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裏決勝戦SS・地下墓地その2


「――すまん、本葉」

 彼の唇から漏れ出たその言葉、その三文字に、私の心臓は凍りついた。

 好きです。ずっと言いたかった、やっと伝えられたその想いは、コンクリートに舞い落ちる淡雪のように、あまりにもあっけなく拒絶された。

 そこからあとの記憶はない。無我夢中で家を飛び出してから、もうずいぶん時間がたったように思う。ふと気がつくと、私は暗い暗い回廊にただ一人、ひざを抱えてうずくまっていた。

 足元を流れる水の中から、一匹の蟹が這い出て、私の前を横切った。日の光を一度も浴びたことのない白い甲羅を背負って、弱弱しくぎこちない足取りで。
 私もこの暗闇でこのまま死んでいくんだ。そう思うとあまりに自分がみじめで、あわれで、私はあふれる涙を抑えることができなかった。ぽとりと落ちた涙のしずくが、押しつぶされたおっぱいの上でにじんだ。

 目をこすり、顔を上げても、50cm先も見えないほどの深い闇。そうか、ここはもう、迷宮時計の戦闘空間なんだ。でも、私には対策も装備も何も無い。策敵用のフラガラッハも置いて来てしまった。今の私に、ケンちゃんの剣を持つ資格なんて無いから。

 もう、何もかもどうでもいい。迷宮時計も知らない。もうケンちゃんのいる世界になんて、帰りたくない。

 だから、私は背後から忍びよるその影に、気がつくことができなかった。


 ■ ■ ■


 19世紀末、大英帝国ロンドン。栄華を極める霧の大都市の地下深く。
 地上の汚れをすべて集めたアンダーグラウンドの濁流が、敷き詰められた煉瓦の上をごうごうと流れていく。その河岸、暗闇の石畳の上を、一人の華奢な少女が歩いていた。
 20mほどの距離をおいて点々と備え付けられたランプが、かぼそい明かりでかろうじてその姿を捉えた。紺のセーラー服に銀色のマントを翻し、狐の面でその顔を覆う、見る者誰もが忘れ得ぬ異様な意匠である。そのおっぱいは平坦であった。

「……どう見てもただの下水道じゃない、ここ」

 肩にかかる黒髪に鮮烈な赤い花飾りを配した歳若き少女は、狐面に隠された可憐な唇から誰に言うともなく小さく呟いた。軽やかな足取りと共に動かす指先は、あたかも舞い踊るかのように優雅な所作である。

 彼女は手の中に光る携帯電話の画面を確認する。
「お題は【過去】地下墓地。見間違いじゃあないわ。迷宮時計が勘違い? なぜ?」
それと同時に、少女――刻訪結は、灰色の石畳の上でその歩みを止めた。そして今度は空洞にはっきりと響き渡る声で、こう告げた。

「ねえ、そろそろ出てきてくれないかしら、気持ち悪いストーカーさん。こんなところ早くさよならしないと、私の髪にあなたみたいなドブのニオイが染み付いちゃう」

 その言葉と共に少女は革手袋をはいた右手を広げ、ぐっと空を握り込んだ。瞬間、彼女の背後、煉瓦の壁に天井に、幾筋もの線が刻まれた。すぐにその線はずれ落ちた劈開面へと変わった。数秒ののち、思い出したかのように石造りの通路が轟音をあげて崩れ落ちた。

 舞い上がるほこりを纏って暗闇にかすかに浮かぶそれは――張り巡らされた糸。暗殺術、『操絶糸術(キリングストリングス)』。

「あら、手ごたえは無し……ねえ出てきてってば。無傷なんでしょう?」
返答は得られなかった。代わりに返されたのは、三発の銃声であった。

 BLAMBLAMBLAM! 瓦礫の山から刻訪結に襲い掛かる、淡くきらびやかに輝く弾丸! 澄んだ色をランプの光に反射させながら、暗闇に曲がりくねった軌跡を描く!

「……ふうん。ずいぶん変わったおはじきね」

 対する結はひとかけらの動揺も見せず、素早く羽織ったマントで弾丸の行く手を遮った。その表面には銀色の波模様がモワレのように蠢く。銀幕へと接触するその瞬間、色とりどりの弾丸は粉々に砕け散った。ちりちりとした細かい欠片が、光の粒となってよどんだ空気にばらまかれ、消えた。

「あら綺麗。とっても興味深いわ。ねえ私も使ってみたい、いいでしょ? ……その、ガラスの弾丸」

 問いかけに呼応して暗闇から現れたその姿を、刻訪結は見た。厚手のコートの内側に、確かなおっぱいの膨らみがある。追跡者は、女であった。

「……迷宮時計の、所有者だね」
女は言った。つば広帽子の下、黒髪の奥で琥珀色の目が爛々と輝く。両手にいくつも構えた透明なガラスのナイフが、プリズムを通した虹色の光を床に投げかけた。


 ■ ■ ■


「おっぱい当身・マッハ手刀ォォーーーーッ!!」

 本葉柔のおっぱい弾性力に加速された超音速の手刀が、一瞬前まで古沢糸子がいたその地点、石壁をバターナイフが如く容易にえぐりとった! おっぱいの暴力が、薄汚れた下水道の壁に苛烈な爪跡を残す!

「ちょ、ちょっと待っ……」
「おっぱい天地空転蹴りッ!!」

 柔は片足のまま上半身を捻り、一気に引き戻す。すると柔らかなおっぱいがあたかも3D物理演算のように悩ましげに振り回される! おっぱい重心移動を遠心力に転化、恐るべきおっぱい回し蹴りが糸子へと襲いかかる! 安楽椅子の高速横スライドで再び回避!

