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プロローグ

「天樹ソラ プロローグSS『いつか彼を忘れてしまうであろう私のための備忘録』」

『現在 廃墟世界』

 ふと気が付くと、手元に自分の頭で影ができていた。
 空を見上げると、ちょうど真上に太陽が来ていた。
 公園のベンチに座ってノートを書き始めた時には、太陽は登り始めたばかりだったのに。いつの間にこんなに時間が経ってしまったのだろうか。
 時刻を確認しようとカバンを開く。
 いつも時計を入れてある手前の内ポケット、中には何も入っていない。
 ちょっとアレっ、と思ってから時計はもう無いことを思い出し、苦笑が漏れる。
 時計を失ってから、何日がたっただろうか。
 頭では分かっているはずなのに、染み付いた習慣はどうしても抜けてくれない。
 苦笑いに合わせて、お腹からも音がした。そういえば、今日は朝から何も食べていない。
 誰かに聞かれていたら恥ずかしいな、と私は辺りを見回す。
 崩れた塀。折れた信号機。誰も通らない交差点。
 窓ガラスが割れた家屋の中には、埃の積もった家具が置かれている。
 公園の時計は時針がとれてしまっている。そもそも電気も来ていないのだろう、分針が動く気配もない。
 誰にも聞かれていなかった安堵と、そもそも誰もいない現実の再確認を済ませてから、私はスカートをはたいて立ち上がる。
 今日の昼食はどこで調達しようか。といっても選択しなんてほとんどないんだけれど。
 少し考えて、近場でいいやと公園の反対にあるコンビニへと向かう。
 割れたガラスを踏まないように自動ドアだったものをくぐる。電気のついていない店内は昼間でも店内は少し薄暗い。
 ほんの少し、勝手に商品を取っていく罪悪感を感じながら、今日のお昼ごはんを調達する。
 ホコリまみれの棚に残された鯖の缶詰とカップ麺、それからライターと濡れていない雑誌も必要かな。
 レトルトのご飯に心惹かれないでもないけれど、パウチに入っているものならともかくチンするご飯はそろそろ危なそうだ。
 そもそも、電子レンジもないけれど。

「あっ……」

 雑誌を引きぬいた拍子に埃が舞い上がり、少し吸い込んでしまった。
 喉と肺に痛みと、何かが絡まるような感覚。マズイ、と思って口を手で抑えたが、間に合わない。
 粘着質な音を立てて、口から赤い液体が溢れだした。

「あーあ、やっちゃった……服、新しくしないと」

 抑えた手の端から漏れた血液が、上着に赤い染みをつくってしまった。
 いつもこうだ。こうなってしまってからそれなりに経つのに、まだなれない。

「……ご飯食べてからでいっか」

 このまま行きつけの服屋跡にでも行こうと思ったが、ぐーっとなったお腹がそれを許してくれない。
 汚れた服は少しみっともないけれど――どうせ、ここにはそれを見咎める人間なんて、誰一人として住んではいない。
 カップ麺を作るために火を起こし、お湯が湧くまでの間、私はいつもの様にノートを開く。
 書かれているのは備忘録。私しかいない世界で、私が読むための備忘録。

 誰もいない世界。壊れた体。二度と叶うことのない願い。

 全てが終わってしまった世界で、死ぬ勇気もない私がすることはただひとつ。
 もう二度と会うことのない彼を忘れてしまわないために、思い出をノートに書き綴ることだけだ。

――書き手は私、読み手は私。私のためだけの私の言葉。
――大好きだった彼を忘れてしまわないための、最後の思い出。

 チリチリとはじける火の音を聞きながら、私は今日もペンを取る。

―――――――

【備忘録:あの時に至るまでの出来事】
『過去 現実世界』

 窓から差し込む暖かな日差しと、カリカリと響くノートを取る音。
 社会の斉藤先生の妙にテンポの良い説明口調と合わせて、どれもこれもが眠気を誘う午後の授業。
 私は居眠りはしないまでも、窓の外を眺めて上の空だ。
 考えるのは放課後の事、準備は万全だし、決意は固めて来た。
 それでもやはり、怖気づいてしまう自分がどこかに居る。
 ちらっ、と隣の席に目を向けると、ソラと目が合ってしまった。
 ソラ、天樹ソラ。
 幼馴染で、親友で、大好きな男の子。
 目が合っただけなのに、頬が熱くなってきてしまう。だって、目が合ったってことはソラもこちらを見ていたってことで……
 目を逸らした方がいいのだろうか。それとも、変に反応したら意識しているように思われてしまうだろうか。
 そんなことを考えていると、ソラは困ったような笑みを浮かべて小さく前を指さした。
 前?なにがあるのだろう、授業中なのだから、そこには先生ぐらいしか……

