***
晩秋の候。グンマーの山々はこの年も紅や黄と色とりどりに彩られていた。
風はずいぶん冷たくなってきており、冬がすぐそこまで迫っていることを教えてくれる。
山の麓の細道を黙々と走っているのは、夏の忘れ物のように小麦色の肌をした少女だ。
そこに、背の高いこちらも少女が、春の嵐のごとく猛然と駆け寄ってくる。
「はあ、はあ、はあ……。ふふふ、きいてください! やりましたよ! ついに私も上毛衆です!!」
「おー、おめでとう! がんばったのだな、えらいぞ」
目の前に回り込まれた少女は、足を止めて自分よりけっこう高い所にある顔を見上げながら言った。
「なんで上からなんですか」
「きにするな。ところで、**はだれを継いだのか?」
「昨日の頭領のお話ちゃんときいてました? 糸音ですよ、糸音! えへへ……呪符ももらっちゃいました」
「むう。うらやましいのだ」
「ふふっ、xxもがんばってくださいね?」
喜色満面で語りかける背の高い少女。
一方でもうひとりの少女の表情は陰っている。
それなりに長いつきあいになるが、そんな顔はあまり見た覚えがなかった。
「xx?」
「…………ねえ、アタシは、ほんとに上毛衆になれるのか? 呪力も少ないし、体もちっちゃいのに」
「……大丈夫ですよ。これからは、い・と・ね・様が鍛えてあげますから!」
「むっきー! **のくせにナマイキなのだー!」
「あははは! ほらほらxx、うちまで競争ですよ!」
「待つのだーー!!」
少女たちは再び勢いよく駆け出した。そこにはもはや憂いの付け入る隙間はない。
グンマーの長閑に広がる自然が二人を見守っている。
早百合と糸音が十歳の頃のことであった。
***
時は順を辿り、そして逆へと移ろい少女たちを弄ぶ。
瞼を開けた早百合の目の前に広がる光景は――
開けた空間。
石造りの壁と階段状の客席。
そのまわりを取り囲む巨大なアーチの数々。
そして前方に佇む、セーラー服の、狐面の少女。
《1》
“裏”第一回戦第六試合で迷宮時計が選んだ戦闘空間は、【過去】の【闘技場】だった。
ここは1600年のローマ。
ローマの闘技場といえば、そう、フラウィウス円形闘技場……通称コロッセウムだ。
かつては剣闘士たちが猛獣や剣闘士どうしと血で血を洗う死闘を繰り広げていたこの場所は、ローマ帝国の衰退と共に、あるときは要塞、あるときは住居群へと姿を変え、いまは採石場と化している。
床面には木の板が張られているが、資材にされたのだろうか、それは長径がおよそ200mある(ちなみに短径は約150m)楕円形の競技場の半分程に過ぎない。残り半分については、4m程の深さで掘り下げられた空間が広がっており、そこにはかつて使われていた猛獣の檻や剣闘士の控室が同じく高さ4m程の石壁となって残されていて、まるで迷路のようになっている。
武器はどこにも見受けられない。とっくに持ち帰られてしまったのだろう。
観客席はすでに建材として削られてしまっている部分も多く、現代の姿とあまり変わりはみられない。
時間は真夜中。満天の星空とまんまるの月が天も地もあまねく照らしており、夜だというのに明るさは十分だ。
涼しげな風がやわらかく、突然の来訪者である少女たちを包んでいる。
上毛早百合が転送されたのは、木が張られているアリーナの中心部から20mほど壁に近づいた場所だった。
ちょうど反対の壁側には、自分と同じくらいの背格好をした少女が立っている。
自然と共に毎日を過ごしてきた早百合は目が良い。
少女が狐面を付けているのが見てとれた。
(上毛衆にもいつも仮面を付けてるヤツはいるけど、コイツもやばいヤツなのか?)
