裏第一回戦SS・桜並木その2


こんにちは、あなたも花見を楽しまれていますか。
あれ、そちらはまだ冬でしたか。どうやら時間に少々ズレがあるようです。

今私が桜を見ているのは、東京都台東区上野公園(上野恩賜公園)。
読者の方の中には上野公園を訪れたことの無い方も居られる筈なので、まずは軽く試合空間の説明をさせて頂きます。

上野公園は江戸幕府三代将軍徳川家光の時代に建てられた寛永寺という寺が元になっています。
寛永寺は1868年頃の戊辰戦争の時に焼失し、オランダ医師、ボードウィンの進言により、公園として作り直されました。
その総面積はなんと約53万㎡!現在では動物園や博物館、美術館、野球場、遊園地などのレジャー施設から大学、高校などの教育施設までを内包した巨大な空間になっています。

え?今回の試合空間は『桜並木』で『公園』では無い?大丈夫です。
上野公園は日本の定める『桜名所100選』に選ばれた桜の名所です。歌川広重が花見風景を浮世絵にしたこともあります。

最後に試合空間にある公園内の施設や地形を紹介します。

☆時の鐘
環境省によって『残したい日本の音風景100選』に選ばれている。
松尾芭蕉もこれに関する歌を詠んだらしい。
今試合はここを中心にして四方500mの試合空間を設ける。

☆不忍池
上野公園の南西に位置する池。
春は周囲を桜に埋め尽くされ、夏には大量の蓮が生い茂り、冬には渡り鳥や鴨が多く集まる。
水鳥は普段からそこそこいる。

ダラダラと書いてきましたが、池と歴史と桜並木のある公園をイメージして下されば結構です。
それでは試合を開始します。

【裏 第二試合 リュネット・アンジュドロー vs 廃糖蜜ラトン】
場所:桜並木(上野公園の時の鐘を中心とした四方500m)
時代:現在に限りなく近い過去
季節:春
時間帯:夜

■■■■■

黒く塗りつぶされた夜空の下、雪洞から漏れる仄かな明かりが桜を幻想的に映し出していた。
シートに座り込んだ人々は夜桜を見ながらコンビニで買ったスナック菓子をつまみながら酒を飲んでいる。
彼らの背後、時の鐘があった筈の場所に現れた鐘塔が現れたが、それを疑問に思う者はいなかった。
塔と同時に現れた男が奇妙な楽器による演奏を始めるまでは…

ーーーーー

少女、リュネット・アンジュドローは試合空間に到着すると、敵が近くにいない事を確認して考え事を始めた。
目の前の試合の事を考えているのでは無い。自分が闘いに身を投じる理由、シスターセシルの事だけを考えていた。


自分の極められたメガネ=カタなら並大抵の相手に負けることは無い。しかし、万が一自分が負けるような事があったなら、どうなるだろう。
シスターセシルに会うことは二度と出来ない。
それどころか彼女に罪悪感を残してしまうかもしれない。自分は彼女の為に戦うと本人に言ってしまった。
自分が教会に帰らないような事があれば、セシルはどうなる?
悲しむ?後悔する?怒る?
認めない、絶対絶対認めない。
そんなことがあってたまるか!


リュネット・アンジュドローは夜の冷えた空気で興奮を収め、自らの行いを省みていた。
そして同時に闘志に満ち溢れていた。

その紅い目は今、宛ら狩りを行う動物の如く爛々と輝き、その幼い身体と頭脳は何時現れるか分からない対戦相手を求めて火照っていた。

桜の木の枝に登り、『美しきロスマリン』で作った水の花弁を身体に纏わせて桜の一部に擬態する。
これは研究所で仕込まれた蟹因子《モクズショイ》のカムフラージュ能力が導き出した行動だった。

次に、目を凝らして暗闇の中を索敵する。彼女の目には夜行性の海鳥《アカメカモメ》の暗視能力が備えられていた。暗闇も昼の光も彼女には殆ど変わらない。

索敵を始めて約10分。リュネットは暗闇の中に大きな西洋風の石塔を見つけた。
塔の真正面には木造の寺がある。和と洋、木造と石造、見るからにアンバランスだった。

桜の木の枝から木の枝を伝って、音を立てないようにしながら石塔に近づく。

…?
何か音が聞こえる。とても柔らかく、繊細で尚且つ深みのある音。
音のする方を確認しようと身を乗り出すリュネットだったが、次の瞬間を堪え難い目眩と吐き気に襲われた。

