野試合SS・吊り橋その3


 静岡県は長野、京都と並び人工探偵の三大生産地のひとつとして名高い。
 その由縁は、生と死を孕みながら拡散を続ける富士の樹海そのものにあったと識者は語る。
 人工探偵が単にササニシキによって作られた自動人形(オートマタ)に留まることないのに理由はあった。
 近年、鎮撫のため世界遺産に指定された不死の山は、その山頂にて時に煩う薬を燃(も)し続けている。

 伊藤日車もまた、志半ばで命を落とした探偵のもうひとつの姿だったのかもしれない。

 死を招き寄せながらも、それに伍する何かを生み出し続けようと、この弧状列島は激動し続ける。
 人の血脈は星の地脈に溶け込むほどにか細いものであり、自然の前に頭を垂れるしかない。
 人が星の真似事をしようと、この宇宙(そら)に北海道を打ち上げたのも必然のことだったのかもしれない。
 それは人類の夢である。だが、その夢は、あまりにあまりにも、人類には重すぎた。

 本屋文のささやかな夢がひき潰され、微塵と消えたのもあるいは必然だったのかもしれない。

 死と再生、真実と現実、犯人と探偵……。
 互いが互いを抗しながら、付かずにいること、離れずにいること。
 出来ない、不完全で完全な関係性……唯(ただ)。巴のように在る、人に及びもつかぬ、それでも人。
 答えはすぐそこにあっても、抗い続けるしかない。

 菊池一文字はそれでも立ち続け、貫き通すだろう。それは生者にのみ許された責務だ。
 だって、わかりきっているのだから。
 死から蘇り、犯人がいるから探偵もいる。そして、真実は――。


 現実として、その吊り橋はあった。
 顧みられることなく、朽ち果てながらも、未だあったのだ。
 橋は、生と死、此岸(しがん)と彼岸と隔て、繋ぐ境界線として、儚げであるからこそ存在を許された。

 日本で、いやこの星で最も危険な橋の名を本屋文もまた、知っていた。
 「夢想吊橋(むそうつりばし)とはな、私達魔人に対する当てつけ、か」
 古くは北部から人身御供を人材と称して、運搬の要とした全長一〇〇mを越える山橋も今は昔。
 今にも朽ち果てそうな、人の踏み入ると同時に崩壊の危険を迎えること確実と思われる吊り橋、
 その半ばに放り出された本屋文はこともなげに歩みだしていたが、それにはもちろん理由があった。

 「日本重心分類法(にほんじゅうしんぶんるいほう)」に基づき、体重を配分し姿勢を的確に組み替える。
 図書館学では幾つかの重心分類法が定義されているが、ここが日本である限り本屋文に転倒の危険はない。
 ましてや、二〇三を越える高所での書架作業を日常とし、日々飛び交う銃砲弾の雨を振り払ってきた、
 日本で唯一特級司書の資格を持つ本屋文であるだからこそ、
 「そこに隠れている人工探偵、出てこい」
 右手に貸出カードを持ち、油断ないこんなセリフを吐くことが出来るのだ。

 「降参です、本屋女史」
 カードを向けたその先、その前方から両手を挙げて、戦意の無いことを示した人工探偵が現れる。
 右肩には大輪のひまわり、木陰に揺れる日差しの中でも場違いなほどに輝いていた。
 「光を操る能力か……。それも素材はヒノヒカリとの混合種(ハイブリッド)というところ……?」
 その推理を首肯するかのように、向日葵の持ち主、日車の瞳がまんまると見開かれた。
 その白髪を中空に絡める様にして、一体どのように直立しているのかと思わせる。

 光を集めている? 特級司書の権限に今は感謝しつつ、本屋文は言葉を紡ぐ。意図を図るように。
 「降伏が真実と言うのなら、その目を閉じろ人工探偵」 
 言われるままに日車はその瞳をぎゅっと閉じたが、双方止まることは無かった。
 司書の手から図書ラベルが全周に向けて撒き散らされ、第三の目から溢れる様に光が放たれる!

