月光に淡く照らされて、暗い水面に金波銀波が煌めいた。
アメリカ合衆国カリフォルニア州フロリダ湾。そこには三つの島が浮かんでいる。
トレジャー島、エンジェル島、そして――アルカトラズ島。
アルカトラズは監獄島。
島の高台に佇む白亜の州立刑務所。それが今宵、迷宮時計に選ばれた二人の戦いの場であった。
深い静寂が監房を包む。
房内では三組の二段ベッドに六人の囚人が眠っているが、彼らの寝息や鼾一つ、この場に
響くことは無い。完全な無音であった。
シーン。
その擬音がまるで漫画のごとく、虚空に貼り付けられて浮かんでいた。その擬音がまるで漫画のごとく、周囲の空間から音を消し去っていた。
皆が眠りこける中、無音の世界で動く影があった。薄っぺらい囚人服に身を包み、口にペンを咥えた男が房内を物色している。
迷宮時計に選ばれた一人、梶原恵介(本名:山本智樹)。その魔人能力は『G戦場ヘヴンズドア』。漫画的表現や演出、効果を現実世界で行うことが出来るリアル漫画家である。
――脱出用の抜け穴も見取り図も無え……。漫画力の無え奴等だ。
梶原は房内の囚人達に理不尽に吐き捨てた。漫画力とは「漫画的に生きる力」であり、梶原にとっては「如何に漫画力を高めるか」が行動規範の全てだった。自分が何かあってぶち込まれても必ず脱獄してやる、と心中で一人誓いを立てる。
探すことを諦めた梶原は、部屋にあったアメコミ本と煙草を持参したリュックサックに詰め込むと、ひたひたと外に面した壁際まで歩く。
壁にやや背を向け気味に半身で立ち、腰を沈めた。そして……。
鉄山靠!!
一弾と化した全身に震脚からの勁力を乗せ、壁に叩きつける。
その威力に耐えかね、鉄筋のぶ厚い外壁が爆破されたかのように吹き飛んだ。
『拳児』『エアマスター』を擦り切れるまで読み、日々練り上げた功夫の賜物である。
そして、足下の床が陥没する音、壁が粉砕され、建材が散らばる音……いずれも、貼り付けられた静寂をかき乱すことは無い。
――待ってな。善通寺眞魚。
今宵の獲物、もう一人の迷宮時計所持者を求め、サックを手にした梶原が意気揚々と、自ら穿った壁の穴から外に踏み出した時
「逃げよったぞー!!」
所内、どこか別の監房からの叫び声が、その静寂を引き裂いた。
・・・
「逃げよったぞー!!」
その叫びは当然、善通寺眞魚のものであった。魔人肺活量が為せる大音量の咆哮である。
ここはアメリカ、即ち英語圏であり、善通寺の叫びの意味は殆どの者にはわからないのだが、とにかくその叫びは同房、同監舎の囚人達を叩き起こし、夜間巡回をしていた刑務官達を呼び寄せた。
一分程で施錠されていたドアが開き、警棒を手にした黒人の刑務官が踏み込んでくる。刑務官は明かりをつけ、照らし出された房内を見回した後、興奮した様子で言った。
「Who shouted!?」
房内、寝起きで混乱した様子の囚人達にそう問う刑務官の横を、善通寺は擦り抜けていった。彼の姿は、刑務官や囚人達の目には映っていなかった。
ドアを通り、古い電灯の光る薄暗い廊下へと飛び出した。
同じ制服姿の刑務官がさらに二人、廊下の向こうから駆けてくるが、彼らにも当然、善通寺の姿は見えない。
透。
彼の衣服と身体には墨でそう書かれていた。魔人能力『筆を選ばず実ちて帰る』の一端である。対象に字を書くことで、それが持つイメージ、言霊を刻み、効果を発揮させることが出来る。
彼はそれを自らに対して使った。彼を目にした者は姿を認識するより先に、「透」イメージを網膜に焼き付けられ、結果的に「透明なもの」として見てしまうのだ。
現実を書き換える、それが魔人能力の基本ではあったが、梶原と善通寺、今宵迷宮時計に引き寄せられた二人のそれは殊更よく似ていると言えた。
