裏準決勝戦SS・マンションその2


「んー……齊心合力……みんなで協力して、だったかな……うーん、あとはわからん」

 腰掛ける安楽椅子探偵の前には、ひび割れたコンクリート壁があった。そこに書かれたかすれた黒の筆跡は、彼女の目にはまるで踊る人形のように映る。

「まあ建物案内じゃなさそうねぇ。中国語もちゃんと勉強しときゃよかったわ」

 トレンチコートに身を包んだ探偵、古沢糸子は背もたれに深く身体を預けると、死者からの恋文にも似たそのメッセージを頭から放り捨てた。天井から染み落ちる得体の知れない水滴が、彼女の背後に水音を立てる。


 その水音が不規則に途切れた瞬間を彼女は聞いた。椅子を素早く半回転させると同時に懐から取り出した回転式拳銃を、まっすぐに目前の標的へと向ける! ……すると廊下にうず高く積もれた生ゴミの山から太ったネズミが駆け出し、切れ掛かった蛍光灯が苦しげに明滅する薄闇の奥へと消えていった。

 水音が再び響き渡る。糸子は苦々しげに右手の銃を下ろすと、そのシリンダーを親指で軽く弾いた。弾倉から飛び出した涼やかな薄荷色の球体を歯で受け止め、噛み砕く。

「……それにしてもこのニオイ、もうちょっと手加減してもらいたいわ」
ミントチョコレートの芳香でもなお打ち消せない腐臭の中、糸子は眉をひそめて呟いた。

「雲類鷲(うるわし)ジュウ。もう、とっとと出てきてくんないかしら。お互いこんなとこで長居なんかしたくないでしょうに」


 ■ ■ ■


 世界には「魔窟」と称される場所が存在する。古沢糸子と雲類鷲ジュウ、二人の戦いの舞台として選ばれたこのマンション群は、まさしくその中でも一、二を争う混沌であった。

 陽光の射さない苔むした窓。床にも壁にも染み付いたヘドロ。悪臭を孕む澱んだ空気。天井から水道管がわりのゴムホースやむき出しの電線が絡み合って垂れ下がる様は、まるで巨人の臓腑の内部を思わせる。五百棟もの乱雑な住居が互いを支えあう巨大な集合住宅地は、そのような陳腐な比喩を超えて、自ら成長し代謝する一つの生命と呼ぶにふさわしかった。

 巨人の名は、九龍城砦という。香港は九龍城市街に存在する、法の網のほつれと無秩序な建築が産み出した鉄筋コンクリートの迷宮である。

 幼稚園、賭博場、精肉工場、無免許医、海賊印刷所、教会、介護施設、猥褻映画館。二万八千平米ほどのその地には、人の営みの全てがあった。


『――警告、警告。通学路を外れています、学童。特級有害区域。青少年に甚大なる悪影響ををを直ちに焼却焼却焼焼焼焼』
「知るか」
赤毛の少年の右腕に装着された胡乱な機械が、歪んだ機械音声と共に煤けた蒸気を吹き上げる。だが当の「学童」はその小言を意に介する様子も無く、ただ悠然と黒のジャケットをなびかせて無人の廊下を歩いていた。
 歩くたび、腰のベルトの装飾鎖が、首元の真鍮のゴーグルが、右腕のPTA――迷宮時計と一体化した狂える人工知能――とともに乾いた金属音を立てる。

 彼こそが、PTA少年・雲類鷲ジュウ。未来世界の支配者たるPTAに抗いながら、その身体にPTAを宿し、自らPTAたらんとする、PTAの申し子である。


「それにしたって、こんなナリでもマンションなんだろ? 何だって人間がこれっぽっちも見あたらねえ」
一人そう呟くなり、彼は壁に備え付けられた金属パイプを殴りつけた。拳の跡に、不可思議な圧力メーターのヴィジョンが浮かび上がる。その一瞬、中空の換気用パイプは殴られた箇所からゴム風船のように丸く膨張し、十倍もの容積に膨れあがった。膨らみはパイプの中を這いずるように移動し、床下へと消えていった。

 少年は元通りの細さへと戻ったパイプを壁から引き剥がし、己のこめかみを当てる。
「まあ、その方が都合がいいけどな。…………見つけたぜッ!!」
叫びと同時に、階下からくぐもった爆発音が響いた!
「ハハッ! しっかりと響いたぜ! テメェの心臓のポンプ、その圧力がよ!」