 果たして、紙吹雪が収まった時、そこには全身の至る所に数字の張り付いた探偵達である。
 本屋文の魔人能力「コニサーズ・チョイス」は目にしたものの真贋を見極める能力である。
 当然ながら、伊藤日車の「誤読誘導光線」による本体の偽装は目にした瞬間に看破した。
 加えて、真贋の判別とは一種の定義付けである。ステルス迷彩も実体までをなかったことには出来ぬ。
 定義し、分類することが分類法の基本と言うならば、本屋文は誤読(ミスリード)を許さない。

 「菊池一文字、お前は植物ではなかったな?」
 今回、ラベリングの対象としてばら撒いたのは「植物学」および「動物学」の分類記号。
 彼女の目は鉄線の手摺、そして主索に念入りに髪を絡めた伊藤日車。
 そして、主塔の上に立ち上がっていた菊池一文字、双方の姿を過たず、その誤りを捉えていた。


 菊池一文字、彼が事前に共闘を持ちかけられたのは必然と言っていいだろう。
 日本で唯一の特級司書と言う肩書はそれだけ重かった。
 世界に四者しかいない第一級探偵さえ、一対一では短期間、伍するのが精一杯なのだから。
 二級と三級の二人組を足し算しても五級にランクダウンするのだから、等級の付いていない協力者を
 求めるのはさほど不自然な思考と言うわけではない。

 基準世界から外れた平行世界、それも六〇年後の未来の住人であるところの菊池一文字は、
 快く、と言うわけではないがその提案を了解した。
 人工探偵、それは時代を先取りし過ぎた人造人間である。ツカサなどが口さのないことを言っているのを、
 母さんたちが苦笑しながら聞いてたなぁ、なんてことを一文字は思い出すのだった。

 あぁ、それはだからそういうものなのだ。
 相手も著名な人物であるなら、交渉の余地はあると見た。
 自分が矢面に立つから、君は最悪の場合不意を打てる位置に待機するようにとの提案も
 渋々ながら受け入れた。立ち位置はささやかな反抗心だ。
 だが、何か違和感を、どうしようもないそれをどこかで感じるのも確かだった。

 そして、今や位置を完全に暴露された二人、いや三人であるが、菊池一文字は知らなかった。
 『やれやれ、私が黙っていたばかりにこの体たらくか。
花鶏殿も子飼いがこの程度かと思われては不本意でしょう?』
 「ぐっ、私の事をいくら悪く言っても構いませんが、花鶏様のことを言うのは!」
 見知らぬ女の声、口喧嘩をしている。一人では喧嘩は出来ない。本屋文は口を動かしていない。
 口喧嘩は推理力の低下が生んだ現象なのだが、さしもの二人もそれを知る由はなかったと追記しておく。

 図書ラベルをポケットに仕舞い、いつでも貸出カードを投擲できる態勢に入りながら、本屋文は問う。
 真贋では分からぬ疑問を質すべく。
 「お前が千葉時計草か、こそこそと隠れても名は……? ……お前の花はどこに咲いているんだ?」
 『さて、どういうことでしょうか? 日車は日車、時計草は時計草ですよ。
 探偵が急所を晒すとでも? 心臓です」
 では、その日車の向日葵(ひぐるま)は何だ、と指摘したくなるが、ここは堪える。
 折からの強風もだんだん途絶え、一時の凪に転じようとする。恥じらうかのような日車の熱も保たれる。
 それでもかじかむのか、橋に二本しかない主塔の上で出番待ちを見逃した少年はマントを身に寄せる。
 彼も、中々損な位置取りに収まったものだと、本屋文は物思う。

 大方、何らかの奇襲に訴えるつもりだったのだろうが、ラベリングの為された二者に対して本屋文の目は
 一挙一投足どころか、微細な筋肉の動きさえも、視界のどこかでちらつき見逃さない。
 交渉のオプションは、荒事もまた含まれる。
 けれど、吊り橋の上に立つ二人、もしかすると三人目さえもが橋を落とす手段を持ち得ているであろうと
 思えば、ほんの些細な諍(いさか)いさえ、橋の崩落に繋がると思わせた。

 決定的な破局を恐れるのは三者とも同じ、ただでさえ踏み板の欠損し、本来あるべき幾つものパーツが
 不在な夢想吊橋だ。最早、この橋が浮いていることは建築力学への反逆とさえ言ってよかった。
 明らかに右側に大きく撓(たわ)んだその橋、そちら側に寄りかかる探偵を菊池一文字は
 はらはらしながら見ている。