艶やかな白棍を握る手に力がこもる。
狐面を付けた少女は、ゆっくりと右手を挙げた。
視線が右手に向く。
右手は勢いよく振り下ろされた。
――瞬間、閃光が迸る。
「!! ぬわっ!」
両目を押さえる早百合。
その隙を見て狐面の少女が早百合のもとに駆け出す。
あやまたず、早百合の体を微塵に切り裂くべく、死を運ぶ糸が迫りくる。
◇◆
閃光弾を炸裂させた少女が付けていた狐の仮面は、彼女の育ての親が作った、遮光性と耐火性に優れた逸品だ。
そしてそれは彼女にとって、命を奪われてしまった兄と慕う少年の形見でもある。
少女、刻訪結の操る『操絶糸術』の攻撃圏はおよそ直径20m。
目が眩んで動けなくなっている相手に一気に近づいて殺す。以上。
いつもどおりの手筈だった……はずだった。
しかし、目の前にあったはずのシルエットは突然消えた。
「!?」
結の瞳が驚きに染まる。
すぐに敵の姿は現れたが、糸に手ごたえはない。
それどころか、どうやら糸は切られているようだ。
粗末な面で顔を隠した敵は猛烈な勢いで後ろに下がる。距離をとられた。
「……やっぱり、簡単にはいかないね」
表情は変えず、結は次の手を打つべく行動を開始した。
◆◇
(あぶないところだったのだ……!)
早百合は驚異的な反射でグンマー呪術『外呪の「虚」』により全身を透過させた。
上手く回避できたのは、彼女の前の『迷宮時計』保持者であった上毛糸音との戦闘経験によるものが大きい。
肌に糸が触れた瞬間、糸使いである糸音に追い詰められた時の感覚が蘇ったのだ。
(感謝するぞ、糸音。アタシのために力を貸してくれたんだな)
それでも閃光弾をまともに喰らえば立っていることも難しいはずだが、早百合はすぐに『造呪の「成」』によって目隠しとなる仮面を作って光を遮ったので、ダメージを最小限に留めて足を動かすことができた。一気に距離を詰めて反撃することは、危険すぎて流石に躊躇われたが。
光はやがて消え、再びコロッセウムを照らすのは星空のみになった。
敵の少女は狐面を外していた。隠れていた赤い花飾りが可愛らしい。
あどけなさが残る表情は、他方で怜悧な印象も垣間見える。
少女の周囲にはクナイが何本も打ち込まれていた。
(どうみても近づくのは危ないのだ……。それならまずは、ごあいさつ)
白いポンチョの少女と黒いセーラー服の少女が対峙する。
「やるじゃないか、刻訪の小娘」
尊大な口ぶりで言い放つ健康的な小麦色の少女に対し、繊麗な白磁の少女は微笑を浮かべて言葉を返す。
「コムスメはコムスメでも、私は秘蔵っ子娘なの。そういうあなたはずいぶん可愛らしいのねえ、さゆりちゃん?」
「おい子ども扱いするな、アタシは14歳だぞ!」
「あっ、私も14だよ? 背は私の方がお姉さんみたいだけど」
「あんまりかわんないのだ! もう、糸音もお前もうるさいのだ」
文句を言いながら早百合は懐に手を入れると、小さな木の札をとりだした。
札の表には浮世絵のようなイラストが、裏には禍々しい紋様が描かれていた。
「この呪符は『力合わせる二百万』。グンマー人全員から力を貰うことが出来るアタシに敵はないのだ」
「ご丁寧にどうも。ずいぶん親切なのね?」
「これは宣誓なのだ。お前が今日ここで見聞きしたものは、永遠にお前だけのものになる」
「そう……。ならあなたは今日ここで、何も知ることなく死んでいくことになるわ」
コロッセウムは千年の時を超え、いま再び戦場としてのあるべき姿を取り戻そうとしている。
昂る殺意が臨界点を突破する。
「――上毛衆が槍の一、上毛早百合。グンマーの糧となるがいい!」
「――鑪組拾弐號、『偲赫』の刻訪結。さあ、“コロシアイ”を始めましょう」
***
首だけの少女がこちらを向いている。
その目はしん、と閉じられている。
瞼の下の瞳が訴えていること。それは、嘆き、怒り、憐れみ、あるいは虚無、それとも。
いずれにせよ、本当の心を知る術は私にはない。
ああ、またこの夢だ……。
わたしを、みないで。
***
《2》
名乗りを上げた二人だが、分かつ距離はいまだ縮まっていなかった。
下手に動けば命を刈られる、という緊迫感が場を支配していた。
(そうはいっても、いつまでもガマンはできないのだ)
向こう見ずでノリで行動するタイプの早百合にとって睨みあいは好むところではない。
ためしに造呪の『成』でつくった石を投げてみる。しかし石が近づいたところで結が指を動かすと、粉砕されてしまった。
(むむう、やっぱりこれじゃもろいのだ。それじゃあ……といいたいところだけど、コレは後にとっといて)
早百合は攻呪の『滅』と『疾』を発動し、さらに自分と白棍に呪力を纏わせる。
「いっくぞぉーーー!!!」
早百合は雄叫びをあげると、全速力で突っ込んだ。
(ふふん、お子様はガマンが苦手なようね)
結はそれを冷ややかに見つめる。
