裏第一回戦SS・避暑地その2


――都内某所 総合病院

 彼女が手術室に運び込まれてから既に二時間ほどが経過している。
 手術室の扉は未だ固く閉ざされたまま開く気配はなく、『手術中』の赤いランプは冷え冷えとした光を放っている。
 病院の廊下は耳が痛くなるような静寂に包まれていた。
 その中で僕はただ一人、頭を垂れて祈りを捧げている。
 信じている神様なんかいない、それでも祈らずにはいられない。

 どうか、どうか、彼女が無事戻ってきますように……

 ぽん、と僕の肩に手が置かれる。
 顔をあげると、そこには中年の男女が立っていた。
 二人はぎこちなく笑顔を浮かべてくれてはいる。だが、整わない呼吸と額に浮かぶ汗から焦りがありありと伝わってきた。

「日下くん、聞いたよ。娘が倒れたとき、君が側にいて対応してくれたんだね。ありがとう」

 男の人……彼女の父親は、そういって僕に頭を下げる。

「……すみません。僕の、せいで……」
「何を言っているの日下くん。あなたのおかげで迅速に処置が出来たってお医者様も言ってらしたわ。あなたが謝ることないわ」

 女の人、彼女の母親の言葉に、僕は胸を締め付けられる。
 娘が血を吐き倒れて、手術室で生死の境をさまよっている。
 親として、どれほどうろたえても責められない状況である。
 それでも、この人達はただの娘の友人である僕のことを気遣ってくれている。

――なのに、僕はこの人達に隠していることがある。

 いっそ全てを打ち明けてしまえればどれだけ楽だろうか。
 でも、それだけは出来ないんです。僕は、僕はこの日常だけは、失いたくないんです。
 僕は嘘つきの卑怯者です。
 だけど、だけど、こんな僕でも、全てを元通りにする手段があるって知ってしまったから……

 ちらり、と左腕につけた腕時計を確認する。予定時刻まであと五分。
 良かった、と僕は思う。彼女が目覚めた時に誰もいなかったら、きっと、寂しがるだろうから。

「……すみません、おじさん、おばさん。僕はそろそろ……」
「ああ、すまないね。長いこと任せてしまって」
「今日のことは気に病まないで、また来てちょうだいね。あの子も喜ぶわ」

 未だに手術中のランプが点灯したままの扉に背を向けて、僕は歩き出す。

――ここは二人に任せます。代わりに……

 ……おそらく、彼女に残された時間は長くはない。
 全てを取り戻す機会は、これを逃したら他に無い。

――僕は、勝ってきます。

 彼女が倒れる前、最後に見た笑顔を思い出しながら、僕は戦闘空間へと旅立った。



日下景一回戦SS「I for You」



 さんさんと夏の日差しが降り注ぐ高原の避暑地。
 白い壁をした建物の前に、その人はいた。

「お嬢さん方……その、わたしはいつまでこうしていれば良いのですか?」
「あ……!申し訳ありません。ここでは猫さんと触れ合える機会など、中々ないもので……」

 同じデザインの白い服を着た女性たちに囲まれ、一匹の猫がいた。
 猫、というのは正確では無いかもしれない。
 手脚胴体を見れば、その人は確かに人間である。
 節くれだった手と作務衣から覗く引き締まった胸元は、みずみずしさに欠けた肌と合わせて長い年月をかけて使い込まれた肉体の魅力を醸し出している。
 腰に差した刀から察するに、剣士。それも相応の実力者とみていいだろう。
 だがしかし、首から上に目を向けると話はまた変わってくる。
 そこに有るのは黒猫の頭部だ。
 それがかぶりものではないことは、取り囲む女性になでられるたび困ったように動く耳が証明してくれている。

(にゃんこ師匠、って名前が『時計』に表示された時は驚いたけど……本当に、猫だったんだ)

 人影を見とめ、気配を消して忍び寄った景だったが、その光景を見てしばし唖然とする。
 猫の頭をした人間がいる、ということにも驚いた。それ以上にこれから戦うであろう対戦相手が、か弱い女性たちになすがままにされているというのも予想外だった。

