プロローグ


■ 21. レストラン『お花の天国』店主の証言

 ――ええ、ええ。流石です。流石ですわ。探偵さん。
 私は彼……臨次さんのことを知っていました。
 知りながら……ただ黙っていました。怖くて、怖くて……
 でも、もう終わったのです。はい、試合を見ましたから。
 もう彼の魂が、悪夢の中をさまようことはない……そう信じています。
 彼の迷宮時計については……ごめんなさい、何も知らないの。
 ……婚約者。はあ。盛華さん、もちろん彼女のことも存じていますわ。
 え、彼女はどこへ……? 私が、知っているはず?

 いやですわ、探偵さん。


■ 11. 日本再生党前代表、葦出纏の証言

 ――だーからさー、なんべん言われたって知らないんだよー。
 時計はカオルちゃんが勝手に連れてきたんだもん。
 平行世界のカオルちゃんに直接聞けばいいじゃん! 無理だろうけど!
 ……あ、そっかあれ影武者だったね! ほら、だから無理だよ!
 ほらほら、もうすぐ飛行機出ちゃう時間だしさー、これほどいてよ。
 僕もう行かないと、ね? 視察だよ、し・さ・つ。お仕事なんだよー。
 これ以上邪魔すると、えーと国家ナントカ罪! タイホされちゃうよ?

 え、もう飛行機行っちゃった?
 あれ? 誰が乗ってるの? え、僕の代わりの? あれ?
 え?


■ 5. ワク生コミュニティ「掃き溜め」匿名メンバー“風天”の証言

 ――この写真が“葵”!? マジキレーじゃん! 知らなかった!
 ねえどこ住み? 今度会おうよ! おごるよ俺!
 祥勝の? そっか“葵”ちゃんもその時いなかったっけ。
 「動画」ページの上から二番目のやつあるじゃん。そうそう。
 それでゲットしたらしいよ。俺もそれ以上はわかんねーけどさ。
 祥勝のコトなんかどーでもいいじゃん!
 ほら俺学校終わったらすぐダッシュで行けるからさ、
 だから【葵さんが退出しました】おーい。


■ 20. 芸術家、丸瀬十鳥の証言

 ――興味本位だか仕事だかなんだか知らねェが、
 いいか、これだけは言っておく。
 迷宮時計に手を出すな。
 ……忠告はしたぞ。


 いいか、迷宮時計には近づくな。





「んー……」

 安楽椅子の上の短い眠りから目を覚ますと、見慣れた室内にはささやかな惨状が広がっていた。推理机にうず高く積まれた捜査資料の山が無残に地崩れを起こし、古生代の地層があらわになっている。助手を呼ぶ声を彼女は口から押しとどめた。先週、彼が泣きながら事務所を飛び出していった光景を思い出したからだ。開け放たれた窓から吹き込む風が下水臭とともに色あせたカーテンを孕ませ、紙束をさざなみの様に震わせる。エントロピーの気まぐれが全てを元通り片してくれることに期待しつつ、彼女は再び両目を閉じた。

 風に煽られた手帳のページに暗号が踊る。「金満寺相楽」「刻訪」「渡来充」「スズハラ」「ニャントロ」……そして「迷宮時計」。

 売春宿、ヤクザの事務所、園芸店、重力派アジト、そのほかこの世の全ての薄汚れたものが詰め込まれた横穴式住居。古沢糸子の探偵事務所はそんなマンションの一室にあった。無論そんな場所に持ち込まれる依頼には、もっぱら頭脳よりも暴力の方が役に立つ。彼女が真犯人へと向けるものは人差し指ではなく拳銃である。それがかつてハードボイルド探偵であった彼女の生き様であり、安楽椅子の上に腰掛ける両足を失っても今なお傷つかない彼女の矜持であった。

