裏第二回戦SS・田園その2


 稲穂の実りが見渡す限りの大地に金色のベルベットを敷き、優しく吹き流れる風がその毛並みをやわらかに逆立たせる。遠く浮かぶ夕陽が地平の山々を赤く染める田園地帯に、壮年の音楽家は佇んでいた。彼の名は廃糖蜜ラトン。稀代の演奏家にして自らも創造する楽器職人である。

 カリヨンの鐘の音が、心地よい涼しさを帯びた大気に時を告げる鳴動を響かせる。G#、E、F#……ビゼー作曲『アルルの女』第一組曲、最終の第四曲を彩る華やかな繰り返しの三音。南フランスの麦畑の風景画を目前の稲田へと重ねる。それは非現実的なまでに純朴な、田園詩(パストラル)の情景であった。ベートーヴェンが『交響曲第六番』で、あるいはドビュッシーが『《牧神の午後》への前奏曲』で見ていた光景もかくあったのかも知れぬ、とラトンは思う。

 だが、悠長に詩情を楽しむにしては、どうにも邪魔な景色がちらつく。あぜ道を安楽椅子で高速疾走する無粋な銃使いの女である。

「……ちょっとは話聞けっつーの!!!……」

 叫ぶ音程をドップラー効果でゆがませつつ、女はラトンの繰る鞭の暴雨を巧みにすり抜ける。そう、鞭である! ラヴェルの『ピアノ協奏曲ト長調』の冒頭を飾る小気味良い一撃を思い描いていただきたい。通常オーケストラにおいては二枚の木の板を貼り合わせた打楽器によって模倣される鞭の破裂音であるが、この稀代の大音楽家は決してそのような擬似的な音色では妥協しない。彼がその手で振るうのは当然、彼自らがその手で鍛え上げた本物の打撃用鞭である!

「この……!」

 BLAMBLAMBLAMBLAM! 安楽椅子上の足持たぬ女が両手に構えた拳銃から次々と弾丸を射出する。その軌道は奇妙に曲がりくねり、虹色の蛇の如くラトンへと迫る! だが対する音楽家は身じろぎもせず右手の鞭を演奏する。音速を超えるその先端は正確に弾丸を打ち落とし、大気を引き裂く音色を咲かせる! それはあたかも虚空に引かれた五線に乗る四分音符の如し!!

「この弾丸は……チョコレート菓子、ドラジェか。『ドラジェの精の踊り』。日本では金平糖などと訳されてしまっているが」
「あーっもう! そのままでいいから聞いて! 女の子、見なかった? 琥珀色の目の!!」

 女……古沢糸子といったか。その女探偵はとても戦闘中とは思えぬ呑気な問を投げかける。ラトンは応える。

「それを聞いてどうする、探偵殿。また私が答えて何の得になるのかね」
「このままじゃ二人で共倒れなのよ。死にたくなければ言うことを聞いて!」
「ふむ、話が通じんな。狂っているのかね、君は?」
「あんたにゃ言われたくねぇーーっ!!」

 BLAMBLAM! だが繰り返し放たれる甘い銃撃は全てラトンの鞭に撃ち落とされる!
なぜ空中を超高速で這い回る弾丸に対しこうも正確な打撃が可能なのか? おお、彼の左手を見るがいい! それはかのアンダーソンも楽曲を捧げた鍵盤楽器、タイプライター! 高速なキーボード演奏を受け取った物理演算装置はベルの音色と共に確実な弾道予測計算を印字する。本来タイプライターにそんな機能は無いなどという浅はかな指摘は彼の強固な認識の前には無意味である!

「退屈なリピートだ。まるで『ヴェクサシオン』。これにてコーダとしよう」
湿った泥に安楽椅子の足が取られたその隙を、焦りを、指揮者の鷹の目は見逃しはしない! BLAM! 最後の悪あがきか、静止したその椅子から無為な弾丸が放たれる。ラトンの鞭はやすやすとその弾丸を打ち砕き、そのまま直線上に置かれた的をも打ち据える……はずであった!