 「どういうことだ? お前は、人工探偵では、ないのか?」
 何物にも寄りかかることなく、距離を突き放すべく悠然と歩んでいた司書は不意に問うた。
 風が――止んだ。その時だった。
 ノイズとも言える、揺れの中で確かな撓みを見た。
 嘘発見器の如く鋭敏な針の揺れを思わせる、大きな変化だった。
 見ることである限り、万物の真贋を見極めることが出来る「コニサーズ・チョイス」、その領分に位置する。

 発言の真偽を知った時、遂に限界を迎えた吊橋は、大きくその身を捩(よ)じらせるようにして、
 続き、その蛇身をくねらせ、その臓腑を撒き散らしながら二つに裂けた。


 その背に乗る、二者の女もまた振り落とされんとして、けれど懸命にしがみ付く。
 執念は蜘蛛の糸に群がる亡者のそれに似ていた。
 蜘蛛の糸の剛性を二〇一四年現在の人類は未だ手に入れていないというけれど、本屋文がそれを
 手にしてしまったのが意図してしまったことであるかはわからない。
 夜叉か老婆か、羅生門に座し髪を抜き取るその姿のような、本屋か日車か、どちらか。
 もしくはその両方か、人は神にもなれるが鬼にもなれる。
 生前がより立派な、高貴な人間であればこそ、死後はより浅ましくも恐ろしいものになる。
 本屋文もまた、生と死の端境を見たことで、揺らいでしまったのだろう。
 「な、なんだアレ」
 そして、菊池一文字もまた見ていた。
 それは――。
 蒼雀ナキが、天樹ソラが、蠣崎裕輔が、刻訪朔が、羽白幾也が、真沼陽赫が。
 あの日劇場で見た、願い叶わず散って逝った者たちが水面から崩れた橋を伝い、這い上がろうとする光景だった。

 誰も彼もが無残な死に方だった。
 ある者は粉塵爆発に巻き込まれた。
 またある者は五臓六腑から血を吐き出した。
 そしてまたある者は――。

 菊池一文字はあの日、本屋文の姿を見た。
 そして、今も同じ姿を見ている。
 彼女の身体は至る所が抉られ、食い千切られている。気が付けば、所々が炭化しているようだ。
 それは、あの日の、湿原の焼き直しなのか。

 『本屋文は生きたかった。どうしても、子ども達の元へと帰りたかった。
 だから、相手を殺めることも厭わなかったし、その結果が無惨な死であったとしても私は尊いと思う』

 菊池一文字はあの日、伊藤日車の姿を見ていない。
 だから、探偵がどんな死に様を迎えたのかはわからないけれど、真沼陽赫のスラスターに灼(や)かれ、
 白く粘っこい液体を付けられて、全身を掻き毟っているその光景を見れば、大体の察しはつく。

 『藤原京よ、どこに行った? 私にはお前しかいないと言うのに。
 愛しい妹、お前に殺してもらえる日が来るまで私は生き続けよう。だから、姿を見せてくれ』

 「時計草ォーー!」

 どこにいるとも知れない相方(とけいそう)は、日車の絶叫に答えもしない。
 そうだ、この戦いは最初から茶番だったのだ。

 本屋文はあの日死んでいた。
 伊藤日車もあの日死んでいた。
 菊池一文字は今も生きている。
 そして、時計草は迷宮時計の一部となった。

 どうして、疑問に思わなかった? 菊池一文字は頭を振る。
 いや、大体の異常事態は迷宮時計のせいに出来るこのご時勢だ。一文字は深く考えるのをやめた。
 目の前の地獄絵図は何の見せしめだろう? 何の嫌がらせか、いや見せられる方にはただの拷問だ。
 だが、彼は立ち続ける。目の前から逃げ出すこともただ駆け寄ることもせず、今はただ目を逸らさず、
 じっと見つめた。するべき時になって、為すべきことが出来るように。


 カードを投げる。
 エゾジャケが真っ二つになった。
 あの日、見たエゾジャケは北海道のすべてではなかった。
 だが、今蠣崎の亡霊が喚(よ)び出しているエゾジャケもまた、あの日見たすべてではない。
 何かが違っていた。
 けれど、今も私は吊り橋を上っている。