 バロック様式の壁掛け時計が三つ、時を鳴らした。それを聞いた糸子はばね仕掛けのようにがばりと身を起こし、机の引き出しをまさぐった。その過程でまた紙山がひとつ床へと崩れ落ちたが、それを気にしている場合ではない。取り出した箱の中身は、秘蔵のチョコレート・アソート。先日北海道から宇宙輸送で取り寄せた逸品である。
 探偵とは糖分を真実に変換する機械である、とは誰の言葉だったか。知ってのとおり、探偵たる灰色の脳細胞を活性化させるエネルギーは何にもまして糖分である。彼女にとってその名言は、欲望を覆い隠す免罪符以上の何物でもないが。

 インスタントのアールグレイには不釣合いな高級チョコレートを惜しむように一粒ずつ味わいつつ、彼女は思索にふける。迷宮時計。ここ数日、その言葉を耳にしない日はない。数多の事件の裏に、いつもその影がある。少しずつ、確実に、何かが起ころうとしている。
 いくつかの時計の出所は掴んだ。しかしそこから更に先を辿るとなるとまた倍以上の困難が待ち受ける。今は所詮、人工探偵ネットワークから拝借した情報以上はほとんど得られていない。悔しいが迷宮時計に関しては、完全に藁人形連中の後手後手に回ってしまっているのが事実。
「……あいつに従うのも癪だけど、これ以上は踏み込まないほうが良さそう、かな」

 それにしても、と糸子はため息をつく。いつから世の中はこうまで複雑になったのか。
 推理条例。真本格派の台頭。犯人妖怪の暗躍。人工探偵。
 探偵小説というものは、もう少しシンプルな世界だったはずだ。例えば――

「た、たっ、助けてくれェェェーーーーーッ!!」

――そう、例えば。

「あ、うん。例えばこういうやつ」

 その瞬間、貧相な風体の男がドアを蹴り飛ばして事務所の入り口から転がりこんだ。その顔は死人のように蒼ざめて、むき出しの歯がかちかちと噛み合わぬ音を発している。

「依頼ね! 古沢探偵事務所へようこそ。あ、このおやつは私専用のだから……」
男は息も絶え絶えに、言語にならぬ言葉の断片を発した。
「助けて……助けてくれ……」
「あ、それとも探偵助手の応募かしら? でもねぇ、その顔じゃちょっと書類審査でアウトかなー、って」
「俺は、俺はただすげえお宝があるってだけ聞いて……嫌だ……嫌なんだ……」
「……もうちょっと順を追って話してくれないかなァ」
「お、俺は! こんな、こんなはずじゃなかったんだ! 俺はこんなもんいらねェ! 頼む、頼む、預かってくれ! こんな、呪われた……嫌だ、嫌だ!! 俺はこんな時計アバッ」

 BLAM! 空気を切り裂く破裂音。懐から何かを取り出そうとしたその瞬間、哀れな男の後頭部が真っ赤に弾け飛んだ。勢いあまって男の手から空中に放り出されたその平たい、丸い物体を、糸子は見た。白と黒の懐中時計。その指し示す時刻は11時43分……狂っている。その長針が、冷や水を浴びせられたように身震いし、かちりと進んだ。11時44分。そして血煙舞い散る中を空飛ぶ時計はくるくると回転し――

「あだっ」

――まっすぐに糸子の額へと命中した。

 糸子は涙をこらえつつ、もう一人の予期せぬ訪問者を見た。開け放たれた扉の横に、身の丈二メートルほどの大男が立っている。倒れ伏して痙攣する被害者の命をたったいま奪った自動式拳銃をその右手に握って。それは糸子にとって知らぬ顔ではない。

「げ。夜魔口の……」

 指定魔人暴力団・夜魔口組の若衆、夜魔口黒犬(やまぐち へるはうんど)。何よりその強靭な肉体で恐れられる夜魔口組きっての実力派である。つまるところ、迷惑なご近所さんである。

「邪魔したの、探偵。用を済ませたらすぐに立ち去るけえ、許せ」
「……とりあえず、カーペット弁償してほしいんだけど。クリーニングしたてなのよね」
「無論。落とし前にゃ責任を持つわい。だがその前に、そこのケチな盗人渡してもらおうかの」
「ああ、アンタらが探してるの、これでしょ……とっとと持ってってよね」