SPLAAASH!
「む……! 何だ、これは!」
最後のチョコレート弾を鞭が捕らえたその瞬間、着弾点から茶褐色の物質が四方八方へと飛び散った! 安楽椅子探偵を狙ったはずの鞭の一撃はあらぬ地点の土をえぐる。飛散した粘性流体が精密に仕立て上げられた交響鞭の至る所にこびりつき、その形を捻じ曲げているがためだ。それがラトンの正確無比なチューニングを阻害したのだ!
「生チョコ、ガナッシュよ! 楽しみにしてたんだからね、これ!」

 廃糖蜜ラトンは己の製作した楽器をまじまじと見る。
「……もう使い物にならんな」
新たな戦闘用楽器を手元へと召喚するため、無用の長物と化した鞭を手放した。


「そうやって、壊れた楽器を捨てるのね」

 少女が音楽家に語りかけた。


 少女! 驚愕を覚えるラトンの前方に、いつの間にか琥珀色の瞳を持った黒髪の少女が立っている。白いワンピースに包まれたその身体は、透き通るほどの危うい美しさ。先ほどまで影も形もなかった人間が、 突如として目の前に出現したのだ! 透明なガラスの斧をその右手に持って! 少女はにっこりと笑うと、ラトンの後方を指差した。

「……そしていずれ私も捨ててしまうのですね、先生」
「……!!」
今度は彼の背後、耳元から囁く声が聴こえる。何だ、今のは。ラトンは弾かれたように後ろを振り向いた。彼がそこに見たものは、ここにあるはずのない彼の最高傑作。極上の楽器。そこにある女性の顔は、彼のよく知る、あの……
「私のこと、もう愛してはくださらないのですね」
「そんな……君は……いや、僕は……まさか……」


 ガラスの割れる甲高い音が、夕暮れの田園に鳴り響いた。

 廃糖蜜ラトンの右腕が、夕陽の下に舞った。輝ける天上の絶対音を産み出し奏でるその奇跡の肉体は、肘から先を切り離されていた。少女の振り下ろした、粉々に砕け散るガラスの斧によって。

「……何だ。いったい何が起こっている」
「さあ、まずは一本。骨を切り離し、皮を剥いだら、肉をくり抜きましょう。そしたらガラス瓶みたいにからっぽの空洞になるの。息を吹き込んだらきっと素敵ないい音がするわ。ビー玉を入れるところころときれいに鳴るのよ」

 けらけらと笑うその声は琥珀の目の少女のものか、あるいは「彼女」のものか、それすらも今のラトンにはわからない。少女はガラスのナイフを手に持ち、ラトンの心臓へと突き立てようとした。

 BLAM! 銃声と共に少女の頭が吹き飛ぶ。ちりん、と澄んだ風鈴の音が鳴り響き、琥珀色の瑠璃球が零れ落ちた。古沢糸子の弾丸が額を背後から打ち抜いたのだ。
「……あんたね……あんたが、キリコ……!」

「あはははっ、あなたもいたのね、探偵さん? そうよ、私はキリコ! さあ、こっちに来て。一緒に遊びましょう?」
少女は上半分を失った顔のまま、残された口で何事も無かったかのように探偵へと語りかけると、背を向けて駆け出した。

「……っ! 待ちなさい!」
古沢糸子は安楽椅子のエンジンを吹かしそれを追う。しかしその距離が縮まることは無い。残された廃糖蜜ラトンは乾いた土の上へと膝からくず折れた。


 ■ ■ ■


 刈田の中心に、薄汚れたテントがあった。道化師、蛇使い、せむし男、空気女……奇怪な人々の幻影が浮かんでは消える側を通り抜け、キリコと名乗った少女はテントの中へと消えた。
「さァさ寄った寄った。見てらっしゃい。お代は見てからで結構だよ。紳士も淑女も、お嬢ちゃんお坊ちゃん、お年寄がたもお若い方も、さあさあさあさあ入って入って、間もなく始まるよ」
一座の団長と思しき背の低い髭男が拡声器で呼びかける。糸子は見えない糸に導かれるようにして少女の後を追って見世物小屋の内部へと押し入った。

 団長のアナウンスと共に、ショウの幕が開く。
「さあこれから始まりまするは一人の女の人生の物語」
ふと気付くと古沢糸子は夜の街を走っていた。そう、走っている。二本のその足で、コンクリートを踏みしめて。