 糸子の前に立ちふさがるは、おっぱい柔術家・本葉柔。黒の遮光ゴーグルを着用し、深紅のポニーテールをたなびかせる少女は、なぜだか時代遅れのボディコンシャスに身を包む。それにしても大きいおっぱいだ!

「い、いやゴメン、いきなり肩叩いたのは謝るよ、でもそんなに……」
トレンチコートの探偵・古沢糸子は、攻撃をいなすさなかに交渉の可能性を探る。しかし瞬きの間に、暴虐のおっぱいを駆る少女はその姿を消していた。彼女はすでに安楽椅子探偵の斜め上方、空中にいた!

「おっぱい柔術秘奥義……スーパー爆ν百貫落としィッ!!」
「どこが柔術なのよそれぇ!?」
瞬時のギアチェンジ! 安楽椅子の超加速が糸子を即死攻撃から救う! 圧倒的おっぱい質量によるおっぱいボディプレスは、石畳の床に蜘蛛の巣の如きひび割れを残した!

 糸子は肩で息を吐きつつ床に伏した敵を見やる。強い。本葉柔は、とんでもなく強い。彼女がこれまで三十余年の人生で対した敵の中でも、一、二を争うほどに。具体的に言うとおっぱい67個分くらい強い。
 致命的な巨大質量を伴った攻撃はそのどれもが致命的。たとえ魔人といえど一撃でもまともに食らえば……運が良くて上半身が丸ごと消し飛ぶであろう。残す下半身も、あいにく糸子は持ち合わせていない。

「どうして……どうしてあなたは……」
本葉柔はうつぶせからゆっくりと身を起こした。ゴーグルの裏から、瞳からこぼれ落ちた涙のしずくが伝う。
「泣きたいのはこっちだっつーの! なんでどいつもこいつも話聞かないのさぁー!! そんなに嫌か、あたしが嫌か!!」

 少女はなおもおっぱい柔術を構えると、うつろな声を安楽椅子探偵へと発する。
「どうして避けるんですか……どうして邪魔するんですか……! 私のことは放っておいて下さいっ!!」
その物言いとは裏腹に彼女は再び糸子へその牙を伸ばす! 危険な状態だ!

「頭痛がするわ。分けてあげたいくらい」
糸子は懐から取り出した銀色の小瓶から中身を放り投げた。白煙をあげて空を舞うその小粒は、茶褐色の弾丸! その正体は、液体窒素で冷却されたチョコレートアイスだ!
「ジェラート・アル・チョコラート。ちったァ頭冷やしなさいよ、おっぱい星人!!」

 BLAM! 糸子のリボルバーは凍れる銃弾を飲み込み、吐き出す! 本葉柔へと迫る弾丸の軌跡! 瞬間冷却された空気中の水分が大気に白い死線を遺す!

 だがその標的、本葉柔は動じることなく死の軌跡を受け止める。大きく上体を逸らし、たわわに実ったおっぱいをばるん、ばるんと揺らした! ものすごい迫力だ!!
「おっぱいバリアー!!」
揺れに揺れるおっぱいの超音波振動! 母なる大量破壊おっぱいに零下195度の弾丸は粉々に打ち砕かれる!
「あーっもう最近の若い子の発育はどーなってんのよチクショー!!」

 糸子はさじを投げかけた。手詰まりである。だが実のところ、柔にとっても糸子は好ましい相手ではない。おっぱい柔術の真髄は本来、太陽の如く華やかなおっぱい打撃技(ブロウ)にではなく月の如く静謐なおっぱい関節技(サブミッション)にこそある。だがそれはあくまで立ち向かう対戦相手を想定した格闘技術体系である。極端な低姿勢、それも安楽椅子で高速疾走する相手にそのまま通用する技ではないのだ。

「……もういい。もういい。みんな消えちゃえばいい。みんな潰れちゃえばいいんだ」
本葉柔は彼女の目を護る遮光ゴーグルを投げ捨てた。その瞳に紅く光彩が燃える。闇の中のわずかな光をとらえて、彼女の身体が変身を遂げていく。やがてボディコンシャス衣装がぱつんぱつんに密着する彼女の肉体が、布を引き裂いて内側から膨れ上がった。
「え、まだあるの……ちょっと……なにこれ……」
破れていく衣装から覗く柔らかな肌。その肌にひびわれと光沢が生じ、堅い甲羅の鎧へと変化していく。
「ボンバー!!」
糸子が呆然と見守る中、本葉柔は下水道の通路を埋め尽くすほどに巨大な一匹の赤蟹と化した。

「ピピピピッ! 3分間クッキング、はじまりはじまりー!」
彼女の迷宮時計、キッチンタイマーの合成音声が、あまりに呑気な死刑宣告を糸子に告げた。


 ■ ■ ■


「死ぬまで踊れ」
琥珀色の目の女はポーチから取り出したガラスのナイフを、次から次へと刻訪結に投げつける。放たれた投げナイフは不可思議な推進力を得て少女の元へ飛びかかる!

「無駄よっ。このマントはね、物質が通過する時空そのものを……えーと……とにかくすごいのよ! お兄ちゃんがくれたんだもん」
彼女がかざす銀色のマントは、再びその攻撃を輝く灰燼へと変える。しかし女は意に介さずひたすらにナイフを投げ続けた。
「無駄だって言ってるでしょ。何でわかんないのかしら」
だが彼女のマントが触れる直前、そのうちの一本が自ら粉々に砕けた。虹色の粉吹雪が結を包む!