 糸子は手に持った時計を投げ渡そうとした。そして、はたと気がついた。時計を。手に持っている。自分が。迷宮時計を。

「え」「あ」

 ――所有者の存在しない迷宮時計に、最初に触れた者が次の所有者となる――

「え、ちょ……」
「……お前……」

 時計の針は、再び11時43分に戻っていた。

「えええええええええええぇぇぇーーーーーーーーーーー!!!」

 狭いマンションの一室に、安楽椅子探偵の絶叫が響き渡った。



「…………」
「えーと。OK? まずは落ち着きましょ? ほら、できればその右手の銃、下ろしてくれないかなー、なんて」
「……安心するけえ。わしらの目的はそん時計だけじゃ。そんだけ渡してくれりゃあ、すぐにお前さんは自由の身じゃ」
「んー、あたしの調べによると、迷宮時計の所有権をこの世界で手放せるのは、所有者が死亡したときのみ……とかなんとか」
「……ミスター・チャンプ、知っとるじゃろ」
「あー、蘇生能力者を使うのね! あなたの組が持ってるなんて初耳だけど! ……雇うにしてもちょっとおたくの財政的に厳しいんじゃないかしらね、見合うメリットもなさそうだし……」
「…………」
「…………」

「……ヤクザちゅうのは怖い世界なんじゃ。いま、その怖い怖い世界の秩序がクソみたいな時計に塗り替えられようとしとる。埋もれるわけにはいかん。わかるな」
「そりゃあたしだってヤクザは怖いわ……この世で二番目に、ね」
糸子の右手がコートの内側へと伸びる! それを見逃す夜魔口ではない! BLAMBLAMBLAM!! たちどころに発射された三発の銃弾が糸子の心臓を狙う! だがその瞬間!

 BBBLAM!!

 ……パステルカラーの小爆発が三つ、空中に花開いた。夜魔口の目が驚愕に開かれる。糸子は誇らしげな笑みをその顔に浮かべ、右手のリボルバーに頬を寄せた。飛び来る弾丸を、撃ち落としたのだ。全てを。一瞬で。

「一番怖いのは」
糸子は左手に握った筒状の物体の蓋を弾き飛ばした。
「虫歯よ」
それは、拳銃のマガジンなどではない。ありふれた、チョコレート菓子のパッケージ。勢いよく振ったその手から、色とりどりに砂糖コーティングされたマーブル状チョコレートが撒き散らされる! 糸子のリボルバーは超自然的な精密さでそれらを弾倉へと飲み込んでいく!

『サヴォイ・トラッフル』

 BLAMBLAMBLAM! 糸子のリボルバーから虹色の軌跡が描かれる! チョコレートを弾丸とする超精密射撃! それが安楽椅子探偵・古沢糸子の魔人能力である!!

「ヌゥーッ!!」
放たれたチョコレート弾は夜魔口の額と心臓を守る両腕へと突き刺さる! 再び巻き起こるカラフルな小爆発! 糸子はなおも射撃を止めぬ! BLAMBLAMBLAMBLAMMM!! しかし!
「効かんわい……その程度」
夜魔口の着るダークスーツの両腕は爆発でぼろぼろの骸布と化し、黒い剛毛に覆われた皮膚がむき出しになっている。しかしあれだけの射撃を受けておきながら、その表面には傷一つなし。何たる強靭な肉体か。

「駄菓子じゃお口に合わないみたいね」
糸子はそう言うと、先程まで食べていたアソートの箱から一粒のチョコレートを取り出した。黒い宝石は糸子の指先でくるくると回り、銃弾の形へと作り変えられていく。それをリボルバーの弾倉へと装填!
「トリュフ・ノワール・バッカス。高いのよ、これ。ゆっくり味わってね」

 BLAM!! 漆黒の弾丸が夜魔口の額へと向かう! だがそれを見る夜魔口の顔は勝利への愉悦に笑う! その目に赤く火花が走る! 
「おどりゃあああぁぁぁぁ!!」
夜魔口の目前に真っ赤な火球が突如出現! これぞ夜魔口黒犬が魔人能力『オールド・レッド・アイズ』! 強大な発火能力が作り出した炎の防御壁だ! チョコレートは熱に弱い! それが自然の摂理だ!!

