ある時代、ある国の港町。
弓なりを描く海岸線には数十の漁船が繋がれ、打ち寄せる黒い波に小さく揺れる。
静かな夜。静かな海。
漁船の1隻――その甲板にて、月を仰ぐ影が1つ。
赤い髪でシャツにベスト、ハンチングにスチームゴーグルを乗せた少年。ゴーグルといい右手の時計といい提げた革鞄といい、年齢の割にアンティークな意匠で統一されている。古い冒険小説から飛び出してきたかのような装いだ。
名を雲類鷲ジュウ。今宵この地に招かれた、『迷宮時計』所持者の一人である。
『学童。現在、夜の11時23分です。深夜徘徊は悪い子、悪い子です。早くお家に帰りりりりりり――』
迷宮時計――と同化した『PTA』人工知能――の口やかましい忠告に、ジュウはいつも通り耳を貸さず、ただ黙って月を見る。
見事な満月だった。
ジュウのいた2034年の世界には月が無い。迷宮時計の『巻き戻し』が起こってすぐ、消失してしまった。
原初よりこの星を見守ってきた夜の女王が空から消えた。それは後に起こる、重力バランスの変化による地球環境の激変を抜きにしても、終末を象徴する出来事であった。
その月がこの世界、この空には存在する。しかしそれを見上げるジュウの胸に去来するのは、久々に見る月への感慨では無かった。
――デカすぎる。
空に貼り付いている月は、ジュウの記憶にあるそれの数倍の大きさだった。
月の直径は地球の約4分の1とされているが、これでは地球よりも大きくなってしまう。
この世界にも何かしらの異常事態が起こっているのか、と思う一方で、その異様な巨大さに対し、ある種朴訥な感想も抱いていた。
――漫画みてえだな……ん?
思うと同時、気づいた。
月の上に浮かんだ黒い影。
鋭い目つきを更に険しくして見あげる中、影はどんどん大きくなる。地上へと落ちてきている。
その影が何であるかに気づいた時、ジュウはその場を跳び退いていた。
流星!! ブラボー脚!!
虚空に雄々しく浮かんだ技名。
まさに流星の如く高速落下してきた男の蹴りが刺さると同時、木造の船体は容易く大破していた。
大きな水柱があがり、飛沫に砕けた木切れが舞い散る。
隣の船に跳び移ったジュウは転覆しそうになる船体の上でどうにかこうにか体を支えた。
「お前が跳ぶ時に甲板が不自然に砕けてたな。アレがお前の能力か?」
水柱が晴れると、男がジュウを見上げて尋ねた。
筋肉質な体躯に坊主頭。如何にも格闘魔人といった風体だ。
何故かペンを咥えたその男は如何な重心制御によるものなのか、水に浮いた木切れの上に片足で爪先立ちし、沈むことなくそこに佇んでいる。
梶原恵介(本名:山本智樹)
男の名が、先ほどの技名と同じく宙に浮かんで見えた。
迷宮時計所持者、その1人の名だ。
「さぁな。オメーの迷宮時計、くれるんなら教えてやるよ」
「じゃあ無理だ……見て学ぶしかないか」
船上のジュウと、海面の山本、いやさ梶原。両者が共に沈黙し、響くは波の音だけ。夜の静寂が再び場を支配する。
梶原を見下ろしながら、ジュウは思案していた。無論、如何にしてこの男を倒すかを、だ。
梶原恵介――その時は「山本智樹」――も折笠ネルも調べた限りでは該当人物が見当たらなかったが、眼前の梶原は明らかな格闘魔人だ。
魔人能力『くたばれPTA』で大量の「メーター」を取り付け、破裂させて殺す。その道は諦めざるを得ない。ジュウの格闘能力は魔人としては並である。素手の打撃で梶原に大きなダメージを与えるのは至難だろう。
ならば――。
『学童学童。11時25分です。早くお家に帰りりりりりり――』
空気を読まずに喚きだした『PTA』。それを遮るかのように仕掛けたのは、梶原だった。
ふおぅっ
梶原は膝の筋力のみで軽やかな、しかし大きな跳躍を見せ、ジュウの乗る漁船へと一足で跳び乗った。
ジュウは梶原が跳ぶと同時に甲板を蹴り、縁のギリギリのところまで退く。しかし隣の船へ逃げようとはしない。あくまでこの船上で迎え撃つ構えであった。提げていた鞄を放し、自由になった右手を腰に挿したピストル――PTAの雑魚から鹵獲したものだ――へと伸ばす。
甲板の縁に足を乗せた梶原はそのまま一蹴りし、ジュウのところまで跳ぼうとした。
が。
『くたばれPTA』!!