「なッ……目潰し! くそッ!」
一瞬の隙! 琥珀の目の女は透明なナイフを逆手に持ち、結のマントの隙間に突き立てんとする! だが振りかぶるその右腕は空中で何物かに差し止められた!

「痛ッ……!」
琥珀色の目が驚愕と苦痛に開かれる! 女の腕を捻り縛り上げるのは、刻訪結の不可視の糸!
「あはっ、右腕もーらいっ!」
結は皮手袋の右手でその糸を強く引いた! 周囲の壁を走る死線! 殺戮の操糸術が空中に血飛沫の花を咲かせる!

 だが狐面の奥、少女の顔は怪訝な表情へと変わった。膝を突く女の腕から流れるおびただしい出血が、結の糸を真紅へと染める。だが腕に巻きついたその糸は、今や弛緩して垂れ下がっている。敵の肉と骨を断ち切る寸前、逆に切断されたのだ。
「あんた服にも何か仕込んでるでしょ。全くめんどくさいったら……あら?」

 彼女の耳は、遠くから響くかすかな振動を捉えていた。その音は徐々に近づき、確かな騒音へと変わっていく。結がそちらに注意をやった一瞬の間に、女は姿を消していた。

「……あっちはあっちで面白そうじゃない。まったく私を仲間はずれなんかにして。きっとひどい目に会わせてやるんだから」


 ■ ■ ■


「うおおおおおおっ!! なによこれー!! なんなのよこれぇー!!」

 絶叫を上げる古沢糸子の安楽椅子が、通路の角を一目散に駆け抜ける。そのすぐ後を、人知を逸するほどの巨大な蟹が、耳をつんざく轟音と無慈悲な破壊を伴い追いかけていく。

「こんなのが出てくるなんて聞いてないわよ、もう!!」
糸子は探偵にはあるまじき捨て台詞を吐く。彼女は今回の戦いに臨むにあたって、対戦相手の一人、本葉柔の情報を何一つ得ることができていなかった。とはいえ彼女の調査不足を責めるのは酷であろう。如何に安楽椅子探偵の推理力と言えど、異世界の壁を乗り越えるほどの力は持ち合わせていないのだ。

 モンスターエンジンの全力の悲鳴を背にして走り行く糸子の目前に、細い円形の通路の入り口が現れた。糸子が急旋回のバックで逃げ込むのとほぼ同時に、巨大な蟹の右鋏が入り口から突き込まれた。鋏は糸子の目前15cmを空けて静止し、断頭台の如きその刃をかちかちと鳴らした。

「た、助かっ……」

 轟音! 轟音! 巨蟹が入り口の壁をもう一方の鋏で殴りつけている! すぐさま煉瓦の天井は崩壊、恐るべき蟹の怪物は空いた空間にその身体をねじり込むと、再び死の追跡を開始する!

「……てないよねー! わかる、わかるー! よくあるこういうやつー!!」

 糸子は半ばヤケクソに呑まれながらもなんとか正気を保った。逃走のさなか、彼女は前回――【現代】マンションでの戦いを思い出していた。PTA少年・雲類鷲ジュウ、その能力『くたばれPTA』によって引き出された、彼女の内に眠る真の力を。

「『サヴォイ・トラッフル』ACT2……落ち着け、落ち着きなさい、古沢糸子…………抑圧から自身を解放する……圧力メーターのイメージ…………」
本葉柔の右鋏が糸子の目の前の石壁をえぐる!
「ギャーッ駄目だ、ダメだ! そんな暇ねぇーーー!!」

 地中の下水道を駆け回る一脚と一匹は、やがて水流の上に掛け渡された金網の上に差し掛かった。その先には無慈悲な一枚の壁があるのみ。袋小路である。

「やるしかない……わかってる。自分にできることを、やるしかないのよ!」
壁を背にした安楽椅子の上、糸子は覚悟を決めた。二丁拳銃のリボルバーを両手に構えて前方の闇を睨む。
「ピピピピピピッ、あと1分だよー!」
場違いに陽気な電子音声と共に、その巨体は現れた。

「そのナリでも甘いのはお好きかしら? とびっきりのご馳走してあげるわよ」
糸子は安楽椅子の肘掛を開けた。そして中に蓄えられた幾多ものチョコレートを放り投げる。黒、白、そして茶褐色。大小様々な形の弾丸が空中に浮かぶ。

『サヴォイ・トラッフル:プレミアム・アソートメント!!』

 ボンボン! プラリネ! ロシェ! キャラメル! マカロン! トリュフ! ブリュレ! ザッハトルテ! グラサージュ! ジャンドゥーヤ! オランジェット!

 淀みなく発射される無数のチョコレート弾が巨蟹と化した本葉柔を襲う! だが弾幕に押されるもその鎧は無傷! 硬い殻は弾丸の嵐を難なく跳ね返していく!

 やがて蟹の全身はおっぱいの恵みの如き乳白色に包まれていく。変身で消費したM44エナジーが再び彼女のおっぱいへと蓄積されつつあるのだ。幾多もの砂糖菓子の銃弾を弾き返しながら、6本の足でじりじりと糸子へと近づいていく。
「ボン……バァーーーッ!!」
巨大蟹の口が雄たけびを発する! 巨大なおっぱいからM44レーザー即死光線が放たれる……その直前! 殻に覆われた彼女の脚が、突如金網を破って沈み込んだ!