 少年はマンションの床を殴りつける。取り付けられたメーターの針がくるくると回り、奇妙に膨れ上がり、そして内側から破裂する。崩れ落ちた穴から階下へと降り立ち、即座に目の前の壁を殴りつける。壁が膨張、破裂する。飛び散る瓦礫をものともせず、ジュウはまっすぐに進んでいく。パイプを通じた内圧操作で圧縮空気を爆発させた、その地点へと。

『学童、赤点赤点です。廊下を走ってはいけません。通信簿に永続記載を』
駆けつけた目的地、瓦礫の向こうには、ラッパのようにねじり開かれた金属パイプと、安楽椅子の女があった。

「古沢糸子……で、いいよな、お前」
女は埃にまみれた長い黒髪をかき上げ、ジュウの問いかけに応じる。
「はあ、商売上がったりだわ……人探しで先を越されるなんて」


 打放しコンクリートの廊下にて、にらみ合う両者。糸子を見据えるジュウの目は細く吊りあがり、その全身からは好戦的な黒い蒸気が音を立てて吹き出す。
「大人。大人だな! クソが……くたばれ、PTA。真のPTAは俺一人で十分なんだよ。大人は死ね」
糸子は拳銃を持つ両手の肘を曲げたまま、対話を投げかけた。
「一応聞いておきたいんだけど、話し合いで解決とかしたくない?」
「誰が。お前みてェなおばさんと話が合うわけねえだろ。歳考えろよ、なッ!!」

 少年は左足を勢いよく踏み出した。ただそれだけで、足をついた床が丸く膨れ上がり破裂する。雲類鷲ジュウの魔人能力、その本質は圧力(プレッシャー)という概念そのものの操作! 足元の爆発力を加速度へと変えて、ジュウは一足に糸子との距離を詰める!
 だが彼の繰り出した大振りの右手は糸子を捉えることなく大きく空を切った。探偵の座る安楽椅子の機動力は、その一瞬で彼女を5メートルほど後方へと運んでいた。

 床に描かれたブレーキ跡の向こうから、探偵は二挺拳銃の銃口をまっすぐに向ける。余裕ありげな笑みはそのままに、だが纏う空気を決定的に一変させて、その口を開いた。
「んー。きみきみ。ちょーーっとよく聞こえなかったんだけど。あたしのこと何て呼んだかな?」
「あ? そっちこそ何か言ったか? おばさん」
「……ほーう? あたしがそんな安っちい挑発に乗るようなバカに見える?」
「見えるぜ。おばさん」


 糸子はにっこりと微笑み返し……両手の引鉄へと指をかけた。
「大正解だよクソガキィーーーッ!!」

 BLAMBLAMBLAMBLAMBLAMBLAM!! 二丁拳銃から連射される弾丸! 少年は両腕を身体の前で交差させその銃弾の嵐に耐え抜く!
『128円。160円。192円』
右腕のPTAが無機質なカウントアップを告げる。彼の肉体に撃ち込まれるその銃弾は鉛玉ではない。銃口から飛び出したそれは、黒褐色のチョコレート弾! アメリカ製の粗野かつ重厚なフレイバーだ!

『320円。オーバー。学童、おやつは300円までです。速やかに352円廃棄をさもなくば廊下に立ち384円銃殺416448480512』
糸子の甘い銃弾は次々に袖口に仕込んだケースから手に持つリボルバーへと吸い込まれ、人智を超えた連射速度で撃ち出されていく!

「言われなくても……なぁッ!!」
砂糖菓子の暴雨の中、少年が両腕を大きく振りぬくと、傷口から飛び出したチョコレート弾が凄まじい速度であたりに撒き散らされ、コンクリート壁にいくつもの穴を開けた。自らの肉体の内圧を高めてリターンギフトを射出したのだ!

「ええー……非殺傷用のガム弾とはいえ、どんだけ丈夫なお子様なのよ!」
直撃を避けた糸子は銃撃を中断して身構える。
「テメーはどうだ……? 耐えてみろよ」
その反撃により破損したガス管から、異臭を放つ気体が漏れ出ていた。少年はそれを掌の内にぐっと握り込む。指を開くと、そこには針のついたメーターが浮かび上がる白い圧縮気体が浮かび上がっていた。

「……燃え尽きろッPTA!!」
ジュウは空中のそれを振りかぶった拳で殴りつける。一瞬のうちに超圧縮された可燃性ガスは閃光を発して燃え上がり、高速で吹き飛んだ。空中で大きく軌道を曲げた火球は糸子を逸れて壁へと突き刺さり、大爆発を起こす。雑多に詰まれたゴミ山が瞬く間に炎で包まれた。

「ハハッ悪いなあ、テメーと違って射撃が下手でよ。だけど数撃ちゃあ別だッ!!」
少年の拳から次から次へと燃え上がるメーター付きの人魂爆弾が産み出され、糸子の元へと飛来する! 彼女は安楽椅子のまま徐々に後ずさることしかできない。いつしか探偵は炎が渦巻く廊下の突き当りにまで追い込まれていた!