縁の、梶原には死角となる位置に浮かんだ古めかしい意匠のメーター。その針がデタラメな速さで回転すると、梶原が足をかけた木材が瞬時に膨張し、破裂。
「うぉっ!?」
足下の爆発力を加速に使えるのは能力を熟知したジュウだけだ。足場が突如爆ぜた梶原は当然のように体勢を崩し、甲板へと前のめりに倒れ込む。
ジュウは右手でピストルを抜き、流れるように梶原へ銃口を向けた。『おばさん』には「アンタの腕じゃ脅しにしかならない」と言われたピストルだが、持ってきたのは正解だった。彼が射的センス0とはいえ、この距離でこの無駄に大きな的だ。当たらぬはずが無い。
――フルオートで8発。くたばれ。
ジュウが引き金に指をかけた、その瞬間。
ぬらり
――何?
倒れるかに見えた梶原の上体はその実、前方へと滑り込むように動いていた。最初に姿勢が崩れたのは不意を突かれてのことだが、梶原は留まろうと踏ん張るどころか敢えて脱力し、筋力で無く重力のエネルギーを利用する形で “倒れながら歩いた”のだ。
決して速くは無い。が、戦闘においてはその遅さが“起こり”の見えない動きと相まって敵の虚を突くこととなる。
『餓狼伝』北辰館トーナメント編において、天才空手家・姫川勉はこれと似た歩法でプロレスラー・長田弘の反応を許さず間合いに踏み込み、正拳一発で顎を撃ち抜いている。
一瞬呆気にとられたジュウが間合いに入られたことを悟り、今度こそ引き金を引くより先、梶原の左の虎拳がジュウの右手を打って高く跳ね上げ、ピストルを弾き飛ばしていた。
直後、上体に合わせ股を大きく開いた梶原の、右の下段突きが水月へとめり込んでいた。
身体がくの字に折れ曲がり、甲板から20cm程浮く。
「う゛……あ゛」
打たれたジュウはそれらしく、苦悶に顔を歪めるふりをする。
幼少からの投薬実験で培われた超魔人級の耐久力。ダメージが皆無でも無いが、単発でこの程度なら問題なく耐えられる。
そして……梶原が誘いに乗って「差し出してくれた」右腕に、ジュウはそっと左掌を添えた。
「っ!?」
「――気づくの遅えよ。貰ったぜ」
手の甲に「メーター」。針が高速で回ると共にジュウの左手が歪に膨れ上がる。
ジュアッ!!
掌に空いた縦一文字の傷口から鮮血が超高圧で迸った。
零距離で放たれた血の斬撃は梶原の右腕を斬り裂き、ジュウの掌と同じ、赤い線を引いた。ただしジュウのそれとは違い、こちらはただの傷、切断面だ。「迷宮時計」の描かれた手首がずるり、と線を境に落ちる。
「……っ」
皮一枚で垂れた自分の手首を見つめ、梶原は苦痛よりも呆然とした表情を浮かべている。
それを前にし、ジュウは。
――ああ、痛ぇ……この技やっぱ、痛ぇ……。
――だが、もう二発。
次は右手からも撃つ……と、ジュウは両手を突き出して構え、隻腕となった梶原に狙いを……。
――ん?
ジュウの視線は、既に斬り落とした梶原の右腕へと向いていた。首や胸でなく、何故かもはや用のない右腕を狙う自分がいた。
自分の行動が理解できなかった。
しかし、見てしまうのは当然であった。梶原の右腕には、視線誘導の集中線が引かれ、見ること、意識することを強いられていたのだから。
「なん……がっ!!」
両手から放たれた赤い斬撃が今度は右腕を外した直後――意識外からの衝撃がジュウの右顔面を叩いていた。
「ブーメランテリオス!!」
FIRE!