「何が…起こってるの?」

風邪を引いたのでは無い。彼女は研究所による身体実験の結果、病気を物としない肉体を得ていた。
風邪を引く兵器など使い物にならないという理由からだ。

それでは何故このような状況に陥ったのか。考えを巡らしていたリュネットは桜の木の根元の柔らかい土に倒れた。

再び木に登っている暇は無い。リュネットは桜の花弁状にしていた水を普通の水に戻した。
「美しきロスマリン…」
身体に雑草そっくりの水を纏い、今度こそ音のする方向を確認した。

そこには泡を吹いて倒れ伏す何人もの花見客と、透明なバウムクーヘンのような物体を弄る男、「廃糖蜜ラトン」が居た。

ーーーーー

廃糖蜜ラトンが弄っていた物体。
それは《悪魔の楽器》の異名を持つ楽器『アルモニカ』だった。


アルモニカとは18世紀に生み出されたガラス製の楽器である。
この楽器から響き渡る美しい音色に発明された当初は絶賛された。
しかしこの楽器を演奏した者の殆どが精神に異常をきたして死ぬという事件が起こる。
やがて政府がアルモニカの使用を禁止し、連続怪死事件は幕を閉じた。
今でも演奏した者が怪死した原因は不明だが、その秘密は音色にあるのだろう。音が身体の機能の一部を損なわせるのだ。
ラトンはそう解釈し、手に入れた資料から、より大きな、精錬された響きを生み出すアルモニカをその手で再現していた。

彼の解釈は当たっていた。新しく作ったアルモニカを演奏すると、彼自身、だけで無く、周囲の聴衆すらも頭痛を訴えるようになった。
元のアルモニカでは足りなかった音量が増幅されたことによる効果範囲の拡大である。
体内に仕込まれた楽器で裏譜面を演奏することで、自身への影響を軽減することも出来るようになった。

これで敵を気絶に追い込む事が出来れば、決着は一瞬でつく。
次々と倒れていく花見客を見ながらラトンはそう考えていた。

彼の靴がぬるい水に浸るまでは。

「水だと…何処からだ?」

彼の疑問が解決する前に、水と一緒に流れて来た桜の花弁がアルモニカに触れた。
ガラス楽器がその場で霧散する。

「敵の仕業か?」
ラトンはカリヨンから楽器を取り出しては気絶している花見客に握らせ、無理矢理演奏させた。

そうしている間にも水嵩は少しずつ増していく。

ーーーーー

リュネット・アンジュドローは能力で水の植物を生み出しては水に戻していた。
これなら具合が悪くて寝たままの彼女にも可能だ。

そして本物の桜の花弁が浮いている中に、能力で作り出した偽の花弁を混ぜ込んでおく。
可能性は低いが、敵がもし悪魔や死人であったならば、これで十分なダメージを期待できる。

期待は思った物とは違う形で叶った。
先程まで謎の男、たぶん対戦相手の廃糖蜜ラトンが触っていた物が消失し、音が聞こえなくなった。
少しずつ身体が楽になっていくのを感じる。
能力の使用による水の生産を続けながらラトンを観察する。
彼は少なからず動揺しているようだった。なにやらせわしなく動き回っている。

体力が殆ど回復した時、周囲の地面は大人の足首が全て沈むほどの水で覆われていた。


リュネットが再びラトンの方を見た時、そこには異常な光景があった。
彼女が何を見たか。
そこでは口元から泡を垂らした花見客の一団が様々な楽器を演奏していた。
いや、ただ演奏しているだけならまだ良い。
彼らは皆尋常ならざる筋肉を持ち、異常に速い指の動きで演奏をしていた。
顔は気絶した時のまま白目を向いている。怖い。

ラトンは目を瞑って指揮棒を振るっている。

やるしか無い。先手必勝!リュネットは木陰から飛び出した。

ーーーーー

不気味な音楽団に向かって幼女が走った。足が大分水に沈んでいるが、普通の地面を走る大人より速く進んでいる。これは彼女の持つ「海のメガネ」の効果だ。
「海のメガネ」は水中での戦闘を可能とする。この効果は浅瀬での戦闘にも及んでいるのだった。足が水に浸かっていても彼女の動きが鈍ることは無い。

指揮者も彼女に気がつく。指揮棒を振るリズムを変えると、彼の能力に操られた音楽団は一斉に幼女の方を向いた。
そして彼らは幼女に襲いかかった。

廃糖蜜ラトンの能力『アリデキリギリス』は自分の作った楽器を演奏した者に自分の思うがままの演奏を強制する能力である。
つまり、自在に演奏を台無しにさせることも可能だ。例えば「演奏中に変な方向を向く」「演奏中に変な所に動く」「演奏中に楽器を振り回す」などのように。

マラカスを持ったサラリーマンが、バイオリンを持ったOLが、シンバルを持ったお爺ちゃんが、リュネットに飛びかかった!

