも。おれはいつでも受けて立つ。
今のおれは、全てを理解している。
――お前が何と戦っていたのか。
――おれが何と戦うべきなのか。
――あの日、おれがお前の声をちゃんと聞けなかったことも。
この腐れ時計の戦いに、今は乗ってやる。
お前を連れて行ったこの時計の力で、お前を取り戻す。
お前を連れて行った奴らの、時間を永遠に止めてやろう。
今のおれには、生きる目的がある。
そのために全てを投げ打てる。
さあ。お前の許に踏みだそう。
時計を抱えた義手が、ぎしりと不快な音を立てた。うるさいな。