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にゃんこ師匠危機一髪! ~拙者、にゃんこになっちゃったニャ!?の巻~


紅葉舞い散る秋の野山。しめやかに流れる清流のほとりで、男が一人静かに佇んでいた。
上下共濃紺の作務衣に古びた草履。一尺余の小枝を握る手は節くれ立ち、
胸元から覗く引き締まっているが張艶に欠けた肌と相まって年季を感じさせる。
異様な事に、その頭部は首元までびっしりと手触りの良さそうな黒毛で覆われていた。
丸みを帯びた流線型のシルエットの頂点には、ぴんと尖った耳が二つ。
頬からは白く長い髭が生え、今は閉じられた瞼の奥にある瞳は謎めいた金色である。
臀部に開けられた小さな穴からは、頭部の毛と同じ黒くしなやかな尻尾が飛び出していた。
一言で要するに、男は猫人間とでも呼ぶべき風体であった。

不意に男が右手を撓らせ、目前に舞う落ち葉を小枝で以て両断した。
更に目にも留まらぬ速度で枝が振るわれ、小気味良い音と共に葉を紅い霧へと変えて行く。
都合六度切り抜いた後、男は細く静かに息を吐きながら残心した。
宙に舞う紅葉を断つ程の速さで振られたにも係わらず、小枝は折れる事も無く形を保ち続けている。
彼は小枝を正眼に構えながら、かつて教えを乞うた師の言葉を思い出していた。

(やれ木の葉が地面に落ちるまでに何分割しただの、やれ人が乗ったままの座布団を気付かれずに両断しただの、そういった類の腕自慢を耳にした事、主らもあろう)

師は夜な夜な道場で門下生を集めては酒を喰らい、このような愚痴とも訓話とも付かぬ説教を吐いていた。

(正に笑止千万。そのような剣技は所詮客寄せの大道芸に過ぎぬ。そのように惰弱な真似をせねば弟子も取れぬ腰抜けの所業よ)

師の半ば狂気めいた笑みが蝋燭の火に照らされ、その言説に得も謂われぬ迫力を添えていた。

(肝に命じよ。剣の上達に斯様な道は無し。唯人を斬る事のみに専心せよ。己を剣と成せ。然すれば対手(てき)なぞ自ずから刀身に飛び込んで来よるわ)

剣は人を斬る為の道具故――と、師は決まってこの言葉で話を結んだ。
当時は雲を掴むような例えであったが、それを実現足らしめるだけの実力が師にはあった。
故に男は遮二無二に斬った。一心に斬った。無心に斬った。只管に斬った。
そして、屍山を積み血河を拓いて得た物は、人には余る力と、猫の頭と尻尾。失った物は……。

男は己が腰に帯びた刀の柄頭を抑えるように掌で包んだ。
肉球を象った鍔がかたりと鳴った。

「お師匠さーん!」

己を呼ぶ声に、男は目を開いた。
声の方角を見れば、こちらに向かって手を振りながら山道を軽快に駆け来る見慣れた顔の娘が一人。
背に負う竹籠には山と積まれた雑多な品の数々。その多くは彼の知識に無い物品である。
彼は低く嗄れた、しかし張りのある声で娘の名を呼んだ。

「サヨさん、わざわざこちらまで来られずとも庵で休んで居られればよかろうに」
「えへへ、山菜採りのついでですからお気になさらず。今日も色々持って来ましたよ、
 干菓子とか、お茶葉とか……あ、櫛のいいのも入ってます!」
「うむ……かたじけにゃい。戻ってじっくり見せて貰おう」

腰に下げた煙草入れからまたたび粉と煙管と燐寸を取り出しつつ、男はゆるりと山道を下り始めた。









庵に戻ると、古びた戸口の前に一人の青年が立っていた。
山中には似つかわしくない背広姿で、頑丈そうな銀のスーツケースを下げている。
老人と少女が男の姿を認めると同時に、男も二人に気付いた様子で、七三にぴっちりと撫で付けた頭を下げて来た。

「あ、どうもお初にお目にかかります。私、然る御仁の用命にてこちらに参りました、鈴木と申します。
 失礼ですが、そちらの作務衣の方がにゃんこ師匠様で間違いありませんでしょうか」

