準決勝戦SS・ショッピングモールその2


あらゆる盾を決して貫けない矛と、あらゆる矛に必ず貫かれてしまう盾。

――最弱の矛と、最弱の盾がぶつかったとき。

勝つのは、果たしてどちらだろうか。


* * *

○Side:Mr.Champ

バンダナを頭に巻きつけ、コスチュームを身にまとう。
それだけだ。
それだけで、彼は、ただの男ではなくなる。

(決して、これは特別な戦いではない)

かつて、決闘が神聖なる儀式とされた時代があった。
人間ではない、何か別の存在の依り代として戦う者。
そのように名付けられた時代があった。

(迷宮時計がかかっていても、やるべきことは同じ)

いま感じているのは、高揚、緊張、そして微かな不安と、同じだけの期待。
プロレスラー、ミスター・チャンプの精神と肉体は、いまがまさに全盛であった。

控え室の代わりとなったガレージの暗がりで、ミスター・チャンプの筋肉は、
うっすらと輝いているようにも見えた。

(いつも同じだ。最高の戦いを魅せる。吾輩を信じる誰かに。
 いるかどうかもわからない、誰かに)

ミスター・チャンプは息吹を吐く。
最後に愛用の竹刀を握り締め、それをもって戦いの準備完了とした。
その間もガレージの外からは、彼の名を呼ぶ声が響いている。


「ウィー・アー・チャンプ!」
「ウィー・アー・チャンプ!」
「ウィー・アー・チャンプ!」
「ウィーーー・アーーーー・チャンプ!」


入場を待っているのだ。
すでにショッピングモールの大通りには特設のリングが設置され、
王者と、挑戦者との戦いが準備されていた。

すべては、彼が所属するプロレスリング団体「代々木ドワーフ採掘団」が、
この異世界で整えてくれた設備であった。
手伝ってくれたファンもいた。

(期待には応える。それが、)

それが、彼の信ずる彼自身。ミスター・チャンプである。
ゆっくりと大股で、ミスター・チャンプは外へ続くドアへと向かう。

――そして、ドアを開けたとき、彼は声援によって迎えられた。
それを受け取め、周囲を見回し、ほとんど同時に彼は目を見開いた。
違和感が、あった。


『さあああーーーーッ、ミスター・チャンプ! 王者の登場です!
 この風格ッ、溢れんばかりのカリスマ! 金髪が風になびく!
 まさにショッピングモールに舞い降りたライオンのごとし!』

実況の青年が、マイクを片手に声を張り上げている。
観客が、ミスター・チャンプのファンが、それに歓声で応じる。

『これからはじまるのは、魔人同士の真剣勝負!
 ――いえ、そんな言葉も生ぬるゥ~~~~いッ!』

実況の青年は、全身を震わせるようにして、声を響かせた。

『――そう、これからはじまるのは!
 絶対王者、ミスター・チャンプによる残虐処刑ショーだッ!
 あの卑劣な糸目の神父を、愛の拳でグチャグチャに撲殺してくれーーーッ!
 あなたは我々の希望ッ! 正義の化身だから殺人も許されるのですよォォーーーッ!
 ねぇぇぇ~~~っみなさぁぁぁ~~~~ん!!!』

マイクが天に突き上げられる。
観客はこれから始まる正義の残虐殺害ショーへの期待に、感極まった歓声をあげた。

「そうですよぉ~~~っチャンプ様ぁぁぁ~~~ッ!」
「殺せ! 殺してくださいぃぃ~~っ!」
「正義の残虐処刑で殺せ~~っ! 俺の病気の娘のためにぃ~~~っ!」
「ヒヒャーーーッ! そして世界を支配するのです、チャンプ様ぁ~~~っ!!!」

ショッピングモール全体が揺れるほどの、大歓声である。
この観客のすべてが、いまはミスター・チャンプの味方であった。
何もかもが、いつもどおり。

観客を味方につける、いつもの彼の試合――、いや。

(これは)

ミスター・チャンプは違和感の正体に気づいた。
あまりにも濃厚な違和感。

(吾輩のファンが)

――違和感の正体。
それは、そこに集まったファンの顔がことごとく、
ピエロのように――奇怪な白塗りのメイキングを施されていたことだった。

実況も、解説役も、例外ではない。
道化のような衣装に身を包み、キヒャキヒャと笑いながら、
ミスター・チャンプを応援しているのだった。

だが、ピエロのようなメイキングを施していてもわかる。
ミスター・チャンプがファンの顔を忘れようはずもない。
その中の大半は、確実にミスター・チャンプの知る、彼の実際のファン達である。


(――つまり、これは催眠術。精神操作の類か?
 皆を操って――吾輩に、より圧倒的な声援を送らせるために?)

なぜそのようなことを、と、彼は問わない。
ミスター・チャンプは知っていた。
此度の対戦相手が、そのような手管を得意とする男――『糸目』、綾島聖であることを。

それはプロレス界に伝わる、半ば伝説の存在。
幾万の負け試合に現れ、必ず敗北を得ることのできる者たち。
彼らの存在そのものが、ヒール――すなわち悪役であると。

己が敗けるためには、無意味かつ逆効果な行動ですら、『糸目』は選択する。
特に、五円玉と違法ハーブを使った催眠術は、彼らの常套手段だ。

『糸目』には、心の底の願望を増幅させ、引き出す催眠術があると聞く。
それは術を受ける者自身の望みだからこそ、抗うことは困難を極める。

彼らに共通して潜む望み――、『ミスター・チャンプを応援したい』という欲望。
それを思う様に引き出し、増幅させる。
ファンたちにとって、それはあまりにも甘美な誘惑であり、たまらない快楽であった。


(綾島聖。『糸目』の男か)

ミスター・チャンプは、すでにリングの上で待機している男に一瞥をくれた。
神父服に身を包み、いかにも温厚そうな笑みを浮かべた男。



(逆鱗に触れたな)

ミスター・チャンプは、いつものファンサービスを兼ねたパフォーマンスをしなかった。
獅子のごとき足取りで、悠然とリングへ向かう。

彼は自分の中で、深く静かに戦意が高まってくることを感じた。
竹刀を握り、また少し緩める。
全身の筋肉が、戦いの予感に震えていた。

(単なるベビーフェイスの戦いは、してやれないぞ)