「ハードボイルド探偵・古沢糸子のお出ましだ。実力も経験も折り紙つき。それもかの高名な火野門亜蘭の弟子というから驚きだ。サテそんなある日、彼女の元へと舞い込んだのは、新たな事件のきな臭い噂」

 糸子はビルの陰からぬっと登場した怪しい人影に目を留める。鉈を持った異様なシルエットは糸子にとってあまりに思い入れのあるものである。

「……シシキリ!! なぜ、こんなところに……」

「その通り、よくご存知で! 都市伝説、シシキリ! ガイシャの四肢をちょん切って、残った身体をお持ち帰り、恐るべき猟奇殺人鬼。かつての依頼者が殺されたというその噂に、彼女はその耳をそばだてる。おっと! でも師匠の言葉を忘れちゃいけない」

そこには帽子を目深にかぶったハードボイルド探偵の姿があった。
「……そんな、師匠……!」

『糸子。いいか、探偵の領分ってのは与えられた依頼を完遂すること。その線を踏み越えた奴から、死ぬ』
飽きるほど聞かされた火野門亜蘭の口癖であった。師匠は糸子に多くのことを伝えた。格闘術、探偵術、世界を生き抜くためのありとあらゆる術を。

「でも彼女は愚かにもその禁を破ったんだね。無責任に手を出して、不用意にシシキリを追い詰めた。その結果が、これだ」

「やだ……やめ……」
シシキリの鉈が、亜蘭の脳天へと振り下ろされた。探偵の偶像は、ガラスのように粉々に砕け散った。シシキリはそのまま糸子に迫る。糸子の身体が震える。その両足は彼女の意思に反して、石のように静止したまま動かない。

「そして、彼女自身。それももちろん、こうだ」
シシキリの鉈が彼女の脚を叩き切る。
「ああああぁぁぁっ!!!」
切断面から滝の如く血液が流れ出す。その水面は油を浮かしたように虹色に輝いた。

「あとで聞くところによると、この怪人、なんと極悪人以外はわざわざ襲ったりしないというじゃないか! 放っておけばよいものにわざわざ首を突っ込んでこのザマ。自己満足のために大切な人も自らの肉体も失って! 全く滑稽、滑稽!」

「うう……」
這いつくばる糸子の懐から懐中時計がこぼれ出た。その針は11時43分のまま動かない。

「そうか、迷宮時計。時空を狂わす強大な魔法。それがあれば、またやり直せるかもしれない。失ったものを取り戻せるかもしれない。でもそれをしようとした男がどうなったかを、君は知っているね」

「もう嫌! やめて、やめて……」

 そこに現れたるは彼女のよく知る芸術家と、裸の少女。少女は大口を開けたまま、背筋を曲げてゆっくりと歩み寄る。伸ばしたその掌に、丸く穴が空いた。穴は次々と少女の肉体に生じ、腕を、脚を、体全体を埋め尽くしていく。やがて空白が少女の存在を塗りつぶした。最後に虚空にぽっかりとあいたその口が芸術家と自分自身とを飲み込むと、世界の全ては無へと消えた。
『迷宮時計には手を出すな』
芸術家・丸瀬十鳥が最後の発した言葉の残響だけがその場に残された。

「君のかつての恋人がこうまで言っているんだ、ここらが潮時だろう。さあ物語は終焉のときだ。君の手で終わらせるんだ」


 ■ ■ ■


 古沢糸子はガラスのスクリーンに幻灯機から投射されるその映像を虚ろな目で眺めていた。安楽椅子上のその両足はもちろん喪われている。ここは先程のテントの中だ。椅子に背後からかぶさるようにして、キリコという名の少女が糸子に顔を寄せていた。拳銃を持つ糸子の手に、彼女の手を重ねて。

 琥珀色の瞳の少女は糸子の拳銃を彼女自身の眼前へと誘導し、宣告した。

「さあ、その引鉄を引いて。そう、いい子ね」
糸子はその言葉に一切の抵抗をしなかった。そして、指に力を込めた。

 BLAM……! 銃弾が彼女自身の顔を打ち抜いた。安楽椅子がゆっくりと、後方へと倒れた。ガラスのスクリーンが、音を立ててひび割れた。幻灯機の映像はそこで終いだった。

「……あははははははははははははははははははははははっ」
狭いテントの内部空間に、少女の狂笑が響きかえる。粉々に砕けたガラスをかき混ぜるようなちりちりとした乾いた笑い声だった。
「姉さん。姉さん、待っててね。きっと私が助けに行くから」
琥珀の目の少女はくるくると舞い踊る。
「そして、父さん。私をほめて。もっともっと私を可愛がってね」


 ふと、少女の動作が止まった。見ている光景が理解できないかのように、首をかしげる。その目前には、古沢糸子が両手に掲げる、二丁拳銃があった。

 BLAMBLAMBLAMBLAMBLAMBLAMBLAMBLAMBLAMBLAMBLAMBLAM!

