決勝戦SS・空港その1


 牢獄。
 吊るされた裸電球の下、ぼろぼろの少年が二人、向かい合うように立っている。
 二人の首には鋼鉄の首輪が科せられ、首輪は壁から伸びる鎖に繋がっていた。
『敗北しなさい』
 機械的な女声による指示。
 少年の片方――服に『5』と刺繍された方が、びくりと震える。
『ジャン』
 少年は同時に拳を固め、腕を引く。
『ケン』
 もう片方の少年――服に『1』と刺繍された方は、5の少年を凝視。
『ポン』
 ふたつの手が突き出された。
 1の少年はチョキ。
 5の少年はグー。
 1の少年の敗けである。結果に目を見開き、5の少年は泡立つような悲鳴を上げる。
「あ、ああ――アババッバババババッ!!」
 悲鳴は絶叫に変わった。高圧電流が鎖を通じて5の少年に放たれたのだ。
 その様を、1の少年は醒めた目で眺めている。電流はじき止まった。
『敗北しなさい』
 そして繰り返される指示。敗北。5の少年へ電流。指示。敗北。電流――
 ……1の少年はこれまで、この敗者が勝者のジャンケン勝負において、高い勝率を誇っていた。対戦相手の筋肉の動き、手の動きを見抜いて、出してくる手を読み、瞬時に負けの手を出すのだ。
「なんでだよ……!!」
 5の少年が泣き叫ぶ。無表情の1の少年を指差して。
「なんでお前は……勝たないんだよ!?」


『ええー、皆様……本日は当便にご搭乗いただき、ありがとうございます。』
 アナウンスチャイムの後、穏やかな男性の声による案内音声が、北埼玉空港(陸路でグンマーへ向かうのに最も適した空港である)を目指す飛行機機内に響いた。
『本機はこれより予定通りに北埼玉空港に到着します。そのため、これより降下態勢に入ります
 が、みなさんはそのまま、楽な姿勢でおかけください……シートベルトなど使用する必要は……一切ございませェん………』
 何かおかしな雰囲気の音声に、乗客はきょろきょろと辺りを見回す。思い返せば、出発した時の音声と、調子が違うような……
『なぜなら本機は……本機はこれから………北埼玉空港に……一直線に…死ヒッ………突ッ込むからだよオオォォォォーッ!! 貴様ら乗客は全員まとめてグチャグチャ残虐ミンチ爆発炎上ハンバーグ死ッヒイィヤアアァァァァ!!!!!』



 馴染おさなの仮住まいにて。
「お前の対戦相手の潜衣花恋だ。協力して欲しい」
「………」
 マッチング決定のわずか三時間後。その場所を割り出した潜衣花恋は、厳しい表情で告げた。突然の事態を飲み込みきれず、おさなは少しばかり当惑していたが……
「できればあなた一人でってお願いしたいんだけど」
「それは難しいな」
 花恋は背後に、屈強な男性二人――人員調達に長けた掃き溜めコミュニティの"社長"の手の者だ――を従えていた。溜め息をつくおさな。
「女の子の部屋に男を上げるよう強要するなんてどうかしてるわ」
「部屋の前で男二人が突っ立ってると目立つんじゃないか?」
「ごもっとも。……上がって」
 チェーンロックを外し、三人を招き入れる。
「なんでこんなに動き早いわけ? こっちはまだ、それなりに腕の立つ情報屋にあなたと綾島聖の調査をさせてる所なのに」
「その『情報屋』に頼るクセだよ。あっちこっちで一回限り、魔人の素性を調べるように頼んだりして。そんなのバレるに決まってるだろ」
 逆に言えば、花恋は極めて強固な情報ネットワークを持っているという事か。おさなは分析を怠らない。
「狭い部屋だけど」
「パソコンがあれば良い」
「……勝手に触らせないわよ。パソコンなんて」
「おいおいおい。スムーズに行こうぜ。ブルーレイディスクを見せるだけだ」
「レコーダーくらいそっちが用意すれば……待って。それってもしかして、あのスナッフフィルム? 綾島聖の」
 目を丸くする花恋。確かに彼女が見せようとしていたのは、ミスター・チャンプの『H.M.P.』により放映された、彼の最期の試合の記録映像だった。代々木ドワーフ採掘団はこれを発禁品認定したため、公には出回る事のない品だ。
「……手に入れられたのか?」
「まあ、ね。私もミスター・チャンプには、少し」
「へえ。意外だな。まあいいや。なら話が早い」
「座って」
 花恋は椅子に座り、おさなは窓際のベッドに腰掛ける。男二人は花恋の後ろに直立。窓からの逃走? もちろん考える。だがその気にはなれない。後ろの男二人が動くだろう。
 そう、花恋がその気ならば、おさなを排除する事は容易いのだ。それでもなお正面から頼み事をしてきたという事は、言い換えれば『見逃されている』のだ。
(私が綾島聖に比べて御しやすいから)
 腹立たしいとは思わない。軽視してくれればしてくれるほど、付け入る隙も生まれるというもの。
「私は」
 花恋が切り出す。
「どうあっても綾島聖を排除しないといけない……しかも戦闘空間で。でもそれは、一人じゃ無理だ」
「冗談はやめてよ。そんな話に私が乗ると思ってるの?」
「綾島聖に勝つのはお前でも無理だ。あの身体能力、見ただろ? ついでに言っておくと、綾島聖ってのは本名じゃない。いや、あれに本名なんてあるかどうか……」
 言外に、私の能力を把握しているとも言ってきた。嫌な女。
「じゃあ何。ひとまず綾島聖を二人で殺して、それから仲良く殺し合いましょうって?」
「まあ、そうなるな」
 降伏してくれとは、言わなかった。馴染おさなは無辜の人々を平気で利用し捨てていく、悪の少女だ。見逃せば異世界でも彼女はそのように生きるだろう。それは許せない。
 ……本当に許せないのは、そんな存在に頼らなければいけない自分。
「判断できない」
 おさなは憮然と返事をする。
「もっと話をしてよ。どうして綾島聖を絶対排除しなくちゃいけなくて、どうやって倒すのか」
「良いぜ。でも時間が惜しい。車の中で話せないか?」
「車の中で、って」
 まだ私は協力するなんて言ってないのに……その反論を、飲み込む。花恋の目は深く、揺るぎない。
 分かっているのだ。馴染おさなに協力する以外の道などないと。拒めばこの場で男二人に取り押さえられ、どうなるものか。
「なあ、頼むぜ。一秒だって時間が惜しい。私だって、お前に協力してもらわなきゃ」
「分かった」
 嫌な女だ。とても嫌な女だ。しかし、彼女の提案に乗る以外の道はない。おさなが立つと花恋も立ち、男二人が少女二人を前後で挟む。
(こんなの、連行と変わらないじゃない)
 そう思いつつ、舌打ちは内心だけに留めて置いた。情報だ。情報がなければ馴染おさなは戦えない――