リュネットは手から水の蔦を生み出し、これを鞭のように扱い、近づいてきた彼らを引っ叩いた。
これだけではいくら魔人の攻撃でも大した威力にはならない。しかし隙は生まれる。
元より彼女以外の人間には動きづらい水の中、体制を整えることが難しい。
身体のバランスを崩した彼らに、リュネットはメガネ=カタを叩き込んだ。
気絶する程度の威力だ。命は取らない。

サクソフォンを持ったお嬢様が、ホイッスルを持った執事が、リコーダーを持ったご主人様が、リュネットに楽器を投げ付けた!

リュネットはこれを回避、彼らにメガネ=カタを叩き込んで倒す。

カスタネットを持ったアイドルオタク、外人、オカマ、猫がリズムと情熱を込めたフラメンコを踊りながらチームワークを活かしてリュネットに突撃した!

水嵩がいよいよ高くなり、フラメンコをする足が絡まり自滅!

残るは指揮者、廃糖蜜ラトンだけだ!

と、そんな簡単に事は進まない。
リュネットが気絶させたと思っていた音楽団は皆嘔吐しながら立ち上がっていた。
そして再びリュネットに挑む。

海鳥のステップで回避、蟹の堅さで防御、メガネ=カタで攻撃。

しかし音楽団は何度でも立ち上がる。
情熱は終わらない!
演奏が止まらない!
これが「アリデキリギリス」!
音楽の奴隷達は、自らを顧みない!




リュネットは彼らを殴り過ぎた。いくら肉体を強化されているとはいえ、彼らは結局一般人(猫)。
無理矢理演奏させられているだけであり、肉体に蓄積したダメージも深刻だった。

肉体が死を迎えた。それでも演奏は終わらない。
死人の身体に水の鞭が打ち込まれた。
身体が消滅する。

リュネットはいつの間にか夢中になっていた。
終わらない演奏や情熱が彼女をそうしたのか。
だから、自分への攻撃が止むまで周囲が静かになって行くのに気がつかなかった。
自らを潰そうとする巨大な影に気付くのも遅れた。


あなたは自分が知っているなかで一番巨大な楽器を尋ねられた時、何を思い浮かべるだろうか。
ラトンの持つ楽器の中で一番大きいのはパイプオルガンだった。
それは教会1つを覆うのに十分な大きさがあった。

これがカリヨンの中の異次元空間から空中へ召喚され、リュネットのいる場所へ落下したのだ。

舗装された道が砕け、土煙が舞う。


水の翼を背中に生やした幼女が煙の中から飛び出して場を離れた。
彼女の左腕は失われていた。

ーーーーー

蟹などの節足動物やトカゲの仲間は差し迫った状況において自切行為を行う。
つまり、自らの身体の一部を切り離して囮にし、本体は逃げるということだ。
彼らの自切した部位は時間が経てば再生される。
リュネットの場合も同様だ。
蟹の因子が彼女に与えたのは頑丈さや背景に隠れる技術だけではなく、再生能力も含まれていた。

「うう…油断した…」
連続で行われる弱攻撃に気を取られて蟹の堅さをものとせずに押しつぶす超質量攻撃を食らうとは。
気付くのがギリギリになったため、回避が間に合わず左手を潰されてしまった。
自切による左腕切断の為、出血や痛みは無いに等しいが、戦闘に影響が出ることは明白だった。

「セシル…」
大切な人の名を呟く。
そうだ、負ける訳には行かないんだ。

二度と油断はしない。
完璧な手段で、二度と攻撃を食らう事なく敵を倒す。

彼女は自分のホームグラウンド、自分の能力で作り出した物ではない水場、不忍池に向かった。


ーーーーー

「帰ってきそうにはない、か。」
廃糖蜜ラトンはパイプオルガンを異次元空間に戻してリュネットが死んでいない事を確認すると、残された彼女の左腕を拾った。
まるでパイプオルガンに左腕以外の全身が潰されたかのように置いてあった為、遠目では死体の一部に見えたのだ。
近くで見ると腕の根元ではなく手の平が潰れていた為、細工された物だということは分かったが…
「水を使う魔人だ。まあ、多分池の方に行ったんだろうね。」
小さな左腕からアームカバーを外す。
そして彼は、じっくりとそれを観察した。
「へえ、そういう事か。」