 リボルバーの全弾が撃ちつくされる! 少女の幻想は砕け散って消え去った! 糸子は安楽椅子のスプリング機構を駆使して起き上がる。怒りに歪むその口の中には、奥歯で噛み止められたチョコレートの弾丸があった!!

「タバスコ入り劇辛チョコ。ゲテモノは嫌いなんだけど、目が覚めたわ」
糸子は弾丸をがりりと噛み砕く。

「何よ。過去に捕らわれてるのはあんたの方じゃないの。別れがあろうが、脚をもがれようが、私は私の意志で前に進む」
その言葉は暗闇の影に潜む小柄な髭面の男に向けられている。糸子は弾丸チョコレートをリボルバーへと弾き入れる!
「私はあんたとは違う。無くした日常を求めて幻想にしがみつくあんたとは。飴石英!!」
 BLAM! 弾丸チョコレートは男の額をすり抜けた。男の目は深い狂気に蝕まれて、覗き込むものを深遠へと突き落とす闇に覆われている。

「何よりね」
対する糸子の顔は、怒りに満ち満ちていた。
「あんな奴が恋人ですって!? 誰のよ! ちーがーいーまーすー! ふざッけんなよクソッタレ!!」


 糸子がそう叫んだ直後、凄まじい轟音が巻き起こった。空間を覆うテントががたがたと揺れ動き、見世物小屋の壁が一枚一枚と吹き飛んでいった。飴石英にとって、ましてや糸子にとっても予想外の事態である。やがて屋外の田園地帯があらわになると、そこは吹き荒れる暴風が支配していた。

 台風をも凌ぐほどの風の暴虐! 木々がしなり、秋の実りが吹き飛ばされる! この大災害を引き起こしている原因、それはやはりかの大音楽家、廃糖蜜ラトン! そして彼が片手で演奏する巨大な交響楽器である!!
 その楽器の名はエオリフォン、またの名をウィンド・マシーン! 『ダフニスとクロエ』で奏でられる、風の吹きすさぶ寂しげな音色を実際にお聞きになった読者諸氏もおられよう! 無論通常のオーケストラで用いられるものはドラム上に巻かれた布の摩擦で音を生み出す仕組みであり、彼がいまその手で駆っているような暴風を生み出す交響気象兵器ではない!!

 やがてエオリフォンは自らが産み出す暴風に耐え切れず自壊をはじめた。ラトンがその演奏を止め、暴風が晴れると、古びたテントは跡形も無く消滅していた。そして見世物小屋一座の団長に扮した飴石英も消え失せていた。

「助かったわ……ありがと。一応お礼は言っとくね。その右手、大丈夫なの」
「仔細無い。『左手のためのピアノ協奏曲』を知らんのかね」
「えー、知らんし……いやあなたがそれでいいならいいんだけど……」
「自分で言ったではないか。壊れた楽器は何度でも作り直せばよい。それよりもだ、探偵。なにか知っているのであろう。あれは、何だ」

 音楽家が指差すあぜ道に、ガラスの少女が再度出現していた。その琥珀の瞳には隠し切れない苛立ちと憎しみが浮き出ている。

「時間が無い、要点だけ言うわ。ここは現実じゃない。迷宮時計の戦闘空間ですらないわ。キリコなんて女は本当は存在しない。ここはガラス工芸家の狂った脳髄の中よ」
「ふむ、それがもう一人の対戦者、飴石英とやらか……。つまり、我々はかの者の精神世界に、最初から閉じ込められていた。そしてここを脱しない限りは、そもそも死あるのみと」
「ええ。ここでじっと黙っていたらそう遠く無いうちに衰弱死ね。もっとも……」