「レディに体重を聞くのは失礼かしら? でもダイエットはね、リバウンドが一番怖いのよ!」
糸子の目的は初めから、柔の堅い防御を打ち破ることではなかった! 狙いは蟹の殻で弾き返された跳弾! 目くらましをばらまき惑わせつつ、柔の巨大な体重を支える足場を攻撃していたのだ!!

「沈……めえっ!!」

 BLAM! BLAM! リボルバーの一斉掃射が金網をえぐる! 柔の巨体が徐々に、だが確実に沈んでいく!
「ピピピピピピピピピピピピ……お料理、できあがり……だ…………よ……」
合成音声を撒き散らしながら、巨大蟹は闇の底へと沈んでいった。凄まじい水しぶきが響き渡った後、残されたものはただせせらぎの音だけであった。


 ■ ■ ■


 本葉柔が目を開けたとき、そこにいたのはおっぱいの大きなひとりの少女の姿であった。底の浅い水にあおむけに漬かりながら、彼女は自分がおっぱい丸出しの裸であることに気がついた。とたんに柔は己を恥ずかしく感じた。

「はあ……何やってんだろ私。うう、ひどいにおい……」

 手をついて立ち上がろうとする、その手のひらが、何か柔らかな物体に触れた。半球状の塊の先端に、ほんのり固い突起が尖る。おっぱいであった。

「は……? おっぱい…………?」

 本葉柔は暗闇の中手探りで物体を撫でる。そのおっぱいの根元には当然身体があった。しかしその鏡像、もう一方のおっぱいはあるべき位置に存在しなかった。代わりに彼女の指に触れたのは、平行に並ぶ固い棒にじゅくじゅくとしたペーストが絡みついた物体。それはまるで、肋骨の周りに腐った肉がこびりつくような……

「ひゃああああああああああああああぁっ!!」
柔はあわてて指を引っ込める。
「ひっ……やだ……なんなの……」
その彼女を、暗闇から現れた暖かな光が照らした。

「ああっ!」
わずかな光量にも、彼女は慌ててその目を隠す。大きな影を投げかけつつ、カンテラを持って現れたのは安楽椅子探偵であった。
「ああ、よかった、見つけた……あたしがやっといてなんだけど、ケガとか大丈夫?」
「ううっ目が……目が……消して、その光を消してください……」
「あれ、光がダメなの? ゴメンゴメンすぐ消……す…………」

 だがその言葉に反して、古沢糸子の動作はそこで凍りついた。如何なる百戦錬磨の探偵であっても言葉を失うであろう光景が、その目に映し出されていた。


「道理で……ただの下水道じゃなかったわけだね。【過去】地下墓地。これがその真相……」


 カンテラの明かりの下、安楽椅子探偵は見た。新聞紙に覆われ、下水に浮かぶ、大量の腐乱死体を。そこに立ち並ぶおっぱい、おっぱい、おっぱい。死体は全て、女性だった。

 積み重なる死体に、無事なものは一つとして存在しなかった。ある者はおっぱいの周辺に十数もの刺し傷を残す。またあるものはおっぱいから腹部まで一直線に切り裂かれ、内臓を切り取られていた。さらに別の青黒くまだらに変色したおっぱいは、内側から腐敗したガスで膨張し、おっぱいのサイズを一回りも二回りも上げていた。

「…………!」
否。探偵は気づいた。その中で、かろうじて無事なおっぱいが二つ、確かに存在していることを。そのおっぱいは、肉体の呼吸と共に細々と、ゆっくりと上下していた。

 糸子は椅子を岸辺に寄せて、生存者を引き上げた。
「生きてる……生きてるわね! しっかりして!」
黒髪の女性は薄目を開けて、糸子と弱弱しく視線を交わした。だがそのおっぱいも、服の上から横一文字に深く断ち切られていた。
「ひどい傷……誰にやられたの? あ、えーと、英語か……Who had done it(フーダニット)?」


 女性は途切れ途切れに答えた。

「……タガ……ネ……ビードロ…………」


「飴、びいどろ……」
その響きは糸子にも覚えがあった。彼女にとって、決して浅くない縁を持つ一人の女性の名であった。


「消して……明かりを消して……」
地下深くの下水道に、どこからともなく一陣の風が吹いた。淀んだ大気の流れは、死体の山を乱雑に覆い隠していた新聞紙を巻き上げる。その一面に、おどろおどろしい見出しが踊っていた。


『1888年8月7日、イースト・エンド、ホワイトチャペルにて娼婦殺害さる。全身39箇所を刺される残虐さ』
『1888年8月31日。再び娼婦殺人事件発生。喉と腹部をかき切られて死亡。7日の事件との関連性は?』
『1888年9月8日。ロンドンを揺るがす恐怖の連続殺人事件! 被害者の内臓が持ち去られる!』
『1888年9月27日。警察をあざ笑う狂気の殺人鬼! 新聞社に殺人予告届く! 記されたその署名は』


『切り裂きジャック』


 カンテラの火が落とされた。漆黒の闇が、三人の生者と無数の死者を包み込んだ。


 ■ ■ ■


「ぐ…………ううっ……」
暗闇に座り込む刻訪結を、瓦礫の山が取り囲む。破壊された周囲の傷跡は、今しがた行われた戦闘の激しさを物語っていた。
「はぁあッ……痛い、痛い…………痛いよ、お兄ちゃん…………痛い…………」
結は血染めの糸で自らの左腕を縫い上げる。針をあざだらけの皮膚に突き立てる度に、少女は激痛に身もだえる。