鈴木と名乗る若い男は慇懃な口調でそのように尋ねた。
新潟の県境に程近いこの山中を尋ねる人間は多くない。老人はやや眉間の皺を深めた。精確には、そのように見えた。
猫は比較的表情豊かな生物であるが、ヒト科のそれとは表情筋の作りからして違う。故にその顔色を読む事は難しい。
サヨは目を丸くして、控えめに両者の顔を窺い見た。

「確かに、わたしがにゃんこ師匠です。自ら師匠と名乗るにゃどおこがましいとは御思いでしょうが、これも故あっての事。何卒お許しあれ」
「いえいえ、事情の程は主より伺っております。なんでも別の世界から来られたとか……ところで、そちらのお嬢さんはどのような?」
「あ、あたしは里の行商人です。サヨって言います」

大荷物が零れ落ちない程度にお辞儀するサヨを見て、サラリーマン然とした男は薄く笑った。

「なるほど、このような山間に在っては一人暮らしも難儀でしょうからねぇ。貴女が里との物流を文字通り担っておられる訳ですな」
「わたしについて随分詳しく調べておられるようだが」

煙管を煙草入れに仕舞いつつ、にゃんこ師匠が金色の瞳を鋭く光らせた。

「どのような御用向きかにゃ。然る御人の用命と仰ったが」
「ええ、その件についてなんですが……えー、単刀直入に申しますとですね」

男はスーツケースの留め金を外し、おもむろに開いて見せた。
中にぎっしりと詰まっているのは手の切れるような新札である。
うわァ、とサヨが驚嘆とも悲鳴とも取れる頓狂な声をあげた。

「そちらの、お腰の物を譲って頂けないかと」

にゃんこ師匠の片眉が僅かにつり上がった。
鋭い牙の並ぶ口が何か言いかけるより先に男が言葉を継いだ。

「勿論、不足であれば言い値を支払わせて頂きます。このお金は手付金として受け取って頂ければと……。
 ご希望ならば新しい刀を用意する事も可能です。既存のものは勿論、新たにお気に召す一振りを打ち上げる事も。
 現金以外のものをご所望であれば、当方が用意できる限りのものなら何でも揃えましょう。
 ……あるいは、『魔女の呪い』を解く手段を探す事も出来ます。魔人能力には無限の可能性が」
「失礼にゃがら」

両腕を組んだにゃんこ師匠が、やや憮然とした口調で男の流暢なセールストークを遮る。

「この剣にそこまでされるようにゃ価値はありませぬ。名刀業物どころかなまくらも良い所、葱すら禄に切れはせぬ。
 そこらの民家にある出刃包丁の方がまだ切れ味は良いでしょう。なにか勘違いをされておられるのではにゃいか?」
「ご謙遜を」

男の貼り付いたような笑みが深みを帯びた。三日月型に穿ったような、穏やかながらも何処か剣呑な笑み。

「他人から見ればガラクタとしか思えぬ物に目玉の飛び出るような金を払う人間も居ります。
 ましてやそれが金剛不壊を謳う魔剣とあらば尚の事」
「……本当によく調べておられるようですにゃ」

猫頭の老剣士は、いっそ忌々しげに吐き捨てた。

にゃんこ師匠の愛刀、魔剣にゃんにゃん棒は刀の形をした結界である。
その性質を端的に表すならば、いかなる力を加えようとも決して折れず曲がらず原型を保ち続ける呪いだ。
切れ味は悪いものの、どんなに荒く使おうが壊れぬ刀と言い換えれば需要は数多。
故ににゃんこ師匠は己が剣について口外した事は無い。

「異世界から参られた貴方様には理解し難い事やもしれませんが、一口に魔人能力と申しましても、その力は多岐に亘っておりまして。
 例えば見ず知らずの人間の素性をたちまちに解き明かしてしまうようなものも存在するのでございます」