星雲を背景に放たれた梶原の左フックがジュウを捉える。
『リングにかけろ』の主人公・高嶺竜児の「ウイニング・ザ・レインボー」に次ぐスーパーブローである。
その威力に宙へ打ち上げられたジュウの身体は夜空に長い長い弧を描き、海岸線沿いに立ち並んだ漁師小屋の遥か向こう側へと吹き飛んでいった。
「ふぅー……」
ジュウが遠方へ落ちていくのを確認すると梶原は肩を落とし、深く息を吐いた。右腕を落とされた直後に車田漫画パンチは体力・漫画力共に消耗が激しい。
「『片腕という個性』とか言ってる場合じゃねえな……」
梶原は右腕の切断面を見つめ、呟いた。
勝てば戦闘によるダメージは全て治癒するのだが、もしも澤がこれを見れば『梶原さんwwwwwどんだけ元ネタに忠実なんスかwwwwwww』などと煽ってくるのが目に見えている。思わず脳内で“煉獄”を撃っていた。
「しかしなんだあのガキ……何機能特化型だよ。かっこいいじゃねえかあの技」
やはり名前は『茨の十字』なのか、でも一直線だしな、などとブツブツ呟きながら、梶原は腕と手首を繋ぐ皮を千切るとシャツの袖を裂き、腕をキツく縛って止血する。『スーパードクターK』などに学んだやり方だ。
しかし無論、切断された腕をこの場で繋ぐ術など心得てはいない。ここからは隻腕で戦わねばならない。梶原は右手首を海に捨て、魚の餌にした。
止血を終え、梶原は港にあがる。直後、自分に刺さる視線に感づいた。
「……いつから見てた、アンタ?」
声の主に背を向けたままそう問いかける。遅れてそちらを見やれば、その人物が漁師小屋の陰から姿を現した。
「君と彼が睨み合っていたあたりかな。邪魔しては申し訳ないと思って」
「は、親切にどうも」
現れたのは若い女だった。
目立つ外見をしている。
かっちりと着込んだ――下はミニスカートだが――軍装にコートを羽織り、腰には軍刀らしきものまで佩いている。
女は「23:55」と書かれた紙切れを一枚掲げ、名乗った。
「僕は折笠ネル。『欠片の時計』所持者だ」
当然に、2人目の所持者。梶原は「その紙切れ時計なのかよ」と一瞬思ったが、自分も迷宮時計が落書きなのを澤に笑われたことがあるので突っ込まなかった。代わりに判明した、1つの事実を口に出す。
「じゃあさっきのが雲類鷲ジュウ、か」
「そういう君は山本智樹」
「いや、梶原恵介だ」
「え?」
善通寺戦に引き続き、迷宮時計が伝えたのは、やはり本名であった。
「ウルワシ製薬の狗には些か興味があったんだが、あんな拳を貰ってはね。梶原君、ここからは僕と君の一対一というわけか」
「――そうだな」
ジュウの異様な耐久力を知る梶原は内心死んだことを確信してはいなかったが、それを言っても事態は好転しそうにないどころか言ってはいけない情報に思えたので、とりあえず頷いておいた。
ざわ・・・ざわ・・・
その場の空気がざわついた。というか、実際そんな音がした。
折笠の背後で影が蠢く。影の一部であったそれらが、折笠に続いて月光の下へと次々に転び出たのだ。
それは蛙……の形をした折り紙だった。恐らく百匹は下るまい紙の蛙達はぴょんぴょんと跳ねて傅くかの如く折笠の周囲に集まり、そして一斉に鳴き声をあげ始めた。
ゲコゲコゲコゲコゲコゲコグワッグワッグワッグワッゲコゲコゲコゲコゲコゲコグワッグワッグワッグワッ
百の蛙の大合奏が夜の静寂を塗り潰す。そんな中2人が普通に会話出来たのは、梶原が互いの台詞をフキダシで表示したからだった。
戦闘という緊迫感の中に程よい可愛らしさを添える蛙ちゃん達を見回して、梶原は問いを投げかける。
「折り紙……アンタ手芸者って奴か? 随分折ったな」
「待ち時間、暇だったからね。そういう君は何だい? この能力、まるで――」
「漫画家だ俺は。魔人能力は『G戦場ヘヴンズドア』、世界をコミカライズする力」
折笠の言葉を遮る形で、梶原が宣言する。それと共に梶原の眼光と咥えたペン先。3つがギラリと輝いた。
「そうか。なら君の漫画は、作者死亡で打ち切りだね。僕の力、お見せしよう――」
「ほう……」
折笠は先程見せつけた紙切れをす……と掲げる。欠片の時計。それが突如……一輪の花へと変わっていた。
梶原の表情に微かな驚きが浮かぶが、折笠は澄ましたまま続ける。
「手品じゃないよ。ただ折っただけ。力を見せるのはここからさ。
――折形『忍夜』」
ゲコゲコゲコゲコゲコゲコグワッグワッグワッグワッグワッグワッゲコゲコゲコゲコゲコゲコグワッグワッゲコゲコゲコゲコゲコゲコグワッグワッグワッグワッグワッグワッ
蛙の合唱はいっそう喧しくなり、擬音がフキダシすら掻き消さんばかりにコマを埋める。そして、鳴いていた蛙たちがその場を動き出さんとしたところで――。
ベタ!!
