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フィクシング・ア・ホール


 ターミナル駅から国道を約三十分、民家の赤煉瓦よりもやがて田畑の土が色濃くなるころに、かつて町工場として使われていた蔦の絡まる古びた一軒家が見えてくる。安楽椅子探偵・古沢糸子が夕方に訪れたとき、そのアトリエの主は部屋に明かりを残したまま住処を留守にしていた。糸子は閉ざされていた扉を手際よくこじ開け安楽椅子のまま無人の屋内へと足を踏み入れた。
 扉を開けてすぐ左手には、倉庫を改造した作業場が見える。そのまま廊下を進み、仮眠室と手洗いを過ぎると、未洗浄の食器がうず高く盛られた調理場がある。頭上の棚の左側、上から二段目、椅子のままでは手を届かすのにやや苦労するが、ともかくいつもそこに紅茶の葉がしまってある。二人分の水を火にかけた薬缶は、結局家主が不在のまま蒸気を吹き上げはじめてしまったから、彼女は自分の分だけの湯をポットの茶葉に注いだ。

 アールグレイ、オレンジペコ。安物ではないが、決して高級品でもない。何もかもが昔のまま。

 窓から覗く夕日が教会の尖塔に隠れるころ、ようやく丸瀬十鳥は彼のアトリエへと戻った。買い物袋をぶら下げた幾分か間の抜けた格好で、住家のキッチンで堂々とくつろぐ不法侵入者を見とめる芸術家の素顔は、ガラスを通した夕日に頬の輪郭を色濃く陰どられて幾分か痩せたように見えた。

「やっぱりお前かよ。人ン家のカギ、ブッ壊しやがって」
彼はため息とともに、袋から大量生産品のスープ缶を取り出し次々と戸棚へとしまい入れる。全て同じメーカー、全て同じ味。
「壊れるカギが悪いんじゃないの……不用心なのよ、あんたは」
糸子はつとめて年に不相応な傍若無人さを崩さなかった。それは七つの皺と七十の白髪と引き換えに失った歳月への、彼女なりのささやかな抵抗であったのかもしれない。
「俺の茶は」
「ん。無いよ。自分で淹れたら」
もちろんそれが彼女に生来染み付いた性癖であった可能性は否定しがたい。


「……その足、どうしたんだ。どこで無くした」
「落っことしたのよ。誰かさんが拾ってくれないから」
「二度と面ァ見せんなって言ったのはテメェのほうだろ……」
安楽椅子に腰掛ける彼女の身体は、ひざ掛けから下にあるべきものを欠いていた。路地裏の掃き溜めを共に駆け抜けたハードボイルド探偵の面影はそこにはなかった。失ったものは決して戻ることはない。それは偉大なる芸術家にとっても同じであった。

「で。まさか人の茶ァ飲みにわざわざ来たわけじゃねェだろ。何の用だ」
丸瀬の問いかけに、糸子は冷え切った紅茶を一息に飲み干すと、伏し目がちに話を切り出した。

「一切空」

「……依頼か。誰のだ」
「不用心なのよ、あんた。迷宮時計を身に宿す生きた芸術。あたしの耳にまで入るくらいよ、藁人形の連中どころか近所のガキだって知ってるわよ」
「いや、いいさ。終わった話だ」
「終わった……」
「そうさ。未完の傑作は、未完のままついえた。お笑い種だろ」
そう語る彼の口にはしかし、一切の笑みは無かった。

「死んだ」

「……帰って来られないだけかもしれないじゃない。別世界に連れて行かれて……」
「いや、死んだ。俺にはわかる。あいつは死んだ」

 その言葉はあまりに決断的であったから、残されたアリバイが皆無であることを彼女は悟った。丸瀬十鳥はぽつぽつと告解をはじめた。それは解答編と呼ぶにはあまりにも伏線を欠く粗末なものであったが、糸子はそれをただじっと聞いていた。