「それじゃあ!この部分はお前に読んで貰おうかな、菊頭」

 今度は先生と目があった。頬は熱くならない。代わりに血の気が引く。
 私が全く授業を聞いていなかったこともお見通しなのだろう、先生の張り付いたような笑顔が怖い。
 慌てて教科書を見るが、どこまでやったのかなんて全然把握していない。
 助けを求めて隣を見ると、ソラが教科書の右側ページ中段辺りを指さしている。
 ありがとう、と心の中で感謝しながら、そのあたりの段落を読み始める。
 先生は笑顔を強めて一言

「なんでお前は国語の教科書を読んでいるんだ?」

 出していた教科書すら間違えていたらしい。見事な上の空っぷりだ。
 もう一度、助けを求めてソラを見る。
 さすがにどうしようもないようだった。


 散々だった授業が終わった。
 先生には怒られるし、後から友達にはからかわれるし、どうしてこんな日に限ってこうも運が悪いのだろう。
 本当はもっと他にやることがあるのだが、あとすこしだけぐったりしたい。
 そうやって机につっぷしている私の肩を誰かが叩く。
 誰ですか、放っておいてください。どうせ私はダメな女なのです。

「ヒナ、帰ろう?」

 ガバっと起き上がる。肩を叩いたのはソラだった。
 また情けないところを見せてしまったと自己嫌悪におちいりそうになるが、そんなことしても恥の上塗りになるだけだ。

「あ、う、うん!ごめんね!」
「まあ、落ち込むのもわかるけどさ……最近物騒だからね、早く帰らないと、危ないよ?」

 ソラは少し不安そうな顔だ。確かに、無理もないな、と私は思う。
 教室の掲示板に張ってあるプリントを見る。
『不審者に注意 放課後は早く帰りましょう』
 最近、この街では不審者が現れているらしい。
 行方不明者が片手の指では足りないほどの数出ていて、犯人は未だに捕まっていない。
 警察が犯人を追い詰めたこともあったらしいが、行き止まりで忽然と姿を消してしまったそうだ。
 そのことから、不審者は魔人である、という噂も流れていて、それが街の人々の警戒に拍車をかけている。
 そして、ソラが不安そうな理由はそれだけではない。

「……魔人は、怖いよ。ヒナもそうでしょう?」

 小学校低学年の頃の話だ。ソラと私は、魔人犯罪者に誘拐されたことがある。
 幸いにも何かをされる前に逃げ出すことができた。だが、それは運が良かっただけの話だ。
 いつ出られるかもわからず暗い部屋に閉じ込められ、外から聞こえてくるのは子供の悲鳴と大人の笑い声だけ。
 子供の心にトラウマを残すには、十分すぎる出来事。
 だから、他の生徒たちが警戒し過ぎだとシニカルに笑い飛ばす事件も、ソラには無視できないのだろう。

「うん……そうだね」
「あ……ごめん。嫌なこと思い出させちゃって」

 暗い顔をした私の手を、ソラが握る。

「……大丈夫。ヒナは、僕が守るから」

 僕なんかじゃ不安かもしれないけど、と少しだけ笑って、ソラは言う。
 手を握られて、目を見つめられてそんなことを言われて、私はもうどうすることもできない。

「うん……ありがとう」

 なんとかそれだけ言葉を出す。今、私はどんな顔しているだろう。
 ――今しかない。
 話の内容としては全然そんなタイミングじゃないんだけど、雰囲気としては今しかない。
 握られていた手を離し、代わりにカバンから取り出した小包をソラに渡す。

「えっと、ヒナ?」
「プレゼント。ちょっと早いけど……出来たから、あげようかなって」

 中身は手編みの手袋。
 まだ着けるような時期ではないけど、でも、今渡さないともう渡せないかもしれないから。

「着けてみていい?」

 できるだけ顔の火照りを悟られないようにしながら、私は頷いた。
 自分でも上手く出来たとは思う。でも、嫌がられたらどうしよう。そもそも手編みなんて重かっただろうか。