「あ、はぁっ……んん…………痛い……うふ、うふふふ…………」
だが、その苦痛の呻きはやがて愉悦の吐息へと変わっていく。
 彼女の行為は敵から負った傷を縫い合わせる為ではない。それは赫赫たる自傷行為である。また糸を染める赤色は彼女の血液ではない。彼女と対した、下水道の追跡者のものである。

「逃げ足ばっかり早いんだから……でも、うふふ、もらっちゃった、もらっちゃったぁ……」
刻訪結の魔人能力、ココロを結わえる『赫い絲』。結の左腕に血染めの一葉の刺繍が咲く。糸に染み込んだ血液は、敵の能力と共にその記憶をも彼女に与えた。

「飴びいどろ。ガラス職人。二年前に、迷宮時計【過去】市街の戦いで敗北。そして19世紀末のロンドンに取り残された。『サラミ=トラミ』はガラスを自在に分解する能力………ふふふ、面白そう」
琥珀の目の追跡者――びいどろがその場に残したビー玉を、結は指ではじいた。ころころと音を立てて転がるガラスの球体が、突如として粉々に砕け散った。

「そして、『切り裂きジャック』。まさかこんなところで有名人に会えるだなんて思わなかったわ」


 ■ ■ ■


「あの……ありがとうございます。さっきはその、すみませんでした」
「いやいや、いいって大丈夫……本当はあんまり良くないけど……」

 小さな蝋燭の火をついたてで覆い隠したごく小さな明かりの下、本葉柔と古沢糸子はこの日はじめて落ち着いた会話を交わした。柔の裸体は糸子が貸したトレンチコートに包み隠されている。交差した両腕に、大きなおっぱいがふにゃりとつぶされていた。

「……史上最大の迷宮入り事件に挑めるのは、まあ探偵冥利に尽きるといったところだけど。まさか発覚すらしてない殺人事件がこんなにあるとは思わなかったわ。幸い、一件だけは未遂のようだけれど」

 死体と共に埋もれていた生存者は、包帯を巻かれ新聞紙の上で寝かされている。どうやら彼女は医療従事者のようであった。幸運にも彼女の持ち物であろう、その場に残されていた簡易的な医療キットを用いて、一命は取り留めることができた。

「……確かに、飴びいどろという女性が迷宮時計を巡る戦いで敗れ去っている。その舞台はやはり、過去のロンドン。戦いの勝者――といってもその後負けているのだけれど――その関係者から裏づけは取った。それは間違いないわ」
「じゃあその、飴びいどろ、という人が……この大量殺人の犯人……『切り裂きジャック』…………」

 会話を続けつつも、糸子は死体の山から事件の手がかりを探していた。ゴム手袋をはめた彼女の指が、腐敗したおっぱいに遺された傷口を押し広げたとき、彼女の表情が変わった。

「何か見つけたんですか?」
「滅多刺しにされた死体……その傷口に、大量のガラスの欠片が……」

 その報告を聞き、柔は沈痛な面持ちでつぶやいた。
「じゃあ、やっぱり本当なんですね……異世界に取り残されて、その絶望で……こんな凶行を」
迷宮時計にさらわれて、異世界に放逐されることの重み。おっぱいの質量の千倍もあろうかと思われるその重圧が、彼女の両肩に重くのしかかっていた。

 だが、糸子はそれとは全く異なる思いに心をとらわれていた。柔の推理の片隅に、こびりついて消えぬ違和感が残る。彼女は無意識のうちに親指の爪を噛んでいた。


 その思考は床を転がり入ってきた、ビー玉の澄んだ音色に中断された。3つ4つばかりの転がるビー玉が、突如として同時に全て砕け散った。

「ちょっとぉ……粉々になるばかりで、全然うまく飛ばないじゃない。やっぱり職人芸が必要なのかしら」

 悠然とその場に現れた一人の少女。紺のセーラー服に銀色のマント、そしてその顔には狐の面。そこに埋め込まれた暗視スコープは、暗闇の中の事象を少女にあまねく伝えている。広げた両腕の袖から、左腕に刺繍された赤色の糸がちらりと覗いた。

「あら、あなたが『刻訪』さんとこのお嬢さんね……お噂はかねがね」
糸子の言に、少女は答えた。
「へえ……私もちょっとは有名になったのかしら。そのとおりよ、私は刻訪が鑪組拾弐號、『偲赫』の結。あなたは古沢糸子ね。で、あっちのおっぱいが本葉柔、と……」

「それで、そうやって正面から出てきてくれたって事は、平和的な解決を期待していいのかしら」
そう言いながらも糸子は臨戦態勢を崩さない。彼女のリボルバーは懐からコンマ1秒足らずで抜き放つことが可能。それはおっぱい柔術の構えをとる本葉柔も同じである。

「あら、そう見えるの……? ばっかみたい。そんなわけ、ないでしょっ!」
刻訪結は広げた両腕を、舞を舞うかのようにおっぱいの前で交差させた。

「うわあっ!?」「きゃああああっ!」
糸子の身体が吊られるように軽々と持ち上げられた! それと同時に柔のおっぱいもなんかこう危険な感じに縛り上げられる! 豊かなおっぱいの、その肉感たるや!
「もう勝ったから出てきたに決まってんじゃん」
糸子と柔を束縛する不可視の糸! この空間は既に刻訪結のテリトリーであったのだ!!