 残り三〇m。

 見苦しさなら、あの日とうに見せている。
 私は生きたかった。だが、死んだ。今は生きている。
 残り二五mと言ったところか、生と死を間際にしてこの目は冴え渡るようだった。
 あそこまで上りきればッ! 逆に落ちれば三途の川か、振り返ることはしないけれど奪衣婆を想起した。

 カードを投げる。
 蠣崎の眉間を狙う、あの日果たせなかった必撃はその手にした北海道に阻まれる。
 亡者の姿は、本屋の中でのあの北海道を愛した少年の面影すらも消し去ってしまっていた。

 残り二〇m。

 サテ⇒ライト。
 光から真実を希求する推理光線。
 日車は夢中になって亡者を射殺していた。
 暴走族『LOVE彩の国☆埼黒ン』に嬲り殺しにされたあの日から、日車はずっと終わらない悪夢の中にいた。
 戦っても戦っても、最後は何もかも奪われる。尊厳も肉体も何もないのだ、そこには。

 残り一五m。

 もう喜怒哀楽も、恨みさえもなかった。馴染おさなには優勝してほしいとさえ思っている。
 この苦しみが、永劫に続くことをまた思い出した今となっては。
 それでも、日車は上っている。生きたくなかった。けれど、死にたくもなかった。
 だって、死ねば、また生きる苦しみを繰り返すことになるから。

 『日車よ。お前は私の運命に巻き込まれているのだと思っているだろうが、それはお互い様だ。
 私はお前に縛り付けられているのだから、他の探偵の所に行くことが出来ない』

 残り一〇m。

 未来から逃れようとするものと掴もうとするもの。
 そのどちらに運命の女神が微笑むのか、生憎その女は現実的だった。
 的確な言葉で敵を撃ち抜いていく日車よりも、エゾジャケの猛攻に晒され、また蠣崎が口を開く。
 これは、本屋の知り得る事ではないのだが、ヒトとエゾヒグマのハーフである蠣崎は放射熱線が吐ける。

 『私がシシキリに殺された時、藤原京はああ言ったが、もう駄目だと思ったのは確かだ。
 だが、私は生きている。最もふさわしい死を迎えるために、忌々しい時逆順として蘇った』

 残り五m。

 本屋にとって意味不明な時計草の声を無視し、それでも音よりも早い光が彼女の網膜を揺らす。
 日車は私の一手先を進んでいる。膨れ上がる光が、私の微笑みを浮き上がらせるのだろうか?

 ――迷宮時計の本質とは願いを叶えること。
 人を巻き込み、喰い潰し、それでも本人の知らない内に世界を改変する。
 願い及ばず、矢折れ力尽きた参加者の念を菊池一文字は観測している。
 大河からすれば、僅かな飛沫のような世界の欠片、本流から弾かれてもう何の影響を与えることも出来ない。
 エゴだと思う。勝者がすべてを思いのままにするというのは、けれど正しいことだとも思う。

 ただ、俺の見てきたものは無駄ではなかった。
 時逆順の願いも、散っていったすべての人達の無念も俺の中で眠っている。
 この戦いを見ている誰かのために、この戦いを無残な物にはしない。

 高速で飛び降り、想いが爆発的に膨れ上がると、声にもならない絶叫を上げていた。

 残り三m。

 放たれた推理光線が蠣崎の頬を貫き、正体を告げる。
 本屋が驚いたように脇を見る。大声でがなり立てる日車の声には、瞳には明らかに怒りの色があった。
 「お前は蠣崎裕輔なんかじゃっ! 本物の北海道民なんかじゃ、ないッ!」

 ――放射熱線は明後日の方向に逸れ、私は肩を焦がす程度で済んだ。
 蠣崎は反動で転げ落ちていく。間一髪のところで、助かったのだ。

 もう一度、横を見る。目を真っ赤に腫らした人工探偵がいた。
 私は頷き、探偵と同時に地に手を付けるべく、歩みを調整する。金髪の探偵は、私よりもなお遅かった。

 残り二m。

 もう、そこに菊池一文字の姿が見える。手を伸ばす。探偵は私の後方にいる。待つか……?
 一瞬を待ってくれないのは未だここが死地だったからか、私は生涯で初めてその声を聞いた。
 「ネガワクバ―!」
 その場違いとも言える、希望に満ちた男の声は私達に絶望を運んできたと知ったのはその半瞬先だった。