彼女の周囲に螺旋を描くように打ち込まれたクナイは、視認性が極限まで下げられた糸によって結ばれている。
少女に心を奪われた狼は、罠に足を刈られてのたうちまわる寸法だ。
突進してくる早百合の足に糸が食い込む。
しかし一瞬彼女の肌を傷つけたそれは、足を断ち切るには至らなかった。
(! さっきは一瞬しか消えてなかったのに)
最初に触れた糸だけでなく、螺旋の二周目の糸も三周目の糸も彼女を捉えられない。
早百合は糸の触覚を感じてから、ひざから足首までを透過したのだ。全身でなければ透過は数十秒維持できる。
みるみるうちに間合いが詰まる。
早百合が白棍を振り上げた瞬間。
「っは!」
結は大きく腕を交差させる。
攻撃に意識を集中させていた早百合は今度は全身透過に失敗した。
驀進した勢いはあっけなく止まり、体が空中で固定される。
糸が早百合の肌を裂く。
しかし、
「ぐぐ……」
糸は早百合を切り刻むまでには至らなかった。
呪力が彼女の体の耐久力を上げていたのだ。
さらに結が力を込めようとしたところで、
「アタシを止めようなんて十年早いのだ!」
「ま、また……」
今度は全身透過に成功。糸を抜けるとそのまま白棍を振り下ろす。
「くらえ!!」
「やだよ!!」
白棍が結の頭を粉砕するより一瞬早く、彼女が懐のポーチから取り出した糸切鋏が白棍の根元に突きたてられた。
ただの鋏ならば呪力に負けていただろう。
しかしこれは彼女が血を引く裏の家系『危辻』に伝わる、鉄糸をも容易に断ち切る糸切鋏。
正確に重心を穿たれた白棍は罅が入ったかと思うと、粉々に砕けてしまった。
「あああーーー!!!」
武器を失って絶叫する早百合に鋏を向けて牽制すると、結ばれた糸を引っ張ってクナイを回収し、今度は四本だけ地面に打ち込んだ。
「お前、よくも……」
「あなた、面白い能力を持ってるのね。怖いわ……」
憤怒の表情を隠そうともしない早百合。
対する結は余裕の笑みだが、額には汗が浮かんでいる。
「この子と同じ目に遭え!」
再び自分に呪力を込めようとする早百合だが、結がセーラー服のホックを外して袖をまくりあげると、
「それは……?」
構えが思わず解ける。
袖に隠されていた腕には包帯がぐるぐるとまかれており、素肌はまだ見えない。
はらはらとその包帯がほどかれたとき、
「う、わ……」
言葉にならない声が漏れた。
結の腕は、無数の痣で埋め尽くされていた。
紫色のもの、茶色のもの、黒いもの。焦げたような痕もある。
そして、それらの痣を覆い隠すように、縫い跡が縦横無尽に刻まれている。
肌は痛々しく引き攣り、彼女の美しい顔や首元からは想像できない有様だった。
「酷いでしょう? これ」
表情を歪めながら、口調は変えずに結が問いかける。
「これを見せる人はね、ちょっとだけ特別なの」
そう言いながら、さっき早百合の体に食い込んだときに彼女の血で染まった糸を器用に針に通す。
「な、何をするつもりなのだ……?」
早百合の言葉を気にもとめず、玉結びをつくり、針を腕に向ける。
しばし躊躇った後、結は自らの腕に針を突き刺した。
「ぁ」
「やめろ!」
懇願に似た制止は聞き入れられるはずもなく。
「あ、ぁっ…。んぅ、あん……、あぅ」
苦痛と恍惚が入り混じった声をあげながら、結は赤を刺繍していく。
それを茫然と見ていた早百合だが、気を取り直し今が好機だと呪力を高める。
しかし、狂気を孕んだ結の視線に射すくめられると、蛇に睨まれた蛙のように体が動かなくなってしまった。
もっとも、ここで飛びかかっても透過が可能なほど集中することはできずに、糸の餌食になっていただろう。
「は、んぁ、えへ、えへへ……あなたの赤で、赫くなるの……」
刺繍はいつのまにか完成していた。玉どめをつくる結。
小さな百合の花が彼女の右腕に咲いていた。
「おしまぁい」
瞳には仄かに紅が揺らめいている。
クレナイの陽炎だ。と、早百合は思った。
◇◆
早百合が見えているのかも怪しい胡乱な瞳を向けながら、結が喋り出す。
「ふーん、グンマーの呪術っていうのは、ずいぶん体系的なのね」
「っ、まさかお前……」
痛いのが本当は嫌いな結は、能力によって与えられる肉体的な苦痛以上に精神を削られてしまう。
なので、口にする必要がないことまで喋ってしまうのだ。
「上毛衆もネタが割れたら怖くないわ、と言いたいところだけど、それはあなただけなのかしら?」
「そうか。お前はここで必ず殺す」
「やれるものなら」
そういうと結は、先刻の早百合と同じポージングをする。
魔人としてのアイデンティティでもある特殊能力、すなわち認識の強制力を自分のものとするということは、その根底にある相手のパーソナリティを把握することと同義である。
攻呪の『疾』の構えをとった彼女は思いっきり駆け出すと、……ド派手に転倒した。
「いったあ! うー、あれれ……?」
(いまだ!)