 迷宮時計を持つ《糸目》の神父、綾島聖が滑走路の空きを待つべく上空で旋回していた旅客機に転移してきたのは、この世界の乗客にとって生涯最悪の不幸だったと言えよう。
 今や横転炎上した旅客機。左主翼は折れ、内容は無惨にミックスされていた。彼のケヒャ口走った残虐ミンチという表現も、誇張にはなるまい。
「死フィ……ヒヒィ…………」
 無論、聖も無傷ではない。飛行機の着陸・衝突の衝撃でコクピット内を縦横無尽に打ち付けられていた。全身が黒く焼け焦げ、カソックはボロボロ。
 だがこれで良い。転移した先が飛行機のコクピットだったのだ。それで後先考えずパイロットを惨殺し操縦桿を乗っ取って残虐アナウンスを垂れ流しながら建物に突っ込まない《糸目》がいるか!?
 わざわざ機長席をもぎ取ってフロントウィンドウを破壊し、飛行機の先端に立つ。昼だが空は曇天。眼下の空港からは心地よい悲鳴が響く。
「さあァァァ…こんな物では済みませんよおォォ……」
 ゆらゆらと飛行機前面から飛び降り、搭乗通路の天井から到着ロビーの亀裂へ飛び込み、四つん這いで着地。つい数分前までは何事もなかった空間に、死と炎が充満している。キヒュキヒュと笑い、辺りを見回す。
「綾島聖」
「おやァ?」
 ぐりん、と首を225度回転させて、名前を読んだ少女を見た。長い黒髪。鋭い銀瞳。肩にはトランシーバーがベルトで固定され、その背にはマントが揺れる。
「やりやがったな……こうなる前に始末したかったんだが」
「いいえェ……私もとても悲しいィヒのです。本当はこんな事をォ……死たくはなかった」
 あまりにも不遜な物言いに、花恋は奥歯を噛み締める。一体何人の犠牲者が出たか。彼らに何人の家族がいて、何人の友人がいたのだろうか……
「もう良い」
 それは自身への忠告であり、綾島聖への宣告でもあった。腰のホルスターから大口径拳銃を引き抜き、構える。
「始めようぜ。潜衣花恋が相手だ」
「全く……いけませんよォ潜衣さァん……そんなに喧嘩っ早いのでは、お仕置きをしなければ……二度と、二度とケンカできねえように腕もぎフルーツのお仕置き刑をなァァーーーッ!!」
 花恋が銃撃を引くと同時に、聖は常人の三倍の全身バネ力を活かして真上へ跳躍した。天井を蹴った聖の回転ミサイル突撃をマントを翻して躱し、声を上げる。
「やれ、おさな!」
「ほ、グ!?」
 花恋の声と同時に聖へと着弾したのはライフル弾だ。撃ち抜かれた右肩から先をだらりとさせてそちらを見れば、柱の裏へ隠れる人影あり。
 なるほど、と得心する。自分だけを狙い殺すべく、最初から二人は手を組んでいたと。花恋が前方で押さえ、おさなが後方から狙撃するというシフトか。ならば。《糸目》ならば。
「よォくもやってくれましたねええェェーーッ! 順番に始末してあげますよォォォーーーッ!!」
 後先など考えない。目の前の敵から狩る! 獣魔爆身・権天使の相! 全身が鋭角的なフォルムを描き、流線型となった肉体の跳躍力は通常時の三倍!
「奇死ィィィィーーーーーー!!」
 真っ直ぐ花恋へと飛び掛かれば良い所を、敢えてその速度を誇示するように壁や天井をピョンピョンと跳ね回る綾島聖。だがその機敏な動きに花恋も、そしておさなも攻撃を命中させる事ができない。
 何度も銃撃を外しながら、じりじりと距離を取ろうとする花恋。だが、
「逃ィーがしませんよォォォーーー!」
 花恋の正面の柱を強く蹴り、砲弾の如き勢いで迫る。これでまずは潜衣花恋を蹴り殺し、返す刃で馴染おさなをなんとかして殺す。これで終わり! 綾島聖の勝率は100000000%を超超超越! 揺るぎなしィィィーーー!!
「待ってたぜ」
 対する花恋は不遜に笑った。何の役にも立たなかった拳銃を捨てる。マントを翻し、右手を構える。演技のためとは言え、持ち慣れない物を手にして疲れた。やっぱり私の武器はこれに限る。『シャックスの囁き』。
「死ャヒャァァァーーーー、アァ!?」
「つうぅっ!!」
 交錯の一瞬後、花恋は吹き飛び壁に叩き付けられ、聖は花恋の立っていた場所に着地していた――権天使の相が解除された状態で。聖は不可解な表情を浮かべる。
「おいおいおい、直接のダメージは消せたハズなんだがな……痛ぇじゃねえか……ッたく、マントが汚れっちまった」
「花恋さん……あなた、一体何を?」
 糸のように目を細め、困り顔を浮かべて緩やかな歩調で近づく聖。まだ馴染おさなからの銃撃の危険性は消えていないというのに。だがその慢心こそ《糸目》に相応しい……まあ、あんな軽い銃撃では大した負傷にもならないだろうが。
「教える義理はねぇよ……」