 現れたのは一人だけではない。幻想の少女は稲田から、あぜ道から、干し藁から、プリズムの虚像のように次々と出現する! その目は琥珀色に光り、携えたガラスの凶器は不気味に透き通る!
「……悠長にそれを待つ気なんて無いみたいだけど!」

 ガラスの幻想の包囲網に、背中合わせの二人は包囲されていた。
「絶体絶命というわけかね、探偵。どれ、好みの葬送曲でもリクエストするがいい」
「……随分と余裕ね。どっから来るの、それは。何か方法あるわけ」
「ある。我が『幕裏の合唱隊』が相手をする」

 ラトンは芝居がかった動作でポケットから指揮棒を取り出し、空を切った。するとその指揮棒の先から灰色がかった煙のような半物質が出現した。煙はいくつかの固まりに分かれ、そしてそれぞれが空中に漂ったまま人の形を作っていく。

「え、ちょ、何これ、何!?」
「ふむ、まずは4人か。最初はこの程度が限界。やはり徐々にテンションを上げていく必要があるな」
ラトンはそのそれぞれに彼の楽器を与えていく。フルート、ヴィオラ、チェロ、スネアドラム。

 虚空より出現した亡霊! これも廃糖蜜ラトンの能力が持つ一応用である!
 よく知られているようにホルストの『海王星』では合唱隊が舞台袖に隠れた位置に配置され、不可視の神秘的なヴォカリーズが幽玄の彼方から響き渡るという特異な演出が用いられる。だがこの大音楽家はそのような場当たり的手段は好まない! 人生という名の幕を下ろしたその裏側から届く声こそが作曲家が真に求めたもの。そう信じて疑わず、自ら作り上げた幽霊楽団! それが廃糖蜜ラトンの『幕裏の合唱隊』である!

「えーと、人違いでなければ……そちらの方は、世界的フルート奏者のアンナ・ペトロフスカヤさん? んで、そっちはチェロのウェンディ・ヤン?」
「なんだ、途端に詳しいな。然り、世間では行方不明などと揶揄されておる彼らは、我が楽隊にてこうして元気に過ごしている」
「んー、元気かなあ、それ……」

 ラトンの目は周囲を取り囲むガラスの少女を見据える。
「現実においては泣き女(バンシー)のごとき影響力しか持たない彼らであるが、なに、この世界が全て幻術というならば話は別だ。幻想は、より強固な幻想で塗りつぶせば済む」
「それができるって言うわけ、あなたに」
「できる。だが演奏の間、私は無防備になる。15分、私を守れ。最低それだけ時間を稼ぐのが君の仕事だ」
「あぁ? 何?」

「いくら君でも聴いたことがあるだろう。20世紀におけるもっとも著名な管弦楽曲にして、もっとも異形の譜。偏執的に執拗なリズムとたった二つのメロディ。そしてそれを貫くピアニッシモからフォルティッシモへの一直線のクレッシェンド。あきれるほど長大な不等号が15分にも及ぶ楽曲全体を支配する」

「聞いちゃいないし……かといって、他に方法はなし」
手の内のガンスピンで己の決意を固める。粒チョコレートを両手のリボルバーのシリンダー、そして己の口内へと充填する。
「いいわよ。やってやろうじゃないの」
彼女は四方を取り囲むガラス造りの少女達を見据え、探偵格闘術ピストルバリツの構えをとった。

「モーリス・ラヴェル作曲『ボレロ』。逝くぞ、飴石英よ。貴殿の世界を破壊する」


■ ■ ■


「スネアドラムが叩くボレロのリズムから全てが始まる。ヴィオラとチェロのピツィカートが三拍子を刻む。そしてフルートは第一のメロディを奏でる」
場違いなほどに優雅な旋律に乗せて三者の激突はその火蓋を切った。

「さて、こちらも推理パートをはじめさせてもらおうかしら。待ってるだけなのは性に合わないの」
糸子の推理と石英の妄想とが、互いの喉元に噛み付かんとする獣がごとく絡み合う。
「飴石英。貴方もかつては実直な職人だったはず。あるひとつの妄想に取り付かれるまではね」

