4.蒿雀 咲(あおじ えみ)


 昔から。
 私はとても迷った時しばしば、頭で考えているのとは逆の事をしてしまう。


 いつか私がそうこぼした時、そんな事は誰にでもある事だと彼は笑った。私の目から見て、いつでも落ち着いて構えた彼にそんな時があるとは思えなかった。
 その彼が今さっき口にした言葉に、私は黙ってしまった。
 私自身、今までそれを考えた事が無かったかと言えば嘘になる。二日に一度くらい、そうなる事を想像しては、浮ついたり不安に襲われたりしていた。

 自分で想うのと、彼の口から聞かされるのとではこれほど違うものなのか――
 彼は言った。私と夫婦になりたいと。




――ホタルなんて、これっぽっちも飛んでいないじゃない。

 おばあちゃんに聞いてやってきたホタルの見られる沢というのは、実に期待外れだというよりなかった。夜空が落ちて来たような景色は想像していなかったが、まさかただの一匹も見られないとも思ってはいなかった。
 それでも僅かばかりの期待を胸に沢を上流へと上っていくものの、行く手には真っ黒な澪筋が続くばかりだった。

「水に映った月が、綺麗」

 月明かりにきらめく夜の川も悪くない景色じゃない? 私は河原にしゃがみ込むと、そうやって自分を無理やり励ました。しばらくそうやって川を眺めていると、後ろからじゃり、じゃり、と誰かが沢へ下りてくる足音が聞こえた。
 振り返ると私と同じか少し年下、15、6歳くらいの男の子が水桶を片手にこちらに歩いてくる。こんなところに住んでいる人が居るとは。私は、彼の事をまじまじと見つめてしまっていた。

「なぜあなたは、そんなにも私の顔を睨みつけているのですか?」
「え? あ、ごめんなさい。こんなところにも人が住んでるんだな、と思って」

 少年が少し怪訝そうな表情をしたので、私は自分が失礼な事を言ってしまったのだと思い、慌てて「こんなところに住んでいるなんて素敵だ」と付け足した。

「ここにホタル見に来たんだけど、もしかして場所が違ったのかな?」
「ホタルですか。最近は随分数が減りましたかね」
「あー、そうなんだ」

 うなだれる私のすぐ横に、いつの間にか少年が立っていた。あまりの近さに、私は思わず脇をぎゅっと締めて硬直する。
 そんな私をよそに、少年はしばらくきょろきょろ目を走らせると、やがて向こう岸の暗闇の中を一点指差した。

「何も見えない……あ!」

 黄緑色の光が二つ、暗闇の中に浮かび上がった。その光は数秒ほどで消え、しばらくしたら少し離れた場所でまた光り出す。

「すごい! なんでわかったの?」

 思わず彼の方へ向き直ると、私はそういえば彼がとても近くに立っていたのだと思い出した。改めて、近い。

「ここに住んで長いですからね」

 彼はそう言うと私から離れて、水桶に水を汲んだ。そして、来た時と同じように、じゃり、じゃり、と音を立てて沢道の方へと歩いてゆく。その背中を私は咄嗟に呼び止めていた。

「私、咲(えみ)って言います! あの、あなたの名前、教えてもらえませんか?」

 何故か敬語になってしまったのが、自分でも少しおかしく思えた。少年は「ナキ」と短く名乗ると、ふいっと再び背を向けて斜面を歩いて行ってしまった。
 私は彼の名前を心の中で何度も唱えた。

「咲さん?」

 私があまりにも黙ったままでいるものだから、彼が不安そうに私の名前を呼んだ。その彼の顔があまりに真剣過ぎて、悪いと思いつつちょっと可笑しい。

(あなたはいい人だ。でも……)

 黙っていないで何か言わなくては。そう思っても口に出せたのは「あ、うん」の一言、それだけだった。彼の表情は私のぎこちない態度を見て、いよいよ深刻だ。

「……迷惑だったでしょうか?」
「あの、ごめんなさい」

 私が謝ると、彼は小さな動揺を見せた。彼に気を遣わせてしまった事に対して謝っただけのつもりだったが、そうだ、この場でこの言葉は別の意味を持ちかねない。私はあわてて取り繕った。