(しかし、どうしよう。ここで戦いを仕掛けるわけにも行かないし……)

 周囲への被害を気にしなければここで戦いを始めてもいいだろう。にゃんこ師匠を取り囲む女性たちは、障害物以上のものにはなりそうにない。
 同じデザインの白い服、それは景にとって見慣れたものだった。
 入院着、おそらくあの白い建物は療養施設。彼女らは何らかの病を患って入院している患者達なのだろう。
 にゃんこ師匠を撫でながら朗らかに笑う女性の姿が、あの子の姿と重なる。
 ずきり、と胸が痛む。早く決着をつけて彼女の元に戻りたいという思いと、関係のない人達を傷つけたくないという思いが胸中で交差する。
 どうすべきか悩む景の視界の端で、にゃんこ師匠の耳がぴくりと動くのが見えた。

「む……?申し訳にゃい、お嬢さん方。どうやらわたしの待ち人が来たようだ」
(……隠れているのがバレた?)

 にゃんこ師匠の視線は景に向けられている。
 いつの間にか師匠の左手は腰に差した刀にそえられ、いつでも抜けるように鯉口を切っている。

「日下殿、おまたせしましたかにゃ。ここでは彼女らを巻き込むやも知れませぬ。場所を移したいのだが、よろしいか?」
「……ええ、僕としても、そうしていただけるとありがたい」

 もはやこれ以上隠れる意味は無い。景は木の陰からにゃんこ師匠の前に姿を現す。

「それは良かった。ではお嬢さん方、ごきげんよろしゅう」

 にゃんこ師匠は景から視線を外し、女性らに頭を下げて別れの挨拶をしている。
 景の正面にはにゃんこ師匠の背中。距離は20メートルほど。
 歩法で距離を詰めれば無防備な背中に一撃を食らわせられるだろうか、そこまで行かずとも、奇襲から有利に戦いを運ぶことが出来るだろうか。

(……出来ないな)

 視線は景に向けられていない。それだけだ。警戒は全く断っていない。
 下手に距離を詰めようとすれば刀の抜き打ちで切り捨てられておしまいだろう。
 強い人だ、と景は思う。
 だが、相手がどれだけ強かろうと関係ない。景は勝たなければならないのだ。
 病院で待つ彼女のために、すべてを、取り戻すために。


◇◇◇


 高原の森の中を進むと、広場のような場所に出た。
 半径50メートル程の円形に木のない空間が広がっている。周囲には針葉樹が立ち並び、森の外からここで何が行われているかを窺うことはできないだろう。

「おあつらえ向きであろう?先ほど、お嬢さん方から教えていただきましてにゃ。念のため、一刻ほどここには近づかないよう他の方に伝えていただけるよう、お嬢さん方に頼んでおきました」
「……失礼ですが、変わってますね。『戦闘空間』に出る被害に気を遣うなんて」
「『世界移動』とやらはこれが二度目でしてにゃ。何かあったらお世話になるかもしれない世界、そこに住む人々にあまり迷惑をかけたくもありませぬ」

 それに、とにゃんこ師匠は景の顔を真っ直ぐ見据える。

「『変わっている』のであれば、あなたも同じでしょう。仕掛けようと思えばお嬢さん方が居る時にでも仕掛けられたでしょう?」
「……余計な人を殴る趣味はないだけです。病人となれば、尚更」
「それを『優しい』というのですよ……もう一つ、聞かせて頂きたい」

 にゃんこ師匠は眩しいものでも見るように目を細め、

「降参していただくわけには、行きませぬかにゃ?」

 優しい人を斬りたくはない、と景に告げた。
 きっと、そう言ってもらえるのはすごくありがたいことなんだと景は思う。
 けれども、答えは決まっている。

「……譲れない願いが、あるんです」

 丹田に勁を練り、気息を充溢させる。
 にゃんこ師匠は強い。たとえどれだけ穏やかな表情をしていても、下手にしかければ次の瞬間に切り捨てられる。
 実力差は明白だ。戦えば十中八九勝つのはにゃんこ師匠だろう。
 だが、そんなことは景にとってすべてを諦める理由になんてならない。