「でもせっかくだしぃ……あなたたちの、ご自慢の能力で殺してあげる。ね、いい子だから私に頂戴?」
少女のわずかな指先の動きで、縛られた二人の肌に血がにじむ。血液は不可視の糸を伝い、空中に赤い線を引いていく。


「これはね、『赫い絲』って言うの。まずは探偵さん、あなたからね。ふっ……ぐっ…………痛……」
少女は再び己の左腕を、血染めの糸と縫い針で自ら傷つけていく。
「んん……はぁ…………『サヴォイ・トラッフル』。チョコレートの弾丸を操る能力。あら、なかなかオシャレじゃない。私にも使いこなせそう」
「……そりゃどうも」

「そしてぇ……ふふ……ッ……そこのおっぱい女の能力はぁ……」
「くっ……」

「………………」
「………………ん、何?」
「………………」
「どうしたの。気になるんだけど……」

「…………何だっていいだろうがァ!!」
「え、なんでいきなりキレんの!?」

 刻訪結はポーチから取り出したガラスのナイフを振り上げ、糸子の右手へと突き立てた!
「ぐッ……あああッ!!」
探偵のシャツの袖から小型の隠し拳銃が転がり落ちる! 少女はそれを拾い上げ、ナイフの代わりにポーチへと仕舞った。

「まったく大人しくしてったら。『サラミ=トラミ』! こうやって、ガラスのナイフの先端を削って鋭さを保ち続けると……」
少女はガラスのナイフを滑らせる! だが華奢なナイフは無理な力に根元からぽっきりと折れた!
「ああ失敗した! 本当に難しいわ、この能力! 嫌になる!」


 激痛のさなか、探偵の脳髄に閃きが走った。その推理はいま、一つの真実へとたどり着いていた。
「そうか、そういうことだったのね……」
「あら? 何か言いたいことがあるんなら、聞かせて頂戴。お話するのは好きなの」

 信頼できない聞き手を相手に、彼女は語る。
「飴びいどろ。彼女の『サラミ=トラミ』はガラスを原子レベルにまで分解できる能力。仮に彼女が殺人犯だとしたら、証拠となるガラスの破片を被害者の体内に残しておくわけが無い」

「その通りねえ」
結はうなずく。

「つまり、あの死体を刺したのは別人。ガラスのナイフを用いたのは、製作者であり異邦人である彼女に疑いをかぶせるため。でも彼女以外にガラスのナイフなんか使いこなせる人がいるわけない。慣れない凶器は、被害者の傷にたくさんの欠片を残した」

 少女はその推理の後を継いだ。
「そういうこと。『ジャック』はもう懲りてしまって、そのあとの殺人ではちゃんとした刃物を使ったはずよ。そしてびいどろちゃんは、自らの疑いを晴らすため、また正義の執行のため! 『切り裂きジャック』捜索隊に名乗りを上げたの。そんな彼女が追っていた相手……もうわかるわよねぇ?」


 結は後方、本葉柔に狐面を向けた。その背後に、ゆらりと人影があった。
「柔ちゃん! よけて!」
「え……?」

 本葉柔の無防備な首筋に、赤い線が引かれた。一瞬遅れて、傷口から赤い血が噴出した。背後に現れたのは、肩にかかる黒髪の女性。二人が助けた生存者である。ただひとつ先程と違う点は、その手に血に染まった医療用メスを握り締めていることだった。

「あはははは! やるじゃない『切り裂きジャック』さん! 別に私が命令したわけじゃないのよ? そんなに殺したくて殺したくてたまらないのね!」
少女の狂笑が下水道――否、地下墓地へ響き渡った。

「くっ……あなたが……あなたが『切り裂きジャック』……!」
柔の傷は幸い致命傷ではなかった。しかしなおも『ジャック』は糸に縛られ動けぬ柔を標的に定める。彼女のメスが、柔が素肌に着ているトレンチコートを跳ね除けた! Jカップの美しいおっぱいが極限大露出!

「きゃああぁっ!? でも、これで……あなたに届く! たとえ手足が動かなくとも、私にはおっぱいがあるんだっ!!」
本葉柔の魔人能力、その名も『おっぱいレーザー』! 猥褻な意図で彼女のおっぱいを露出させた者だけに発動する、強力無比な即死レーザー光線である!

 だが……おっぱいレーザーは不発! M44エナジーで乳白色に光り輝くべきおっぱい先端の突起物は、控えめな桜色を保ったままだ!
「え、なんで…………ああっ!!」
彼女のおっぱいの中心へと『ジャック』のメスが突き立てられる! しかし彼女のおっぱいは柔らかでありながらそんなヤワなものではない! 幾人もの血を吸ったであろうそのメスを柔は両おっぱいで挟み込んでへし折った! おっぱい白刃取りだ!

 ただ一人その様子を遠巻きに見る刻訪結だけが、柔の『おっぱいレーザー』が不発であった理由を知っていた。彼女の『赫い絲』は、対象能力のどんな細かな情報も漏らさず彼女へと伝えくれる。
(へえ……『切り裂きジャック』の殺しは『猥褻な意図』じゃあないのね。噂とは違うわ)

 得物を奪われた『ジャック』はその場から逃走を図る。だが刻訪結の糸が、逃げる彼女を捉えた。
「私、あなたのことももっと知りたくなったの。だから、貰うね」
結は四度目の、自傷行為を刻み付けた。飴びいどろ。古沢糸子。本葉柔。『切り裂きジャック』。四者四様の想いを結わえ付けた、赤く染まった四葉のクローバーの刺繍が、少女の左腕に完成した。