梶原の『G戦場ヘブンズ・ドア』が世界を黒一色に塗り潰す。
ベタ塗りされた世界は梶原の世界。無明の中に響く蛙声。その中で、折笠の涼しい声がした。
「折形『椿説』」
ゲコパパゲコパパゲコパパゲコパパゲコパパグワッパパパグワッパパグワッパパパパパゲコゲコパパパパパパパパパパパパパパパパパパパパパパパパパパパパパパッ!!
乾いた破裂音が無数に生じ、それは蛙の声と重なり、すぐさま掻き消した。圧倒的な「銃声」の群れ。
蛙も銃も鳴くのをやめると、世界に光が戻った。といっても夜闇の中だが。
月光が照らす大地に、全身を血に染めた梶原がうつ伏せに倒れていた。
「お疲れ様。みんな」
梶原を見下ろした折笠は顔をあげ、向こうにいる者達に声をかけた。
そこにいたのはたくさんの小さな紙人形――俗に言う「奴さん」の歩兵隊。その手には折形『椿説』、即ち紙鉄砲が握られている。彼らに撃てるよう小さく折って、自然威力も控えめだが、それでも一度にこれだけ喰らえばひとたまりもないだろう。
蛙の群れに視線を引きつけ、奴さん達を背後へ回りこませる。その際生じる紙の擦れる音は、蛙の鳴き声が掻き消してくれる。極々単純。子供でも考えそうな策ではあるが、それが今こうして敵の1人を討ったのだ。
「……」
無言のままに見下ろし、倒れた梶原へ手にした造花を手向けようとする。しかし。
――まだ、終わってはいないか。
所持者同士の戦いが継続中であることを、手の中の迷宮時計が教えてくれる。
それは自分以外の所持者が生きているという証だ。
100m以上先まで吹き飛んでいった雲類鷲ジュウ、紙鉄砲の斉射を受け、血まみれで眼前に伏す梶原恵介。2人のいずれか、或いはいずれもが。
どちらにしても、トドメを刺さねばならない。
――まずは、君から。
折形『椿説』。迷宮時計から花へ、花から紙鉄砲へ姿を変える。そしてそれを振り上げた……その時、脚に激痛走る。
「っ!?」
折笠の膝から下が収まった編み上げのブーツ、その革を貫いて、ペンが脛に突き刺さっていた。
梶原が咥えていたペンである。
ペン先の強度もさることながら、そもそも何故刺さっているのかと言えば、当然。
「フンッ!!」
血だらけのはずの梶原はまるで傷などないかの如く、振り上げた左掌を地面に叩きつけ、その力を以って勢い良く倒立。下から蹴り上げる。『修羅の門』より陸奥圓明流 “弧月”!!