「あなたはまだ若い。道はいくつでもある。あなたが今立っているのは、血に塗れた修羅道の入り口ですにゃ」
「それでも!他に取り戻す手段なんてないから……僕はあなたを倒します!」

 にゃんこ師匠の瞳が悲しみに染まる。
 するり、と音も立てずに刀を抜き、青眼に構える。
 たったそれだけの動作なのに、身のすくむような悪寒が景の身体を包んだ。

「陽派八極拳、日下景。参ります!」
「にゃんこ師匠。故あって名も流儀も名乗れませぬが、お相手しましょう」

 名乗ると同時に景は踏み込む。二人の間の距離は5メートル足らず、お互い一瞬で詰められる距離である。
 にゃんこ師匠の身体の正面、青眼に構えられた刀を身を捻りかわし懐へ。
 構えの内側に入り、がら空きの胴に掌を当てる。
 先手必勝、一撃必殺の発勁使いにとっての必殺の形である。
 触れれば発勁は当てられる。一撃当てれば、例え倒れなくとも内臓がかき回されまともに動くことはできない。
 守勢に回れば地力で上回るにゃんこ師匠に押し切られよう、だからこその先手速攻。

 だが、にゃんこ師匠は半身を引くと、いとも簡単に発勁の力を逸らした。

「っ……!?」

 景の顔に驚愕が浮かぶ。
 大きく動いて避けられるのであれば理解できた。景の発勁は密着状態から撃つものが主だ、掌を相手の身体から外されればダメージは与えられない。
 その場合は、勢いのままに踏み込み二撃目三撃目を繰り出す。一度は避けられても、体勢が崩れればそう何度も避けられないだろう、と読んでのものだった。
 だが、にゃんこ師匠は最小限の動きで発勁を無力化した。
 理屈の上では可能だ。だが、景とて素人ではない。相手が身を引くのが少しでも早ければそれに合わせて位置を調整出来る、遅ければ間に合わずもろに発勁を食らっただろう。
 常人には想像だに出来ぬ精密な身体操作を、少しでも誤れば致命打を食らう状況で、にゃんこ師匠は涼しげな顔でやってのけたのだ。
 伸ばした右手を撫でる冷たい気配。

『にゃーん』

 咄嗟に手を引くと、気の抜けた声と共に腕を銀光がかすめる。にゃんこ師匠が刀を切り上げたのだ。
 痛みは小さく、かすめた部分に流血の気配はない。
 幸い、と言っていいのか、あの刀の切れ味は良くはないようだ。

――なら、攻める!

 回避も防御も最小限でいい。一発、一発当てれば勝てるのだ。
 相手が誰であろうと、こんなところでつまづくわけには行かない。
 僕は、勝たなければならないんだ!

 発勁、逸らされる。袈裟懸けの斬り下ろし、ぎりぎりで回避。
 発勁、まただ。突き、浅く刺さる。致命傷ではない。
 発勁をフェイントに拳打。当たる、だがにゃんこ師範の肉体の前には微々たるダメージだ。返す刀で小手を狙われる。ギリギリで流す。
 撃つ、止められる。斬られる、ギリギリで受ける。
 景が攻めていたはずの状況は膠着し、徐々に押し込まれつつある。
 まるで、それこそ猫のように身軽なにゃんこ師匠は密着状態からの発勁をたやすく外せるほど身体操作に長けている。
 密着の必要無い打撃なら当たらないことはない。だが発勁と比べて威力が低い。それで削りきろうにもジリ貧だ。
 拳打より早く、発勁よりも威力が高い。にゃんこ師匠を倒すにはそんな技が必要だ。
 ……景には一つだけにゃんこ師匠を倒しうる技がある。

『絶招・七孔噴血爆塵掌』

 勁力を込めた打撃を肺腑と心臓まで浸透させ、逆流した血液を相手の全身の穴という穴から噴出させる絶技だ。
 相手の体に手を触れてから経絡の位置を探るという景の発勁とは違い、打撃に勁力をのせることで回避の暇を与えず内臓まで衝撃を与える精妙な技巧が必要とされるこの技は、景も今まで数度しか成功させたことがない。
 賭けだ。だが――
 転がるようににゃんこ師匠の刀を回避しながら景は考える。
 このままの流れでは敗北は必至だ。逆転の一打は不可欠だ。
 回避後の位置取りが良かった。目の前にはにゃんこ師匠の胴体、ここからなら一撃を食らわせられる。

――お願いだ。どうか、どうかこれで!