鈴木はスーツケースを閉じながら言った。表情は能面のように崩れない。

「貴殿がそうだと?」
「いえいえ、とんでもない事でございます。私などただのしがない使い走りに過ぎません」
「いずれにせよ」

にゃんこ師匠は再び腰の煙草袋から煙管を取り出した。またたびを火皿に詰め込みながら男を半目で見据える。

「いかにゃ大金を積まれようともこの刀は売れませぬ。お引取りを」
「いやあ……そこを何とか、ご検討頂けませんか」
「お引取りを」

頭を掻きながら食い下がる鈴木ににべも無く告げる剣士の目は冷たい。
両者の間に何か得体の知れぬ磁場めいたものを見た気がして、サヨは思わず瞼を擦った。

「弱りましたね……それではわざわざご足労頂いた、我が主に申し訳が立たない。ほら、ご覧になられますか?
 あの背の高い樫の木の、頂上におわします主の姿が」

男の指し向ける掌の方角……山の頂上付近には、確かに樫の高木が聳えていた。しかしその樹上に人間はおろか、生物の影も見当たらない。
何の事かしらんとサヨが首を捻ったその瞬間であった。

『にゃーん』



母親に甘える仔猫のような、愛らしくも物悲しい鳴き声が響いた。ほぼ同時に、金物を激しくぶつけ合ったような甲高い衝突音。
思わず振り向いたサヨが見たものは、引き抜いた刀を背後に回したにゃんこ師匠と、何かを振り抜いたような姿勢で固まる男の姿であった。
不可視の力に対抗するかのように右腕を力ませつつも、水晶球に浮かぶスリット状の金色は真ッ直ぐにほくそ笑む男の姿を見据えていた。


「なっ……えっ、えっ?」
「お見事。この初撃に対しまともに反応出来た者は実際何人も居りません」

困惑するサヨを他所に、男はぎりぎりと両腕に力を込めつつ、先程までとなんら変わらぬ口調で言い放った。

「初太刀を止めただけでも賞賛されて然るべきお手前。不覚にも抜刀の瞬間は目で追う事すら叶いませんでした。
 しかし恐れながら申し上げますと、ここは体をかわすべきでございました。
 私の上段は鞘で受ければそれごと両断致します故、それ以外に先はありません」

表情一つ変える事無く、語気に不遜を滲ませる鈴木。
一方にゃんこ師匠は猫の額に汗を滲ませながらも冷静に状況を分析していた。
視線誘導からの不意打ち。しかしその手は確かに空であった筈。
にも関わらず背後より感じた確かな殺気、そして衝撃。まず何らかの能力の使い手と見て相違あるまい。
右腕より伝わる剣圧は相当なものだ。僅かでも気を緩めれば瓜でも割るように体を両断されるだろう。

にゃんこ師匠は束の間、過去の戦場で刃を交えた敵の姿を思い出していた。
特A級ギロチニスト・デュラハン=ドラグニル。
身の丈二十尺にも及ぶ巨体を活かし、恐るべきギロチン殺法を用いて死の嵐を巻き起こす難敵であった。
ギロチニストの称号に恥じず、相対した敵の身長体重体調趣味嗜好、及び当日の天候気温湿度地形を考慮した上で
当人にぴったりのギロチンを召喚し、様々な速度・角度・タイミングから最も快適な処刑を行う戦術を得意とする。
ギロチン召喚に加えてドラグニル自身もギロチン台で叩き潰さんとして来る為、にゃんこ師匠は全方位に極限の警戒が必要とされる苦しい戦を強いられた。

鈴木と名乗る男の能力も恐らくこれと同じ類であろう。相手の虚を突けば一撃で死に至らしめる事の出来る技。

「さて、如何になさいますか?貴方様の腕力ではこの状況を打開する事は叶いません。
 さりとて時間を稼げば事態が好転する訳でも無し。むしろ……」

鈴木は己の優位を誇示するかのように、ゆっくりと左腕を掲げた。その手の形はまるで、目に見えぬ刀の柄を握るような。

「……悪くなっていくばかり。振るえる剣が一刀ばかりとは限りません。何卒懸命なご判断を。
 今なら最良の形で交渉を終える事が出来ますが、機を逸すれば……」

見えない刀を大上段に構える左腕はそのままに、男はサヨを見た。細い目に光る瞳はさながら爬虫類の如く感情を宿さない。
機械的な殺意に当てられたサヨは、声を上げる事すら出来ずにその場で硬直した。蛇に睨まれた蛙のような、覆しようの無い立場の差。