「反抗期がずいぶん遅いんじゃないの!」
BLAM! 退路を立たれた糸子は苦し紛れにジュウを狙って銃弾を撃ち込む。能力を込められたその弾丸はしかし、空中で生き物のようにその軌道を変え、天井から垂れ下がる水道管のひとつへと突き刺さった。
「水道で消火しようってか? だがなあ、そんなちっぽけな水量で俺のPTAが消せるか! くたばりやがれPTA!!」
少年の真上から流れ落ちたその水は、だが、ただの水ではなかった。

「少年、一つお姉さんが教えてあげよう」
「……ぶっ! 臭ェ! なんだ……畜生、クソが!! 臭ェ、畜生!!」
糸子が破壊したそれは、上階の生活排水全てを通す下水管! 呼吸も構わぬほどの悪臭が少年を苛む! 降り注ぐ汚水にまみれて目を開けることすらできない!
「大人はね、ズルいのさ」
彼女はその隙を逃さず安楽椅子を急発進させ、苦悶する雲類鷲ジュウの側を駆け抜けていった。
「がっ……畜生……くたばれ、くたばれ…………」
闇雲に振り回される少年の拳が、その右肩をわずかにかすめた。コンクリート壁にエンジン音を響かせ、探偵は闇の中に姿をくらませていった。


『学童、身だしなみに注意。服装の乱れは心の堕落を招きます。不良少年は処刑対象です』
可燃物を燃やし尽くした炎が消え去ったあと、悪臭の中取り残された少年はどうにか生きている共同水汲み場を探しあてた。砂交じりの粗悪な水道水。だがよほど良い。呪詛を吐き捨て、頭から汚水を洗い流す。
「死ね。大人は一人残らず死ね。くたばれ。くたばれPTA」

そこで、少年は背後に何かが落ちる軽い物音を聞いた。彼は閉ざされた目を開けて振り向いた。
「……子供、だと?」
そこには空のペットボトルを大量に抱えた少女が、彼におびえた目を向けていた。


 ■ ■ ■


 古沢糸子が逃げ込んだマンションの一室。探偵の嗅覚は、打ち捨てられた飴工場に擬態されたその部屋が、かつて粗製ヘロインの製造工場であったことを暴いていた。
「ハァ……ハァ……ッ!…………」
探偵はコートを脱ぎ捨て、PTA少年の一撃を食らった箇所を手で押さえつける。シャツをはだけたその右肩には圧力メーターが浮かび、吹き上げる蒸気とともに内側から皮膚をはち切らんとしていた。
 懐から取り出した板チョコレートを、むさぼる。一枚。二枚。足りない、もっとだ。その様はまさに麻薬中毒の禁断症状を思わせる鬼気迫るものである。

 探偵と薬物と。有史以前の太古より、その両者は切り離せない存在であった。かの魔人探偵シャーロック・ホームズがアヘンの常用者であったことは周知の事実であろう。ある者はアルコール、また別の者は葉巻煙草、あるいは睡眠薬など個々の形態は異なるが、探偵はそれらがもたらす神秘的な作用を元に、神がかりとも思える推理を披露する。糸子にとってのチョコレートはまさに麻薬であった。

「くうっ……」
糸子は震える手で歯形の付いた板チョコレートを放り投げた。壁にぶつかったそれは、手榴弾のごとくの大爆発を起こし、コンクリート壁をたやすく崩壊させた。
 PTA少年・雲類鷲ジュウの『くたばれPTA』。圧力操作の能力は、対人には精神の重圧(プレッシャー)を消し去る作用として働く。体重、血糖値、虫歯への恐怖……糸子の暴力的嗜好を押さえつけていた抑圧は、もはや存在しない。開放と解放は、彼女の魔人能力『サヴォイ・トラッフル』にさらなる進化と深化――『ACT2』の開花を促した。