 ● ● ●

「あいつを見つけたのは本当に偶然だ。一目でわかった。スラムの路上で、時計を手に握り締めたまま、あいつの肉体はとうに死んでいた。だから反転させてやった。迷宮時計の因果を。
 迷宮時計の持ち主は、死ぬとその所有権を失う。裏を返せば、時計が所有権を認めている限り、そいつは生き続けているんだ。だからそう定義してやりゃあいい。そう作った。魔人と時計。無の空間が無限の時間を内包する。それが『一切空』だ。
 なんとか命は繋いだ。だが完成はしていなかった……時計の欠片が足りなかった。望もうが望まいが、時計の争奪戦にあいつは巻き込まれた。要するに俺があいつを先の無い死闘の只中に放り込んだんだ。不完全なまま。そのままくたばらせときゃァよかったものをな。
 あいつは俺を憎んでいた。母親を殺し、自分を殺しておいてなお身勝手な俺を、殺したいほどに。だがそれでよかったんだ。殺されるべきだった。製作者である丸瀬十鳥自身が、自ら生み出した空たる概念の手にかかり消滅する、そのときにこそあいつは本当に純粋な……」


 彼の独白が最後まで紡がれることは無かった。言うより早く、糸子の右拳が丸瀬の顔面へと突き刺さっていたからだ。

「……私の仕事のことだけど、時計とは無関係。依頼人はね、あの子の母親だよ。もう十年以上前になるけどね。次あんたがまたナメたこと言ったらブン殴ってくれって」

 丸瀬の体はキッチンの流し台に叩きつけられた。積みあがった皿の山が崩れ、そのいくつかが乾いた音を立てて割れた。

「あの子がまだ赤ん坊のころに会ったんだ。そりゃあんたはひどいことをしたさ。でも彼女は決して自分のことを不幸だなんて言わなかった、それにね」

 糸子は懐から古びた小さな紙片を取り出しながら言った。

「悪いね、留守中にちょいと物色させてもらった。あの子が枕の中に隠し持っていた手紙……母親があの子宛に書いたんだね。最後はこう締められているよ。あんたのことを、許せとさ」

「見せ……てくれ……」

 丸瀬は体を起こし糸子から手紙を受け取った。月日の流れが劣化した紙面に丸い穴を穿ち、先頭に書かれた宛名を覆い隠していた。

「あの子はそれを毎晩読み返してたんだよ。そりゃ複雑だっただろうさ。だけどあの子のあんたに対する感情が、あんたの考えてたようなもんじゃなかったってことくらい、分かるだろ」

 丸瀬は微動だにせず手紙を読んだ。そして糸子に背を向けると、口を開いた。

「……ハッ、本当に悪趣味だな。ひでェもんだ。あいつらが死んで、俺みてェな悪人がのうのうと生き残る。なんだよ……なんだよこの筋書きは。どう収拾付けるつもりなんだ、なァ? 阿呆くせェよなぁ。阿呆くせェ」

「……あんたは悪人じゃないよ」

丸瀬に投げかける糸子の言葉は、それまでの何よりも優しかった。

「そんな不細工な顔で泣きじゃくる悪人が、どこの世界にいるのさ」


「……俺があいつを殺した。俺のせいだ。俺に力がもう少しあれば、あいつを助けられたんだ。俺はまだ、あいつの名前も知らないんだぞ。なんでだよ。なんでだ。教えてくれ! おかしいだろうが。なあ。俺が生きてて、あいつが死んで! 俺のせいだ! 俺が、あいつを殺した! 俺が! 俺が……!!」

 丸瀬は今や安楽椅子の上、糸子の欠けた両足にしがみついて嗚咽していた。小さく丸まった背中が小刻みに震えた。

「頼む……なあ、生き返らせてくれよ…………娘を……」

 糸子はそんな丸瀬の頭を優しくかき抱いた。そして告げた。

「無理よ……無理なんだよ…………」

 二人はしばらくそうしていた。傾いた夕日が不完全なシルエットを彩った。やがて赤い夕日が教会の裏に隠れたとき、その姿も影の中にかき消えた。


 アトリエを立ち去る際、安楽椅子探偵・古沢糸子は空の作業場を見た。今は何も無いこのがらんどうの空間から、いずれまた数多の至高芸術が生み出されていくことだろう。芸術家・丸瀬十鳥はそうしなくては生きられない人間だ。胸に空いた穴を埋めていくように、ひとつずつ、ただひとつずつ。そうして作られた芸術品は、きっとまた目を見張るほどの高値をつけ、人々の心を揺り動かす。芸術家の想いなど知る由も無く。

 糸子は安楽椅子のエンジンに火を入れた。小気味良い唸りとともに彼女が走り去ったその場には、ただ夕闇でほんのりと赤みを帯びた白煙だけが残された。