ミスター・チャンプが、怒っている。


* * *

○Side:They are

『さあ、ついに始まりました運命の一戦!
 ミスター・チャンプの華麗なる死刑執行ショーのお時間!
 実況はこの私ィ! 塩谷と!』

『解説の芝内でお送りします。よろしくお願いします』

『早速ですが芝内さん、この勝負、どのような展開となりますかねェ……?
 ミスター・チャンプの竹刀が、あの悪辣下劣な綾島聖の
 内臓をかき回してグチャグチャと抉りとるのは何時でしょうか?』

『いえ、塩谷さん。ミスター・チャンプの神々しき正義の鉄槌があれば、
 もはや竹刀を使うまでもありませんねェ。
 素手で綾島さんの頭蓋骨に穴を開けェ……、ストローで!
 フ、フヒュッ! グヂュルグヂュルと啜り上げてしまうでしょう!』

『それはそれは楽しみ……いえ、恐ろしいですねェ……ケヒッ。
 はやくあの神父様には、絶望の悲鳴をあげていただきたいものですゥ……
 私たちはとても待ちきれませんよぉぉぉ……ウ、ウフッ! ウヒュヒュフヒュッ!』


* * *

○Side:The Goonies

――とある都会の片隅。
薄暗いバーに、数人の男たちが集まり、グラスを傾けている。
今夜の店内に他の客の姿はない。
彼らだけが中央のテーブルを占拠していた。

そこに集まる者は、いったい何者だろうか。
わかるのは、彼らがチンピラか、あるいは浮浪者同然の身なりをしていること。
いずれ後ろ暗い、裏稼業に手を染めているであろうこと。
それだけであった。

いま、彼らの視線は、店の奥にある古ぼけたテレビに注がれていた。
そこにはリングにあがるミスター・チャンプと、綾島聖の姿がある。

「……おい。始まったか?」
「前フリが長いな。寝ちまうところだった」
「それは、プロレスだからでしょう」

会話が途切れる。
彼らは無言で酒を呷る。

「で、どっちの勝ちに賭ける?」
「チャンプ」
「ミスター・チャンプ様だ」
「ミスター・チャンプです」

誰かが鼻で笑う。

「賭けにならねえぞ。誰かクソ島に賭けろ」
「死んでも嫌だね。勝ち目が無い」

「オレなんてチャンプのために、サクラの観客を10人も雇ったんだ。
 いざってときには拳銃で応援してやるぜ」
「ぼくはダンプカーの運転手に待機してもらってるよ。
 綾島が路上に逃げたら、交通事故で死んでもらいたいからね」
「私は命知らずの殺し屋を。
 毒ナイフを持たせて、ギャラリーに紛れ込ませてます」

くぐもった笑い声があがる。
そしてまた少しの沈黙。

「――しかし、チャンプの野郎、なんだ? 仕掛けないのか?」
「リングに上がったのはいいが、睨み合ってるだけだね」
「さっさと綾島を殺せよ」

テレビの映像は、間合いを計る二人の姿だけを映している。
ミスター・チャンプは竹刀を正眼につけ、やや半身になった構えを。
綾島聖は、両手を後ろで組み、穏やかに立つ構えを。

形も理念も異なれど、それは彼らにとって、基本中の基本。
もっともオーソドックスな構えの型であった。

「つまんねえぞ。クソチャンプ!
 いますぐ綾島の頭蓋骨をブチ割れ!」
「そうだ、殺せ! お前はチャンプだろ!」
「っつうか、なんで動かないんだよ?」

「――それは、お互いの戦い方のせいだな。特にチャンプの」

不意に、カウンターの奥から声がした。

「ミスター・チャンプの格闘術は、鹿島神流がベースだ。
 構えを見てみろ。
 腰が高い。プロレスの構えらしくない。
 普通のレスラーなら、腰をもう少し落として前傾姿勢をとる」

煙草の煙を吐き出す、かすかな呼吸音。

「あれはむしろ、古流剣術の構えだ。
 飛び込んで太刀技の一撃、あるいはそこからの投げ技。
 チャンプにとっては、それが理想形だろうよ」

店内の視線は、いまやテレビではなくカウンターの奥の男に注がれていた。
その男は淡々と、念仏でも呟くように続ける。

「一方で、綾島の『糸目』の格闘技術で最も危険なのが、関節技だ。
 自分の知らない、思わぬ技法があるかもしれない――と」

一瞬、誰かのグラスの中を、氷が転がる音が響いた。

「そう考えるなら、迂闊には至近距離の攻防には踏み切れない」
「ふうん。マスター、格闘技やったことあるの?」

答えはない。
代わりに、店内の客どもを嘲笑うように喉が鳴った。

「――さて、臆病者どもが賭けないなら、俺が賭けよう」

何枚かの紙幣が、マスターの手でカウンターに突き出される。

「綾島聖の勝利に」

「マジかよ! おい、馬鹿が釣れたぞ」
「今日は店長の奢りだな!」
薄暗く、冴えない男たちの蠢く店内にも、歓声が上がった。
テレビの映像に動きがあったのは、そのときだった。


* * *

○Side:Mr.Champ

「ミスター・チャンプ。
 どうか、私の話をお聞きいただけませんか」

その男、綾島聖は、和やかに語りながらリング上を歩く。
ミスター・チャンプを中心として、ゆっくりと。
円を描くように。

「私は決してあなたとの戦いを望みません。
 人と人同士が殺し合う。そんなことは馬鹿げています。
 すでに前途ある多くの命が、迷宮時計によって潰えました――悲しいことです」