ラトンは何かに納得すると、カリヨンから新たな楽器を次々に取り出して他の花見客を探し始めた。

ーーーーー

不忍池の水面に顔を出して、リュネットは敵を待ち構えていた。
蓮がびっしりと池の表面を覆っている。
能力で作った水の蓮だ。
少なくとも池の水があれば、陸よりも多くの水を操ることが出来る。
陸上では『美しきロスマリン』で1度に扱う事の出来る植物の量に限りがあった。
これは水を生み出す→植物の形に変える→操るというプロセスが必要だからだ。
しかし、元から水があれば話は別である。
今の彼女は池の水全てを操ることが出来る。

メガネ=カタはもう必要ない。
能力だけでケリをつける。

ーーーーー

ラトンと彼が新たに結成した音楽団が不忍池に向かうと、そこはまるで異世界のようだった。

蓮の花は直径20メートル以上の大きさを持ち、頭上高くに聳えていた。
花の一つ一つが大きな桜の木に見える。
そして葉はまるで森のように茂っている。当然これも高い場所に聳えている。

巨大な蓮の花がハンマーのように振り下ろされる。材料は水だが、花の形を取り、空中で霧散するようなことは無い。
桃色の大質量の雨がラトン及び彼の音楽団を襲った。

ラトンを先頭に逃げる音楽団だったが、最後尾のおじさんが花に潰される。
すると彼の元に琴を持った天女が現れ、彼の魂を導いて成仏させた。

蓮といえば仏教!『美しきロスマリン』が宗教の壁を越えてより強い聖なる力を引き出したのだ。彼の魂は救われた!

蓮の中には睡蓮も混じっている。そしてこいつもラトン達を襲った。

この花に、次に最後尾となったおばさんが潰される。
睡蓮は英語でウォーター・リリー。リリーといえば百合、百合といえば大天使ガブリエル!
キリスト教由来の聖なる力も呼び出される。
ラッパを持った天使が降臨、おばさんの魂を導いて天を昇る。彼女の魂も救われた!

「ここは極楽か何かかな?」

凄惨とも聖的とも取れる光景の中にラトンは池に背を向けてただ立ち止まっていた。

彼の真上からは巨大な蓮が迫っていた。

ラトンに向かって落ちて来た蓮は彼に衝突するスレスレで運動を止めた。
そこに響き渡る筈だった骨肉の潰れる音に代わり、ミ"ョーーーンという電子音がその場で鳴り響いていた。蓮はゆっくりとラトンから離れる。
新しい花が次々に振り下ろされた。
ミ"ョーーーン
ミ"ョーーーン
ミ"ョーーーン
やがて、池に咲いていた巨大蓮及び巨大睡蓮の半数以上(10輪)が彼に対する攻撃を止め、他の蓮からの攻撃を防御した。

ラトンの手元には小さなアンテナの付いた楽器が置かれていた。

その楽器の名は《テルミン》
身体との接触を必要とせず、奏者の手と楽器の距離を変化させる事で演奏する特殊な電子楽器である。
ラトンは延長コードを伸ばしてカリヨンに繋がった状態でこれを運んできていた。

「リュネット君、もしも君が陸にいたなら、延長コードを切るという選択肢が浮かんだかもしれない。そうしたら私に為す術は無かったね。
でも君はそれをしなかった、出来なかったのかな。」

地上60メートル。巨大な蓮の葉の上でリュネットは震えていた。
ラトンが楽器を隠し持っているのをみのがしていたのだ。
実際、小型化されたテルミンはラトンの服の中に隠され、使用する直前もラトンの背中が邪魔でその存在に気がつかなかった。延長コードの黒色は夜の闇に隠れて暗視能力をしても遠くからの見つけるのは困難になっていた。

「それじゃあ今度こそ食らってもらおうか」

ラトンの声の後、リュネットの乗っていた葉の上に大質量の花が降り注いだ。リュネットは思わず能力を解除する。
リュネットの乗っていた葉、降り注ぐ花、全てが水に戻る。
ラトンによる強制演奏も対象があやふやになった為止まった。