早百合は懐から投擲用カルタを取り出すと、呪力で強化。
本家の『疾』で加速しながら投げつける。
石による攻撃が頭に残っていた結は糸で破壊を試みる。
しかし呪力で強化したカルタは造呪の『成』でつくった石とは硬度が全く違う。
加えて呪力をもって行う攻撃は、呪力耐性の無いものに対して威力が増強される。
糸は切断され、カルタは結の肩に撃ち込まれた。
頭への直撃は、首をひねってかろうじて回避したようだ。
「うぐぅ」
(後にとっといて良かったのだ。一気にカタづける!!)
狐面で結が頭を守ったのを見るやいなや、今度は自分に『疾』をかける。
一直線に駆ける。その速度は時速30km。中学二年生女子100m走の日本記録並みのスピードだ。
その辺の女子中学生レベルの身体能力ではとても躱せない早さである。
必殺の拳を叩き込むべく猛然と走り込む。
これに対し結は、腕を円状に動かしながら体に引き付ける。
するとクナイが地面に横たわる彼女の前方に円を描きながら引き抜かれた。
早百合が円の中に踏み入った瞬間、
「ぬわーーーー!!」
木の床は踏み抜かれ、早百合は地下に落ちていった。
「……深円蓋」
屋内戦や多層的な自然空間の中で用いられる、『操絶糸術』の絶技のひとつである。
クナイで削り、脆くした足場から敵を奈落の底に突き落とす技だ。
ちなみに読みは結が勝手に決めた。
「あーもうなんで失敗なの! って、そゆこと……。ずるいわ、私もグンマー呪術使いたいー!」
幼い子どものようにだだをこねた結は、ひとしきり騒いだら満足したのか、
「さあて、私も行きますか」
だれとはなしに呟くと、アリーナの淵から石の檻の上に立って歩き始める。
しばらく進んだところで、着地するべく適当な場所の壁にクナイを突き刺した。
◆◇
「とーーーう!」
早百合がアリーナに戻ってきた。
攻呪の『疾』で加速しながら大ジャンプをしたのだ。
周りを見渡すが、結の姿はない。
「あれ、下に行ったのか……? まあいい、探しながら作戦を考えるのだ」
観客席に飛び移り、高所から索敵する。
(あいつは明らかにグンマー呪術を使おうとしてたのだ。それもアタシの。でも失敗した。あれは呪符を貰う前のアタシと同じ転び方なのだ。つまりあいつには呪力が無い。グンマーの民じゃないから当然だけどな。だからあいつは怪しげな能力を使ってるみたいだけど、状況は結局あまり変わらないのだ。しかし、あの糸は厄介だ。糸音も強かったけど、タイプの違う強さなのだ。守り重視でやり辛い。刻訪は狂ってるってとーりょーも言ってたけど、本当なのだ……。だけど最後に勝つのはアタシでありグンマー。皆の力を貰っているアタシに負けは無―
―見つけたぞッッ!!」
眼の良い早百合は俯瞰視点から、通路をうろうろしている結を発見した。
再び呪力を纏わせたカルタを用意し、攻呪の『滅』と『疾』で自分の力を強化して投げる。
弾丸のような勢いで飛んで行ったカルタは、しかし結に近づくとバラバラになってしまった。
振り返ってこちらを見た結は、にたりと笑って手招きをすると、通路の奥へと進んでいった。
「こ・の・や・ろ~……覚悟するのだ」
早百合は地下牢の石壁の上を走って結との距離を詰める。
しかし彼我の距離があとわずかになったところで、強烈な殺気を感じ足を止めた。
その死線こそ操絶糸術の攻撃圏の限界。それを悟らせたのは彼女の武人としての勘であった。
「もう。さっきみたいに突っ込んできてくれたら細切れになったのに」
結が狂気と悦楽と冷徹さがないまぜになった顔で残念そうに言う。
「ふん。バカには上毛衆は務まらないのだ」
そういうと早百合は結の周囲を凝視する。
すると、細い糸が壁に突きたてられた針を通して、縦横無尽に張り巡らされているのが見えた。
(カルタを壊したのはこいつらか……。1本切っても2本、3本とあってはさすがに届かないのだ)