折笠はその場で大きく仰け反り、蹴りを回避。
が、梶原の足技は止まらない。
右踵を折笠の左肩へ打ち下ろし、左足で紙鉄砲を持った右手を弾く。
「くっ! 何故無事に……?」
「さあ、自分で考えな! ただ――」
梶原はベタ塗りの中、自身をSDサイズにデフォルメすることで銃弾の雨を回避。力尽きたかのようにベタを解き、「血飛沫」で鮮血に染まった姿を晒すことで死を演じていた。銃撃を初めの数発は喰らっていながらも早急に対応できたのは、梶原が背後からの攻撃を予測していたからに他ならない。では何故予測していたかと言えば――。
「漫画家相手に張るにゃあ『伏線』が露骨過ぎたな!」
蛙は折形『しのびよる』、つまりそういうことだった。
問いに答えながらも、梶原は高速で次の技へと移行する。
左手で折笠の右足首を掴み、体を支える。同時、彼女の白い首筋に梶原の太い両脚が蛇の如くに絡みつき、極めにかかった。首の付根に掛けた左足を「作用点」、第7頚椎に当てた右足を「力点」に。
漫拳オリジナルアーツの1つ。腰の捻りと魔人脚力、梃子の力で頚椎を圧し折る殺人技――頸木螺鋏。
「ぐっ……あ゛」
加圧に耐えかね、折笠の頚骨が悲鳴をあげた。折笠は呻きながらも逆手で腰の軍刀を抜き、梶原の脚を斬ろうとする。
異変が起きたのは、その時だった。
「っ」
「!?」
2人の眼前で、漁師小屋が瞬時に風船のごとく膨張した。
梶原には見覚えのある「異変」である。それを起こす少年が存命なのも想定の範疇だ。それで尚、頚椎の破壊まであと僅かというところで梶原が思わず脚を緩め、折笠が抜刀する手を止める程に、その異変は危険なものと映った。
膨張した小屋がすぐさま破裂。材木がはじけ飛ぶ中、梶原は脚を解き、ハンドスプリングで折笠から離れる。間一髪で救われた折笠はしかし、爆ぜた家屋の向こうの光景に目を奪われていた。
建物の壁に貼り付いた人影。その壁には無数のメーターが浮かび、そして瞬時に悍ましく膨張、破裂!!
ゴオアッ!!
破裂の勢いがその者の身体を前方、折笠へと向けて撃ち出した。
その者とは即ち――雲類鷲ジュウ。
「『楼門』!!」
砲弾のごとく迫るジュウに対し、折笠のコートの内から数十の折り鶴が一斉に飛び立ち、肉の壁となって進路を塞ぐ。
が。
ドパパパパパパパパパパパパパパパッ!!
ジュウの身体に触れるや否や、それらも全てメーターが浮かび、膨張、破裂。カウンター気味に斬り上げた折笠の愛刀『加州折笠信文』もまた。武闘派魔人の梶原や折笠さえ変化を視認出来ぬ速さで。
触れる物一切が砕け散る。鶴も愛刀も砕かれれば、ジュウが最後に触れるのは、当然。
「あっ」
べったりと伸びた少年の掌が折笠に触れる。突き飛ばされたその身体に、瞬間、多数のメーターが浮かび上がった。
「くたばれ」
ジュウの口から死の宣告が漏れると同時、細くたおやかな折笠の肢体は宙に投げ出されたままの姿勢で歪に膨満、そして。
「……っ」
銃で撃たれた果実の如く皮が裂け、「内容物」が弾け飛ぶその様に、敵である梶原も思わず顔を顰める。
飛び散った血肉が二人や周囲の建物、折形の軍勢に降り注いでべったりと赤く汚した。
「折笠ネル、か……殺った」
1人を殺し、血肉のシャワーを浴びて尚、少年の殺意は絶えることがない。頬が砕け、口と頭頂からは折笠のものでない夥しい血を流しながら、梶原へ向ける双眸は血走っていた。
裂けた衣服から覗くその体表には無数のメーター。
「――『くたばれ迷宮時計』」
その言葉、感情が今の彼の原動力であり、深化した魔人能力の名前でもあった。
・・・
雲類鷲ジュウの魔人能力『くたばれPTA』を人間に使用した場合、最初はその人間の精神を抑圧から解放、魔人ならば魔人能力が強化される。開放された精神エネルギーの成せる業である。
しかし人間の抱えるあらゆる抑圧から解放できるものだろうか。
呼吸をせねばならないことを抑圧と感じる人間がいたとして、彼は呼吸をやめられるだろうか。
何にも変え難い至上命題、行動原理の根本が抑圧も兼ねていたならば、それから解放することは出来るものだろうか。
具体例は誰かと言えば、それは即ち――能力者当人、雲類鷲ジュウである。
『このようなところで寝てはいけませんんんんん。野外泊は悪い子悪い子悪い子子子子』
――うるっせえ……。
吹き飛ばされて落下した先、暫し意識を失っていたジュウは、PTAに起こされて目を覚ました。