そうして、綾島聖はにっこりと、暖かな太陽のように微笑む。

「ですが、私たち二人で手を取り合えば、
 これから先の悲劇を阻止できるでしょう。ミスター・チャンプ」

微笑みながら、神父は右手を差し出す。

「どうか私と共に、この悪夢を食い止めましょう!」

力強い言葉であった。
一片のやましさも感じられない、誠意そのものの言葉。

だが、ミスター・チャンプはただ強く――
じわりと、竹刀の握りを改めることで答えた。

「『糸目』の男――綾島聖よ。
 吾輩のファンに何をした?」

「私は、何も」
綾島聖は、穏やかに首を振る。

「ただ、少しだけ、彼らの手助けをしてあげただけです。
 彼らは、ミスター・チャンプ――あなたを応援することが、
 望みだったようですからね」

そうして、綾島聖の笑みは深くなる。

「私は、人の望みを叶えるのが大好きなんですよ。
 誰かの役に立つことが、ただ純粋に嬉しいのです」

「そうかね。なるほど。その矜持、よくわかった。
 ――では、吾輩は」

ミスター・チャンプの四肢に、深く強い力がみなぎった。
その瞳は雷のようであった。

「貴様には、手加減はしてやれないぞ?」

言うが早いか、ミスター・チャンプが飛び込む。綾島聖の差し伸べた手を狙う。
先の先を奪う、出小手。
それはチャンプにとって、最速の太刀技。
鹿島神流の理念、『一ツの太刀』に叶った神速の一撃である。

「おやおや。それは残念――。残念で、残念でたまりませんんンン――
 たまりませんからぁぁーーー、クヒュッ! 私も、悲しすぎて――」

綾島聖もまた、素早く攻撃に応じる。
差し伸べた右手の袖口に覗くは、金属質の光沢。

「悲しみの舞いを踊ってしまいますよぉぉぉーーーーッ!
 あなたの血飛沫と共にねェェェーーーシャァァァーーーッ!」

――綾島聖が振るうは、『糸目』が最も得意とする武器の一つ。
毒ナイフと並んで、広く世に知られた武器。

すなわち、全長1メートルもの刃渡りを持つ、毒鉤爪であった!
これほど長い鉤爪を自在に扱える者は少ないであろう。

竹刀と、鉤爪。
互いに得物を構えた両者が、リングの上で交錯する!

「喝ッ」

「邪ァヒャッッッ」

先手は、明らかにミスター・チャンプ。
鉤爪を構えた右手の、出小手を打つ。

「ヒャヒャヒャヒャヒャ!
 無駄ァァァーーーですよぉぉぉーーーッ!」

綾島聖は、右手を強かに打たれてもなお、笑みを消さなかった。
左手。
そちらの袖口からも、金属の鋭い音を響かせて、爪が飛び出す。

「どうですかぁぁぁぁ~~~? チャンプさぁぁ~~~~んんん!
 両手に1メートルを超える鉤爪!
 私の武器は二本であなたは一本!
 戦力差は二倍、いや! 塗られた麻痺毒でそれ以上! たぶん三倍!」

綾島は、邪悪なる左の鉤爪を高く掲げた。
それはまるで、己の武器を自慢するように。

「ほぉ~~らぁぁぁぁ! 左右交互に迫り来る殺人毒爪攻撃ぃぃぃーーー!
 避け切った者は、いままで誰ひとりぶひゅっ!!!???」

綾島の無用かつ冗長な説明は、唐突に悲鳴に変わった。

小手を打ち、右の鉤爪を弾いた竹刀。
その切っ先が反動で跳ね上がり、間髪入れずに綾島の鼻先を突いたのである。

――攻防一体。
受けの一打がそのまま攻撃になる。
鹿島神流の挙動を、基礎から体得しているが故の、神速の動きであった。

「お、おのれぇぇぇぇ~~っ!」

綾島聖は、鼻から血を噴き出しながら、なおも攻撃の手を止めなかった。
左の鉤爪を振り下ろす。

「よくも私の美しい顔にィィィィキズをぉぉぉヒャっっ!?」

再び短い悲鳴があがる。
それもまた、一瞬の交錯であった。

綾島聖は、左の鉤爪でチャンプの頚動脈を美しく引き裂こうとした。
瞬間、チャンプは竹刀でその鉤爪の刃を受け、そらし、
同時に小さく鋭く体をひねる。

「フン!」

鉤爪を受けた箇所を支点に、竹刀の柄側をぶつける。
つまり、それは剣術における『柄当て』。
主に至近距離、鍔迫り合いで放たれる、柄による殴打である。

竹刀の柄は火花のように苛烈に、綾島聖の顎を打ち抜いた。
あるいは脳震盪を起こしたのだろうか。
綾島聖の体が傾く。
その機を逃すミスター・チャンプではない。

『そうだーーーーッ! ミスター・チャンプ!
 殺れ! 殺れ! 殺れ! 殺れェーーーーッ!』

実況の青年が、歓喜に打ち震えながら叫んでいる。

『チャンプ様ァーーーッ!
 その正義の鉄槌で、卑劣な凶器使いのクソ神父をお殺しになってくださいッ!
 あなたに殺される生贄の血がァァァァ見たァァァイィィィィーーーッ!』

その過剰な殺意を煽る実況に、ミスター・チャンプは戦意を高める。
すっかり歪んでしまった。
彼のファンが。彼が、その戦いを魅せるべき者が。

(許すことは、できない。
 吾輩もまだまだ未熟だな)

チャンプは素早く左手を伸ばし、綾島聖の体を、股からすくい上げるようにして浮かす。
彼の筋力ならば、いとも容易く持ち上がる。
それは、ごくシンプルでありながら、高い破壊力を持つレスリングの投げ技。

『さあァァァァーーッ! ミスター・チャンプ!
 いとも容易く抱え上げ、死刑執行の準備ィィイイ完了ゥゥゥオオオオォ!』

残虐な殺戮劇の期待に、実況の声が高まる。
ギャラリーたちの熱狂も膨張し、「殺せ」コールが響き渡る。

『そのまま、正義の殺人投げで殺してしまえェェァァァァアアーーーッ!
 頭をカチ割って、脳漿ぶちまけ死ィィヒャァァァーーーーーッ!』

この技の名を、ワンハンド・ボディスラムという。
相手の股間から手を差し伸べて持ち上げ、通常は背面から落とす。
だが未熟な者が放てば、相手に頚椎骨折すら起こし得る、十分な威力を持つ投げ技である。

(いいか、綾島聖。
 このボディスラムは最初の一撃にすぎない。
 だが、思い知るがいい――)

ミスター・チャンプは、もとより綾島に受身をとらせるつもりなどない。
容赦なく、首を竹刀の柄でホールドして頭から落とす。
鍔迫り合いから、肘打ちではなく柄当てを選んだのは、このためだ。

チャンプらしからぬ、ラフなファイト・スタイル。

(吾輩は激怒しているのだ、綾島聖!)