 源平合戦の折、一ノ谷にて義経は鹿の通るのを見て、かの有名な逆落としを決行したと言うが、
 今はそんな薀蓄を垂れている場合ではない!
 赤い時代錯誤の甲冑の男、エゾジカは私の足を掴み、逆さに引き摺り落とさんとする。

 残り一m。

 菊池少年が頑張って引き上げようとしてくれているが、足りない!
 このままでは逆に引き込まれる。このままでは……。
 「に、げろッ! このままでは君まで!」
 「あんたを、死んでいった人たちは無駄じゃない! 助ける、たすけるぞっ!」

 下から上がってきた探偵が必死に組み付くが、如何せん男女の体格の差はどうにもし難い。
 意味にならぬ声をあげながら、払いのける手に僅かなりとも握力が緩んだようだった。
 今……? 今なら、探偵を見捨てれば二人が助かる。

 組み伏され、襤褸雑巾のように振り回されるその姿を私は見る。
 既に混濁しているであろうその意識で、私を見る。
 「あぁ、ああ。申し訳ありません、迷路様。私は、わたしは!」
 私ではない名前を呼ぶ。ああ、どうして迷えるのだ、縁も縁もない他人だと言うのに、どうして!

 選択(チョイス)は為されない。
 私より一回りは若いだろうこの少年に選択を委ねることなかったことに安堵すると共に、
 一足先に己の死を選んだ探偵と、そして己自身を心の中で罵倒した。

 『さようなら。伊藤日車。もう二度と会うことはないだろう』
 時計草の声が冷徹に響く。
 それを最後に、あれほどひしめき合っていた亡者の群れはまるで霞のように掻き消え、
 今の今まで持ちこたえていた橋もその名残すら残さずに四散していった。


 私達は菊池一文字の母(!?)を名乗るどう見ても女子高生にしか見えない人物を応援に加え、
 探偵が落下したであろう地点へと降り立った。

 どうやら、寸でのところで消えなかったエゾジカがクッションになったらしい。
 しかし、もう長くないことはわかる。こんな山奥だ、まともな医療スタッフなど。
 「本当の……、北海道民は、けふっ! こんなものではないんですっ、が、ふぅ、はぁっ」
 荒い息が続く。
 途切れながらも、語勢としては滔々と語ったその内容は――。
 北海道、静岡、自分を産んだ京都、そしてこの国とそこに住まう人々に対する惜しみなき賞賛だった。
 愛すべき友人たち、特に菖蒲と言ったか。
 尊敬する上司、確か花鶏と言ったか。預かったと言う押花帳は、日車にのみ見えているようだった。

 それらに、私を伊藤迷路と呼んで言伝を頼んだ後。
 「どうか……、北海道の、静岡の誇りを穢した時計草に誅殺を……ッ!」
 それだけを今際に告げて、ゆっくりと目を閉じた。続いて、終生連れ添った向日葵も朽ち果てていく。
 やがて、そこには魂の抜け落ちた人形のような亡骸だけが残っていた。

 話に聞くと、伊藤日車はまだたったの二歳だと言う。
 私は、愛する子供たちの分まで取っておいた涙を流すことにする。
 泣き喚いたりは出来なかった。申し訳ないが、それが私の業(ごう)だった。

 思えば私は大権を持つ司書と言う身分に甘え、知っていることばかりで知ることをしていなかった気がする。
 わからないことばかりだが、迷宮時計が残した禍根がどれだけ大きいかはわかっているつもりだった。
 時空研究の第一人者たる親子は未来人でもあるらしく、分かり得る範囲で説明をしてくれた。

 「千葉時計草が何を企んでいるかはわからない。けれど、母さんの知り合いの性格の悪い人工探偵が
 教えてくれたよ。伊藤日車は敗れた後も何回何十回となく、迷宮時計を巡る戦いに巻き込まれてる。
 死ぬことも出来ず、勝ち残ることも出来ず、不毛な戦いを繰り返す羽目になったって」
 「それに補完すると、迷宮時計に選ばれる人間は最初から決まっているらしい。
 悪趣味な誰かさんが名簿でも作って、トーナメント表でも作ってるって考えるとゾッとしない話。
 それで、中途半端に生き残った参加者がいたために、バグが起こったとしたら?」
 「延々と元の状態に蘇生し続け、戦場に送り込み続ける無間地獄の完成か……」