足音を立てぬよう、二人の刑務官が通り過ぎるのを待って、善通寺は再び駈け出した。先程の黒人刑務官が監房の囚人達に(意味はわからないが)罵声を浴びせるのが聞こえてくる。
外の世界を掻き乱すことを嫌う彼にとってはこれが最良の脱出手段だったわけだが、それにしてもあそこの囚人達には悪いことをしたかも知れない、と些か胸を痛めつつ歩を進めた。
――ん? 何じゃ……。
彼の前方二〇m程先、丁字型に接する廊下を刑務官が三人ほど、慌てた様子で走り抜けて行く。
――ワシがおった部屋で騒ぎがあったゆーに、あん人ら、どこへ行こうと言うんじゃ……? ああ……。
一瞬考え、すぐ答えに行き着いた。彼らが向かう先でも、恐らく似たようなことがあったのだろう。そして、そちらの騒ぎを起こした者が誰か、知っているのは善通寺だけ。その者の名は……。
――山本智樹
迷宮時計が伝えたのは、本名の方だった。
・・・
「ぬわっ!?」
ちょうど外に出たところで響き渡った日本語の叫びに、梶原の額に冷や汗(漫符)が浮かぶ。
穴の向こうを振り返れば、ベッドで眠っていた囚人達がモゾモゾと動き、目を覚まそうとしている。そうなれば当然穴に気づくだろうが、彼らを一瞬で眠らせることは不可能だ。ならば……。
――ベタ!! そして「シーン」!!
房内が一瞬で、外とは比較にならぬ濃い闇に包まれた。空間をベタ塗りする、梶原も多用する漫画技法である。そして闇の中には再び白い擬音文字が浮かび、周囲を無音にしている。
闇に包まれた房内では目を覚ました囚人達が届くことのない困惑の声をあげていることだろう。恐らくそれでも稼げる時間は短いだろうが、その間にこの場を離れねばならない。
梶原は辺りを見回した。梶原が出たのは建物の外縁部分だが、窓から見えていた通り、その周りを高さ五m程の塀がぐるりと囲っている。
梶原がすべきは、無論塀を乗り越えての脱獄では無い。そんなことをすれば即座に失格である。
ならば足で善通寺を探すか? 否、あの騒ぎの後だ。刑務官に遭遇する可能性が高い。澤がドン・キホーテで買ってきた囚人服は思いの外ここで採用されているそれによく似ていたが、この状況で見つかっては誤魔化す余地などあるはずも無い。
ここがどこの刑務所か梶原は知らないが、確実に日本国外(アメコミがあったので恐らくアメリカだと考えている)だ。
刑務官が銃を所持しており、脱獄犯を発見すれば警告なしに発砲、或いは魔人能力で攻撃してくる危険性は考慮に入れておくべき――対戦が決まってから読み漁った数々の刑務所漫画が、梶原にそういった脱獄犯的思考力を与えていた。
――なら……。
梶原は次に取る行動を決めると、まずリュックサックを片手で無造作に放り投げた。建物の高さは二〇m程。吸い込まれるように打ち上げられたリュックサックは放物線を描き、その屋上へと落ちる。
――屋上に警備はいねえみてえだな……よし。
梶原は塀ギリギリまで下がると、スピード線をつけ、壁の穴に向かって全力疾走、そして……。
シーン。
『瞬間……青年……跳躍!!』
壁の三歩手前、声にならない掛け声と共に、跳んだ。
――文太郎! シコルスキー! カカシ先生! 俺に力を!!
名立たる登頂者達と脳内でシンクロし、梶原は迫る壁へと挑む。つまりは、屋上まで這い登ろうと言うのだ。
――カカシ先生? 忍者? そうだ!!
その名が頭に浮かんだのは『NARUTO』での「崖登りの行」が印象深かったからだが、引き延ばされた意識の内、肉体同様に飛躍した梶原の思考はクライミングよりもっと適した、壁を登る手段へと行き着く。
――走って登りゃあ早いじゃねえか!!