閉所での戦闘こそ操絶糸術の真骨頂。
対戦場所が闘技場だと知った結は、アリーナで戦うのではなく、闘技場にはつきものの猛獣や奴隷が詰め込まれていたスペースに移動して戦うことを考えた。ローマのコロッセウムでは、それが掘り下げられた空間として広がっていたということだ。
(どうする、どうする、どうする。アタシの武器じゃあこの糸は突破できない。でも突っ込んだら捕まっちゃうのだ。糸音みたいにアタシを侮って攻めてきてくれたらいいけど、構えられて連続で迎撃されたら透過は間に合わない。……いや、待てよ。糸音は呪符で無限に糸を出せたけど、あいつは有限……。その証拠に、いまここでアタシが考え込んでいても手を出さない。それは、あいつも下手に動けないってこと……)
視線を合わせ続ける二人。結の手は懐に伸びる。
(そうは言ってもこれ以上準備されても困るのだ。それに、うだうだ考えているなんてアタシらしくないのだ!……ようし、まだ上手くいったことはないけど、イチかバチか……)
早百合は結から距離を長くとると、呪力を練る。
そして攻呪の構えから、三たびの特攻を仕掛けた。
「うおおおおお!!!」
早百合が猛然と駆ける。
石壁の上には糸は張り巡らせることができていない。
スピードがぐんぐん増していく。
攻撃圏内に入った。糸が迫る音が聞こえる。
早百合は結めがけてジャンプした。
飛び蹴りの格好だ。
もはや回避が叶うタイミングではない。
それはどちらにとっても同じこと。
糸が早百合の肌に触れる。
しかし糸は空を切った。
「!! そんな!」
「やったのだ!」
結の瞳が驚愕に揺らめく。
早百合自身も驚いていた。
これまでに移動しながらの全身透過に成功したことはない。それだけの集中力を求められるのだ。
しかし早百合は飛び蹴りを選択することで、飛んでからは透過のタイミングを計ることのみ考えることができた。
結の手袋から伸びる10本の糸のうち8本までもが早百合の実体化によって消滅した。
腕を動かし、残り2本の糸を彼女に絡めようとする。
なんとか勢いを止めようと試みているのだろうが、その程度の防御ではもはや彼女を食い止めることはできない……そう思われた。
だが。
「楽園危火」
呟きとともに結は懐のポーチから取り出したライターで糸に火をつける。
すると火は糸を伝ってあっという間に燃え広がり、早百合に近づくと爆発を起こした。
それだけにとどまらず、火は炎となって地下空間を呑み込みつつあった。
『危辻』に伝わる糸は、人や物を断つ用途のものに限られない。
例えば、視認性は高くても、易燃性で火薬を練り込むことすら可能な糸も存在する。
『操絶糸術』の絶技は、糸を用いた戦術全般を可能にしているのだ。
「あはっ、赤い赤い。もっともーっと紅くなれ!」
満足げに叫ぶ結。
けれどもすぐに不審そうな表情になる。
早百合の姿が見えない。
消し炭になるにはまだ早いはずだ。
「どこ行っちゃったの? さゆりちゃん……」
未だ姿を見つけられない。
視線を彷徨わせていた結は、戦慄を覚えて飛び退った。
――瞬間、早百合の姿がもといた場所に現れる。
左腕が巻き込まれた。
ぼとり、と音がする。
掌が石の床に落ちた音だった。
***
グンマーの最奥、グンマー神の祠。
上毛衆の頭領が早百合の勝利を祈願する呪詛を唱えている。
祠の壁には拳ほどの大きさをした石像が飾られている。
その数、四十四。
そのうちの一つ、百合を象った石像が、ばきりと音を立てた。
呪詛は中断せずに目を向ける。
石像が割れ、中から可憐な白百合の花が覗いている。
「至ったか、早百合……」
頭領の脳裏に彼女とのこれまでが蘇る――
親を失い、虚ろな目をしていた。
鍛錬にも音をあげず、黙々と走り続けていた。