 そうして、殺風景な河原でゴロゴロとした石を蹴飛ばすと、どこか違う石とぶつかって止まった。
 「もう、あの探偵が賽の河原で石を積み続けることはないんだな」


 終わった、一人の人間が、少年の中で定義するところの人間が死ぬところを見届けた。
 けれど、さして実感を持てなかったのも確かだった。生き抜いたことが死んだことと繋がらなかったから。
 だって、オレにとって人の死に立ち会ったのは二人の母さん、いや一人ぶりなんだよな。
 そう言うと、照れくさそうに頭をかいた。

 魔人司書は生きるのに疲れたような、けれど何者にも負けないだろう覇気を隠し持っているようだった。
 「君の勝ちだ。菊池一文字。ただ守れるものを掴み取った君に敬意を表する。
 私には君にあげられるものなど一つもないが、ただ懺悔だけをさせてほしい。たのむ……」

 菊池一文字は黙って話を聞く。
 「これは戦いでなかった、単なる儀式だったんだ……。死者を黄泉の国に返すための……。
 だが、私は黄泉返ってしまった。生きているんだ。名前を呼ばれた時に伊藤迷路を身代わりとして」

 伊藤迷路と言う名前は司書ゆえに知っていた。伊藤日車の伴侶だった女(ひと)だ。
 伊藤日車は婚姻以前はそう言った姓名であったわけではない。人造人間らしく長ったらしい型番のような
 名が与えられただけだ。
 だが、結婚という社会関係を得る前と得た後の日車と言う探偵は、果たして同一人物で居られるだろうか?

 狂った因果の果てに、ようやく死の円環から解放されたなら。
 その輪を繋ぎとめていた楔となる人物(迷路)はどうなってしまったのか?
 ただ、日車との関係性を剥奪されただけで今もどこかで生きているのか、
 それとも本屋文が生き返る代償として黄泉路に旅立ったのか?

 答えは出ない。

 それでも、それでも。
 私は生きようと思った。たとえ、この命が伊藤迷路と言う誰かの犠牲の元だったとしても。
 本屋文はそう力なく語ると、二人から離れて歩き出した。
 考えの整理がついたらまた連絡すると、確かな約束を交わして。


 「手、つないでもいいかな?」
 この世界の人工探偵組織への連絡もつき、日車の遺体が回収されて――。
 二人はワゴン車の中で一度(ひとたび)の帰路についていた。

 ぽつぽつと呟かれる言葉はどこか泡沫に似ていて、普段なら力強いはずなのにどこか弱々しかった。
 潜衣花恋はそんな息子の声に頷くと、その両手を両手で優しく包み込む。
 一文字はそんな母の手を綺麗だなとか、ちょっと感触が違うけど、やっぱり……とも思った。

 「いいや、もしかすると。この戦いも迷宮時計が見せた一時の気の迷いなのかもしれない。
 今オレが見てる母さんのことだって、あの橋の下に流れてる三途の川が見せた幻なのかもしれない。
 ふと目を離すと、消えてしまいそうで、怖いんだ。なくなってしまいそうでさ」

 「ねぇ、本当にオレ達のしてることって意味あるのかな?
 あの劇場って、言ってもわかんないか。あの中のひとつにオレ達が入ったらどうしようかって……」

 こういう時、潜衣花恋は何も言わずに聞いてやることにしている。
 大体、こういう時。彼の姿に花恋は自分と徹子のそれを見る。
 互いに奪い合ったその時は分かち合うのと違わないと気付いた時とか、貫き通す一徹さはやっぱり徹子の
 子供だなとか、自分を棚に上げて言った時とか……。

 「イチ、お前が感じているものを私も感じていると思うよ――」
 続く言葉を言う前に「ねちゃったか……」、母はいつも子の眠る姿を先に見る。
 どうか眠る時だけは消えていった夢をもう一度見えますようにと、願い事をかけて。

最終更新:2015年01月05日 19:43