 ――交錯の瞬間に起こった出来事を順番に見ていくならば、こうだ。
 まず、綾島聖のインパクト。このダメージを潜衣花恋は『シャックスの囁き』で奪っていた迷宮時計そのものの性質で即座に修復。
 そして、右手で触れた綾島聖へ『シャックスの囁き』を発動させた……この時奪ったのは、綾島聖の能力の『効果時間』!
 決着を付けるのに最も簡単なのは『生命』を奪う事だが、綾島聖ほどの存在の『生命』を盗めば花恋の肉体が耐え切れず爆散する可能性があり、彼の魔人能力を奪った場合も同様のリスクが発生する。
 本来の花恋ならば対象が所有している物とは言い難い、魔人能力の効果時間なんて概念は奪えないだろう。だが、時空研究に生涯一度分を捧げた現在の花恋ならば、対象の『持ち時間』という概念を『手に取るように』理解できる。奪える!
 そうして花恋は綾島聖の獣魔爆身の効果時間を奪った。このシャックスの囁きの効果時間は、従来の時間の40分に奪った2分弱を加えた物となる。
 その後、綾島聖の質量衝撃に耐え切れず、そのまま花恋は吹き飛ばされたという運びである。

「困った人です……なるべく楽に終わらせて差し上げようと思っていたのに」
「ほざけよ。良いか」
 わざわざ自分をなぶり殺すために眼前まで歩み寄ってきた糸目の男を、花恋は笑いながら睨みつける。そして、言う。
「私は絶対にお前の存在を許さない。私は、お前を――綾島聖を、殺す。どんな手段を、使っても」
「ふふ、何を」
 炸裂。
 温和な笑みは、対魔人12.7mm口径弾により弾け飛んだ。花恋の目の前で、血液と脳漿を噴き散らかして。
「……どんな手段を、使っても」
 綾島聖、死亡。



「……絶対に敗北しない、勝利概念?」
「信じてもらえないのは覚悟してる。証拠もない」
「じゃあ何でそう言い切れる訳?」
「知ってるからだ」
 移動中の車内にて、おさなの胡散臭い物を見る視線を花恋は甘んじて受けていた。自分だって、この目で見ていなければそんな概念の存在を信じたものか。
「とにかく私は誠実に全部を話したからな」
「敗北のための技術を濃密に脈々と受け継ぐ《糸目》の一族がいて? 綾島聖はある権力者がその一族の特性に目をつけて生み出した《糸目》の反存在……落ちこぼれの『実験体一号』で? どうあっても必ず勝利してしまう存在だって?」
「そうだ」
「バカじゃないの」
 にべもない、当然の反応。花恋は頭を掻く。
「じゃあ、じゃあわかったよ。最悪そこは信じてくれなくても良い。でも私の指示に従っちゃくれないか」
「内容次第」
「綾島聖は、『絶対に勝利してしまう』概念であり、宿命存在だ。戦えば負ける。そいつを殺すには、あいつが戦っていると認識させない内に殺す必要がある」
「不意打ちとか、遠距離狙撃とか?」
「半分正解。ただ、この迷宮時計の性質上、綾島聖も私とお前と飛行場で戦うって事は分かってる。つまり、戦いは既に始まっている。私たちには殺せない」
「手の打ちようがないじゃない」
 ここで花恋は、そうだな、と言いかけ、やめた。確かにこれから打つ手段は、正解かどうか分からない一手だ。だがそれをおさなに教える必要はない。
「……本来なら、さっきの手段は半分正解でしかない。ただ、これを完全に正解にする策がある。それは私がやる。だから、あんたには遠距離狙撃をやってもらいたい」