早百合の名を受け継いだとき、初めて涙を零した。
任務を淡々と達成し、グンマーに心身を捧げていた。
そして彼女が開いたのは、究極への扉。
「拾の段へ」
祭壇の炎が円く膨らんだ。
***
《3》
「残念、よけられちゃったのだ。次は殺す」
体に付いた肉片を払って、結を見据える。
拾の段への扉を開いた早百合は、無限とまではいかないものの、一瞬だった全身透過の時間を一分程度まで伸ばすことができるようになっていた。もちろんこれに満足する彼女ではない。
再び透過しようとしたところで、
「きゃはははははあはははははきゃはははははっはははははあはあはあははは!!!!!!!!!」
結が笑いというにはあまりにおぞましい声を上げる。
集中が殺がれた。
「一体なんなのだ? お前」
「あはははアハハハ、お揃いだよ私、お兄ちゃんとお揃い……。きゃは。嬉しい……。そういう歌があったけど、本当だったんだね、あっあっ、やったよぉ。へへ」
結は狂喜乱舞の様相だ。
気持ち悪い。怖い。早百合は初めて敵に対してそのような感情を抱いた。
「ねえねえ、さゆりちゃん! 私がいま、どんなきもちかわかる……?」
「知らん」
「えへへ。正解はぁ、し・あ・わ・せ♡」
「そうか。じゃあ腕のないお兄ちゃんとやらのもとに帰るんだな」
姿を消して近づく。腕をお腹へ伸ばす。
しかし。
「んー、そこまでお揃いになっちゃうのはまだ早いなあ。もうちょっと待っててね? お兄ちゃん!」
気が付くと、早百合の視線は天井に向けられていた。
「ぐはっ!」
文字通り仰天する早百合。
物理透過者といえども通常、接地面は透過するわけにはいかない。
もし透過したらそのまま地底へ沈んでいってしまうからだ。
結は地面に残していた糸に早百合の靴の裏が触れたのを感じると、糸を持ち上げて早百合を転ばせたのだ。
仕掛けはこれで全部だし、このまま炎が燃え盛る地下廊で戦うのは危ない。
わずかに残されていた理性と十全に解放されている本能でそう判断した結は走って逃げる。
「待つのだ!」
早百合が立ちあがろうとするのをもう一度転ばせると、石ではなく木の床になっている場所に乗った。
糸を機構に巻きつけて動かす。
ローマのコロッセウムには、人力のエレベーターが備え付けられていたのだ。
上階へあがった結は観客席に逃げようとするが、段差のある場所では咄嗟に攻撃がよけ辛いと思い直し、アリーナへと向かう。
早百合は彼女を追いかけようとする。が、まだ透過時間が安定していない状態で炎を突っ切るのは危険であり、回り道を余儀なくされる。
それでも結に遅れること数瞬、早百合もアリーナに到着した。
最期の時は、直ぐそこまで歩みを進めている。
アリーナの中心部には、数分前に結の絶技によって開けられた穴がある。
その穴を挟んで二人の少女が睨みあう。
白い服の少女の後ろでは紅蓮の炎が赤々と夜空を照らしている。
黒い服の少女の後ろでは大理石の壁が悠然とそびえ立っている。
「赫い絲が教えてくれるあなたと今のあなたはちがうね。戦いの最中に覚醒するなんて、まるで物語の主人公みたい」
「グンマーがアタシを導いてくれるのだ。お前を殺すための道にな」
「あっそう。私もね、いまはお兄ちゃんが助けてくれてるの。あなたのそのチカラから」
「そうなのか。地獄でお兄さんに礼を言うんだな」
言葉を叩きつけると同時に早百合の姿が消える。
だが結が地面に垂らしていた糸には反応がある。
(バレバレなのよねえ……)
再び結は早百合を転ばせて、彼女の接地面に鋏を突き立てようとした。
けれども宙に舞い上がったのは、木の板だけだった。
造呪の『成』で創造したものだ。囮には耐久力は必要ない。
同じ失敗を二度繰り返さない賢明さこそ、生まれ持った呪力は少ない早百合が上毛衆たり得る強みである。
(!! 違った! じゃあ本体はどこ!?)