「へえ、あなた魔人じゃないのね。ただの人間。それなのにこんな強い妄想を……逆に感心しちゃう…………ッ!?」
その瞬間、少女は鞭で打たれたかのように震え上がった。顔につけた狐面を引き剥がし、下水へと投げ捨てた。その顔は14歳の少女らしくあどけない、だが異常なほどの怒りと動揺に満ちたものであった。

「何よこれぇ……何したのよ! 私の身体にこんな、こんなこと……テメェェェッ!!」
少女は腕をがむしゃらに振り回す。その左腕、四葉のクローバーの一葉……『ジャック』の葉の刺繍の周囲に、どす黒い斑点がいくつも生じていた。

 少女が空間に張り巡していた糸は制御を失い、捕らえていた三者を解放した。床に倒れた『ジャック』の袖口がまくれ上がる。その皮膚全体に、今しがた結に生じたものと同じ斑点模様がびっしりと浮かんでいた。

「あれは……ペストの症状!? それにしたって早すぎる!」
糸子は見た。狂乱する刻訪結が、『ジャック』に向かってその病んだ左腕を伸ばす様を。

「死ねェッ!!」「やめなさいッ!!」
両者の叫びは同時だった。だが、次の瞬間、『ジャック』の頭はその身体から切り離されていた。糸子の元へと転がった頭部が、彼女に何かをつぶやいた幻覚を、彼女は覚えた。


「殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す。全員殺してやる。お前ら二人も。あの飴びいどろも」
刻訪結の狂気を、古沢糸子と本葉柔の二人は真っ向から見据える。
「真美は殺した。上毛のグンマー人も殺した。お兄ちゃん……は殺さないけど、刻の辻斬り、あのふざけた二人も、絶対殺す」

「甘く見てませんか……私たちを相手に、簡単に勝てると思ってるんですかッ!」
柔が叫ぶ。だが結は極めて冷静に、これを返した。

「おっぱい女。お前は、とても、簡単だ」
その言葉と共に結はポーチからライターを取り出し、手元で火をつけた。火は空中を伝って燃え上がり、一直線に積み上げられた死体の山へと向かった。充満する腐敗ガスに火が燃え移り、死体を燃料とする炎が下水道にあかあかと燃え上がった。

「あああっ……! 眩しいッ……!!」
「柔ちゃんっ!!」
柔は目を両手で押さえ、もだえ苦しんだ。M44エナジー無き今、暖かな光は彼女を苛む災厄でしかない。
「で……あとはあなたねっ! 探偵さん?」

「くっそ……仕方が無い!」
糸子は彼女の装備の中でも最も特殊な弾丸を弾倉へと込めた。対する結も先程奪った小型拳銃をその手に構える。二つの銃口が、互いに互いを狙いあう。
「うわあ、西部劇みたいね! さあ、どっちがお上手か試してみましょ? ほら1, 2……」

「付き合う気はないわ!」
糸子はその引鉄に指先の力を込める!
「あら無駄よ、だってお兄ちゃんのマントはどんな物理攻撃も……」
「水鉄砲にするにはちょっとお高いんだよ、この銃はね!」
糸子の銃口から飛び出したものは、弾丸ではなかった!! それは茶褐色の霧! あたり一面に散布される水滴! 液体のホットチョコレートだ!

「わっぷ……何、火を消そうって言うの? ホットな液体で? 冗談にしてもつまらないわ」
結の言うとおり、火の手の弱まりは柔を復活させるにはまるで至らない。
「つまらなくなっちゃった。ほら、さっさと死んで」

 結の死線が糸子へと迫る! だが、少女の糸が探偵の首を跳ね飛ばすその一瞬前……彼女の安楽椅子は張り巡らされた糸の間を巧みにすり抜けたではないか!!
「なッ……なんで急に!? なぜよけられるの!?」
「この歳になるとね、今まで見えなかったものが見えてくるのさ」

 その言葉に、結は気付いた。今の今まで彼女以外には不可視であった操絶糸術(キリングストリングス)。その糸が、ホットチョコレートの茶褐色に染められていることに。

「へえ……やるじゃない。でもね? なんでそれをわざわざ教えてくれるの? バカじゃない? 見破った程度で、私の糸が敗れるかよォッ!!」
然り! 結の攻撃密度は見えたからといって避け続けられるものではない! 再び糸子の身体は少女の操る糸にがんじがらめに絡み取られた!

「……ッ!」
「あははっ! またさっきとおんなじ状況になっちゃったね! そうそう、あなたの能力で殺してあげる、って言ったよね。約束は守ってあげるわ」

 少女は拳銃を糸子の心臓へとまっすぐに向けた。
「バイバイ、探偵さん。最期のおやつ、ゆっくりと味わってね」


 少女は引鉄を引いた。
「…………は、」
CLING……空の金属音が響いた以外には、何も起こらなかった。少女は再度引鉄を引く。CLING。CLING。銃弾は飛び出なかった。代わりに銃口から転がり落ちたのは、何の変哲も無いマーブルチョコレートだった。

「なんで……なんで……」
「あなたの能力、『赫い絲』……だったよね、本当に、今でもそうかな?」
 刻訪結ははたと気付いたように左腕を見た。そこに刺繍された四葉のクローバー。その糸は、もう赤くは無かった。糸子のホットチョコレートが、糸を茶褐色に染めていた。少女の「ココロを結わえる」その能力は、もはや効力を失っていた。

「……つまんない。つまんないつまんないつまんない。だから、何。さっきからくだらない時間稼ぎばっかり。指一本動かせない状態で、何ができるの」

 糸子はこの最後の問いだけには答えなかった。時間稼ぎができた。それも十分な時間。彼女は精神に圧力メーターのイメージを思い浮かべる。心を解放する。重圧から、自由になる。
 それに……指先なら、指先だけなら動かせる。だいぶ無理をすれば。それができれば、十分。

「もういいや、その首、切り落とすね。今度こそ、バイバイ」
「――随分昔、爪を噛むクセがあってね。バカにされて直したんだけどさ」

 結はぽかんとした顔で空中に捉えられた糸子を見上げた。その右手の指先が、締め上げられて血を流しつつも……指鉄砲の形を作った。
「ま、意地汚いのは昔からなのよ。許してよね」


 BLAM!