 それから、山口祥勝の――性格には彼のコミュニティで所蔵していた対物ライフル『PGMヘカートII』をおさなに貸し与え、地下の射撃訓練場に押し込めた。おさなから抵抗する様子が見えなかったのは、抵抗する理由もなかったからだろう。こちらが武力をちらつかせていたせいでもあるが。
 そして、祥勝の装備として開発されていたデコイロボットを持ち出した。祥勝のヒーロー活動の撮影・動画編集の負担を減らすために研究されていたそれは、外見は祥勝ソックリで、小火器を内臓しており、簡易に連携ができるよう通信機での音声操作が可能だ。これを女装させ(A子からは大変な反発を受けた)、綾島聖にこれが馴染おさなであると誤認させられるよう加工した。花恋にはその後もやらねばならぬ事があり、この仕込みは掃き溜めのメンバーに任せてしまったが、概ね上手く行った。
 ……つまり、花恋と聖の交戦中に聖に一発目の銃弾を撃ち込んだのは、花恋が装備として持ち込んだこの女装祥勝ロボだったという事だ。聖にそれを気付かせぬよう立ち回りつつ、能力を一旦使用させ、それを奪い、能力の再使用ができない状態で、聖が戦っていると認識していない、本物の馴染おさなに、引き金を引かせたのだ。

「トランシーバーとショルダーベルトは渡すから、戦闘空間に入ったらオンにしろ。でもそっちから話しかけるなよ。それで、合言葉は『どんな手段を使っても』だ。私がそれを言うまでに、このいずれかのポイントにつけ」
 戦闘開始の六時間前、北埼玉空港の見取り図に入れられたいくつかの赤いバツマークを指して花恋は言った。おさなが続きを促すと、青いバツマークに指をずらす。
「私はこの点のいずれかに、綾島聖を誘導する。そこを撃ち抜け」
「いずれかって、どれ?」
「状況を見て判断してくれ。双眼鏡も渡しとく」
「分かった。……ちょっと良い?」
「なんだ?」
「解放してくれない? ……今更逃げやしない。ただ私の腕だと命中率に不安がある」
「そのヘカートIIは特別製だ。照準補正は通常より遥かに優れて……」
「それでも、よ。たとえば現状で命中率が99%だとしたら、それを99.99%にするアテがあるの。何だったら、あなたの手の人をつけても良いわ」
 花恋はおさなを見る。その表情は真剣そのものだ。自分に特別、人を見る目があるとは思わないが、今はなんとなく、彼女を信じて良いように思える。
「分かった」
 こうして花恋とおさなは別れ、戦いの時を迎え――



 指定された狙撃ポイントの一つ。冷たく乾いたグンマー風の吹く滑走路の端の、作業車両駐車スペースの死角にて。
 身体強化百姉妹の力で強化された射撃能力により、私は綺麗に綾島聖の頭を撃ち抜いた。そしてそのまま、照準を潜衣花恋へ移す。
(悪く思わないでよ)
 馴染おさなの潜衣花恋への悪感情は、出会った当初に比べれば随分薄らいでいた。何でも見透かしたような物言いは全く不快ではあったが、与えられた待遇はそう悪い物でもなく、話も通じた。
 だが、だからと言って、彼女を殺すのを躊躇う理由になどなりはしない。馴染おさなには譲れない目的がある。
(さよなら)
 引き金を引き、銃弾が発射され、潜衣花恋に着弾……する事は、ない。
「え?」
 引き金が途中で引っかかっているのだ。ストッパー?
『言ったろ、特別製だってな』
 トランシーバーから聞こえてきた、花恋の声。何もかも、見透かしたような。
『こっちからセイフティをかけさせてもらった。それはもう使い物にはならないよ。正義のヒーローの武器が、悪役に使われちゃいけないからな』
「……あら。最後まで信じてはくれなかったのね」
『立場が逆だったら、私も殺そうとしたよ。お前はまっすぐじゃない。私は一緒に歩けない』
「まっすぐに生きられる人間なんていないわ」
『いる』
 おさなはライフルとトランシーバーを捨て、双眼鏡で花恋を確認する。彼女は聖の死体にカバーをかけて、女装祥勝ロボを連れて立ち去ろうとしていた。
(マントなんて背負って、カッコつけて)
 おさなとてこのような状況を想定しなかった訳ではない。ダッフルコートの内ポケットに、使い慣れたデリンジャーとナイフの感触を確かめる。
(ここからが勝負、か)
 綾島聖の欠片が宿った腕時計を、そっと撫でる。あとは潜衣花恋だけだ。