憤怒のチャンプが、ベビーフェイスではない、本気の戦いを発揮していた。
それはチャンプがスラム街で生き延びていた頃の、修羅の形相である。


* * *

○Side:The Goonies

「よし!」
「やった!」
「頭蓋骨ブチ割ったか!? おい!?」

薄暗いバーの店内で、数人の冴えない男たちが快哉を叫ぶ。
ミスター・チャンプの激しい戦いは、彼らのような裏ぶれた男たちにまで、
確かに何らかの熱を伝えていた。

「理想的な形で入ったな」

カウンターの奥では、マスターが酒を注いでいる。
琥珀色の液体がグラスの底に溜まっていく。

「あの出小手の速度は、いくら反射神経を強化しても避けられんだろう。
 さらに柄当てによる脳震盪で動きを止め、投げ技。
 ――そしてすぐ離れる。『糸目』の関節技を掛けられる隙もない」

テレビのモニターでは、飛び離れたミスター・チャンプが、
再び竹刀を構え直す姿が映っている。

それに対するは、カマドウマのごとく跳ね起きた綾島聖である。
何か意味不明な奇声を叫び、大ぶりの鉤爪を振り回す。

無論、それはチャンプの竹刀によって簡単に捌かれている。
今度は強烈な蹴り上げで、鉤爪の刃をへし折られた。
毒塗りらしき刃が宙を舞い、リングに突き刺さる。

「やはりな」

マスターはため息をついた。

「あの鉤爪は、俺が調達してやったんだ。
 完全に無駄だったな。
 一回戦の羽白も、二回戦の蒿雀ナキも一切空も、
 接近すれば一撃で殺される可能性があったから、使うことさえできなかった」

「あいつ馬鹿だぜ」

誰かがせせら笑った。

「勝てるわけねーだろ、クソ島の野郎。
 ここんとこ調子乗ってたからな! 一回死ね!」
「あいつの肉体強化は? まだ使ってないのか?」
「とっくに使ってますよ、きっと。
 でなければ、いまので死んでますね」
「ウィー・アー・チャンプだッ、ザマァ見ろ!
 店長、今日は死ぬほど飲ませてもらうぜ!」

「――どうかな?
 綾島聖が、『糸目』で最低の落ちこぼれと言われる理由は」

バカ笑いをあげる客たちを、マスターは面倒そうな目で見た。

「第一に、『うっかり』。
 卓抜した敗北の技術体系である『糸目』を、
 恐るべき不注意力によって逆用してしまうということだ。
 しかし、この状況では――」

テレビのスピーカーから、狂ったような歓声があがる。
『殺せ!』
『殺せ!』
『俺の病気の娘を治すために殺せッ!』
『そいつをブチ殺せば、ぼくも勇気を出して
 心臓の手術を受けて差し上げますよぉーッ!』
ピエロのメイクを施した観客が、ヨダレを垂らして綾島聖の死を願っていた。

「『うっかり』する暇もない。ミスター・チャンプの技術体系は完璧だな。
 漬け込むとすれば、この過剰に攻撃的なチャンプのスタイルだが」

モニターの映像では、ミスター・チャンプは綾島聖を
竹刀による右首横薙でロープまで吹き飛ばしていた。
反動で戻ってくる神父の頭部を掴み、膝蹴りを入れる。

そうして、綾島には崩れ落ちることすら許さない。
頭部を掴んだまま、次の打撃を加えようとする。
その姿は、まさにベビーフェイスの仮面をかなぐりすてた野獣であった。

雄叫びをあげるミスター・チャンプを眺め、
マスターはカウンターに頬杖をつく。

「――そう、上手くはいかないか。
 さすがにチャンプは、ファンからの人気も、精神面も超一流だ」

『――チャンプッ!』

テレビには、一人の少年が映し出されていた。
彼は、顔にピエロのメイクを施していない。
催眠術にかかっていない者も、いたのだ。


* * *

○Side:A boy

「――チャンプッ!」

少年は、声を限りに叫んだ。

「駄目だ、ミスター・チャンプが!」

殺意と血に熱狂した観客の中で、どういう理由であろうか。
少年の声は、なぜか、ひどく澄み渡ってよく響いた。

「ミスター・チャンプが、そんな戦い方なんて、絶対に!
 絶対に駄目です!」

彼は名も無き一人のファンであったのだろう。
他の観客からは、そうとしか思えなかった。
それは冷たい事実であった。

しかし、ミスター・チャンプにとっては違う。

彼にとっては、すべてのファンが『特別』である。
その少年の顔を、泣きながら叫ぶ少年を、忘れるはずもない。

一回戦で、彼と斎藤一女の戦いを見届けた、あの少年である!

「ミスター・チャンプはッ!」

少年はもう一度、観客の熱狂を吹き飛ばすように叫ぶ。
そして、片手にはスマートフォン。

「ぼくらの、ヒーローなんですッ!
 全国のみんなが! いえ、ここにいない誰かが!
 『代々木ドワーフ採掘団』のみんなが! 
 チャンプの――この戦いを見てる! だから!」

少年の手にあるスマートフォンの画面は、遠すぎてとても読めない。
しかしそこには、彼のライバルであり、友人であり、師である者たちの言葉があること。
その言葉たちが彼を叱咤していることは、読まずともわかった。

『何をやっているんだ、ボーイ』
『しっかりしなさい。あなたをみんなが見ています』
『阿呆が』
『何があっても、あなたはあなたのままで。応援しています』

――他の誰がわからずとも、チャンプには、それがわかった。

「だから、チャンプはチャンプの戦いをしてください!
 いつもあなたが言っているように!
 ――ぼくたちだって、チャンプなんですから!」

ミスター・チャンプは目を見開いた。
直前まで、糸のように細められつつあった目を。


* * *

○Side:Mr.Champ

ミスター・チャンプは目を覚ました。

そんなことに、気づかされるとは。
ファンは己を写す鏡である。
常々、そのように意識してきたではないか。

(――ならば)

チャンプは、綾島聖の頭を離した。

(吾輩がやるべきことは、憤怒に任せての攻撃ではない)