 やがて一つの長い旋律が終わるとラトンの指揮棒からまた新たな亡霊奏者が産み出された。クラリネットをその手に持たせて。
「第一のメロディはクラリネットへと引き継がれ、繰り返される。ハ長調の全音階、実に素直な音色だ。フルートはスネアドラムと共にリズムへと沈んでいく」
琥珀の目の少女が襲い掛かる。安楽椅子探偵は迫り来るガラスの斧を銃撃でいなす。

「ふむ、よいぞ! 次にファゴットが第二のメロディを開始する。二つの旋律を昼と夜に喩えるならば、ここで日が沈み夜が始まるというわけだ。三拍子にはハープの長一度和音も加わった」
ラトンの楽団に新たな奏者が次々と増えていく。それを指揮するラトンはとめどなく語り続ける。旋律は繰り返される。
「再び夜の旋律を、今度は小クラリネットの高音が担う。この夜のメロディは、昼のそれに比べてやや曲者だ。フリギア旋法、ジャズにおけるブルーノートの影響も見られる。気だるい、ある種の泥臭さを秘めた憂鬱な」

 ガラスの剣の握りを、糸子は銃を持ったままの右手で弾く。彼女のピストルバリツ格闘は近接戦にも死角を持たない。敵の顔へと、推理を直接叩き込む。
「飴石英の妄想。それは、ガラス職人のその手で、自ら理想の少女を創り上げること」

「夜明けがやって来た。再びここからは昼の旋律……オーボエ・ダモーレ(愛のオーボエ)。ファゴットのリズムも心地よい。音量はメゾピアノまで登ってきた。ここからはこの繰り返しだ。昼、昼、夜、夜。それがこの曲を構成する全てだ」
それは独り言か、あるいは糸子への解説か。だが糸子にはそんな講釈を聞いている余裕は無い!
「弱音器付きトランペット。注意深く耳を澄ませば裏にフルートのかすかな響きが感じ取れるだろう。ほとんど有って無いような音量、だがその重なりにより音色は劇的な変化を遂げる」
連続で投げ交わされるガラスの投げナイフを精密連射で撃ち落す! 添え手の掌でハンマーを起こすファニングショットの連射技法。それを二丁拳銃で連続して行う難易度は通常の射撃とは比較にならない! そしてその弾丸に糸子は真実を撃ち抜く推理を乗せる。
「己の心に抱く美を追い求め、あなたは幾人もの女を抱き、幾人もの子を為した。それでも望みが叶うことは無かった」

 安楽椅子の全力走行。遠方からラトンを直接狙って放たれたガラスの矢を空中の狙撃で破壊する。だが当のラトンにはそんな些細事を気にしている様子は見られない。
「テノールサクソフォン。リズムはトランペットに取って代わられた……どうした、息が上がってきているぞ! まだまだ先は長いというのに!」
「うるさいわね!……飴石英。あなたは次第に、その理想を、現実ではなく幻想の中に創りあげていくこととなる。そして産み出されたものが……」
「ソプラノサクソフォン。一直線のクレッシェンドは徐々に、徐々に、だが確実にその圧力を増していく!」
「もうちょっと黙ってできないの、それ!!」
だがラトンの言うとおり、既に楽団員の数は二十名ほどに膨れ上がってきている。幻想空間の石英による支配が少しずつ弱まっていく感覚! それを二人は確かに感じる!

「さあ、再び昼だ。ホルンをベースにチェレスタとピッコロが空虚な倍音を重ねていく。その透明かつ不穏な響きはまるでガラス玉の色合いを思い起こさせる。そう思わないかね?」
糸子は琥珀の瞳の少女の額を真正面から無慈悲に打ち抜く。そしてその名を告げる。
「飴石英が描く、幻想の少女のイデア。それが、キリコ。ガラス職人の生み出した妄想の産物」
ガラスの割れる音と共に、少女は砕け散る。
「木管による強力なユニゾン! ここまで至ればどんなに鈍感な聴衆でも悟るだろう。このクレッシェンドはもはや死ぬまで止まることは無いと。行く末には当然、破滅が待つのみ!」
「そこからあなたの妄想は加速度的に深まっていく。そしてある日起きた決定的な事件。妄想を現実に重ねたあなたは、ついに自分の娘を襲った。……幸い、未遂だったみたいだけれど」