「私も無闇な殺生は好みません。どうかご決断を」
「お引取りを」

懐柔の響きを帯びた甘言を一蹴するかの如く、にゃんこ師匠の低音が場を打った。
男が眉を顰める。

「今退かれるならば追いはしませぬ。命惜しくばここで剣を収められませい」
「驚きましたね、まだそんな事を仰る余裕がお有りとは。老練の境地というものですかな?」
「然り。この身は老いれども、斯様にゃ小手先の技に遅れを取るほど耄碌してはござらん」
「……小手先と?」

男の表情に、初めて明確な感情の色が浮かんだ。自身の矜持を深く傷付けられた故の、憤怒の形相だ。
にゃんこ師匠の右腕にかかる圧力が俄かに増した。

「負け惜しみにしてもうまくありませんな。こういった場合、潔く負けを認めて首を晒すか、さもなくば
 命乞いの一つでも打つのが常套の法ではありませんかな」
「ふむ、言われてみれば。今度命の危機に瀕した際にはそうしてみるとしよう」

文字通り鎬を削る修羅場にそぐわぬ惚けた口調であった。
鈴木の口角がつり上がり、生来の暴性を剥き出しにしたかの如き凶相を形作る。

「……どうやらご自分の立場というものを理解しておられぬようだ。私がこの腕を振り下ろせばどうなるか、想像すら及ばぬと?」
「無論心得てござる。それが貴殿の命尽きる瞬間(とき)と」
「救えぬ御仁だ。呪いのついでに正気までも失われましたか」

激情に流されるまま、男は左腕に持った不可視の刀を振り下ろした。その狙いは相対するにゃんこ師匠では無い。
刀の切っ先は狙い過たずサヨの左肩へ。そのまま袈裟掛けに体を両断し、以て己が浅慮を知らしめる。
男は狂気に顔を歪めた。鮮血が弧を描き、紅の蓮華が宙に咲く。

「愚かな」

静かに呟いたのはにゃんこ師匠である。一拍の後、絹を裂くような悲鳴が上がった。サヨのものだ。
鈴木の左腕が肘の辺りから断たれ、壊れた水道管めいて断続的に血液を噴出していた。
何が起きたか男が理解するよりも早く、一足に間合いを詰めたにゃんこ師匠の掌打が細い顎を捉えた。
激しく揺すぶられた脳に追い討ちをかけるが如く、柄頭を鼻筋にぶち当て、昏倒した男の首筋に刃を突きつけた。

「先の一刀にて左腕を斬り申した。その事にすら気付かれぬようでは手合い違いも甚だしい。
 二度とわたしの前に姿を見せぬと誓われるのであれば、命ばかりは見逃しましょう。
 この世界の医者は切れた腕を接ぐ事も出来ると聞く故、今下山すればその傷も癒えるやも知れぬ」
「がっ、ぐほっ、……わ、私の、腕……」

鈴木はもがくように残った方の腕で宙を掻いた。
切断された左腕の出血は未だ勢い衰えず、このまま手当てをしなければ程無く絶命する事は明白と思われた。
にゃんこ師匠の眉間の皺が深まる。

「潔くされい。今ここで死ぬるか、恥を捨て生き延びるか」
「あ……あ……」

男の右手が、魔剣にゃんにゃん棒の切っ先を掴んだ。
素手で刀を掴んだ所で何が出来る訳でもなし。やぶれかぶれの抗命であろうか?……否。
見よ、鈴木の瞳に滲む邪悪にして残虐な光を。

「甘い、ですねぇ」

鈴木はにゃんこ師匠を見据えながら、狂気じみた笑みを浮かべた。その歯と歯の間に不自然な空白がある。
丁度刀の柄一本分程度の隙間だ。鈴木は躊躇う事無く一息に首を振った。
刀を振るうは腕ばかりに非ず。柄を口に加えても、例えば柔らかな首元などを穿つ事は造作も無い。
彼は既に命を捨てていた。例え己が死んでも、これ程の腕を持つ剣豪に瑕疵を付けられたのであれば上等、という歪んだ思考が鈴木を支配していた。
故に狙いは、先程と同じ行商の女。頚骨を断てぬまでも、動脈と気道を別てば即死には足りる。
鈴木は喜悦の笑みを堪えられず、悲鳴にも似た甲高い笑声を上げた。
それが彼の末期の言葉となった。