姿は捉えられないが、ダミーが糸にひっかかった時間から考えると再出現のタイミングは今!
ステップを踏んで回避を図るが、伸ばされた腕が結の脇腹を抉りながら再出現する。
「ちぃっ、また躱されたのだ。でも、これで終わりなのだ!」
またしても早百合の姿が消える。
もはや結に彼女の位置を捉える術は残されていない。
(そんなっ、ここまでなの? 私まだ……!)
ついに結の顔に絶望の色が混ざる。
目の前すぐには手の平が伸びて……!
「「……あ」」
早百合の全身透過が解けていた。
操絶糸術はまたたく間に標的を拘束し、切断しようとする。
基礎呪術の展開には辛うじて成功した。
隻腕の結では拘束する以上の力をかけることができなかったが、早百合の動きを封じるには十分だった。
糸が伸びている手袋を外し、別の糸を結んだクナイを木の床に突き刺して固定する。
「な、なんで……?? グンマーの力はどこにいったのだ??」
激しく狼狽する早百合。
結は彼女の懐に手を伸ばし、呪符を探し出すと奪い取る。
「か、返すのだ!!! や、やだぁ、いやだ、呪符がないとアタシは……」
「ダーメ。ふふふふ……『力合わせる二百万』!」
呪符『力合わせる二百万』は、グンマー人全員の呪力を集める力を持っている。
しかし、あらゆる時空と平行世界を超えて収集するほどの力はない。
もしその力があれば、事実上無限の呪力を手にすることになるからだ。
そして、ここは【過去】の世界であり、中世の世界だ。未開の地であったグンマーの人口は現在に比べて大幅に少なくなっており、一万人にも満たないという。グンマーの始祖たちは現代の民よりも強力な力を持っていたというが、個々人の強さはともかく単純な呪力の総量ではかなわない。
早百合と強いつながりのある基準世界からは辛うじて呪力を集めることができたが、ロスが生じ本来の百分の一程度しか呪力を集められていなかった。
それでも、通常の呪術を用いる分には十分な量の呪力が送られていた。けれども早百合は戦闘中に「拾の段」に覚醒した。桁外れの出力をもった能力は呪力の消費も桁違いだったのだ。もっとも、あの場面で覚醒しなければ炎に巻かれていただろうが。
これらが積み重なった結果、瞬間的にではあるが、呪力供給に滞りが生じてしまった。
その隙は、裏社会で名を馳せている組織の中枢を担う戦力どうしの戦いの中では、あまりにも大きすぎた。
「ひゃう! ち、力があふれて……ちょっとしかこない。もう燃料切れかぁ」
不満気なようすだ。
呪力切れからほんの数分では、回復したグンマー民の呪力はわずかであった。
「それにグンマーグンマーって声が頭の中に聞こえてきて怖い。呪符っていうだけあるね。変な呪いを送られでもしたら困るから……」
糸切鋏で呪符を挟む。
「壊しちゃおう」
「やめて、やめるのだぁ……」
無論、止めない。
ぱきん、とあっけない音を立てて、呪符は割られてしまった。
早百合への呪力の供給が完全に断たれる。
早百合の誇りがぽとりと地に落ちる。
「いやああああああああああああっ!!!!」
悲痛な叫びがコロッセウムに響き渡った。
呪符とは、それすなわち呪いの札である。
その呪いは、所持する者に敵を呪い殺す力を与えるのみにあらず。
グンマーの意思に従うことを強制する呪いは、グンマーを守護する上毛衆たる所持者自身に対して送られている。
もともと有していた呪力が低い早百合は特に呪符の影響を強く受けており、
反対に最初から高い呪力の持ち主であった糸音にはあまり効力がなかった。
呪符が破壊されたことによって早百合の心は年相応のものに戻される。
それは、あまりにも残酷な「呪い返し」だった。
「あ、あ、あ……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい! うああぅわあ」
グンマーの呪縛から解放された早百合に、罪の意識が牙を剥く。
ぼろぼろと涙が溢れて止まらない。
先刻までの勇ましい姿は、もうどこにもなかった。
「どうやらこれでおしまいのようね。楽しかったよ? 上毛衆の小娘さん♪」
無感情な目で早百合を見つめていた結は、呪符の力で奪いとったわずかな、しかし一度だけ呪術を発動するには十分な呪力を、『赫い絲』が教えてくれる通りに練る。
「操絶糸術で終わらせてもいいけど、片腕でやるとさゆりちゃんが中途半端に痛いかもしれないし、それに折角だから、この手で殺してあげる」
結の右腕が見えなくなった。
外呪の『虚』だ。
右腕があるべき場所はいま、早百合の頭の中だ。
――降参するから殺さないでっ!