 ■ ■ ■


『地域の子供を助ける。良い心がけです。学童、花マル二重マルをあげましょう。あと二つで表彰状が授与され』
「いらねえよ」

 敵を見失ったPTA少年・雲類鷲ジュウは、両肩に10リットルの水を抱え、きしむ階段を登っていた。十歳にも満たない、粗末な洋服の少女が彼を先導する。
 状況を察するに、この水汲みが少女の生活における仕事の一つのようである。建築法上想定外の高層階まで押し上げるには水圧が低いために、少女の住む部屋までは水道水が十分に行き渡らないのだろう。

「だったら下の階に移りゃあいいだろ……どこの部屋もがら空きじゃねえか」
日本語を解さない少女は、少年の言葉に反応を返さなかった。
「なんでお前だけ居座ってるんだか知らねえけどよ」

 4,5階ほど登った先に、少女の自室があった。ジュウは少女の招待を待たず、壊れかけた扉を蹴り開けた。少年は生ゴミに埋もれた台所にペットボトルの水を下ろし、部屋を立ち去ろうとした。

 そこで、彼は室内の奥にあるものを見た。湧き上がってくる感情は、ただただ純粋な怒りだった。

「……そいつがお前のクソみてェなPTAか」
その目線の先には、薄汚れたベッドに横たわる老婆がいた。


 日本をその支配下に収めるずっと以前から、PTAは抑圧の象徴存在としてあり続けた。圧迫の対象は子供だけではない。強制加入、過酷な役員決め、脱退者への制裁……それは母性という名のくびきにはめて子供らを正しく浄化するという暴走した理念をも超えて、PTAそれ自身にすら及ぶ頑強な鎖であった。形持たぬ束縛意識が人工知能という実態に置き換えられてなお、PTAは自身を律し続けた。それこそがPTA少年・雲類鷲ジュウの目指す彼の完成形であった。

 誰よりも抑圧を嫌いながら、誰よりも自らを抑圧する。そんな矛盾を抱えた雲類鷲ジュウにとって、肉親たる少女を狭い部屋に縛り付ける寝たきりの老人は、呪いそのもの、あふれ出る憎悪と軽蔑の対象でしかなかった。


『お年寄りは敬いましょう。お年寄りは大切にしましょう。お年寄りは』
肩を怒らせてベッドへと歩み寄るその姿を見て、少女は彼の意思を悟った。目の前でけなげに立ちはだかるその少女を、少年は片手で払いのける。
「大人は死ね。子供は従え。くたばれPTA」
雲類鷲ジュウは老婆の枕元に立ち、右腕と、そこに装着された狂ったPTAを振り上げた。

「やめておきな」
それを制したのは、室外の廊下から銃口を向ける安楽椅子探偵であった。

 リボルバーを掲げる彼女の右肩は、分厚いコートの上からも視認できるほどに膨れ上がっている。
「……『ACT2』の調子はどうだよ、え?」
「おかげさまで、絶好調だよ。今のあたしの銃撃なら、あんたを跡形も無く吹き飛ばせる」
「やってみろよ」
「やらないよ」

 3メートルの距離を空けてにらみ合いつつ、両者は押し問答を続けた。
「このクソPTAを巻き込むからってか? よく見ろよバカ。そいつはもうくたばってる」
老婆の乾いた唇に蝿がとまった。彼の言う通り、その肉体はぴくりとも動かなかった。2,3日ほど前に既に絶命していたと見える。少女がそれを知っていたかどうかは、その顔からうかがい知れない。
「撃てよ」
「撃たない」
「テメェには関係ねえだろうが!」
「……それでもだよ」

 少年は老婆の死体へと手をのばす。
「破裂させて攻撃する気? やめろって言ってるだろ」
彼が殴りつけた死体は、超高血圧の水圧カッターと化す。少年の得意とする奇襲である。
「命令するな……指図するんじゃねえ」
だが少年はゆっくりとその腕を下ろした。力なく座り込むおびえた少女の目がそれを見つめていた。

「お前、探偵だろ……テメェらはいつもそうだ。十戒だと? 二十則だと? いつもいつも下らねェルールばかり圧し付けやがって」
雲類鷲ジュウの肌の下、血の通う肉体が沸騰するかのように蠢く。
「あたし本格派のお偉いさん達とは仲悪いんだ。だから勘弁してよ」
「いいか、自分勝手に規則を圧し付けていいのは俺ただ一人だ。俺が、俺だけがPTAだ! 俺が俺のみに許した権利だ!! 俺だけなんだッ!!」