 掌を構え、全身の力をこめてにゃんこ師匠を睨みつける。
 狙うは鳩尾。肋骨の下から突き上げるように打撃を叩き込み肺腑と心臓を貫く。
 祈りを込めて打ち込まれた一撃が、にゃんこ師匠の身体に突き刺さる。景の身体を成功の喜びが駆け巡る。
 だが、それもつかの間……

――感触が鈍い!?

 引き締まった筋肉が景の掌を受け止めていた。多少の衝撃は与えただろう。だが、それだけだ。
 もはや最後の手段すら失った景に向けて、にゃんこ師匠が刀を一閃する。
 やたらと緩慢な視界の中、景は己に迫る刃を見つめていた。

◇◇◇

 時刻は戦闘が始まったところまで遡る。

(……手強い相手であるにゃ)

 初撃の発勁をいなしながら、にゃんこ師匠は内心独りごちる。
 鍛えられた肉体、鍛錬を感じさせる真っ直ぐな拳。
 そして何より、拳打にためらいがない。
 道場での稽古で技を磨くことなら誰にでもできよう。だが、それは相手を破壊する前提のものではない。
 当然だ。稽古はあくまで稽古、命の取り合いをすることはない。
 故に、実戦を経験していないものの攻撃はどれぐらいの力で叩けば相手を傷つけることが出来るか、という感覚に薄いことが多い。
 そこで必要な力を見誤って殺しそびれたり、あるいは余計な力を入れすぎて隙が生まれるなどの失敗を起こしがちだ。
 だが、この歳若い少年は見誤らない。
 どれだけの力を叩き込めば人は倒れるか、それを熟知している。

(十……では足らにゃいだろうな。数十、あるいは百に迫るほどの『人を壊すための戦闘経験』)

 衣服から見るに、彼はにゃんこ師匠が飛ばされてきた世界と同じような世界の住人だろう。
 若者が戦に出ることのない世界。そんな中で培われた、人を壊すための技術。

(過酷にゃ人生を、歩んできたのであろうにゃ)

 譲れない願いがあると彼は言っていた。それが何かはにゃんこ師匠に知るすべがない。
 だが……それがどれだけ重いものであるかは、彼の拳から伝わってくる。

(とはいえ、わたしも負けるわけにはいかにゃい)

 刀を振るう。日下景の皮膚を浅く傷つける。
 にゃんこ師匠が本気を出せば、今の一斬で終わっていただろう。
 しかし、それはにゃんこ師匠にとって本意ではない。
 甘い、と思われるであろう。
 だが、にゃんこ師匠は出来る限り相手を殺さずに戦いを終えたかった。無駄な血を流したくはなかった。
 並みの相手であれば峰打ちで気絶でもさせてやればそれで方がついただろう。
 だが……

(そう簡単に終わらせてくれるほどには、実力差は無いというわけか)

 焦りもあるのだろう、景の攻撃は真っ直ぐで単調だ。防御技術も、にゃんこ師匠が本気で斬ればたやすく殺害できよう。
 そう、殺害ならばたやすく。殺さずに終わらせることは難しい。

(……『雷』を使えばなんとか殺さずに済む、か)

 『雷』は放電能力だ。食らえば魔人でさえ簡単に昏倒する。
 刀に電撃を這わせれば、かすめただけでも相手を倒すことができる。この能力を使わなかったのはひとえににゃんこ師匠が『剣術』以外で決着をつけることを望まなかったからだ。
 だが、景を殺さずに終わらせるためには仕方がない。内心ため息をつきながら、にゃんこ師匠は『雷』を使うことを決断する。
 おそらく相手はなにか大技を撃つことを企んでいる。となれば『雷』を使うのはその直後、もっとも気の抜けたタイミングだ。
 そうして、にゃんこ師匠は、景の繰り出した技を受け止め、『雷』をまとわせた刀で、彼を切りつけようとした。