片手で良い。メガネ=カタで決着を付けよう。メガネ幼女は決心を固めて水の翼を背に生やした。

空中で1度動きを止め、狙いを付けて急降下



出来なかった。いくら能力を解除しても、降り注ぐ水の質量は変わらない。
空中で動きを止めたリュネットに大質量の水が衝突。翼の折れた天使の如く、水面に撃墜した。

ーーーーー

強烈な衝撃を小さな身体で受け止めたリュネットにラトンを倒す力は残っていなかった。

「嫌だ、死にたくない。セシル、助けて、嫌だよ。痛いよ、セシル。
ねえ、セシル、会いたいよ。寂しいよセシル。
嫌だよ、ねえ
セシル」

涙を流す幼女に、音楽家が近づく。
その手には体内の楽器と共鳴して高速振動する指揮棒が握られていた。

「嫌だ嫌だセシル会いたい嫌だよ死にたくないセシル嫌だ痛いセシル嫌だ嫌だ嫌だ嫌セシル寂しいだ痛い痛い痛い痛セシル痛いセシルセシル会いたいセシルい痛い」

指揮棒がリュネットの髪に触れると同時にバラバラと切り落としていく。

「これは、ほうほう。なるほど。」

ラトンは切り落とした幼女の髪を指で触り、目に近づけてじっと見つめ、何本かを口に含むと満足そうな声を出した。

「さっきの腕とこの髪の毛の質感、構造、味、……蟹と鳥、多分海鳥か。」

ラトンはリュネットの人間以外の因子を感じ取っていた。

「これは、面白い楽器になりそうだ。特にこの髪なんて擦ると良い音がする。骨や内臓もきになるなあ」

「嫌だ痛いセシル寂しい会いたいセシル痛いセシル寂しい会いたい嫌だ痛い死にたくない」

泣き叫ぶ幼女にラトンは笑顔ではなしかけた。

「そうか、死にたくないか。」

リュネットは涙と漏れる声を抑えて何度も頷いた。
ラトンは笑顔のままテキパキと彼女の髪の毛を切り取った。

「私、廃糖蜜ラトンは今度、知り合いの結婚式を見に行くつもりなんだ。」

目の前の男が何を言い出したのか分からず、リュネットは泣くのを止めた。

「この試合を全て終えないといけないけどね。」

ラトンは髪を切るのを止めた。笑顔から真剣な顔になる。

「そこで素晴らしい音楽を演奏して見せたいんだけど、僕には知り合いが少なくてね。演出面がどうも頼りないんだ。君は蟹と海鳥と通じるものがある。精神的なものではなく、肉体的なものでだ。蟹や海鳥には求愛のためにダンスをする種類のものが幾つもいるからね」
ラトンはリュネットの目をじっと見つめた。

「君にダンサーをしてもらいたい。
すぐにダンスを覚えろとは言わない。
期限は10年だ。もし私がこれから試合に勝ち残ったとしたら、10年後に君を迎えに来る。
それまでに僕の満足できるダンスが出来るようになっていれば、報酬として僕の出来る範囲で願いを叶えよう。」

ラトンの持ちかけた取引にリュネットはコクコクと何度も頷いた。

「それじゃあまた会おう、君が一流のダンサーになっていなかったなら一流の楽器素材として迎えに来るよ。」

リュネットのアームカバーに取り付けられた時計を取り外し、ラトンは去っていった。それと同時に巨大な鐘塔は一度音を鳴らして姿を消した。


次の日の朝、リュネット・アンジュドローは警察に身元を保護された。
昨晩の上野公園で起きた凶悪な殺人、傷害事件の重要参考人だった彼女は丁重に保護され、彼女自身は酷い傷と怪しい男が出没していたという花見客の証言から事件の被害者ということで処理された。

まだ、セシルに会うチャンスがある。
それで十分だ。
ごめんねを言おう。もう二度と居なくならないと約束しよう。
いつまでもずっと一緒にいよう。
家族になろう。

だからあたしは頑張る。

待ってて、セシル。


■■■■■

リュネット・アンジュドロー、その真っ直ぐな気持ちは大切な人に届くでしょう。
きっと彼女なら、私は信じています。

私の大切な人、廃糖蜜ラトンもあなたを信じているのですから。

最終更新:2014年11月24日 19:34