梶原のパンチの桁外れの破壊力。更に脳天からの落下。ジュウの耐久力をもってしても脳に受けたダメージは重篤だった。
頭痛が激しい。吐き気がする。実際吐いたようで、上着は吐瀉物で汚れていた。
だがまだ戦いは続いているはずだ。自分は生きている。戦わねばならない。
『午前11時32分。帰宅帰宅。大バツです。学童』
指先の痺れる手で体を起こし、震える膝で立ち上がる。
人工知能のクソ喧しい忠告に逆らい。
迷宮時計のクソ忌々しい命に従い。
いつもは叩きつけて壊してやるところだが、今はそうしない。余裕が無いのもあるが、それが何の意味も無い、手淫にも等しい反抗ごっこだと、現実をつきつけられそうだったからだ。
「あの野郎は、どうなった……殺してやる、殺してやる……」
PTAへのレジスタンスを掲げ、戦う雲類鷲ジュウ。
彼はPTAのみならず、あらゆる支配への叛逆を標榜し、生きてきた。それは信条などでは無い。性であった。生来のものか、或いは刷り込まれたのかは定かで無いが。
だのに今、彼は確実に時計に支配されている。
敗けて消費される者達はもちろん、勝ち残り、『欠片』を揃え、全てを手にする者でさえ、所持者達は迷宮時計というシステムの奴隷、歯車に過ぎない。
物理法則にさえ従属を拒む彼が、況や明らかな作為に拠って構築された機械仕掛けの悪魔に。
だが一方、最も大きな歯車となることが、世界が救われる、あの子供達を護れる唯一の道なのだ。
雲類鷲ジュウは許せない。父親が。PTAが。迷宮時計が。それに縋らねばならぬ自分が。
『支配されることに逆らい、自分が支配する』『支配対象を護るため、迷宮時計に支配される』――欠片の時計に手を伸ばしたあの瞬間から、並び立つ二つの至上命題が彼の心を苦しめていた。
自身の能力による解放のカタルシスとも、彼は常に無縁で戦ってきた。
「フゥー……フゥー……」
鋭い双眸を血走らせ、尖った歯を軋らせて、ジュウは空を仰いだ。
変わらずそこには月が貼り付く。あの世界には無い月が。
「くたばれ、雲類鷲ジュウ……くたばれ、迷宮時計」
瞬間、彼の体表に無数のメーターが現れ、針が回転を始めた。メーターに表示される圧力は、即ち彼の精神の内圧。
解放されることのない衝動。そのマグマの如き、密度と熱量が、彼の魔人能力に 二度目の覚醒を齎したのだった。
・・・
「ふんっ!!」
ジュウが強く大地を踏みしめる。
直後、ジュウの体表に浮かんでいた数多のメーター。それらが全て消え失せ、ジュウと梶原――互いを取り囲むよう、周囲の大地にメーターが半径10mの円を描いて出現。
「何?」
メーターが打込まれた大地の点は一瞬で細く長い形に隆起し、ドーム状に空間を覆うと互いに絡み合う。
この大地の檻を成す「格子」をジュウはいつでも爆破することが出来る。梶原にとっては脱出不可能の牢獄であった。
「――刑務所に続きここでもデスマッチかい」
梶原は周囲を見回し、ジュウへと向き直って笑みを浮かべるが、その顔には冷や汗が伝っていた。
船上で戦った時とは明らかに能力の規模が違う。
ここまで温存していたのか、或いはここに来て能力が進化したのか。
「う゛っ」
ジュウが表情を歪め、呻き声を発する。
大地へと打込まれ、消失したはずのジュウのメーター。それがまた体表に浮かんでいる。変化はそれに留まらない。メーターの浮かんだ部位がところどころ瘤の如くに膨満しているのだ。先程の折笠ほどではないが、明らかに異常に。
この機を、梶原は当然逃さなかった。左手を強く引いて腰に溜め、捻りと共に掌底を放つ。
『TOUGH』より覇生流体術“風当身”!!
掌圧が撃ち出した空気弾がジュウへと飛ぶ。
「ぐっ……!」
ジュウは更に大地を踏みしめる。メーターが出現。膨満。
ジュウの前に土の防壁が形成され、風当身はそれを砕くのみに終わる。
「ちっ……」
防がれたが、2つ、わかったことがある。やはりジュウの「この状態」には相当なリスクがあるらしい。勝手に体にメーターが浮かんで、放置すれば恐らくは、自身が折笠のようになる。
雲類鷲ジュウを1つの圧力機器とするなら、彼の安全弁はとうに壊れていた。限界を無視して高まり続ける熱と圧力。だからこその高出力であり、それを攻撃で外に逃さねば、彼自身もそう長くは保たない。
そしてそれは、ジュウが相当なハイペースで攻撃を続けねばならない、ということを意味する。
ダダダダダダダダンッ!!