(幼馴染み化能力って情報を信じるなら、今回は戦場の巡り合わせが良かったな)
 能力考察に長けた掃き溜めメンバー"大泥棒"の言葉を思い出しながら、花恋は歩く。
(空港となりゃあ、職員のセキュリティ意識は相当なモンになるはずだ。たとえ幼馴染みがホイッと現れた所で、言う事は聞かないだろう。裏の情報屋なんかとは話が違う)
(そうなると危険なのは)
(やっぱりババアが狙われた時だな)
 ……サイレン音がやかましい。綾島聖による飛行機墜落を受けて、警察以下様々な組織が北埼玉空港に集まっている。時間が経てば経つほど他人に見咎められるリスクが増える。
 そうなった時不利になるのがどちらかと言えば、これがなかなか難しい。花恋ならば記憶や意識を奪ってやり過ごせる。おさなは発見者を幼馴染みにして巻き込まれたフリをしてやり過ごせる。
 ただこの方法はどちらも、複数人に同時に見つかった時は対応が一気に難しくなる。その時の事を考えると女装祥勝ロボを連れている分ややこちらが有利か。
(だからって、隠れて自滅を待ったりはしないけどな)
 おさなを一秒でも長く野放しにすれば、その分彼女に心を弄ばれる人間が生まれるリスクが増える。それは許されない。綾島聖を討つために彼女を生かした自分の罪を滅ぼすためにも、おさなはこの手で、迅速に討たなければ。
 飛行機墜落時に避難したのだろう、空港の建物内に人はほとんど存在していなかった。無機質な光が室内を照らす。誰もいない下りエスカレーターに足をかけた所で、眼下におさなの姿を認めた。
「探したわ」
「私もよ」
 二人は同時に動いた。花恋は地を蹴り退いて、おさなは拳銃を抜き撃つ。その射撃精度は正確無比。コンマ数秒前に花恋の顔があった場所を通過し、髪を数本攫っていった。
「祥勝ロボ、GO!」
『魔人ヒーロー・ブラストシュート参上! 俺の怒りの炎を受けろ!』
 名乗り口上を再生しながら女装祥勝ロボは跳躍し、ターゲットである馴染おさなを視認した。胸からマシンガンを展開し、乱射しながらエスカレーターベルトを滑り降りる。
「改めて見ると、それが私って腹立つ!」
 弾丸を柱の影で凌ぎ、エスカレーターからフロアへ着地する一瞬の隙を狙って顔を出す。狙いは展開されたマシンガン部。銃撃、三連続。常識を超えた射撃能力で見事に銃口を破壊した。
『まだまだ! ブラストシュートに敗北はない!』
 女装祥勝ロボの首が後方に折れると、そこから新たなマシンガンが現れ銃弾をばらまき始めた。パラパラという軽い銃声と共に、マシンガンの反動で女装祥勝ロボヘッドの女物のカツラが乱れ舞う!
「っていうかそこまでして、人型偽装ロボの自覚あるわけ?」
『答える義務はない!』
 動き続ける女装祥勝ロボと柱を挟んで180度の関係を維持する。カラカラ、と乾いた銃声。弾切れだ。即座に装填作業に入るが、その隙を逃さず女装祥勝ロボへ向けて銃撃、銃口破壊! 更にそのまま接近し、
「じゃあね」
『ブラストシュートは不滅だ! また会おう!』
 首に拳銃を押しこみ、残弾を全部撃ち尽くした。動かなくなった女装祥勝ロボを背に弾薬を装填――しようとして、すぐに拳銃を放り捨てた。花恋が別ルートでフロアに降り、まっすぐに駆けて来ている!
 花恋は右手を構える。おさなはナイフを抜く。間合いは3メートルを切った。腕を動かしながら、おさなが口を開く。
「花恋ちゃん!」
 名前を、呼ぶ。

 馴染おさなが戦いにおいて何より重視するのは、情報だ。当然、自分の能力に関する情報も把握している。
 今回のように直接の戦闘になった際、おさなの魔人能力はほとんど意味をなさない。戦いの中で相手が幼馴染みだった事を思い出した所で、それとは別に戦いの動機が存在する以上、戦いを止める事は難しいからだ。相手が幼馴染みだからというだけで戦いを止めるなんて、それこそ青臭い高二男子ジュブナイラーくらいだろう。
 だが、相手が幼馴染みである事を戦いの最中に唐突に思い出せば、どんな人間であれその鮮烈な想起により、思考がオーバーフローする。行動が一瞬だけストップする。ほんの一瞬の隙が生まれる。
 そしてその一瞬が戦いの白黒を分ける事は、決して珍しい事ではない。
 これが馴染おさなの戦いにおける、一度だけの切り札。