綾島は崩れ落ちる前に、カマドウマのように跳ね、距離をとる。
いまだ、俊敏な動きを保っている。
驚くべきタフネスであった。

「ヒヒャァァァーーーッ! 愚かな人ですねェ……キヒッ!
 この私に反撃の機会を与えるとはァァァーーーーッッ!」

もはや綾島に鉤爪はない。両方とも折れている。
しかし彼は無意味な自信に溢れ、小刻みな飛び跳ねを始めた。
だが、ミスター・チャンプの目には、その姿はもう映っていない。

「――少年」

ミスター・チャンプは、少年を振り返る。

「感謝するぞ。吾輩は――諸君は、チャンプだ。
 ミスター・チャンプだ。それを思い出させてくれた」
「あ、あのっ!」

少年は声を思いきり身をのけぞらせる。
声が震えていた。顔はすっかり赤い。

「な、な、生意気なこと言って、すみませんでした!」
「そんなことはないぞ」

ミスター・チャンプは、不敵に笑う。

「吾輩がやるべきことを、思い出させてくれた」

「おやおやァ……ミスター・チャンプさぁぁぁぁ~~~ん……?
 よそ見はいけませんねェーーーーーーーッ!」

綾島聖が、空気を読まずに飛び跳ねる。
ミスター・チャンプの背後に回り、襲いかかってくる。

「リングの上があなたの墓標ですよォォォーーーッ!
 背中がガラ空きでお命頂戴ィィーーーッ!
 すばらしいレクイエムの悲鳴をあげェヒャァァァギィィィッ!!???」

「すまぬが、綾島聖。『糸目』の男よ」

ミスター・チャンプは、綾島聖の禍々しい右の貫手を、
柔らかく竹刀の鍔元で制していた。

「貴様の望み通りの敗北はさせてやれんぞ?
 これは、吾輩の――吾輩たちの試合であるからな!」

そして、必殺・必勝の一撃が突き刺さる。

「さあッッッ!!! とくと見ろ、諸君ッッッ!!!」

それは、彼にとっていつもの一撃。
チャンプの胸には、確かに聞こえた。
ケヒャケヒャと殺戮を待ちわびるファンたちの、真の心の声が。

だから、打てる。
だから、戦える。
いつでも、いくらでも、どんな状況にあっても!

( ( ( ( (ウィー!) ) ) ) )

ミスター・チャンプの右(踏込胴薙)!

( ( ( ( (アー!!) ) ) ) )

左(跳込逆胴)!!

( ( ( ( (チャンプ!!!) ) ) ) )

右アッパー!!!

綾島聖の体は、大きく吹き飛んだ。
そして、リングから飛び出し、路上に落下する。
ぐしゃり、と嫌な音が響いた。

その瞬間、チャンプの肉体は夕日を受け、黄金色に輝いていた。
その光は、ひとりひとりに語りかけた。

(ワ レ ワ レ ハ)

(チ ャ ン プ ダ)


* * *

○Side:They are

――その瞬間のことを、あるファンのひとりは述懐する。

「なにか、悪い夢を見ていたようでした」

「ミスター・チャンプが、綾島聖という男をブチ殺す。
 私たちはそれを応援する。
 なぜならば、それは正義の処刑。
 悪は正義のヒーローによって、惨たらしく惨殺されるもの――」

「あのときは、そう思い込んでいたんです」

「でも、チャンプがあのコンビネーションを繰り出してくれたとき、
 なんだか目が覚めたみたいで――嘘だと思うかもしれませんが」

「チャンプの筋肉が、金色に輝いていたんです。
 そして、私たちに語りかけてくれていた。
 とても不思議な体験でした」

「彼ひとりが正義のヒーローなのではない。
 私たちも、チャンプなんだと。正義のヒーローなんだと。
 そう思ったら、私は、スゥッと気持ちが落ち着いて――」

「正気に戻ったといえば良いのでしょうか。
 もちろんチャンプを応援する気持ちはそのままだったんですけど。
 勝ってほしい気持ちは変わらなかったんですけど」


「ただ、相手の華麗なる残虐拷問死刑ショーを期待するのは、
 どう考えてもおかしいなって」



「――え、このメイクですか?」

「ピエロのメイクですよね。
 実は、あの時以来、すっかり気に入ってしまって」

「いまでは、ここ一番の仕事のときには、
 必ずピエロメイクで挑むようにしているんですよ。あはは」

「あはは」


* * *

○Side:The Goonies

「よっし!」
「ウィーーー!」
「アアァァーーーー!」
「チャーーーンプ! ヘイヘーーーーーイ!」
「クソ島神父、死亡確定ィィーーーーイェーーーーー!」

薄暗いバーの店内。
薄汚れた阿呆のような男たちが、両手を振り上げ、飛び跳ねた。
ビールが飛び散り、ウィスキーがこぼれる。

「あれは決まったな! 死んだろ、クソ島め。
 落ちこぼれのくせに、調子に乗りやがって」
「そろそろ正義の裁きが下ると思っていたんですよね」
「葬式やろうよ、盛大な葬式を! 今日はパーティーだ!」

店内に熱狂が広がる。
だが、それに冷たい水をかける声がある。

「――さあ、まだわからんぞ」

カウンターの奥で、マスターはなおも落ち着き払ったまま、
葉巻に火を点けていた。

「綾島聖を、最低最強の『糸目』たらしめているものは、
 単なる『うっかり』だけじゃない。
 むしろそれは副産物といってもいいだろう」

「負け惜しみはやめろよ、マスター」
「今日ばかりはぼくらの勝ちだね」

「――豹変」

マスターは、深く濃厚な煙を吐いた。

「『糸目』の真骨頂は『豹変』にある」

彼の言葉が進むにつれ、店内が静かになる。
熱狂が収束していく。

「温和な微笑みからの、残虐行為。
 静から動への、一瞬の変化。テンションの激変。
 それは、あたかも二重人格のようだとも言われる」

あれほど温厚で、優しかった神父様が。
あるいは、孤児たちを『家族』と呼んで慈しむ青年が。
あるいは、フラワーアレンジメントも得意な、喫茶店の女性店主が。
突如として『豹変』し、襲いかかるのが『糸目』の基礎中の基礎である。

「それは正解だ。『糸目』は多重人格を意図的に作る。
 温厚な人格から、凶暴な人格へスイッチするために。
 ――いままで綾島の人格は、どうだった?」

その場にいる誰もが、綾島聖の温和な笑みを思い浮かべた。
本性を現したあとも、口調だけはやたらと穏やかであった。

「綾島聖の意識が途絶えたとき、凶暴な人格が姿を現す」

まさしく、その通りであった。
テレビの中の綾島の体は、痙攣を始めていた。

「――いや。でも、それって」

客の誰かが、戸惑ったように呟いた。

「普段のクソ島と何が違うの???
 敬語を使ってるチンピラが、敬語を使わないチンピラになるだけだろ?」
「ああ」

店長はそれを認めた。

「恐らく、そのとおりだ」


* * *

○Side:Mr.Champ

(――これは?)