 少年の叫びと同時に、彼の肌の全身至る所の血管が、内側からパンクした。吹き出す血液、そして黒い蒸気と呼応するかのように、糸子の傍らにある、部屋の入り口の扉、薄い戸板がパンケーキのように膨れ上がった。
「……!」
「ハハハハハハッ! さっき蹴り飛ばしてやったからなあ!」
扉の爆発と同時にPTA少年が飛びかかる。糸子を乗せた安楽椅子は急発進のバックで、はす向かいの部屋へと逃げ込んだ。
「撃てよクソがッ!! 舐めやがってッ!!」
ジュウが部屋を飛び出すと同時に、扉が閉まる音が聞こえた。

「逃げ込んだつもりかよ! 下らねえ!!」
ジュウは部屋の扉を両手で殴りつける。殴るごとに、少年の肉体はゆがみ、ひしゃげ、裂けていく。裂け目から黒い蒸気が怒濤のように吹き出す。目的は扉の破壊ではない。やがてマンションの小部屋を取り囲む壁が、床が、天井が、内側へと凹み始めた。
「ぶッ潰れやがれッ……PTA!!」
コンクリートの壁がめきめきと音を立ててゆがみ、内容物を圧し潰していく。内圧が極端に低下し、仮想的な真空状態となったその部屋に、周囲の物質全てが圧倒的暴力となって襲いかかった。
「くたばれ、探偵! 望みはこれだろッ! これが密室殺人だッ!!」


 BLAM……!


 その銃声は、少年の真上、幾多もの配管に隠された天井から響き渡った。
「……密室講義、大分類の一。犯人は密室内にはいなかった。ま、あたしゃ授業も真面目に聞いてなかったけどね」
大人一人など隠れる余地もない頭上の空間に、安楽椅子を捨てた探偵は潜んでいた。それを可能としたのは彼女の身体特徴。安楽椅子上の膝掛けに隠されたその肉体は、両足を欠いていたのだ。
「さすがに探偵がこの領分で負ける訳にはいかないのよねえ」

「……何でだよ」
雲類鷲ジュウが口を開く。『くたばれPTA』により強化された魔人能力の『ACT2』。糸子の『サヴォイ・トラッフル』により発射されるチョコレート弾は、背後から彼をまるごと消し去るほどの威力を持つはずである。だが、それは起こらなかった。
 拳銃から撃ち出されたのは、彼女が唯一つ隠し持っていた実弾であった。純粋な物理法則だけで打ち出された何の変哲も無い鉛の弾丸は、彼を傷つけることなく右腕のPTAに融合した迷宮時計を器用にえぐり取っていた。

『再起動中……再起動中……しばらくそのままお待ちください……』
外れ落ちた迷宮時計が床を転がる。PTAは、憑き物が落ちたかのような、クリアな機械音声を発した。
「何でだよ! 古沢糸子テメェッ!! 殺せただろうがよ!!」
糸子は答える。
「少年。大人は我慢ができるんだよ」


 戦闘はそこで中断された。建物全体を揺るがすほどの振動。それが、轟音とともに立て続けに何度も引き起こされた。床全体が、ゆっくりと、だが確実に傾き始めた。
「くッ……始まった! こんなときに!」
「おい、何だ……何が起こってる!」
「……マンション取り壊しだよ! 壁に書いてあった。相当の抵抗があったみたいだけど、今日が立ち退きの期限だったんだ」

 再び轟音が地の底からコンクリート住居を揺るがした。床の傾きがいっそう加速する。
「だったらなんだよ……関係ねえだろうが……テメェをぶッ潰して終いだ」
なおその拳を向ける少年に、糸子は大きく息を吸い込み……叱りつけた。


「答えろッPTA!! あんたが今やるべきことは何!!」
その迫力に、少年は思わず息を飲んだ。そして二人のPTAは同時に答えた。

「……子供を『子供を』……護る『護る』ッ!!」


 少年はジャケットを翻し、糸子に背を向けて、息を引き取った老婆と共に暮らす少女の部屋へと駆け込んだ。


 少女を抱えた雲類鷲ジュウを待ち受けていたのは、ひしゃげて歪んだ安楽椅子に座る探偵である。その手には目ざとく彼の迷宮時計が拾われていた。
「よしっエンジンはまだ生きてる……動く! 雲類鷲ジュウ! 急いで乗って!」
彼女はそこではじめて雲類鷲ジュウの名を呼んだ。少年は理由もわからないまま動揺を覚える。
「ん? いやいや何勘違いしてるの。前じゃなくて後ろだよ。ほら背もたれに足をかけるところあるでしょ」
「バカ! 自意識過剰なのはテメーだ!!」

