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グラス・オニオン


「あら、おはようございます。お待ちしておりました」

 工房内で私を待ち構えていた胡乱な侵入者は熟練の笑顔で臆面も無くそう言ってのけた。ガラス越しの逆光に照らされた異様なシルエットの輪郭にスペクトル光が帯びる。入り口の戸を破壊したのも、こいつか。私は鞘に収められた剣の柄に右手を添えた。

「……ああ、おはよう。で、貴様は誰だ。そのでかい図体の邪魔な椅子ごとたたっ斬られたくないならば、直ちに出て行くがいい」
「お仕事がお忙しいところ申し訳ありません。直接伺わないとお会いできないようでしたから。足が悪いものでして、このままで失礼致しますわ」
「誰かと聞いている。名を名乗れ。或いは死ね」

 戯言を吐き出すその喉元へと、瞬きの間に剣先を突きつける。しかしその腹立たしい作り笑いが消えることは無い。その顔に露骨にもう一度にっこりと笑顔を作ると、その女は語った。

「失礼、申し遅れました。私は古沢糸子と申します。少々お時間をとらせてはいただけないでしょうか。樹脂あくりるさん?」

 古沢糸子。その名は一ガラス職人に過ぎない私にも耳に覚えがある。ドブ周りをうろつく小汚いネズミだ。それもその汚らわしい牙と爪に毒を持っていると聞く。

「ふん、噂には聞いていたぞ。探偵め。貴様か、あのクズを失職させたのは。それ自体は愉快痛快で至極結構、だがおかげで私の臨時収入も粉々だ。今度は何をやらかすつもりだ?」
「いやですわ、人聞きの悪い。それに今回はただの人探しでして……」
「……ほう。ろくな予感はしないが、言ってみろ」

 私は剣を鞘に収めると、次の言葉を待った。そして発せられたその単語は、やはり私を落胆させるに十分であった。

「――飴石英さん。たがね、せきえい。彼が今どこにいるか、ご存知ありませんか?」

 しばしの間、私と探偵とは視線を交わし睨み合った。その目にはこちらの動作を一片たりとも逃すまいとする気迫が満ち溢れている。探偵にとって言葉とは口から放たれるものだけではない、そのことは重々承知。だが餌を待ちわびるその態度はあまりにも拙速に見えた。

「随分焦っているようだな、探偵。余裕が感じられんぞ。生憎だが奴の行く末なんぞ私は知らん」

 視線を外し、安楽椅子の横を通り抜ける。
「どけ」
安楽椅子探偵は、ため息を吐くとおとなしく引き下がった。私は見向きもせず工房の先へ進み、珪砂の袋を溶解釜へと開け入れた。もはやあれは居らぬものとして日々の作業を始めることとする。

「……最後にもう一つだけ」
だが探偵はしぶとく食い下がる。

「キリコという名の女性に心当たりは……?」

 そのときの私は、随分と間抜けな顔をしていたように思う。なぜこうも呆気にとられたか、己にも心あたることはない。

「……なんだ? 奴がまた新しい女でも作ったのか? 知らんな」

 その言葉を聴いて、探偵は今度こそ心底からにまりと笑った。理由はわからぬが、実に腹立たしい。

「無駄足だったな、探偵。もう交わす言葉は一片も無い」
「貴重なお話を頂き、感謝極まりないですわ。それではまた」
「二度と来るな」

 そうして古沢糸子は去って行った。その日製作した板ガラスは、透明度、厚みの均一さ、どこをとっても低品質極まりないものとなった。とても重要顧客に納品できるような代物ではない。全く無駄な一日であった。

 一日を一枚のガラスに喩えるならば、人生はそれを一枚一枚重ねていく作業である。重ねるごとに、透ける風景はゆがみ、よどみ、沈んでいく。それを全て砕いていったとき、最後に現れるものは何であろうか。或いは何も残らないのかも知れぬ。