 増強された動体視力が、花恋の瞳の変化を捉えた。彼女の脳裏では今、まったく唐突に、おさなとの思い出の日々が展開されている。間違いない。性別も同じで、年齢も近い。効果は覿面のはずだ。戦いの動機が消えずとも、ほんの数瞬、行動を遅らせるだけで。
(私は勝つ)
 ナイフを振るう。射撃のために強化された肉体の正確性は確かだ。銀の一閃は間違いなく花恋の首筋を切り裂く――
 はずだったのに。
「ッ!」
「!?」
 花恋は一切の躊躇なくナイフを手で受け止めた。ぐにゃりとナイフが歪む……ナイフの鋭さを奪ったのだ。間髪入れず踏み込みながら、反対の手を振り上げる。咄嗟に身をよじったおさなの半身を縦に切り裂き、血が噴き出た。
「な……んで!?」
 痛みや怒りよりも、困惑が先走って口をついた。花恋は苦笑する。
「おいおいおい……分かっちゃいたけど、とんでもないな。お前が、相手を幼馴染みにする能力だって知ってても、私は今、お前の事を幼馴染みだと思ってとても疑えないぜ。とんでもねえな」
「なら、どうして!」
 確かに花恋は幼馴染みになった。だというのに、ほんの一瞬の隙すら生まれる事はなく、攻撃を防御し、反撃までしてきた。
「どうしてってなあ」
 ……至近距離にまでなって、初めて気付いた事がある。
 花恋のマント。そこに記されている文字。


『とにかく勝て! ――"無敵の楯"』『デンデラ! ――"闇神"』『ハイライトサテライト開発キボンヌ ――"カラス"』『ババア生きろ ――"タカマガハラ"』

 馴染おさなの能力の最も恐るべき点は、その問答無用さであると、"闇神"は語った。
 "大泥棒"曰く、花恋を標的に戦いの最中に使われて、ほんの一瞬でも花恋が躊躇してしまう可能性が高い。相手もそれを把握しているだろう、と。

『最高のエンターテイメントを ――"社長"』『俺の考察、無駄にするなよ ――"大泥棒"』『また焼き肉連れてってくれよ~ ――"風天"』『負けたら許さない ――"A子"』

 真っ先に対策として思いついたのは、耳栓を装備する事。だが、戦いの中で音が聞こえないというのはペナルティとしてはあまりにも痛恨である。
 ならばと思いついたのが、たとえ眼前に幼馴染みが現れても、躊躇しないようにするという事。

『超元筆剣モンジにより、これを記す。敗北は許さん ――時ヶ峰健一』『勝て ――山口祥勝』『負けないだろうけど、負けんなよ! ――菊池一文字』

「寄せ書きでもすれば良いんじゃね?w」とは"風天"の案だ。それをマントにする事で、戦いの中で身につけられるようにしようと決めた。
 今までの戦いの結果を背負い、幼馴染みに惑わされないように。

『本当にありがとう ――菊池徹也』『こんど徹子の話を聞かせてください ――菊池由美子』『あなたの無事を祈ります ――蛎崎友樹』『無事で ――蛎崎ユリ』

 ……菊地徹子、蛎崎裕輔の両保護者にも筆を頼んだのは、花恋なりのけじめであった。
 全てを背負って、必ず勝つために、事情を打ち明け、頭を下げ――助力を願った。多くの時間を費やして。女装祥勝ロボの調整に参加できなかった理由が、これだ。

『何があっても、どんな事が起こっても、花恋は私の、たったひとりの、大事な、大好きな妹だからね。
 お願いだから、無事で帰ってきてください。そしてまた、私に甘えてください。 ――潜衣愛花』


(これが『全部』じゃないけれど……)
 大切な、一番大切な友の名は、そこにはないけれど。
(徹子からは、生き方を貰ったから。生きていれば、絶対に一緒だから)
「……私は」
 右手を突き出す。かわすおさな。だが、たたらを踏んで、そのままへたりこんでしまう。呆然と花恋を見上げてくる。
「たとえあんたが幼馴染みでも、背負ってる物があるかぎり、躊躇わない……!」
 拳を握る。これで最後だ。馴染おさなの命を、奪う。
「私は……貫く! まっすぐに!!」

 ――だが、

「……ずるい」
 ふとこぼれた言葉に、拳が止められる。
「ずるいよ」
 馴染おさなの言葉。それは、哀れみを誘ってとか、そんな打算的な物ではない。
 ありのままの感情の発露。花恋の拳が止まったのは、幼馴染みがどうこうという以前に、その姿を、大切な友から受け継いだ生き方が、一瞬……『救うべきもの』と見てしまったから。
「私は、なくすしかできなかったのに」



「殺ャアアアアアアアアアーーーーーーーーーーー!!!!」



「な!?」
 その奇声に振り返った花恋の視界を、巨大な瓦礫が覆い尽くした。
「ばッ!」
 圧倒的速度と質量により吹き飛ばされ、壁に激突される。尻もちをついているおさなは辛うじて無事で、瓦礫を投げてきた者の姿を認めた。
 綾島聖。ただしその筋肉は赤黒く膨張し、その形相は悪魔の如きである。堕天使の相――!
「殺ーーーーす! 殺す殺す殺すブチ殺すすすすああァァァァーー!!」
「な……んで」
「何でだと? あ゙ぁ? なんだテメエエエ!? 何でも良いか! 殺シヒィィィ!!」
 確かに、確かに綾島聖はおさながこの手で殺したのだ。迷宮時計の欠片の移譲だって行われ……
(違う、そうじゃない)
 生命の危機を前に、おさなの脳が恐るべき速度で回転を始める。この局面を切り抜けなければならない。
 だが何ができる? 聖はもはや数メートルの距離しかない。あの豪腕に触れられれば、Mr.チャンプよりも容易くおさなは死ぬ。肉片すら残るまい。
 この間合い・時間でできる事と言えば、そう、ほんの一言二言何か言うだけじゃ……