鍛え上げたボディバランスにより、空中で姿勢を制御、右足から壁へと踏み込む。
――両足にチャクラを、波紋を集中!! 行くぜ!!
梶原恵介、重力の壁に挑む。
一歩! 二歩!! 三歩!!! チャクラや波紋はともかく、梶原は鍛え上げた脚力で跳ねるように駆け上がった。『喧嘩稼業』に倣った五本指ソールも幸いし、爪先での踏み込みを十全に活かすことが出来た。
二階部分を走りぬけ、三階に達する。そのまま一気に屋上へ――。
――うっ……ぬ、おっ!!
しかし現実は厳しかった。
三階半ば、頂上まであと三m程のところで重力が勢いを上回り、体勢が崩れ、足が壁から浮いてしまう。
――ジャンプで五、六mは稼いだはず!! 一五mまでなら問題……無……!!
問題は地面を蹴る角度、重力のかかる角度であった。とにかく、垂直に二〇m駆け上がるには、梶原はまだ功夫が足りなかった。
――諦めるな!! 功夫が足りねえなら……漫画で補え!!
自身に「ギャグ漫画補正」を付与。羽撃くように動かすと、崩れかかった体勢が前傾になり、壁に前のめりの状態となった。ギャグ漫画の住人は高所から落ちそうな時、頑張ると空中で少し動けるのだ。
無論、そのままでは文字通り手も足も出ない。だが。
――ぬらああっ!!
いつも咥える愛用のペン――雷。それをまるで啄木鳥の如く、壁に突き立てた。どれほど使っても摩耗しない、無限の強度を持つペン先が勢いそのままコンクリートに刺さる。
――漫画力の、勝利。
梶原は三階の窓枠に足を掛け、力強く蹴るとその勢いで屋上へと這い上がった。
「ふう、余裕過ぎた……敗北を知りたい」
無人の屋上へ辿り着くと、梶原はそう声に出して地上を見下ろす。監房の穴からは光が漏れている。刑務官もすぐにやってくるだろう。少々危なかった。
「なるほど、島なのか。ここ」
塀の向こうに広がる光景に、梶原は微かに潮の匂いがしていた理由を知る。
刑務所のある高台の麓には恐らく刑務官など管理者のためであろう民家くらいの建物が数棟並び、沿岸には小さな港があった。
そして、湾を隔てて数km先には本土――大都市サンフランシスコのきらびやかな街並み。
しかし今の梶原にとって、塀の外は頭に入れる必要の無い世界だ。海風や波の音に潮の匂い、夜景を楽しむ暇は無い。外を見渡すのをやめ、反対――刑務所の内側へと向き直った。
善通寺はまだ発見できていないが、梶原は地の利を得たと言えた。こちらから先に発見できる可能性は高く、また、邪魔者の刑務官も、脱獄犯(では無いが)が屋上へ上った、とはそうそう考えないだろう。
今の梶原を見下ろせるのは、空飛ぶ鳥くらいだ。
「鳥……ん?」
まず気づいたのは、音。
初めに轟音、そして羽音が続いた。
「なんだ、あれ……?」
音のした方、中庭に面した二階廊下の外壁に、先程自分が空けた以上の大穴が空き、そこから黒い、巨大な鳥影が翼を広げて夜闇の中に飛び立った。
たった一羽のその羽音が、あたり一帯に轟いた。
その鳥は二、三度の羽撃きで隼の如くに上昇し、屋上より更に高い場所へと到達すると、その空域、ちょうど梶原を斜めに見下ろすような位置に留まった。
――こいつぁ……。
現れた影に梶原も息を呑み、見上げる。
月を遮る黒いそれは体高五m、翼長八mにも及ぼう。空を飛ぶにはあるまじき巨体。よく似た実在の鳥との違いは、脚が三本あることだった。
梶原も漫画で見覚えがあった。
霊鳥、八咫烏。
『ケェアアアーーッ!!』
太陽の化身とも伝えられる鳥だが、闇に溶け込むその体、夜気を裂く不吉な嘶きは、むしろ今にこそ相応しい。
闇色の双眸は梶原に向けられている。この烏は、夜目は十分に利くようだ。