「あ、違う。そういう意味じゃなくて……その! ごめん! いや、ごめんじゃなくて……」

 どもる私に、彼の表情が少しだけほころんだ。なんだか、とても、申し訳ない。

「いえ、大丈夫です。少しも狼狽えるところが無かったかと言えば嘘になりますが」
「ほんとにごめんなさい。その、すぐには答えられなくて」
「ですよね。私としたことがつい、急かしてしまいました」

 二人の間に沈黙が流れた。気恥ずかしく、でも少しだけ幸せな沈黙だと思う。こんなに気まずい、でももう少し長く続いてくれて構わない。そんな空気が私たちの間に今、ある。

 結局、私はその日は返事をせずに彼と別れた。
 彼の事は好きだ。でも私は迷っている。




 ナキの家は鬱蒼と茂った森の奥にある。最初はこんなところに人が住めるものなのかしら。と思ったほどだ。彼は人ではないのだけれど。
 ナキがもののけである事は、私しか知らない。それでも私の両親は、口には出さないもののナキの事を快くは思っていない様子だった。

 プロポーズを受けて明日で一週間が経つ。返事は一週間、つまり明日まで待ってほしいと言ってあの日は別れた。
 なのに、まだ答えを決められないまま、私はナキの家に来ていた。

 合鍵を使って、ナキの家に入った。誰も居ない事は来る前から分かっていたが、その静けさに私は少しだけ心細さを感じた。
 玄関を上がり、少し時代遅れな長い廊下は左に曲がって広い縁側に繋がっている。ナキはよく縁側に座って庭を眺めていた。放っておくと何時間でもそうしていた。よく飽きないものだ。そう思いながら、私も飽きもせずそんなナキを見ていたりした。

「それも楽しかったけど、だいたい二時間くらいでちょっとくらいは構ってほしくなってくるんだよね」

 今は雨戸が閉められている縁側の突き当り、ナキの書斎に私は断りもなく足を踏み入れた。小さな机と棚があるだけの書斎だ。その棚の中段に収められた桐の箱に私の目は止まった。まだお互いにぎこちなさが抜けきらない頃、この箱には何が入っているのかを訊いたことがある。




――舌切? かわいいような、物騒なような分からない名前だね、それ。

 箱には舌切という小刀が入っているのだと、彼は私に教えてくれた。箱は長さが60センチほどの細長い形をしている。確かに、小刀をしまうにはちょうど良い大きさをしていた。

「そう。骨を断つほどの強かさは持ちませんが、肉を斬るにはこの上なく適している。故に名を舌切」

 へぇ。と感嘆する私からナキは箱を取り上げると、棚にしまった。

「見せてくれないの?」
「危ないですからね」
「そんなにどんくさくないよ」

 私の抗議に、ナキは苦笑した。「そういう危うさではない」のだと。

「舌切は私の妖気を宿した妖具なんです。そして、私の傍にいるあなたの体にも私の妖気が染み込んで溜まっています。あなたが舌切に触れると、その妖気が増幅して濃くなる恐れがあります」
「濃くなって、どうなるの?」
「何も起こらないかもしれないし、もしくは体が妖怪化を引き起こすかもしれません」
「悪くないじゃない。私も妖怪になれば、ひょっとしたら赤ちゃん出来るよ」
「雀から人に化けた私の妖気で妖怪化するという事は、人の姿から雀の姿に変わるという事ですよ? それどころか、不完全に妖怪化して人と雀がまだらに混ざった姿になってしまうかもしれない」
「それは、ダメだね……」

 人と雀がまだらに混ざった半妖怪。オペラ座の怪人のような姿になった自分を想像して、箱の中身を見せてもらうのは諦めた。それでもじっと木箱を見ている私が、いかにも名残惜しそうに見えたのか、ナキが言った。