◇◇◇

 そうして、七孔噴血爆塵掌はいともたやすく止められた。
 やけに遅い時間感覚の中、にゃんこ師匠の刀が景に迫ってくる。
 受けても、致命傷にはなるまい。ならば追撃を。
 諦めるわけには行かないんだ。そうやって自分を奮い立たせ、景は次の一撃を放とうとする。

――何故か、にゃんこ師匠の姿が彼女の姿と重なった。

 これはいつのことだったろうか。
 君は後ろ手に隠すように何かを持ちながら、僕の前を後ろ向きに歩いている。
 危ないよ、と僕は言う。
 大丈夫、と君は言う。

――なんだこれは、こんなの関係ない。僕は相手を倒さないと

 君は僕の前で立ち止まり、大きく息を吸い込む。
 ……ああ、またか。という絶望感、僕は能力を発動する。
 救急車のサイレンが響く中、君は後ろ手に持っていたものを僕に向かって差し出す。
 ジリジリ、と何かの焼けるような音、微かに香るオゾン臭。これはどこから漂ってくるんだ?
 差し出された君の手に握られていたのは………

 ……放電する、スタンバトン!

「『ん………何?』」

 咄嗟に能力を発動しながらバックステップ。
 風に吹かれて落ちてきた樹の枝が、にゃんこ師匠の刀にぶつかった。
 バチリ、と大きな音を立てて、刀が雷を放ちながら枝を弾く。
 電力を失った刀は僕の肌を撫でるが、僅かな熱を感じる以外のダメージはない。
 にゃんこ師匠の表情には微かに驚愕が浮かんでいる。まさか僕が回避するとは思っていなかったのだろう。
 だが、それは僕だってそうだ。あの雷の剣で昏倒させられても全くおかしくはなかった。

 ――偶然、なのか?

 困惑する僕をよそに、にゃんこ師匠の攻撃は続く。
 にゃんこ師匠が僕の足を狙って刀を振るう、君の姿が重なる。三十五度目の告白。僕を絡めとるような足払い。
 あの時と同じように僕はかわす。
 続いて突き。僕の胸に飛び込んでくる刀。君の手から飛び込んできたトカレフの銃弾よりよっぽど遅い。あれは四十二度目の告白。
 下段からの切り上げ。身体をかすめる。かすったところが熱を帯びたような感覚。でも五十度目の告白で君が設置したクレイモア地雷のほうが熱かった。
 木の葉を蹴りあげて目潰し。宙に舞う枯れ葉が僕の視界を塞ぐ。
 でも……でも、君が投げたスタングレネードの方が、ずっとずっと、僕の視界を埋め尽くしていた。

 記憶をたどりながら繰り出した発勁がにゃんこ師匠の身体を捉える。相変わらず致命打ではない。
 だが、効いている。さっきまでよりずっと効いている。
 にゃんこ師匠はもはや驚愕を隠そうともしない。当然だ、僕だって驚いている。

 ……けれど、今の僕には分かる。

 僕は一人で戦っているつもりだった。
 自分だけの力で、平和な日常を、君のことを取り戻すつもりだった。
 だけど、それは違うんだ。戦っているのは僕だけじゃない。
 君の力が、この胸に満ちる君の思い出が、僕のことを強くしてくれるんだ!