「ヒナ、これ……」

 手袋を着けた手を、ソラが私の方に差し出す。頑張って作った手袋。
 細い毛糸で、できるだけ薄くなるようにして、派手すぎないけどわかりやすいように、手の甲の部分にはソラのイニシャルの柄を……
 向けられた手を見て、私は自分の失敗を悟る。
 右手側のイニシャルは右手の甲に、左手のイニシャルは左手の平に。
 つまり、イニシャルを基準にするなら両方共右手で作ってしまったのだ。
 どうしてこんな時に失敗するのだろう、混乱と自己嫌悪で泣きそうになる私の頭をソラがなでてくれた。

「ありがとう。大事に使わせてもらうよ」
「でも、それ……」
「大丈夫。すごく嬉しい」

 ソラの笑顔。時間がゆっくり流れていくような錯覚。
 この時がずっと続けばいいのに、でも、そうするわけには行かないのだ。
 教室の時計が目に入る。マズイ、予定時刻まで後2分だ。

「あ、そ、その、ソラ!私ちょっと、職員室に用事があるから行ってくるね!」
「なら、一緒に行こう。僕も用事があるし」
「あ、ええっと、その、いや、一人で行かなくちゃ行けないやつだから!」
「……本当に大丈夫?何があったの?」

 何故かソラは私を引きとめようとする。何か勘づいているのかもしれない。
 でも、ダメだ。ソラにはとても任せられない。これは、私がやるしかないことだ。
 秒針の音が嫌に大きく聞こえる。時刻が近い。早くここから離れないと……

 カチッ

 ジリリリリリリリ!

 学校の時計が一分前を示す。アラームがなる。ずれていたんだ、だが、そんなことすら今は気にならない。
 音源は二つ、私のカバンと、ソラのポケット。
 硬直する私の前で、ソラはポケットから小さな腕時計を取り出す。

「あー……これ、さっき拾って。落し物だろうから職員室に届けようと思ってたんだけど……あ、れ……」

 偶然だ。そう信じたい私の視界が歪む。
 空間転移の予兆、これが起こってしまえばあとは一瞬で。


 次の瞬間、私とソラは廃墟の一室に立っていた。


「何……これ……」

 ソラの顔が驚きに、そして不安と緊張が入り混じった色に変わっていく。
 似たような現象に心当たりがあるので、決していい思い出ではない、心当たりが。 

「魔人……能力」

 私達が誘拐されたあの事件でも、空間転移系の能力が使われた。
 それに気づいたソラは気遣う表情で私を見る。だが、私はそれを確認する余裕すらない。
 私は『時計』を……スマートフォンの画面を見たまま動けない。
 表示されている名前は3つ。
 私の名前、事前に確認していた対戦相手の名前、そしてソラの名前。
 相手が発表された時も、今朝確認したときもソラの名前なんてなかった。なのに、何故。
 どこかで対戦相手の一人が死亡した。そいつの『時計』をソラが手に入れた。
 まさか、そんな偶然。
 ぐるぐると回る私の頭。心配したソラの声も、私の耳には届かない。
 そもそも、開始地点にとどまるなど論外だ。敵に見つけてくれと言っているようなものだ。なのに、動けない。
 そんな私をあざ笑うかのように……じゃりっ、と、足音がする。
 何故気づかなかったのか、当たり前だ。戦闘時の常識すら、私は完全に失念していた。
 はっとして顔を上げる頃には、もう相手は部屋に入ろうとしていた。

「ははははっ!こいつは幸運だなァ!ジャリが二匹か、ボーナスステージだぜ」

 男だった。背の高い大人の男。
 どこにでもいそうなカジュアルな服装は真っ赤に染まり、片手にはのこぎりを持っている。
 そしてもう片方の手では高校生ぐらいの女の子を、足を持って引きずっている。腰のあたりが半ばで切られていて、そこから今も血があふれている。どうみたって致死量だ。

「いやぁ、実際よォ。戦闘空間って奴は役得だぜェ。獲物が食えるってだけじゃねえ、タイミングさえ工夫すれば『現実』で殺した『モノ』を捨てるのにだって使えるんだからよォ!」