 だが銃弾が火球に突き刺さりその身を溶かす直前、黒い軌道は突如として折れ曲がり円弧を描いた!
「何……!」
高級チョコレート弾は夜魔口の背後に素早く回り込み、その無防備な首筋に突き刺さる! 不意を突かれて乱された集中に、火球が蒸発、四散する。
「がッ……クソ、遠隔操作もお手の物、てェわけかい……だがな……」
だが……夜魔口はなお、倒れない。
「……今ので、手品のタネは尽きおったようじゃの」

 夜魔口は手にもつ拳銃を糸子へと投げつけた! 糸子が視線と上半身を動かした、その一瞬の隙! 一瞬のうちに、夜魔口は一足飛びで糸子の目前にいた。慌てて向けられた銃口を、夜魔口は右手で弾き飛ばす! そしてその強靭な両手で、糸子の両手首をがしりと掴み、引きずり上げる!
「ああっ! 痛っ……」
両腿から下を失った糸子の身体は、驚くほど軽い。それを持ち上げる夜魔口の瞳は、真っ赤に燃えていた。見つめ合う二人の間に漂う空気が熱を帯び、蜃気楼でゆがむ。

「わしらとて、仁義のない殺しはしとうない……しとうないんじゃが、ま、あきらめとくれ。運がなかったんじゃ。特段の恨みはないが、すまんの……」
「くっ……」
両手首を握る拳に力が入る。空気がゆがむ。『オールド・レッド・アイズ』。彼女を無残にも焼き焦がす紅蓮の炎がそこに……出現しない。何故。視界がゆがむ。拳が震える。何故だ。何かが。何かがおかしい。

「はあ、やっと効いてくれたのね。たいしたものだわ、本当」

 震える拳から、糸子が滑り落ちた。足を持たぬ探偵は、再び安楽椅子の上へと戻った。夜魔口は床に両膝を突いた。

「……ぐっ、貴様……何をした……」
「さっきのチョコ、ラム酒入りなの。アルコール度数70%は、キツイでしょ。それも血管に直にだとね」


 糸子は床に転がる拳銃を拾うと、彼の額に銃口を向ける。

「……さて、時間があればアンタにも色々聴きたいことがあるんだけど……」

「ご無事ですか! 若衆!」「若衆! ブツは!」
そのとき、階下から階段を踏み鳴らす数人の足音と怒声が、マンションの廊下から響き渡ってきた。

「ないよねー、時間! やっぱり!!」
糸子は机上の食べかけのアソートの箱だけ引っ掴むと、一目散に安楽椅子ごと窓から身を投げた。一秒と立たず、そこに夜魔口組構成員が次々となだれ込んでくる。間一髪。

「若衆! お身体は大丈夫で! 時計はどうなりやした!」
「糞が……逃げられよった、窓から……」
「窓……十三階ですぜ、ここ……」

 開け放たれた窓から吹き込む風が、再び文字情報の堆積を室内へと撒き散らした。



 五分後。古沢糸子はスラムの路上を安楽椅子でひた走りに走っていた。その手には白と黒の懐中時計が握られている。違法路上販売をカーブで吹き飛ばした際の怒号がはるか後方から聞こえてくる。迷宮時計に手を出すな。そんな警句が頭をよぎり、彼女を無性にいらだたせる。
「手なんか出してないわよ……近づいてもいないし……あっちから勝手に飛んできたんだっつーの!!」
おまけにこの時計、ただの時計としても全く役に立ちそうに無い。その針は未だに11時43分を指して止まったままであった。12時まで残り17分。
「……あたしもその内の1分ッてわけね。クソッタレ」
彼女は再び警告を思い起こした。この17分の中に、あの少女はもう含まれてはいない。

 糸子は高速で疾走しながら、きらびやかな箱に包まれた高級チョコレートを惜しげもなく口に掻きこんだ。糖分が。糖分が必要だ。地獄のような、甘さが。

最終更新:2014年12月07日 18:41