魔剣にゃんにゃん棒の刀身に、一瞬紫電の光が走った。
にゃんこ師匠の手より放たれたそれは、鈴木の行動を数秒停止させるに十分な威力であり。
その間に首筋へ切っ先を突き立て、即死に至らしめる事もまた容易であった。

「御無礼、平に御容赦(ゆる)しあれ。人命に関わる火急故」

刀を薙いで血を祓い、無駄の無い動作で鞘に収めたにゃんこ師匠が仏頂面で零した。
片掌を立てて瞑目し、簡単な祝詞を唱える。死者に対する彼なりの礼儀である。

「……また繰り返してしまった。空しき哉」
「お、お師匠さん」

その場にへたり込んだサヨが、どうにかにゃんこ師匠を呼んだ。どうも腰を抜かしているらしい。
つい先刻まで平和そのものであった山中でこのような酸鼻を繰り広げれば無理も無しと、にゃんこ師匠は少女の側に寄った。

「だっ、大丈夫ですか、お怪我は……あの、し、死んだんですか、あの人」
「うむ、わたしに大事はにゃい。彼は死んだ。首元を穿った故」
「あの、すみません、腰が……こ、こんな事、初めてで……いや、えと、元はといえばあたしがあの人を連れて来たから」
「サヨさん」

片膝を付いたにゃんこ師匠が、サヨの肩にぽんと手を乗せた。

「まずわたしを見て、ゆっくりと息を整えにゃされ。あの男に関して貴方が責を負う事も、またわたしがそのように感ずる事もにゃい」
「あ、はい、あの……ありがとう、ございます。あたし、助けられたんですよね」

ほんの一分にも満たぬ戦闘の合間、サヨは鈴木がこちらを狙っている事に気付いていた。
にゃんこ師匠はサヨを守る為に人を殺したのだという事にも。
老剣士は頭を下げるサヨに向かってゆっくりと首を振った。

「礼には及びません。何となれば、いざという際には貴方を見捨ててあの男を斬る腹積もりであった故。貴方が助かったのは偶々です」

下手な嘘だと思った。常に相手の瞳を見てはっきりと話す老人が、この時ばかりは目を伏してぼそぼそと喋ったからだ。
サヨが答えあぐねていると、彼は血溜りの中のスーツケースを拾い上げ、中の札束を一掴み取って懐に仕舞った。
そして残りを取り出し、サヨの目の前に積み上げる。

「あの、このお金は」
「死人には無用の長物故、あの男を弔った後は好きにされよ。あの男の申していた主とやらは恐らく方便であろうから、
 追手が差し向けられる事はありますまい。とはいえわたしがここに居てはまた迷惑をかけるやも知れぬ故、すぐに発つとします。
 今までまことに世話ににゃり申した」
「お師匠さん!?そんな、迷惑だなんて言わないでください!あなたがなんて言おうと、あたしの命の恩人である事には変わりません!」
「……いや」

首を振るにゃんこ師匠の金色の瞳に、雁の群れに似た暗い影が過ぎったような気がした。

「本心を申そう。もう疲れたのだ。殺したり殺されたりにうんざりし申した。未熟故に剣を抜かねば物事を解決出来ず、また抜けば斬らざるを得ぬ。これからは誰とも会わず、独りで静かに暮らしとうござる」
「……」

訥々と話すにゃんこ師匠の言葉には、深い憂いと、沼の底に凝(こご)った泥のような疲労感が滲んでいた。
時の重さにゆっくりと押し潰され、泥炭の如く堆積した疲弊を覗かせるその声色を聞くと、サヨは何も言えなくなってしまった。

「……む」

すっくと立ち上がり、サヨに背を向けたにゃんこ師匠は、絶命した男の懐からまろびでた奇妙な物体に目を留めた。
それは小さな円形の絡繰で、短針と長針が文字盤の上に配置され、チクタクと動き続けている。
それが無性に気になったにゃんこ師匠は、吸い込まれるかのように血濡れのそれに手を伸ばした。

望むと望まざるとに関わらず、運命は淡々と秒針を進める。
人ならざる身となった老剣士も例外ならず――さながら修羅道に囚われた亡者の如く、彼は再び殺し合いの渦中に投げ出される事と相成るのであった。