割れんばかりの歓声の中で、ミスター・チャンプは警戒を解かなかった。
だから、その兆候を察知することができた。

『これはすごいーーーーーッ!
 なんだか悪い夢を見ていたような気がしますが、
 さすがミスター・チャンプ! 綾島選手、吹き飛びましたァーーーッ!』

実況の声が響く。
綾島聖の体が痙攣する。

『ああっと!? これは綾島選手、まだ動いているぞーーーっ!?』

追撃に行くべきか。
一瞬、チャンプの脳裏をその選択肢がよぎった。

だが、ミスター・チャンプは、この『糸目』を相手にそのような戦いをするべきではない。
正々堂々と、起き上がってくる限り倒す。
何度でも。

「――ギ、ィィィギヒッ!」

綾島聖の喉の奥から、奇怪なうめき声が漏れる。
次の瞬間、その体が大きく痙攣したかと思うと、跳ね上がった。
立ち上がる。

「ミスタアァァァァ~~~~・チャンプゥゥ~~~~……!
 ふしゅるぅぅ……しゅるるるる……!」

口から蒸気のごとき息を吐く。
目は血走り、狂犬のごとき獰猛さがあった。
周囲のギャラリーからも、困惑と恐怖の声が上がる。

「よくもやってくれたなァァァ~~~?
 矮小なる人間ごときがぁぁぁぁ~~~っ!
 クケェェェーーーーーーッ!」

綾島聖。
温厚な笑みを捨て去った神父は、憤怒の表情で両手を広げた。
その筋肉は、倒れる前よりもさらに大きく膨張し、
神父服を引きちぎってすらいた。

それにも増して、異様なのはその筋肉の色である。
赤黒く染まり、血管が浮き出て脈打っている。

「これぞ剛魔爆身……『堕天使』の形相ゥゥ……!
 この状態になった俺様は、生命力と引き換えに
 限界以上の筋肉を引き出す……グ、グフッ! グフフッ!
 てめぇぇ~~~のついでに、人類すら滅ぼしてくれるわぁッ!」

汚れた笑い声。
そして、赤黒い筋肉が脈動する。
動き出す。

「さあぁぁぁ~~~、公開処刑パーティーのはじまりだぁぁぁぁぁ!
 脳天かち割られて死ぃぃぃねぇぇぇぇぇ~~~~~ッ!」

「おう!」

ミスター・チャンプは、飛び込んでくる綾島を迎え撃つ。
胸を張る。
そこには、王者の威風があった。

「さすがだな。ヒールというものは、そうでなくては。
 こい、糸目の――むぅッ!?」

綾島聖の飛び込みが、速い。
先程までとは段違いであった。

「さっきから、ゴチャゴチャうるせェーーーんだよォォォォ!
 クソボケがぁぁぁぁぁあああぁぁぁ!」

それもそのはず、先程までの綾島は、なぜか無意味に背後に回り込もうと。
あるいは、頭上から襲いかかるために飛び上がろうと。
わざわざ無駄な動きとともに接近してきたからだ。

今度は、直線距離であった。

(速い!
 『糸目』の脚力、跳躍力をまともに使えば、これほどか。
 だが――)

ミスター・チャンプは、その速度に対応している。
彼の反応速度を凌駕するものではない。

「殺(シャァ)ァァァァァァーーーーーーッ!」

綾島聖の修羅のごとき形相が、一瞬のうちに迫る。
ミスター・チャンプは、焦ることなく竹刀を構えた。
正眼。
その構えから繰り出されるのは、神速の初太刀。

「覇ッ!」

出小手であった。
チャンプのそれは、反射のインパルスを超える、まさに必中の一打となる。
竹刀の切っ先が、鋭利な槍のように伸びた。
その瞬間。

「忌(キ)ィッヒャ!」

綾島の左手がゆらりと動き、竹刀の先端が標的を逸れた。
弾かれた、のではなく、逸らされた。
そんな感触があった。

(――ふむ、手首!)
チャンプの目は、その瞬間を捉えている。

綾島聖は手首で竹刀の切っ先を受け、逸らしたのだ。
打たれる場所が『そこ』とわかっていれば、
いかに速度があろうとも、受けることは可能。

(だが)
ミスター・チャンプはいささかも動じない。
竹刀を捌いたとしても、綾島がそのまま懐に飛び込んでくるのはわかっている。
だからこその迎撃。本命の一打である。

(掌底によるフックで、顎を打つ)
そして、再びの必殺――ウィー・アー・チャンプの三連撃に繋げる。
何度でも打ち砕く。
接近してくる綾島聖を迎え撃つべく、チャンプは左手を振りかぶった。

――だがその直後、ミスター・チャンプの膝を、強烈な痛みが襲っていた。

「ぬ……!?」

膝に力が入らない。体が傾く。
チャンプの脳裏に、いくつかの教えが去来する。

『理解不能の一撃を受けても、決して慌てるな』
『正中線を守れ』
『ガードを下げず、構えを解くな』
『胸から上さえ守れば、お前のタフネスを突破できる攻撃は存在しない』

だが、このダメージは、一体なぜだ――
綾島聖は、まだ拳の間合いには――

(――蹴りか)

ミスター・チャンプは辛うじて、その打ち終わりを見ることができた。

それは、プロレスラーが通常打たれることのない禁じ手。
近代剣道にとっても、古流剣術にとっても、鬼手とされる技。
ミスター・チャンプの意識の外にあった一撃。

――膝関節を狙った、直蹴りであった。

(膝がやられたか)