そう叫んでいたら、いくら精神力が消耗してゼロ同然になっている結でも、手を止めてくれたかもしれない。
意味のない殺しはしないというのが彼女の所属する『刻訪』が決めたルールであり、彼女の心は刻訪の仲間と共にある。
でも早百合はそうはしなかった。
結の手が頭の中に伸びてきたとき、命乞いをしようとしていた糸音の顔が脳裏をよぎったのだ。
人を呪わば穴二つ……、糸音はあの時こんな気持ちだったのだな。
そう思ってしまったら、声はもうあげられなかった。
「え――」
結が右手を実体化させようとしたそのとき、早百合はそっと目を閉じた。
その表情は、あの時の……真実のそれによく似ていた。
あっと思ったときにはもう、早百合の顔は消えて無くなっていた。
◆◆
私の体から赤が、瞳から紅が引いていくのを感じる。
セーラー服のポケットでケータイが震えた。
過去の戦場であっても、メールは普通に届くようだ。
勝者は私、刻訪結。あと5分で基準世界に戻れる。
でも……私の頭から、最期の早百合ちゃんの表情が離れてくれない。
最初あの子の姿を見たとき、なぜか初めて会った気がしなかった。
軽口も普通に叩けた。
いま思えばあれは、あの子がどこか真実に似てたからだったんだ。
子ども扱いして、悪いことしちゃったな。
もう二度と、あの子に会うことはできない。
ねえ、どうしてそんな顔をするの?
どうしてそんな顔ができるの?
その眼で見ないで、怖いの。
あなたの瞳は何を語るの?
わからないの。教えてよ。
お願いだから――
「わたしを、みないで!!」
みないでよ……。
私の声がもはや誰もいないコロッセウムに響き渡る。
紅蓮の炎も、勢いは衰えている。じきに消えるだろう。
早百合ちゃんの血が床に染み込んでいる。
それはこの場所にとっては特別なことではないと思う。
じゃあ、私にとっては特別なのだろうか。
もしかしたらもう、別にそうじゃないのかもね。
視線が増えた。
***
ここは、どこなのだ?
暗い森なのだ。
だれもいない。
怖い。寂しい。
死んだら、こんな思いをするんだな。
アタシが殺した人たちみんな、こんな辛かったんだな。
ごめんなさい、ごめんなさい……。
いとねぇ……。ごめんねぇ……。
――なにしょげてるんですか。あなたらしくもない。
糸音!?
――糸音じゃないです、**です。あなたもそうでしょう? ……xx。
そっか、そうだな、**!! …………ねえ、アタシたち、これからどこに行くのかなぁ。
――あらら、本当に大丈夫ですか? って、もう死んでるんでしたね。
うるさいぞ、**。だいたいお前も死んでるのはいっしょじゃないか。
――そうですねー、だれかさんのせいで。
ごめんだぞ。ごめん……。
――いいんです、あなたは自分のやるべきことをしたんですから。私が弱かった、それだけです。
――ここはグンマーです。あなたが言ってたんじゃないですか、グンマー民は来世でもグンマー民になる運命だって。ほら、明るくなってきましたよ! もうすぐ朝が来ます。あの山は見たことあるでしょう?
ほ、ほんとだ! アタシたちの家がある山だ! なーんだ。この森はグンマーの森だったのか。
――そうです。私たちが育った場所です。
――xx、これからは、ずっと一緒ですよ。
うん、一緒なのだ!
……手をつないで、アタシたちは山へ帰る。いつぶりかな、そんなの。
グンマーの神様が呼んでいる。そういえば、裁きがあるって話だったな。
でも大丈夫。二人なら怖くないのだ。二人ならなんだって乗り越えられる。
「ごめんね」じゃなくて「ありがとう」って言ったら、笑顔になってくれた。
なんだか照れくさくなって、一緒に山に向かって駆けだしたのだった。
***
[了]