 カラカラと楽しそうに笑う男。ソラも、私も、動くことが出来ない。

「お、お前、なにしてるんだ!」
「ああ、なんだよ。お前ルーキーか?」

 悲鳴のようなソラの言葉に、あざ笑うように男は返答する。

「単純な話だよ。生き残らないとこっから元の世界に戻れない。ああ、悲しいなァ。悲しいよなァ。だから俺はお前らを殺さなくちゃならないんだ。まあ、つーわけでよォ」

 男はのこぎりを構え、体勢を低く伏せる。
 クラウチングスタートのような、獲物に飛びかかる獣のような姿勢。

「どうせ死ぬならよォ、楽しく楽しく殺させてくれよォ!!」

 男が私達に突進してくる。呆然としていた私は、反応が間に合わない。
 ソラの動きがスローモーションで見える、男と比べて随分遅い。
 当然だ、戦闘をくぐり抜けてきた魔人とただの人間の間には絶対的な差が存在する。
 でも、大丈夫。あいつが狙っているのはどうやら私みたいだ。だからそれでも、ソラが逃げるくらいなら……

 ソラが私の方を向く、必死な表情で、私に近付いてくる。

「ヒナぁぁぁぁぁ!」

 ソラ、天樹ソラ。
 幼馴染で、親友で、大好きな男の子。
 いつも隣にいた、いつでも優しかった、いつでも……私を守ってくれた。
 あの時だってそうだ。逃げ出した私達が誘拐犯に見つかってしまった時も、ソラはこうして私を庇ってくれた。
 ソラ、ソラ、ソラ、ねえソラ。いつだってあなたは私を守ろうとしてくれる。

――ソラは男に背を向けて私を抱きしめる。その背中に男の鋸が迫る

 でもね、私だって、あなたに傷ついて欲しくないんだよ。

 奥歯に仕込んだカプセルを二つ砕く、中身は『協力者』に調達してもらった強化薬『スズハラGX』
 1錠だけでも、私が戦うことが出来るくらいの力は得られる。
 2錠なら、3分間だけそれ以上の力を得ることが出来る。
 男の視線の影になるようにソラの体に隠れながら、私を抱きしめるソラを引き剥がす。ソラの驚いた顔。
 少し強引に引き剥がしてしまったので、ソラの右手の手袋が外れてしまった。頑張って作ったのにな、でも、仕方ないよね。
 そのまま私は動き出す。ミシリと筋肉がきしむ。呼吸をするたび肺が痛む。
 でも、無音。それが私の能力だから。
 ソラを助けたい、でも、怖い。
 目の前に誘拐犯が現れた時すら悩んでいた、優柔不断でどっちつかずな私が目覚めた能力『蝙蝠と鼬』は音を操作する。
 体が動く時に出る音を消せば、相手に気付かれないように動くことができる、そして。
 側面に回り込み男の耳に手を叩きつける。男はもう私に気づいている、鋸を振りかぶって叩きつけようとする。
 でも、遅い。
 音は衝撃。増幅すれば相手を倒すことも出来る。
 三半規管とか、内臓に近いところを狙えば効果は絶大だ。
 さすがに、遠距離から相手を倒すほどには力が無いけど。
 パン、と弾けるような音と共に、男の耳から血と脳漿がはじけ飛ぶ。
 頭の中身をぶちまけた男は、鋸を宙にフラフラさせて、力なく倒れた。

 勝った。だけど、まだ終わりじゃない。

 後ろにはソラが居る。振り向きたくない。どんな顔をしているだろうか。
 怯えているだろうか、嫌悪しているだろうか、泣いているだろうか。
 ごめんね、と口をついて出た言葉を能力で消す。私に謝る資格なんてない。
 ソラを騙していた。
 私はソラの嫌いな魔人。
 ソラは覚えていないらしいけれど、私は誘拐された時も、時計を巡る戦いでも人を殺している。
 私は自分のために他人を踏みにじることのできる人殺し。ずっと、その事実が苦しかった。普通の『人』になりたかった。
 だから……時計を手に入れた時、私は『スズハラ機関』の誘いを受けることにした。
 勝つために。過去を変えて、魔人でも、人殺しでも無い私として、ソラに向き合うために。それが私の願い。

 だから……

「菊頭ヒナは、天樹ソラに敗北したことを認めます」

 だから、私はソラを失いたくない。
 こんな汚い私なんてどうなったって構わない、だけど、ソラが不幸になることだけは許せない。
 だからこれぐらい、どうってこと無いんだ。もう二度と現実世界に帰れなくなることなんて。

「ソラ。私、隠してたんだ。魔人だってことも……人を殺すのが、初めてじゃない、ってことも」

 顔は向けない。だって今、私はひどい顔をしている。時間もないんだ。
 ソラ、ソラ、大好きなソラ。
 『時計』を持っている以上、戦いに巻き込まれてしまうのは仕方ないのかもしれない。
 でもどうか、あなたは幸せに生きてください。
 こんな馬鹿な、汚い私のことなんか忘れて。