「へ、へ」
唐突に現れたこの怪鳥と対峙し、しかし梶原の口元には笑みがあった。
この状況を作った人物は、まず間違いない、善通寺眞魚だろう。
熊、牛、虎……猛獣と戦った武術家の逸話は数多いが、このような怪物と戦うことになるとは思わなかった。
――この化け物に変身する能力? それとも召喚する能力? まあ、何にしても……。
「感謝するぜ、善通寺」
アイザック=ネテロの如く、心で祈り、拳を作る。烏がどう仕掛けてくるか、タイミングを測ろうとした時。
「Look roof!!」
「Who`s that!?」
突然の声が、張り詰めた空気に水を差した。声のした方、斜め下に目をやれば、先程烏が飛び立った大穴から刑務官達がこちらを見上げている。
恐らく烏を目で追って、屋上を見やったのだろう。彼らが何と言っているのかわからないが、明らかに梶原の存在にも気づいている様子で、こちらを指差し、無線で何かを伝えている。
その光景に梶原の笑みは苦笑いへと変わり、そして烏へと向き直った。
「おいおいおいおい……不味くなってきたなぁ。
あいつら来る前に、仕留める、か」
――やれやれ。
避けたかったが、結局こうなってしまった、と善通寺眞魚は八咫烏の背で溜息をついた。刑務官より先んじようと壁に描いた絵を部屋から出てきた刑務官に見せて実体化させ、背に乗って飛び立ったはいいが、敵が屋上にいるとは……。お互い考えることは同じだったようだが、それが都合の悪い方に作用してしまった。
屋上の男、山本智樹は“やる”つもりのようだが、あと一、二分程で恐らく銃を携えた刑務官が上ってくるだろう。自分はそれまで目に見えぬまま宙に留まっていれば梶原を一方的に不利な状況へと追い込める、が……。
――ほりゃあちっくと、無いじゃろ。
無関係な他者への被害を最小に留めるためなら、卑怯な手くらい迷わず使おう。だが無関係な他者を尖兵とするなど、断じてあってはならない。
「来る前に仕留める」――たった今敵の発した言葉だが。
――考えることは同じかね。
梶原を見下ろしたまま、脳内で勝利への道筋を立てた。「とめ」を書き込んで動きを止め、「縛」で絵に封じられないまでも拘束し、八咫烏に掴ませて塀の外まで運ぶ。
山本に向かい、まずは、と小筆を向けた時。
――む?
山本が咥えたペン、その先端がすう、と持ち上がる。その指すようなペン先は、烏よりも僅かに上、透明のはずの自分へ向いていた。
「見えてるぜ、影」
「っ!?」
「透」で誤魔化せるのは直接の視認のみである。遮る物の無い屋上へと夜空の月が降ろした影は、烏に跨る善通寺の輪郭をもはっきりと描き出していた。
――失敗した!
ならば、と跨る八咫烏に直接飛びかからせようとした、その時。
漆黒、その中に走る眩い閃光が視界を貫く。
「なっ……?」
善通寺が声を発したのは、目眩ましを喰らったからでは無い。
空を舞う愛騎、八咫烏がそれを受けたのと同時、消失したからだ。
絵より生まれた彼の僕は、傷つき、汚れ、絵の体裁を失うと消滅する。墨一色に塗り潰された世界の中で、墨絵の八咫烏は存在を保てず周囲に溶けてなくなったのだ。同時に自身に書き込んだ「透」の字も、同じ理由で消えていた。
翼をもがれ鎧を剥がされ、善通寺は宙へ投げ出された。
「何?」
ただの闇夜に戻った中、目眩ましのベタフラッシュが招いた思わぬ結果に、梶原自身も目を見開いた。
巨大な烏が消えてなくなり、白衣を纏った男――間違いなく善通寺――が屋上へと落下してきた。受け身を取ってはいるが、あちらにも不測の事態だったようで、明らかに動揺している。
――なんだか知らんがとにかく好機!!