 そのような銃声は物理的には発せられなかったはずだ。だが確かに刻訪結はその音を聞いた! 少女は驚愕する! 彼女の元に向かって飛んできたのは……古沢糸子、その右手の、剥がれ落ちた親指の爪!!

「チョコレートのコーティング……あのホットチョコレートは、最初から爪のマニキュア代わりにするために!!」

 少女の対応が遅れた。結は銀色のマントを構えた。だが、爪の弾丸が一瞬だけ早かった。蛇のように曲がりくねる爪弾が、彼女の手からそのマントを奪い取った! さらにマントを引き下げた銃弾は強固な意思を持って空中を這い回る! 宙に舞う銀色の軌跡は、少女の両手と両足を後ろ手に縛り上げた!!

「ぐ……ああっ!!」
少女は四肢を動かせぬまま床へと倒れこんだ。銀色のマントが、結の身体をきつく束縛する。
「どんな物理攻撃も……だっけ。あなたの糸でも、だよね」
その様子を、結の糸から解放された糸子は満足げに見下ろした。
「束縛するのは良くても束縛されるのは苦手かな? ま、せいぜい『お兄ちゃん』に嫌われないようにねえ」


 ■ ■ ■


 “The Juwes are the men That Will not be Blamed for nothing”

 糸子さんは、『切り裂きジャック』が最後に残した言葉を教えてくれた。

「……かつてペストは黒死病と呼ばれていた。無知は恐怖を呼び、多くの人が意味も無く虐殺されていったというわ」

『切り裂きジャック』。彼女の目的は、本当は人殺しではなく、病気の治療法を見つけるためだったという。焦りと恐怖が、彼女を残虐な人体実験へと向かわせてしまった。結ちゃんが『赫い絲』でよみとった記憶は、そう彼女に告げたという。

「でもね、そんなこと関係ないわ」
探偵は少しだけ悲しそうな顔を隠してから、精一杯の冷たい声で言った。
「彼女は人を治せなかった。彼女は人を殺した。それだけ」

 そう言い残して彼女は元の世界に帰っていった。びいどろさんと会ったとき、なぜだかずいぶん困った顔をしていたのだけれど、きっと色々と事情があるのだろう。


 下水道――いえ、地下墓地の戦いから二週間が過ぎた。今私と結ちゃんはびいどろさんの工房に仮住まいをしている。同じ迷宮時計戦の敗退者だけあって、彼女は随分私たちによくしてくれている。でも、そのうちにはちゃんと自分の家と仕事を探さないとな。

「……ケンちゃん」
無意識のうちに、唇からその言葉が漏れる。どうしても、それをとめる事はできない。
「…………ケンちゃんケンちゃんケンちゃん」
好き。やっぱり好き。もう一度、もう一度だけでも会いたい。でも、その思いがもう叶うことは無い。

「おーい、ちょっと来て頂戴、柔ちゃん」
あふれる涙を拭いて、立ち上がる。びいどろさんに呼ばれてきた机の上には、ばらばらの機械部品があった。

「これね、ラジオの試作部品らしい。もうじきやっと『発明』されるんだってさ! で、組み立てを依頼されたんだけど、別に私こういうのは得意じゃないんだよね。ささっとやっといてくれないかな」

 ええーっ!! 前言撤回。びいどろさんは、あれで結構適当なところがある。

 組み立てには、丸一週間かかった。ようやく作業を終えて一息ついた私に、完成品のラジオは……奇妙な音声で語りかけた。

「……ザザッ………や………柔……聞こえ……るか………」

 ええっ!? まだ発明前だよ!? 放送局なんてあるわけないのに!?

「……『ハイライトサテライト』。神の力には遠く及ばぬ……ザザッ……まがい物の……だが、異世界の壁をも乗り越える、これが俺の放映権だ」

 その声を忘れることなんてできようか。ケンちゃん。ケンちゃんケンちゃんケンちゃん!

「…………すまなかった。俺の不用意な発言が、お前を傷つけてしまった」
ケンちゃん。ケンちゃん!
「お前のおふくろさんと親父さんにこってり絞られたよ。親父さん、ナタとか取り出してきてヤバかった。俺はまだ未熟だ。俺はただ、お前に待ってほしかっただけなんだ。俺が真なる『健一』となる、その日を」

 ケンちゃん。ケンちゃん。大好きなケンちゃん!

「……だから、お前も待っていてくれ。全てを乗り越えて、いつか必ずお前を迎えに行く。そして、その日の前に、これだけは伝えておきたい」

 ああ、ケンちゃん。言わなくてもわかるよ。もう、私のおっぱいは張り裂けてしまいそう。だから大丈夫、大丈夫だよ。だけど、その言葉を聴いた私は、やっぱり泣き崩れてしまった。

「……俺も、お前を愛しているよ、柔」