そう悟ったときはすでに、ミスター・チャンプは宙を舞っている自分に気づく。
視界が回転する。

「ぬぅぅ……!」

『ああーーーーっ!?
 何が起こったんでしょうか!?
 今度はミスター・チャンプが、大きく吹き飛ばされたァァァーーッ!?』

激しい驚愕を含んだ実況の声が、
アスファルトに叩きつけられるミスター・チャンプの耳に響いた。


* * *

○Side:The Goonies

「投げだな。
 技法としては、かなり変則的だ」

薄暗い店内より、なお暗いカウンターの奥で、
マスターは物憂げに呟く。

「最初の関節への打撃は、対レスラーの策としては悪くない。
 古流剣術相手としても、下段を攻めるのは王道だ」

店内は、静まり返っている。
客は鬼気迫る顔で、テレビを睨みつけている。
呪いの力で綾島聖を殺そうとしているようだった。

「――おい、店長」

「膝を破壊したあとは、八極拳の崩捶に似ている。
 チャンプのガードが下がらなかったから、
 そのまま太腿に拳を差し込んで、すくい上げて投げた。
 金的が理想形だったが、チャンプのことだ。恐らくファールカップがあるからな」

「どうでもいいんだよ、そんなことは!
 おい! なんでクソ島にあんなことができるんだ!?」

「もともと『糸目』の技は、
 あらゆる条件下での敗北のための技だろうが」

マスターは、客の憤懣を無視した。
付き合う義理はない、とでもいう態度であった。

「あらゆる敗北のための道を知るということは、
 その逆を知るということでもある。
 『糸目』はあらゆる格闘技を取り入れ、それを用いた敗北の技術を練り上げた」

「知るか! バカ! 俺たちの金はどうなる!」

「綾島聖の凶暴な人格は、温厚な人格よりもはるかに愚かだ。
 というより、何も考えていない。相手をケヒャり殺すこと以外は。
 ほとんど無意識の状態と言える」

マスターは、集まった客を馬鹿にするように笑った。

「つまり、『糸目』が集積した、あらゆる格闘技における敗北の方法を。
 相手をぶち殺すため――勝利のために使ってしまうってことだ。
 綾島聖が『糸目史上最低の落ちこぼれ』と言われる最大の理由が、これだ」

「ふざけんな! そんなもん許せるかっ、ぶっ殺す!
 おい、てめえら! チャンプ様を応援しろ!」

「とはいえ」

マスターはもはや笑いを抑えなかった。

「まともにやれば、フィジカルとテクニック、メンタルの差で
 最後にはミスター・チャンプが勝ったはずだ。
 綾島聖の肉体強化には、時間的な限界もあるからな。
 ――だが、もう遅い」

「あ?」

「いま俺が、お前たちを焦らせることに成功した。
 いいか。ミスター・チャンプが負けるんじゃない。
 綾島聖が勝つのでもない」

マスターは、笑いながら客の顔を眺めた。

――薄暗い店内に集まった客の顔には、よく見れば一つの共通点がある。

みな、一様に、『糸のように細い目』をしているということだ。

「『糸目』のクソ野郎ども!
 お前たちの仕掛ける策が、成功した試しがあったか?
 お前たちが賭け事にせよ何にせよ、勝負に勝ったことがあったか? あ?
 すでに応援してしまったんだろう――ミスター・チャンプを」

マスターはグラスを掲げる。

「乾杯だ! ミスター・チャンプは知るだろう。
 自分がいったい誰を味方に回してしまったのかを」


* * *

○Side:Mr.Champ

(――これだから)

ミスター・チャンプは、アスファルトの上で仰向けに、
はるか高い空を見上げて思う。

もう、夜が近い。
太陽はショッピングモールの彼方へ沈みかけている。

(これだから、面白い。
 好敵手というものは、常に思いがけなくやってくる)

そうして、ゆっくりと身を起こす。
膝に手早くバンダナを巻きつける――恐らく、骨にヒビくらいは入っている。
それでも立ち上がれるのは、チャンプひとりで戦っているのではないからだ。

正面には、小刻みなフットワークで飛び跳ねる綾島聖。
チャンプは、ごきりと首を鳴らした。

「さあ、続けようではないか」

竹刀を握り直し、構える。
正眼ではなく、やや下段へ。警戒の構えだ。

綾島聖は、自分が知らない技の使い方を知っている。
それを組み合せて、最適手に導く方法を知っている。
そのことは、チャンプにとって新鮮な喜びであった。

「綾島聖!
 もうすでに、貴様も――我が好敵手(とも)だ!」

「う――るせぇぇぇぇぇぁぁぁぁヒヒヒャァァァーーーッ!」

むろん、綾島はチャンプの賞賛の言葉をまったく聞いていない。
小刻みに飛び跳ねながら、仕掛けの機会を測っている。

「てめぇぇぇぇをブチブチ殺して!
 大腸小腸を仲良く蝶結びしてやるぜぇぇぇぇーーーっ!」

(まったく、面白い)

このような相手に、気づかされることがあるとは。
ミスター・チャンプは、少し微笑んだ。
自分でもその笑みに気付かなかったであろう。

――その、次の瞬間であった。

「ミスター・チャンプさまぁぁぁぁぁぁーーーーッ!」

綾島聖の背後から、見るからに邪悪なグルカナイフを振りかざし、
襲いかかる人影がある。

「神聖なるあなたの敵を、この! わたくしめが!
 ぶち殺して肉塊に変えてさしあげますぅぅぅーーーーッ!」

それは、ギャラリーに紛れていた暗殺者。
ミスター・チャンプの勝利を確実なものとするべく、
とある男が雇った殺しのプロである。

その殺し屋は、糸のように細い目をぎらつかせ、
綾島の背後から飛びかかっている。
恐らくはドラッグのオーバードーズで目の焦点は曖昧、
ろくに標的が見えているかも怪しい、そんな状態での一撃であった。

「――やめたまえッ! 余計なことを!」

ミスター・チャンプは一喝し、むしろ綾島を庇おうとした。
だがそれよりも、あまりにも勢いよく飛び出したために、
その暗殺者がつんのめって転ぶ方が早い。

「アヒャッ!? チャンプ様ぁっ!?」

結果として糸目の殺し屋は、派手に空中を回転しながら、
ミスター・チャンプの方向に飛んでくる。

「む」

ミスター・チャンプは体をひねり、横にステップアウトして回避する。
造作もない。
そこまでは。
直後、唐突にギャラリーの間から悲鳴があがった。

「――チャンプさまぁぁーーーーーっ!
 そのような雑魚よりも、わたくしめにお任せくださいぃぃぃーーーッ!」

それは見るからに邪悪な装飾を施した、ダンプカーであった。
鋭いトゲのついたバンパーが、夕日を浴びて真っ赤に輝いていた。

さらに激しいエンジン音。
ギャラリーを何人かひき殺しながら、突進してくるではないか。
その運転手の片手には、ウィスキーの瓶! 完全に飲酒運転である!

