プロローグ

「――神父様。時計なんです」
その日の午後、綾島聖の部屋に訪れた相談者は、いささか様子が違っていた。

希望崎学園における生徒の悩みは、時に常識を遥かに超えることがある。
超常の能力を持つ《魔人》、ましてや思春期の未成年が集う学び舎なればこそ、
彼らが抱える問題の種類も通り一遍のものではない。

しかし、このとき、綾島にすがりついた少女の悩みは、
そうした希望崎特有の事情を差し引いてもなお特別であった。
少女の手には、どこか禍々しい懐中時計が握り締められていたのである。

「大宮さん。落ち着いてください」
綾島は、温和な笑みを崩さぬまま、優しく彼女の肩を支えた。
いまにも崩れ落ちそうな風情であったからである。

「まずは、事情を。そうでなくては、私もあなたの力になれませんよ」
「ああ、神父様」
大宮と呼ばれた少女は、目に涙を浮かべて、呻くような声をあげた。
「神父様は、私の話を聞いてくださるのですね」

「もちろんです」
綾島はわずかに身をかがめ、少女の目を正面から覗き込んだ。
「生徒の力になることこそが、私の役目ですから。
 私はいつでも、大宮さん、あなたの味方ですよ。
 まずは、お茶をどうぞ。とてもよく効くハーブです――気持ちが休まりますよ」

傍らのテーブルには、綾島が自ら注いだハーブティーのカップが二つ、湯気を立てていた。
こうしたハーブの類は、綾島が管理する中庭の温室で育てられている。
その目的は、もっぱらこのように生徒の心を癒し、緊張をほぐすために使われる。

「さあ、落ち着いて」
綾島が勧めると、少女はこわばった指を伸ばし、ハーブティーのカップを手にとった。
それから彼女がハーブティーを口元に近づけるまで、綾島は何も言わず、
ただ温和な笑みを浮かべていた。
少女に落ち着きと、静謐な空間が必要であることは明らかであった。
しばし、懐中時計の秒針のみが、空虚に音を刻んだ。

「――神父様」
どうにかハーブティーの一口、二口をすすり、ようやく少女は一息を吐いた。
「すみません。取り乱してしまいました。でも、私、私は」
「大丈夫。ここは安全です。あなたを脅かす者は誰もいない」
彼女を力づけるように、少女の手を握る。彼女の手中には、懐中時計があった。

「この時計ですね? あなたを悩ませている原因は」
「はい」
ぎこちなく、少女はうなずいた。
「これは――、この時計は。近頃、噂になっている――」
「伺っています」
綾島の温和な笑みが、少し陰った。

「死を呼ぶ時計。その時計に取り憑かれた者は、魔人同士の戦いに呼ばれ、
 そして――どちらかが死ぬまで帰ってくることができない」
「――神父様!」
少女は自らの顔を手で覆った。
「私、こんな時計を持ちたくありません!
 おそろしい戦いにも、関わりたくないんです!」

「わかっています」
綾島は、何かを証明するようにうなずいた。
「あなたは、優しい子ですから。誰かを傷つけることのできない人です」
「ああ、神父様。ありがとうございます。なんとか、戦わない方法を――
 でも、どうやってこの時計を手に入れたか、思い出せないんです。
 これからどうすればいいんでしょう? 私はいったい――」

「大丈夫ですよ」
綾島の答えは、穏やかな太陽の温もりを感じさせた。
少女はそこに何らかの希望を見た。
「あなたの悩みを取り除くことはできないかもしれません。
 ――しかし、ともに背負うことならば、できます
綾島は、神父服のポケットから何かを取り出してみせる。
一本の糸と、その先端に括りつけられた五円玉であった。

「神父様。それは?」
少女は訝しげな顔をした。
「退行催眠をご存知ですか?
 まずは、その時計を手に入れた経緯を探ってみましょう。
 問題解決の糸口になるかもしれません」
綾島は、少女を勇気づけるべく微笑んだ。
「一緒に解決方法を探しましょう。大宮さん、私はあなたの味方ですよ」

「神父様」
少女は不意に眠気を感じた。
綾島のハーブティーには、気持ちを落ち着ける作用があると聞いていた。
本当によく効くハーブだ。
さっきまでの恐怖、時計に対する嫌悪が、少し薄れたように感じる。

「では、この五円玉をよく見つめてください――」
綾島は、少女の眼前に五円玉をぶら下げ、ゆっくりと左右に振り始めた。



――その翌日、綾島聖は『時計の欠片』の所有者となっていた。
彼がその懐中時計を手にした経緯を、誰も知る者はいない。

最終更新:2014年10月06日 02:36