 投げかけられた夕陽に、少女達から長い影が伸びる。
「トロンボーン……ここは難所だ、幅広い音域にグリッサンド。奏者には高い技術が要求される。無論私の楽団にここでヘマをするような下手糞はいない。無論、探偵。君もだ。そうだな?」
追い詰められはじめた石英は世界の体裁を取り繕うことをやめ始めていた。ガラスの割れる音がどこからともなく響き渡る。黒く伸びた影がうごめき、触手と化して二人へと襲い掛かる。糸子はただ、それを精密にひとつひとつ撃ち落していく。
「木管によるハーモニー! 減三和音で奏でられる夜の旋律は否応なしに期待と不安とを同時に煽る。麻薬にも似た恍惚の誘惑!!」
少女の身体にひび割れが走る。ガラスの割れる音が聞こえる。
「……家族の元を去ったあなたに、更なる悲劇的なニュースが届いた。娘の行方不明。そして知った。迷宮時計と、それが導く地獄のような戦いを」

 豊かに実る稲穂が風にざわめき、うごめき、身悶える。
「さあ、待ちに待ったこの時がやってきた。昼の旋律! そこにようやく第一ヴァイオリンのお出ましだ。木管と共に奏でられる重厚な音色を聴くがいい!」
「そして飴石英の悪夢は完成した。『ガラス細工の日常』。決して辿り着けない理想のための箱庭が!」
急速に成長した稲穂は縄を編むように絡み合い、やがてそれは腕、手、指と徐々に人の形を描いていく。最後に形作られた丸い頭部に、ガラス球の義眼が生える。
「ああ、そうね……悪夢ね。確かに悪夢だわ。やつらの材料はササニシキだったっけね、そういえば」
安楽椅子探偵・古沢糸子の精神記憶を餌に、飴石英は一つの具体的な形状をした悪夢を創り上げていた。
「弦楽のシンフォニー! 第二ヴァイオリンまで加え、まさにここが人生の絶頂といえるだろう。だがしかし、ボレロは絶頂を越えて止まらない! 止めらないのだ!」
そして二つの人間の形をした植物繊維体が糸子の目前に立ち塞がっていた。
「来なさいな、『密造』人工探偵。まとめて相手してあげるわよ」

「さらに今度は夜だ! 無論絶望的なクレッシェンドは止まらない。止められない! もう一度だ。もう一度再びの絶頂を繰り返すのだ!」
「……とは言ったものの」
飴石英はもはやなりふり構わない! 世界の全てが悪意を持って糸子へと襲い掛かる! 幾千もの悪夢に対して、もはや二挺拳銃の弾丸などではけなげな抵抗にしかならぬ!!
「そろそろ厳しい、かな」
 記憶抽出から再現された密造探偵の能力は、石英の精神世界においてもオリジナルより遥かに威力も精密さも劣るが、それでも脅威には変わりない。ましてやこの量と密度! アルビノの密造探偵の詭弁が花弁と化して糸子の皮膚を切り裂く! 向日葵の密造探偵の帰謬光線が糸子の肩を高熱で焼く!
「絶えろ、絶えろ! まだだ、まだ斃れるな! これでも速度記号よりは速く演奏しているのだ! この怒涛の高みの、さらに限界を超えてこそ行き着くものがある!!」

「飴石英! 今のあなたは、届かぬ理想と亡くした現実を追い求める一つの無意味なシステムに過ぎない!」
ラトンの楽隊はいまや70人超にまで膨れ上がっている。そこから奏でられる音楽は、もはや世界を揺るがすほどの轟音となって、石英の世界を内部から破裂させようとしている!
「さあ、ついにここまで来た。フォルティッシモ・ポッシーブレ! 可能な限り強く!」
「ちょっと……まだなの! 急いでよ! 早く!」
「堪え性の無い女だ! 閨房でもそんな調子なのかね、君は!」
「……殺す! あとで、絶対殺す!」
「気づきたまえ! メロディのパターンが変わったことに! 即ち、天変地異! 破局への予兆の表れだ! ここだ……ここだ、聴き逃すな、探偵よ! これが、カタストロフだ!!」

 傷だらけになり、全身から血を流しながらも、糸子が交差した両手から放った二つの弾丸はついに二人の密造探偵の心臓を見事に打ち抜いた! まさにその瞬間、ボレロのメロディはかつてない第三の旋律へと移った! ラトンの演奏は終曲、コーダへと入ったのだ!
「最終小節には君も加わりたまえ。その程度の編曲ならば許容範囲だろう」
世界が崩壊を始める! 天が、地が、ガラスのようにひび割れていく! だが鳴り響く銅鑼とシンバルの轟音がそのガラスの割れる音を完全に塗りつぶしている!