『綾島聖ってのは本名じゃない』
『《糸目》の落ちこぼれの『実験体一号』』

 ――馴染おさなの魔人能力。
 呼びかける名前が本名である必要はないものの、幼い頃に使っていた名前である必要がある。

「一号」
 綾島聖の腕が、馴染おさなを消し飛ばす直前で止まった。
「……一号よね?」
 名前を呼びかけ、潜衣花恋とは別の……特に意味がないと思って脳の奥に封じていた、綾島聖に関する考察を思い出しながら、そっと聖の赤黒い腕を撫でる。
「久しぶり。まさかこんな所で会うなんて」



 地下射撃訓練場から、身体強化百姉妹の統治する学校へ向かう"社長"の手配した車内にて。
(……メール来てる)
 花恋は、おさなの物品を特に没収したりはしなかった。スマートフォン等も同様だ。メールを開けば、それは情報屋に頼んでおいた潜衣花恋と綾島聖の情報。
「遅い……」
「はい?」
「あ、ごめん。何でもないの」
 メールの文面を読み流す。情報は殆ど知っている通りだ。思い出される花恋の言葉。
 曰く、綾島聖は敗技の一族《糸目》の性質に目をつけた者が作り出した、最悪の《糸目》である。
 曰く、敗北は概念レベルで発生し得ない。生物兵器というより概念兵器である。
(……本当かしら)
 改めて思い出すと、どうにもこの『概念レベルで敗北しない』というのは、妙に感じる。花恋は確かな確信を持っているようだが、そんなの有り得るのか?

 ――無論、おさなや花恋の与り知らぬ所ではあるが、これは事実ではない。ただ、花恋がそう思い込んでしまっていたのにも理由がある。
 軍用列車の世界(と言えば分かるだろう。花恋が第一回戦を戦った世界である)において、花恋と徹子は《糸目》の一族を滅ぼした。それは最悪の《糸目》――概念レベルで敗北し得ない存在――の発生の予兆を察知したからだ。
 戦いを通じて、花恋は実験体一号と呼ばれていた最悪の《糸目》候補に『綾島』の姓が与えられる予定だった事を知った。
 後に二人は、この実験体一号に別の名を与えて自分たちの息子とし、全く別の人生を開いてやったのだが、それはまた別の話――

(でも、確かに綾島聖は敗北していない……Mr.チャンプにだって、あんなだったし)
 つまりものすごく強い、ということなのだろうとおさなは解釈し――ふと、メールの一文に視線が留まる。
『綾島聖は、敗北できないという性質から、《糸目》の落ちこぼれであるとされている』
「……ん?」
 引っかかる。敗北を至上とする《糸目》からすれば、『勝ってしまう』綾島聖は確かに落ちこぼれなのだろう。
 だが、綾島聖が、もし本当に敗北しない概念兵器ならば、そもそも《糸目》の落ちこぼれなぞという立場に甘んじているのがおかしいのではないか?
(こんがらがってきた)
 切り替えよう。メールに添付されていた《糸目》に関する資料に、おさなは目を通し始める。


「……ねえ」
 悪鬼そのものの形相でこちらを見る聖に、おさなは生きた心地がしない。だが、恐怖を飲み込み、聖の手を掴み、瞳を見つめ続ける。
 恐れるな。少し馴れ馴れしいくらいに接しろ。幼馴染みとはそういうものだ。
「私が分かるよね、一号?」
「…………おさな」
 年齢の離れた二人であったが、綾島聖はすんなりと幼馴染みの存在を受け入れた――何故か? 理由は至極簡単。
 《幼馴染み》もまた、《糸目》と同じく敗北の宿命を背負った存在だからである。自分が対象を誰よりもしっているという思い込み、いわば『うっかり』と、対象に別の恋愛対象が生まれた事により、幼馴染みから女へと『変貌』していっそうに対象から引かれる――戦闘基軸での敗北宿命存在が《糸目》であれば、《幼馴染み》は恋愛基軸での敗北宿命存在なのだ。ゆえに最初から、幼馴染みに対しては無意識下で強いシンパシーがあった。
(失礼しちゃう)
 最初にメールの添付資料を見てこれを知った時は、さすがのおさなも憤慨しかけた……が、なるほど確かに現実問題、馴染おさなは負けていた。そこに『うっかり』『変貌』が絡んでいたのも、事実かもしれない。
「そうよ。おさな……〇三七号。あなたと同じ、実験体……って言ったほうが、通じる?」
「あ、ああ……」
 スナッフビデオの中、Mr.チャンプを殺害した後、観客全てを残虐殺した堕天使の姿は、もはやそこにない。聖は膝をつく。三分の時間制限が過ぎたのだろう。元の神父姿に戻った。
「ぅ……」
 花恋がうめき声を上げた。時間の余裕はあまりない。何か決定的な糸口を掴まなければ。呆然とした聖に向け、おさなは囁く。
「ねえ。一号。聞いて良い?」
「なん、でしょう」
「あの子は、あなたが敗北しない存在だって言ってるけど、そんな事はないわよね?」
「……ええ、もちろん」
 聖はいびつに、しかし目を糸のように細めて笑う。
「私は《糸目》……敗技の一族なのですから。敗北する存在です。ただ、私は落ちこぼれなので、上手く行きませんが……」
「上手く行けば、負けるの?」
「ええ」
「それってイヤじゃない?」
 おさなの問いに、聖が固まる。おさなの口から疑問が溢れる。
「だって、そうでしょ。負けたら何かを失うし、痛かったりするし……何で敗北なんてするの?」
「それは……そういうものですから」
「そういうものだから」
 その程度の答えしかないという事は、つまり
「……一号は、本当は勝ちたくて勝ってるのよね?」
「!?」
 息を飲む聖。おさなは続ける。
「初めからおかしいと思ってたのよ。だって、勝つことができるなら負けるなんて造作も無いでしょ? なのに勝ってしまうなんて、おかしいじゃない」
「っ、それは違います。私は《糸目》なのですよ? 敗北以外に、何を」
「分かった。その言い方で分かった。……一号は《糸目》でありたかったんだ」
「な」
「だって、勝ちたくて勝ったら、もうそれは《糸目》じゃないんでしょ? 負けたくないけど、《糸目》でありたい……生まれを大事にしたい。そう考えたら、ふふ、確かに『落ちこぼれ』になるしかないよね」
 呆然とする聖。一方のおさなは、すとんと何かが腑に落ちた様子だ。綾島聖にまつわる言い知れない違和感が、ようやくすっきりしたかのような。