「ごめんね……許してなんて言えないけど……どうか、元気で」

 目の血管が切れて、視界が血で染まる。
 ソラが何か声をだしながら、私に手を伸ばす。なにを言っているのかは分からない。
 だって、聞いたら未練が残ってしまうから。一緒に帰りたい、って思ってしまうから。
 だから私は能力で、ソラの声をかき消すのだ。
 ソラが伸ばした右手が消えていく。私の降参が認められたのだろう。
 ああ、どうか、あたなの未来が幸多きことを。
 ソラが消えるのと前後して、私の体が限界を迎えた。
 血を吐きながら、私は意識を失った。

―――――――

『現在 廃墟世界』

 シュウシュウとヤカンが音をたてていることに気づき、私は筆を止める。
 ヤカンからはひっきりなしに湯気がでている。沸騰してから随分経っているようだ。
 慌ててカップ麺にお湯を注ぐと、湯気の熱に喉を刺激されてまた少し傷んだ。
 スズハラGXの代償は、まあ、そこまで重くはなかった。
 粘膜が傷ついているからたまに血を吐くし、筋力も落ちている。それぐらい。
 『スズハラ機関』のエージェント『N』からは2錠服用後は適切な処置を受けないと重篤な後遺症が残ると聞いていたし、それを考えれば安いものだ。

 そうして、死ねなかった私は今日も生きている。
 元の世界に帰ったソラを思いながら。
 ソラ、ソラ、大好きなソラ。
 どうかあなたは、幸せになってください。

―――――――

『現在 現実世界』

 そこまで書いて、僕は筆を止める。
 紙に書いた内容を見直してから小さく折り畳み、右手の手袋を外して握る。
 半透明の手の中で紙は消え、手を開くと何も残っていない。
 この右手は、僕の無力の証。
 ヒナと別れたくない。僕の願いは現実を捻じ曲げた、僕は魔人に目覚めた。
 そして、その力を持ってしても、ヒナまでは届かなかった。だからこれは無力の証 

「なにをしてるんですか、ソラさん?」

 顔をあげると、そこには『N』が立っていた。
 なにをしていたのか、か。協力してくれている彼になら教えてもいいかな、とも思うが否定する。
 この言葉は、きっとヒナにだけ伝えるべき言葉だ。

「いえ、ちょっと」
「そうですか、ま、そんなことはどうでもいいんですけど」

 『N』はカバンを開き、中から茶封筒を取り出す。
 僕は右手に手袋をはめなおし、それを受け取る。
 この手袋はヒナからのプレゼント、二つの右手の手袋。片方は、今はここにはないけれど。
 封筒の端には『スズハラ製薬』の刻印。普通、こういう後ろ暗い取引って隠すものだと思うんだけど。
 以前そのことを『N』に聞いたら「まあまあ、大丈夫ですよ」なんてはぐらかされたのでこれ以上は追求しないことにしている。

「うちの社で集めた次の相手の資料と『スズハラGX』の補充です。お納めください」
「ありがとうございます。いつも、お世話になっております」

 中を確認して僕は頷く、僕一人では『時計』を巡る戦いを勝ち抜くことなんて到底不可能だ。
 だから『N』の……『スズハラ機関』のサポートは本当にありがたい。

「お礼なんてよしてくださいよ。うちとしちゃ、ソラさんは安い予防線。あたし一人使っときゃキープできるローリスク・ローリターンの投資先なんですから」

 からからと笑う『N』の言葉を、僕は心地よく感じる。
 そう、あくまで協力関係。
 僕は『時計』を手に入れるために、『N』は僕が願いを叶えた後の時計を回収するために、お互いがお互いを利用している。それだけの関係。
 彼らがヒナも利用していたことは知っている、そのことに怒ったこともある。
 だけど、僕一人ではヒナを救い出すという発想も得られなかったし、バックアップも受けられなかった。
 だから、彼らには感謝している。

 ヒナ。
 幼馴染で、親友で、僕の大好きな女の子。
 僕はヒナに謝らなくちゃいけないことがある。
 伝えなくちゃいけない言葉がある。
 失いたくないと思う僕がいる。
 だから、僕は勝ち抜かなくちゃいけないんだ。

 ああ、だからヒナ。
 どうか僕が迎えにいくまで、君が無事でありますように。