「さあ、夢は終わりよ、飴石英。寝覚めの一撃はスパイシーに決めましょ。胡椒、シナモン、生姜、丁子、カルダモンにナツメグのフレイバー」
糸子は一粒のチョコレートをリボルバーへと込めた。その正面にはただ一人の打ちひしがれたガラス職人、飴石英の幻像があった。
「キリコ」
と石英は呟いた。糸子は銃を向ける。
「ショコラ・スペキュロス」

 古沢糸子の一撃が、ボレロの最後を飾る縦一列の音符と共に世界を隔てるガラスを打ち抜いた。夕陽に照らされた田園の情景が、ステンドグラスの如く砕け散った。ガラスの割れる音は、もはや聞こえなかった。


 ■ ■ ■


 『ガラス細工の日常』が崩壊して現れた情景は、それまでとは打って変わってみすぼらしいものであった。荒れ果てた農村。日もとうに沈み、宵闇が冷え切った大気に浸透していた。
「……貴方の推理は一つだけ、一つだけ間違っている」
ひざまずく飴石英はそう言った。
「私は……娘を、子供達を……そして妻を……愛していたんだ…………本当だ、本当なんだ……」
その推理の過ちが、最後に弾丸を止めて彼の命を救ったのか。糸子はため息をつくと、もう一人の対戦相手、廃糖蜜ラトンと向き合った。

「さて、私たちも決着をつけないといけないんじゃないかしら?」
音楽家は応じる。
「ふむ、まったく同意だな……こちらもそれ相応の楽器を用意させてもらう」

そしてラトンは最後の楽器を取り出した。
「チャイコフスキーの序曲『1812年』。その楽曲では大砲が楽器として演奏される」
糸子は身構えた。だが取り出されたものは、武器ではなかった。
「……そのパロディ、P.D.Q.バッハの大序曲『1712年』。大砲の代わりに使われるのは、風船だ」
ラトンは糸子にそれをふわりと手渡した。それは本当に何の変哲も罠もない、ただのゴム風船であった。

「……どういうつもり」
「私は君に託すことにした。その一、迷宮時計争奪戦に優勝せよ。その二、勝って時計の力で私とこの男を迎えに来い」
「はァ?」

「過去に捕らわれず、己の意志で前に進むだろう? それを見せてくれたまえ。それに、私も前に進むために用事ができたのだ。この男だ」
ラトンは石英の手を取り彼を助け起こした。石英の表情は困惑に満ち溢れていた。

「私は私こそが世界で最も優れた楽器製作者であると自負している。そこで問題はそれを使いこなす演奏者だけだと思っていたのだ。だがこの男を見て考えが変わった。私の楽器製作はまだ途上だ。この男の技術と芸術性を取り入れることができれば、私の楽器はさらに二段、三段と飛躍するだろう」
「私、私が……楽器を……?」

 糸子は風船を手にしたまま、呆れ顔で二人の男を眺めた。

「ああ、リュネット・アンジュドローという少女もいる。『桜並木』の世界に取り残されている、私のダンサーだ。その三、彼女も救いたまえ」

「……あたしが断るっていったらどうする気?」
それを聞くと偉大な音楽家はその唇をにやりと曲げた。
「これは正式な依頼だよ、探偵殿。君は無辜の市民の願いを無碍に蹴り飛ばすような非人道的精神の持ち主なのかね?」

 二人は五秒ほどそのまま向かい合った。糸子はもう一度深くため息をつくと、安楽椅子をくるりと回転させ、後ろを振り向いた。
「本当、芸術家って連中にはろくな男がいやしないのね」

 そしてリボルバーを空へと掲げ、二発の銃弾を放った。弾丸は空中をくるくるとさまよった後、二人の男の手元へぽとりと落下した。
「何だね?」
 それはどこにでも売っているような、安価なハート型のチョコレートだった。

「義理よ、義理。ありがたく受け取っておきなさい」

最終更新:2014年12月21日 19:45