梶原は膝立ちの善通寺へ一足飛びに距離を詰める。
勢いそのまま、顔面へのサッカーボールキック!!
「ぐっ」
「ぬ」
不利な体勢に見えた善通寺だが、背にした大筆の毛先を地面に着け、軸として巧みに身を躱す。梶原の蹴りは間一髪のところで空を切った。
古武術の“居捕り”にも似た、書道に多い座位での護身術である。
――やるな。
梶原はまた笑みを浮かべる。
梶原の蹴りには“次”があった。間髪入れず伸び切った蹴り足を捻り、膝のスナップを効かせて踵で後頭部を狙う――“掛け蹴り”!!
「がっ!!」
今度は命中!! ヘッドホンが吹き飛び、善通寺は引き込まれるかの如く前のめりに姿勢を崩した。
本来威力を期待できる技では無いが、スピード線で加速した後頭部への打撃である。数瞬意識を混濁させ、梶原が更に“次”を放つ十分な隙を与えた。
「立ちな」
梶原は足の指で器用に善通寺の前髪を掴むと、蹴り上げるような勢いで引き起こし、立ち上がらせた。
再度のサッカーボールキック、踵踏みつけ、髪を掴んでの膝蹴り――“必殺”に近い蹴りの選択肢がありながら、何故梶原がそれをせず、しかもわざわざ立たせたのかと言えば……彼はそこからのみ繋ぐことの出来る、真の必殺技を持つからである。
――何じゃ、構えが……。
立たされた体が後ろにぐらつかぬよう、背の大筆で「とめ」、留まる善通寺。一歩バックステプしつつ上げた脚を戻した山本が取ったのは、見たこともない構え、ボクシングの構えであった。
山本はすぐさまパンチの間合いへ入ろうと距離を詰めてくる。速い。
大筆や絵巻物を抜く余裕は無い。善通寺は左の小筆を繰り出した。
山本は小筆をボクサーのフットワークで回避。そして左ストレートを繰り出す。
――来る! な……!?
善通寺の目を見開かせたのは、迫る山本の拳ではない。背後に広がる夜空、そこに浮かぶ星々がもっと雄大な、そう、大宇宙へと書き換えられていたことであった。
一体何億光年彼方であろうか……星雲、超新星爆発、ブラックホール、地球上から肉眼で見えることなどあり得ぬ光景。それが今、確かに目の前に。
――俺の勝ちだ、善通寺。
梶原の左を善通寺は右掌でガードするつもりのようだが、到底防げるものでは無い。対人、且つ立ち技限定ではあるが威力は鉄山靠を遥かに凌ぐ、梶原最強の必殺拳がその左に宿っているのだ。
黄金の日本Jr、剣崎順に学んだ銀河の幻。
「ギャラクティカファントム!!」
BAKOOOOOOOM!!
大宇宙を背景に放ったその一撃に、善通寺はパンチのベクトルを無視した車田正美的放物線を描き、塀の外、戦場「刑務所」の場外まで吹き飛び――
「ぐっ……」
「間一髪、ぜよ」
――はしなかった。
梶原のギャラクティカファントムは当たりもせず、善通寺に刺さる手前で止まっている。梶原のパンチを止めたもの、それは善通寺の右掌に「絵」として描かれ、そして実体化した白黒の小筆であった。
梶原が善通寺の掌を見た刹那、筆が実体化し、善通寺はすぐさまそれを振るった。梶原の左拳、折った四指には書道で言う「終筆」、その一つ「とめ」が力強く刻まれていた。その力により梶原の突きは止まった。空打ちとなって「BAKOOOOOOOM!!」の轟音だけが虚しく反響していた。
「せりゃっ!!」
「ちっ!!」
空いた胸へ右の「金剛」を撃つより先に、善通寺が左右の筆を交差するように振るった。
梶原はバックステップで回避し、間合いを取る。「とめ」の効力にそこまで持続性は無いようだ。
運動量にそぐわず梶原の息は荒く、多量の汗をかいていた。「ギャラクティカファントム」は絶大な破壊力と引き換えに、漫画力を激しく消耗するのだ。
「何したかったがか知らんが、あそこで蹴っとりゃあ、多分おんし勝っちょったぞ」
「ぬぅ……」
善通寺の言葉に耳が痛かった。無駄に大技に走りすぎ、と澤にもよく言われるのだ。
しかし、梶原にも収穫が無いわけでは無い。善通寺の能力、その全容を今のやり取りで凡そ掴むことが出来た。
絵に描いた物を実体化させる能力、字を書いた物に何らかの効果(字の意味?)を強制付与する能力。
そして。
「……善通寺」
「なんじゃい?」