「見た目は本当にどうという物ではない小刀ですよ」
「もしも私がオペラ座の怪人みたいな見た目になっても、ナキは私の事好きでいてくれるの?」

 別にどんな答えが返ってきても構わなかった。ただ、すこし困らせたくて訊いた。

「私はあなたのことが好きですよ」

 狡く、逃げられたと思った。




「オペラ座の怪人、か」

 オペラ座の怪人とまでは行かなくても50年後の私は今の私と同じ姿では居られない。そんな私でも、ナキは変わらず好きで居てくれるのだろうか。
 そんな不安が私の中に生まれたのは、あの時からだった。

 私は書斎から舌切の入った木箱を持ち出した。それを縁側の床に置いて雨戸を開くと、ほとんど手入れのされていない荒れた庭がそこにあった。私は木箱の横に座って、いつかナキがそうしていたように庭を眺めた。もうずいぶん寒い。

「ナキ、あなたが居なくなってから、もう8年経つよ。私、33になった」

 ある朝突然、ナキは私の前から居なくなった。そして次の日も、その次の日も、そのまた次の日も、とうとう彼は帰ってこなかった。
 もののけと、ナキと生きてゆく事への不安が与える痛みより、ナキが居なくなってしまった事の痛みは比べ物にならない程大きかった。

 そんな大きな胸の痛みも薄情なもので、いつまでも私の傍には居てはくれなかった。
 私は今でもナキの事が好きだ。でも――

「ナキの事、好きだった事しか覚えてないのよ。たまに少し構ってほしくてイライラしたり、将来の事を考えて不安になったり、もっと色々あなたの事を想っていた筈なのに」

 もはやキラキラ光るだけの思い出が、かえってナキの事をぼんやりと滲ませていた。
 私は木箱の上に右手を置いた。この木箱からナキの残滓を感じ取れるような霊界の力は私には無い。それでも、そうする事に意味があるような気がしていた。

「だから私、結婚するね。あの人は、とても良い人よ」

 私の胸が、にわかに痛みを訴える。その痛みを少しだけ心地よく感じてしまうなんて、気の迷いだと分かっていた。




――月が大きいね。

 私は少し離れた岩の上に座るナキに話しかけた。
 ナキの家の近く、この沢では季節になると数は多くないけどホタルを見る事が出来る。

「ええ」

 ナキはややそっけない口調で返事した。今日のような満月の夜、彼は一人になりたがった。今日に限って私がそれを許さなかったことに、少し困っているのか、或いは怒っているのかもしれない。
 ナキは満月の夜にひと月分の齢をとる。それを私に見られたくないのだ。

「6年前かな。おばあちゃんにホタルがいるって教えてもらってここに来たのは」
「期待外れだったでしょう?」
「そう。おばあちゃんの家からここまで40分もかかるのに! 見れたのはたったの二匹だけ」

 6年前、16歳の私はここでナキと初めて出会った。ナキが指差す先でぽつりと二つ黄緑色の光が灯った瞬間の感動や、彼が初対面の私のすぐ横に遠慮なく立っていた事、なぜか最後だけ敬語になってしまった事など、覚えている。

「あれから何回か、ひょっとしたらあなたに会えないかと思って、ここにしょっぱいホタルを見に来たよ」
「ずいぶんと健気な事で」
「でしょう? それなのに次に会えたのが都会の駅だったんだから、実に愛すべきだよ、当時の私ときたら」

 ナキに二度目に会った時、私は二十歳になっていた。彼が初めて会った時と同じ姿をしていたことに少し戸惑いつつも、それ以上に気持ちが舞いあがったものだ。
 いつからか、私はそのナキの本当の姿を見ていない。ナキが私に合わせて齢をとってくれるようになったからだ。

「あなたは私が満月の夜にあなたを遠ざける理由を知っているはずなのに、今日に限ってはなぜ?」
「たまには一緒に月を見ようよ」
「それが本心なら、喜んで」

 ナキはぼんやり月を眺めている。こういう時のナキは、まるで時間が止まってしまったように見えた。そう見えるだけじゃなく、彼を取り巻く時間は私からすると止まっているのと同じくらい、ゆっくり流れている。
 私はそれが怖くて、自分が本当に覚悟を持てるのか不安で、今日はナキの傍にいたかった。彼にお願いしたい事があった。