ジュウがその場で足踏みを繰り返すと、悍ましい数のメーターが梶原の進路を塞ぐように現れた。
「ぐっ……」
前の地雷、後ろの檻。逃げ場は。
「せいりゃっ!!」
足下が爆ぜるより一瞬先に跳躍。放物線を描きながらジュウへと迫り、斜め45度のドロップキック!!
だがそれを見透かしていたのか、ジュウは滞空する梶原へと掌を向ける。今度は縦一文字の傷では無い。小さく引き絞られた丸穴であった。
放たれる赤い閃光!! 迫る梶原へと一直線に飛び、串刺しにせんとする。
が。
「ライダアアァッ卍キィック!!」
梶原は宙で身を捻り、血のビームを回避。さながらライフル弾の如く飛び、地上のジュウへと突き刺さった。
「ゲブゥッ!!」
血を吐き、その衝撃に何故か後ろへ吹き飛ぶジュウ。『ライスピ』のようにはいかなかった。
ジュウは自身が築いた土の壁に背から激しく叩きつけられるが、衝突の瞬間に接触面が深く凹み、ダメージを和らげる。
壁に身を埋めたまま、ジュウは口を開く。
「……今のは、結構効いた。が……」
キックの反動で後方に跳び、着地した梶原。その足下には、既に十分な数のメーターが設置されていた。梶原の蹴りが迫る間、レーザーによる迎撃に平行して仕掛けていたのだ。
「くたばれ」
ドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドッ!!!!
ドーム内の大地が一斉に爆ぜ、内部で凄まじい轟音が反響する。更に、ドームを構成する土壁までもがその状態からさらに形を変え……。
ドオアッ!!
ドームが激しく爆散しながら崩落。もうもうとした土煙の中、その場には底部に無数の穴が穿たれたクレーターが出来上がっていた。
その中心にて、土壁に守られ、無傷のジュウが佇んでいた。
その左こめかみにピタリ、と当てられた掌底。
漫画的エフェクトの煙に身を潜め、間合いを詰めた梶原が今、最後の一撃を入れようとしていた。
「喝ッ!!」
浸透勁。
掌から打込まれた勁力が頭蓋骨を突き抜け、脳を激しく揺さぶる。
その威力に、既に2度受けている脳へのダメージと相まって、ジュウは意識を手放し、昏倒した。
――何故?
意識を失う刹那、ジュウはそう言いたげに目を見開いた。
「漫画の主人公はな、爆発じゃ死なねえの」
膝から崩れて失神しているジュウを、梶原は見下ろし、そう、身も蓋も無い答えを述べる。
――まあ、嘘だけど……。
全身からの大量出血――今度はスパッタリングでは無い――に、臓器の損傷。到底立ってはいられない、意識を保ってもいられないダメージ。
それでは何故、最後の一撃を入れられたかと言えば……限界からの一歩、更に向こうへを可能とするのが、漫画的ハッタリの力だから。
直後、梶原もまた急速に意識が遠いのていき、その場にどうと倒れる。
雲類鷲ジュウ、梶原恵介。共に意識を失った2人だが、この時点では互いに存命であった。そして、致命傷を負っている梶原は、恐らく数分で死んでいただろう。だが……。
誰も見る者のない、荒れ果てた静かな港に、甲高い合成音声が響いた。
『学童学童午前0――野外泊、悪い子悪い子危険な状態。体内圧力が危険域に達しています。今すぐメメメメメ――』
・・・
2034年、東京都内。ウルワシ製薬ビル屋上。
黒髪の少年が、1人空を見上げていた。
月の無い夜空は酷く暗い。
月を、世界を取り戻すために、『ウルワシ兄弟』の長兄、ジュウは異世界へと赴いたのだ。
「ジュウ……」
口に出して呼んだことは一度も無い、彼の名前。
月の無い空の下、その響きは誰にも届くことなく、深い闇に溶けて消えた。