「なんでお前は……勝たないんだよ!?」
 実験体五号が、実験体一号に向けて叫ぶ。一号の返事は冷淡だ。
「負けが正しいから」
「たっ、正しいなら……それが正しいならよお……」
 涙と鼻水混じりの粘度の高い声で
「お前は本当は、勝ってるんじゃねえのかよお!?」
 ――実験体一号の心に、生涯消えぬ楔を打ち込んだ。

 一号は結局、実験体の目標としていた、概念レベルで敗北しない存在にはなれなかった。
 失敗作となった一号を、計画推進した権力者は《糸目》へと返した。
 一号の居場所は《糸目》の中にしかない。
 しかし、一号は敗北を望まない。
 だから、一号は……綾島聖は決めたのだ。見かけ上は《糸目》として敗北を目指しながら、勝利を獲得するように。
 たとえ誰もが見ていなくても、世界が自分を《糸目》と認めるように。それならば彼は、落ちこぼれで済むから。
 事実、たとえば何か超越的存在が、迷宮時計を巡る綾島聖の戦いの一回戦、二回戦、三回戦を見ていたとして……綾島聖の内心を、思考を知る者は、誰一人としていないはずだ。
 本当は彼は、常に《糸目》のような愚かで敗北に邁進する行動を取りながら、いかに勝利するかを常に常に考えていたのだ。
 今回も、そうである。常に《糸目》であればどう動くかを考えつつ、一度は死すら偽装して――実際に死んだのは間違いないが、生涯一度きりの自動蘇生能力を意図的に遅らせ、不意を突く機会を作った――勝利を目指した。
 彼はそうして、いかにも《糸目》らしいムーヴで勝利を得る事で、己の勝利の欲望を満たしながら、世界を騙していた。


「もう良いんじゃない?」
 びくりと肩を震わせる聖を、おさながそっと抱き寄せる。
「何を」
「もうそんな、無理しなくて良いって事。《糸目》である事にこだわらなくたって良いじゃない」
 優しく甘い囁き。《糸目》と同様の存在、《幼馴染み》がもたらす誘惑。
「私がずっと一緒にいてあげるから。だからね、あなたの本当に得たい物を手にして良いと思うよ」
「……っつう!」
 潜衣花恋がガレキから這い出て立ち上がった。綾島聖の耳元で、おさなはそっと囁く。
「――それがきっと、私の好きな一号の姿だから」
「――――」
「な、んだ、おいおい! お前ら、何を話して」
 おさなはそっと、聖の頬にキスをする。聖は花恋に向けて立ち上がった。花恋の顔色が変わる。
「……まさか、お前」
「ありがとう、おさな」
 凛とした声。それは聖の本来の声だった。《糸目》らしくあれという自発的抑圧を跳ね除けた、本当の聖の姿がそこにあった。
「今までずっと、僕は縛られていたんだろうな……でも、それを君が解き放ってくれた」
 こつり、こつりと花恋へ歩み寄る聖。カソックの残骸が崩れ落ち、筋骨隆々とした上半身が露わになる。その背から、六枚の光翼が顕現する。
 獣魔爆身・熾天使の相。糸目の呪縛から解き放たれた綾島聖の、真実の力。
「だから、今度は僕が君を救いたい……僕はどうすれば良い?」
「分かってるでしょ?」
 おさなはくすりと笑い、己の隷奴へ命ずる。
「潜衣花恋を殺して、そいつの迷宮時計の欠片を私にちょうだい」
「分かった」


 光翼は、マントの欠片すら残さず、怨敵を灼き払った。

最終更新:2015年01月31日 15:38