梶原の続く言葉を遮ったのは、ドアの開く音だった。
共に視線を向ければ、二人の刑務官が屋上に現れる。一人が銃をつきつけ、もう一人が無手のままホールドアップの姿勢を取る。
「うっ」「おん?」
すると、梶原と善通寺、二人の体も各々の意志を無視して全く同じ姿勢になった。魔人能力だろう。刑務所という環境を考えれば、このような能力を持つ魔人刑務官がいるのは当然かも知れない。
「どうする? 山本さん」
「山本じゃねえ! 梶原恵介だ。どうにもならねえな」
『G戦場ヘヴンズドア』を使っても、体が動かないのでは逃げようが無い。能力者を気絶させれば動けるのかも知れないが、向こうもそれを警戒してか、入り口付近から近づいて来なかった。
やがて応援の刑務官も続々と現れ、二人は対魔人手錠をかけられて連行された。連行された先は、所長室であった。
・・・
梶原、善通寺はペンも筆も取り上げられ、再度のホールドアップ状態で所長と面会することとなった。所長、ミツナリ=チェッカロッシは流暢な日本語で自己紹介し、二人にも名を尋ねてきた。
「なるほど、これらがあの……『迷宮時計』」
刑務官に渡された善通寺の時計と梶原の手首を見て、所長は感慨深げに言う。
「知っちょるんですか? 所長さん」
「アメリカのナードの間でも話題だからね」
「ナードって何じゃ? 脂か?」
「『ヒーローアカデミア』や『キック・アス』の主人公みたいなのだ」
「知らんちゃ」
他の刑務官は二人に銃をつきつけた状態だったが、チェッカロッシは柔和な表情のままで更に続ける。
梶原は「なんか前にもこんなことあったな」と思った。
「君達は、我が刑務所にとっては不法侵入者だが、しかし『迷宮時計』の話が本当であるなら、仕方ないことだとも言える。幸い、受刑者にも職員にも怪我人は出ていないしね。警察に引き渡すことはしないでおこう」
「かといって、君達に決着が着くまで好き勝手暴れられる……というのも当然、看過し難い」
チェッカロッシはデスクの日本茶を一口啜ると、こう尋ねた。
「君達、漫画大国日本の国民なわけだが、漫画は読むかね?」
「漫画しか読んだことが無い」
「『きんこん土佐日記』と『おへんろ。』なら読むぜよ」
二人の答えを聞くと、チェッカロッシは部屋の奥にある大きな本棚……その一段目を横にスライドさせ、奥に隠れていた二段目を見せた。
『あしたのジョー』『刃牙』『空手バカ一代』『喧嘩商売』『ホーリーランド』『エアマスター』……etc、数々の日本の格闘漫画が並んでいた。
「私は育ちが日本なのもあってアメコミやバンド・デシネ以上に日本漫画、特に格闘漫画が大好きでね。
そして、格闘漫画の舞台に最も相応しい場は……道場やリングよりも、人間の暴力性をより濃く持つ者達の掃き溜め……つまり刑務所だと、私は思う」
善通寺は「何言ってんだこいつ」という顔だったが、梶原は心中でその言葉に頷いていた。事実格闘漫画にはよく刑務所や犯罪者が出てくる。
「私はね……夢だったんだよ。矢吹ジョーと力石徹、ナルシマリョウ、ジュン・ゲバルにビスケット・オリバ……彼らが演じたような獄中での殴り合いを間近で見るのが……。
それが高じてこの職に就き、『こんなもの』まで密かに作ってしまった……」
チェッカロッシはデスクの引き出しを開け、中から某笑ってはいけない年末番組に出てきそうな赤いスイッチの一つだけついた装置を取り出す。それを押すと、直後、ゴウンゴウンという音と共に、部屋全体が降下を始めた。
満足気な笑みを浮かべるチェッカロッシ、困惑する二人、頭の痛そうな刑務官達を乗せて所長室は下っていく。十秒程で停止すると、入り口と反対に誂えられたドアが開く。そこから覗ける光景に梶原は、所長が自分達に何をさせるつもりか、その意図をすぐに理解した。
ちょうど球場程の広さのすり鉢状空間。客席に囲まれた中央、周囲より一段窪んだ、野球のダイヤモンド程の広さの、砂を敷き詰めたスペース。
「アルカトラズ刑務所地下闘技場だ。存分に死合ってくれたまえ」
チェッカロッシはにんまりと嗤って二人に告げた。
・・・
――三時間後、地下闘技場。
『悪魔の方角ッ!!