 そうして再び、幾度かの交差。
 にゃんこ師匠の攻撃はさっきまでよりずっと早くなった。
 でも僕は……『僕達』は喰らいつけている。
 にゃんこ師匠の首筋を汗が這う。おそらく、彼も体力を消耗しているのだろう。
 肌色から判断するに彼はけして若くはない。純粋な体力だけだったら、僕に勝ち目がある。
 チャンスだ、と僕は思う。
 いくら君との思い出があったって、それだけで詰められるほど僕とにゃんこ師匠の間の差は狭くない。
 だけど、体力の消耗で彼が焦ってくれれば……

 にゃんこ師匠が大きく踏み込む。斬撃の速度が早い。パチパチという放電音と空気を焼くオゾン臭。
 もう一度、あの雷の剣が来る。

 僕は応じて前に出る。

 にゃんこ師匠の斬撃が、スタンバトンを振るう君の姿と重なる。

――君の攻撃は、能力なしでも避けられたんだ。
――だったら、にゃんこ師匠の攻撃だって……!

 にゃんこ師匠の刀が僕の髪をかすめる、タンパク質の焼ける嫌な臭い。だけど、それだけだ。
 ギリギリのところでにゃんこ師匠の刀をかわし、懐へ潜り込む。
 こちらの狙いはにゃんこ師匠も承知だろう。彼は受け止めようと筋肉を固める。
 勁力を通さねばならない以上、受けられれば七孔噴血爆塵掌のダメージはないに等しい。
 だけど!

「『ん………何?』」

 にゃんこ師匠の手に流れる汗に、雷が伝わる。塩分を含んだ汗は電気を通し、にゃんこ師匠自身の身を焼く。
 倒れるほどではない、けれど、防御が緩む程度の電撃を食らってしまう不幸な『偶然』
 それに合わせれば。

――数時間前、『戦闘空間』に来る直前の告白を思い出す。
――僕に告白しようとする君、何度だってあきらめないで立ち上がり、僕に想いを伝えようとする君。
――その君に応えるために……僕はあの時も、この技を撃ったんだ!


 絶 招 ・ 七 孔 噴 血 爆 塵 掌!


 記憶の中の君の姿が、血を吐き出して倒れる。
 だが、にゃんこ師匠は倒れない。

「……少年」

 にゃんこ師匠が口を開く。

「修羅道の先に、何を望む?」
「……『僕達』の、幸福を」

 にゃんこ師匠はふっと、笑い。

「頑張るにゃ」

 血を吐き出して、その身を倒した。

◇◇◇

 にゃんこ師匠が目を覚ますと、彼は診療所のベッドの上にいた。

「あ……良かった、おめざめですか」

 白衣を着たナースが彼に笑顔を向ける。

「ここは……?」
「診療所です。あなた、血を吐いて倒れたらしくて、高校生ぐらいの男の子が連れてきてくれたんですよ」

 どうやら日下のおかげで死にそびれたらしい。

「本来は女性専用の施設なんですけど……みなさん、あなたのことは快く思っているようですし、特別ですよ」
「お気遣い痛み入りますにゃ」
「それじゃ、何かあったらすぐ呼んでくださいね」

 病室から去っていくナースを見送りながら、にゃんこ師匠は日下との戦いを回想する。
 彼は強かった。侮りと手加減からにゃんこ師匠が体力を無為に消費していたこともあり、勝利を拾われてしまった。
 言い訳はいくらでもできるだろうが、剣の師に聞かれれば怒られるだろう。勝手に敵を過小評価して侮り、そのうえ負けるとは何事だ、と。
 だが……にゃんこ師匠はこうも思う。その上で、日下景には致命的な弱点がある。
 彼は人を殴り慣れていた。壊し慣れていた。
 だが……殺し慣れてはいなかった。
 最後の一撃、あれが十全に決まっていればにゃんこ師匠は七孔噴血し絶命していただろう。だが現実は安静にする程度で済んでいる。

(一体どういう経緯があればそんにゃことににゃるのかは分からないが……苦労するぞ、少年)

 もっとも、苦労するのはにゃんこ師匠も同じだろう。
 また別の世界に取り残されてしまった、この世界での身の振り方を考えねばなるまい。
 だが……当面のことは。

「あ、ちょっと、押さないで!」
「あの方の目が覚めたって本当?」

 ドアの外に待つお嬢さん方に撫でられながら、考えるとでもとしよう。


日下景一回戦SS「I for You. And You for me」了

最終更新:2014年11月26日 18:21