――私は、もう一度ナキの姿が見たい。

 それは、満月の夜にしか叶わない私の願いだった。出会ってから6年分、私とは齢が離れてしまった彼を見ても揺らがないでいられるかを知りたい。
 それを切り出す勇気が出せないまま、どんどん月は高く位置を変えてゆく。その淡い光が私の本音をはぐらかしてしまう。
 ナキの本当の姿がいったいどれほどのものだというのだろう。知らないふりをして生きてはいけないのか? だから今日はもうナキを一人にしてあげよう。
 そう考え始めていたその時、月が雲に隠れてぼやけてしまった。

「私がここに来たのは、あなたに会いたかったから」
「うん?」
「ナキの、本当の姿がもう一度、見たい」

「……どうして?」

 いっそ、ナキの本当の姿が大きな雀そのものだったなら、それともオペラ座の怪人だったならどれくらい楽だっただろう。彼の本当の姿はそれよりずっと残酷な、あの時と同じ少年のまま。私がおばあちゃんになって死んでしまう時が来ても、きっとそう。
 私が死んだあと、私と過ごした時間よりずっと長い時間をナキは生きる。いずれ彼の中で私はちっぽけなアバンチュールに変わってしまうのだろうか。
 私は下を向いた。やはり、ナキの本当の姿なんて見たくなかった。見ればきっと、私は彼と一緒にいる覚悟を全部なくしてしまう。

 いつの間にか、ナキが私のすぐ近くに立っていた。あの時のように緊張したりしない。むしろ、自分からもうすこし寄り添うことだって出来る。でも、今はそうしない。
 ナキが私の耳に口を近づけ、小さな声で囁いた。

「今の、何?」

 彼の顔を見上げて、訊いた。

「あなたは私の霊界の名を知った。霊界の名で呼ばれれば、私はあなたに姿も何も偽る事は出来なくなる」

 ナキは私の顔をじっと見ている。6年間でこんなにも変わってしまった私の事を、このもののけはどう思って見ているのだろう。

「ナキと最初に出会った時から比べて、ずいぶん大人らしくなったでしょう?」
「ええ」
「もう一度あなたの姿を見てしまったら、私はあなたの隣に居たくなくなるかもしれない。それでも、あなたの名前を呼んでもいいの?」

「……ええ」

 ナキは今まで見せたことが無い顔をした。
 そして、私はナキの名前を呼んだ。

 なぜだろう、昔から。
 私はとても迷った時しばしば、頭で考えているのとは逆の事をしてしまう。

 もののけと人、ナキと私は一緒には生きられない。やっぱり、そう思った。
 最後に顔を目に焼き付けたくて、見つめる。そして、お別れを告げようと口を開いた。

――ナキ。結婚しようか、私たち。




 床の上に、蓋の開かれた桐の箱が置かれている。箱の中には絹で包まれた棒状の物が入っていた。私はその絹の包みを解こうとしていたが、指が震えて巧くいかない。

 気の迷いだと分かっていた。
 これが何なのか。舌切が私にとってどんなに恐ろしいものなのか。ナキが教えてくれたのではなかったか。
 こんなに指が震えている。箱に蓋をして棚に戻そう。それにしても、なんて滑らかな絹の手触りだろう。

 絹の包みの中から現れたのは、とてもちっぽけで、何の変哲もない小刀だった。

 ほら、ナキの言った通りなんてことのない。こんなものがなんだというのだろう。もう月が出ている。少し寒いけど、ここに座って綺麗な月を眺めていよう。

 明日、私はあの人と会う。あの人はもう一度、私に「結婚してください」と言うだろう。
 私は「はい」と答える。いつか、あの人の子供を産むのだと思う。

――そうしていいか、あなたが決めて。

 私は舌切の柄に手を伸ばす。

最終更新:2014年12月09日 16:52