「この殺人串刺しダンプカーで、あなた様の敵を轢殺拷問ンンンーーーーッ!
 見事仕留めたら、このわたくしめにぜひ褒美を……ひぃぃぃーーーッ!?」

ダンプカーの運転手は、糸のように細い目を見開いて驚愕した。
その刺付きバンパーは、暗殺者のナイフを回避したミスター・チャンプの、
着地を狙いすましたように飛び込む形になったからだ。

「む、ん!」

それでもチャンプは揺るがない。
両足を開き、腰を落とし、肩口からダンプカーを受け止める。

――ごがっ!

あまりにも激しい激突音。
しかしチャンプの逞しい巨体は、ダンプカーの衝撃を受け止め、さらに輝く。
ダンプカーの激突に押し込まれながらも、輝く。

レスリングシューズの踵がアスファルトに擦れ、長い焦げ跡を残す。
その距離、およそ5メートル。
たったそれだけで、チャンプはダンプカーの突進を止めた。

だが、その5メートルは、あまりに致命的であった。

「死ねや、クソ島ァァァーーーーッ!」
「調子乗ンな、調子乗ンな、調子乗ンなコラァァァァーーーッ!」
「正義のチャンプ様の銃弾で、ありがたく死ィィねぇぇぇぇッ!!!」
「ウィーーー!」
「アーーーー!」
「チャーーーーンプッッッッ!!!」

口汚い怒号。
飛び出してくる十人あまりの、糸のように細い目をした男たち。
そして、何発もの間抜けな銃声。

「むッ、――ん!」

ミスター・チャンプ。
ついにその喉から、苦悶の声があがった。

弾丸が、その鋼の筋肉に突き刺さる。
それはダンプカーを受け止め、綾島聖への射線を遮ってしまったが故の被弾。

本来は綾島を狙って放たれた、あまりにも稚拙な射撃技術による銃弾は、
ほとんどすべてがミスター・チャンプに着弾していた。

むろん、チャンプの肉体は並みの銃弾などは弾き返す。
しかしその銃弾は、綾島聖の強化された肉体を貫くべく用意された、
大口径のマグナムであった。

「「「「あ………」」」」

毒ナイフの糸目が、ダンプカーの糸目が、拳銃乱射の糸目たちが、
魂の抜けたような悲鳴をあげる。

「「「「あぎぎぎぎぃぃぃーーーーーーーーっ!?」」」」

その悲鳴は、瞬時にギャラリーにも伝染した。

「――まだだ!」

チャンプは、全身から血しぶきを散らして怒鳴った。

「吾輩はまだ立っている! 来い、我が好敵手(とも)よ!
 吾輩の最高最大で――」

「うぅぅぅるせええええぇぇぇぇヒャァァァァーーーーッ!」

綾島聖は最後まで聞かなかった。
まったく聞く素振りさえなかった。
すでにチャンプへ肉薄していた綾島は、両手を伸ばした。

対するチャンプは、上段に竹刀を構える。
それは、彼が初めて見せた構え。

鹿島神流においては、無念無想による、一ツの太刀を至上とする。
いま、ミスター・チャンプは、その境地に達しようとしていた。

もはや、銃弾の一斉射撃で、自由に動くこともできない。
出血が多すぎる――動けるのは一瞬だろう。
ゆえに一撃。

肉を切らせて骨を断つ。
理想はカウンター。
相手の速度と威力を乗せて、打つ。
そのために、チャンプはあえて意識を静止させた。

――だが、チャンプはこのとき失念していた。
『糸目』の技の中で、最も危険なのは何か。

「死ィヒャァ~~~ッ!」

ずるり、と、綾島の体が蛇のごとく踊った。
それは関節技。
チャンプの首に手をかけ、瞬時に絡みつく。

(打撃ではない。絞め技――)
ミスター・チャンプは、相手の力を利用してのカウンターが
不可能となったことをを悟る。

(しかし、まだ)

なぜ『糸目』の技において、関節技が最も危険とされるのか。
それは打撃技と異なり、技が繰り出されれば、回避が不可能なためである。

未熟な『糸目』の中には、うっかり技を強くかけすぎて、
相手を殺してしまうケースもある。
つまり、最も力加減を誤り、勝利してしまうことの多い技なのだ。

(フロント・チョークスリーパー……! ならばよし!)

首に巻き付かれながら、ミスター・チャンプはその技の正体に気づく。
強力かつ、単純な絞め技だ。
自分なら抜け方も知っている。

まだ手はある。
この絞めを外したとき、相手の態勢を崩すことができる。
そして『必殺』の一ツの太刀を放つ。

訪れる一瞬の好機を捉えるべく、チャンプは意識を集中する。
その視界が、百八十度回転した。

(――む?)

首から激痛。破壊音。
何かが、溢れ出していく。

――つまり、『史上最低の糸目』綾島聖にとっては、関節技こそが必殺であった。

もとより、戦車を素手で解体するほどの、綾島聖の肉体強化である。
さらに限界を超えて強化された、『堕天使』の腕力ならば一瞬。
それだけで、頚椎を粉砕し、屈強な魔人を死に至らしめることができた。

(なぜだ)

最後に、チャンプは薄れゆく思念を滑らせた。

(この自分が、なぜ負ける)

その答えは、恐らく彼には決してたどり着かない地点にあった。
よもや己の運命が、取るに足らない、
見ず知らずの有象無象のクズどもに左右されようとは――。


* * *

あらゆる盾を決して貫けない矛と、あらゆる矛に必ず貫かれてしまう盾。

――最弱の矛と、最弱の盾がぶつかったとき。

勝つのは、果たしてどちらだろうか。

その答えは神のみぞ知る。

しかし、確かなことがひとつだけある。

他人の足をひっぱる味方をより多く抱えた方が、負けるということだ。

最終更新:2014年12月07日 16:08