 椅子の背に飛び乗ったジュウに、糸子は語る。
「この九龍城砦ってね。文字通り『無法地帯』なんだ。イギリスと中国との緩衝地帯で治外法権、どっちの法律もここには及ばない。つまりだ」
「早くしろよ。何が言いたいんだ、お前」
「つまり、誰かが決めた『法定速度』なんて、無いってこと!」

 そう言うなり糸子はギアを変更、安楽椅子をブースト! 水冷直列4気筒エンジンを搭載したモンスターマシンは瓦礫の降り注ぐ廊下を一直線に駆け抜ける!
「うおっ……本当にバカかテメェ! 加減しろ!」
ジュウは手放しかけた少女の体を必死で掴みなおす。
「少年、最後にもう一個だ。大人はな、楽しいぞー!」
「どこが大人だよッ!! ガキそのものじゃねえか!!」

 超高速で階段を駆け下りる! だがその道筋の途中、剥がれ落ちたコンクリート壁がその行く手を塞いでいた!
「見せてあげるよ、今度こそ。あたしの『ACT2』」
糸子は圧力メーターの付随した右肩からリボルバーを構える。

『サヴォイ・トラッフル&アザー・ディライツ!』

 銃口から発射されたチョコレート弾。茶褐色のコーティングが空中ではがれ落ち、中からはへーゼルナッツの欠片が散弾銃のごとく飛び出した! その一粒一粒が圧倒的な推進力を持って空を舞い、爆発的威力でもって道塞ぐ壁を跡形も無く消し去った!

「うひゃあ! すっごいこれ!」
「俺が引き出したんだよ。感謝しろッ!」


 だが、壊れかけた安楽椅子が三人の重さを抱えて脱出するその速度よりも、建物全体の崩壊が早かった。崩れ落ちる踊り場の床に、安楽椅子が飲み込まれた。

 少年の目に、ゆっくりとした光景が映る。そこにはいくつかの選択肢が提示されていた。落ちていく椅子と探偵。天井からは巨大なコンクリート片。目の前には大きなガラス窓。その遥か下には龍翔道の大路、迷宮時計の戦闘領域外。腕の中で震える少女。その小さな手でジュウのジャケットを握り締める。

 少年は迷わなかった。雲類鷲ジュウは椅子を蹴り、窓を破り、魔窟の外へと飛び出した。その両腕で、圧し潰すことなく少女を優しく抱きかかえて。

「安心しろよ。子供を護るのが、俺の役目だ」

 逆さに放り出された姿勢のまま、最後に探偵と目が合った。
「やるね。カッコイイよ、あんた」
「惚れんなよ、おばさん」

 一瞬きょとんとした表情を見せたその顔は、すぐに満面の笑みへと変わった。そしてその唇が動いた。クソガキ。そう言い残して、探偵は瓦礫の下へと消えていった。


 ■ ■ ■


 魔窟、九龍城砦。数々の悪評と恐ろしい噂に彩られたその伝説のほとんどは、実際のところ、外界の人々の無知と怠慢が作り出した虚像に過ぎない。多くの善良な住人たちは互いに支えあい、話し合って決めたルールのもとで、貧しいながらも素朴な生を営んでいたという。

 全身を襲う打撲の痛みに、PTA少年雲類鷲ジュウは叩き起こされた。血を流し路上で寝転ぶ彼を、大勢の野次馬が遠くから取り囲む。
 探偵は……帰ったのだろう。元の世界へと。彼がここで転がっているのが何よりの証拠である。

 やがて野次馬の中から見覚えのある一人の少女が駆け寄り、おずおずと新鮮な井戸水のカップを差し出した。
『学童、あなたは……本当に、本当によくできました』
迷宮時計を喪っても、傍らに転がるPTAの小言は相変わらずだった。

「そうだな……まずは墓だ。墓を作らなきゃな。お前のPTAと、お前が暮らした、あのマンションの」
彼は呟き、少女と手を重ね合わせた。

「行くぞ。俺とお前、二人の『同窓会』だ」
少女はその手を、力強く握り返した。



(筆者注:我々が住む並行世界においては、九龍城砦は1994年に既に取り壊されている。20年が過ぎた現在では、再開発後に整備された公園にその歴史と面影を一部残すのみである)

最終更新:2015年01月09日 19:53