マーシャル・コミック・アーティスト!!
ケイスケ=カジワラッッ!!』
「「「「「WOOOOOOOOOO!!」」」」」
副所長のアナウンスに合わせ、割れんばかりの大歓声が場内を包む。
闘技場では年に数度、腕自慢且つ獄中でもトラブルを起こし続ける魔囚人達にこうして試合をさせ、暴力衝動を発散させていた。
魔人同士のデスマッチ観戦は他の受刑者達にとっても一番の娯楽であり、数年前所長に就任したチェッカロッシがこのイベントを導入して以降、所内での暴行やレイプの発生件数は大きく減少したのだった。
今回は半年ぶりのデスマッチ、それに戦う二人は客席を埋める受刑者達にとっても全く未知の存在であり、その興奮も一潮であった。
アナウンスよりやや遅れて、悪魔の方角から梶原が姿を現す。咥えたペンはそのままだが、格好は所長に借りた道着(胸に「漫」と書かれている)に身を包んでいた。直前まで独房で読んでいたアメコミの影響かその描線はいつにも増して太く、筋肉も陰影もかなり誇張気味であった。「僕のヒーローアカデミア」のオールマイトのような雰囲気だ。
『神の方角ッ!!
ジャパニーズ・ショドウ・エクソシスト!!
マオ=ゼンツウジッ!!』
「「「「「HOOOOOOOOOOOO!!」」」」」
梶原の対角線上の通路から、善通寺も姿を現す。普段背負っている大筆を刀のように垂らして手に持ち、絵巻物を幾つか腰にぶら下げていた。
入場した両者が二〇m程の間合いで睨み合う。それに伴って観客のボルテージもますます上昇し、「殺せ」「潰せ」と互いを煽った。
観客席の最下段には、両者を真横から眺める形で所長のチェッカロッシと副所長が並んで座る。
『所長、開始のゴングは?』
「要らんよ」
『え?』
「Already started(もう始まってる)」
その言葉に副所長が二人を見やった時、ちょうど梶原が対角への善通寺に向かって跳躍し、白砂の尾を引きながら宙に弧を描いた。
・・・
跳躍の最高点に達した梶原は、斜め四五度、ちょうど「ライダーキック」の角度で飛び蹴りを繰り出さんとする。明らかに重力を無視した運動、これも『G戦場ヘヴンズドア』の力であった。
対して善通寺は、槍の穂先の如くに大筆を向ける。その筆軸には、大きく「伸」と書かれていた。
――無駄だよ、善通寺。
筆に書かれた字も、これからその筆で梶原に書き込むであろう字も、全て「ベタ」で塗り潰される。
まず、善通寺の大筆が一瞬で黒く染まった。これでもう「伸」の効果は発揮されない。
が。
ノビノビーン!!
筆が伸びた!! 元の倍、槍ほどの長さとなったそれを善通寺は梶原へ振り下ろす。
「なっ……」
両腕を交差し、軸を受ける善通寺。
だが、支えの無い宙では当然圧し負け、そのまま叩き落とされた。
爆煙の如くに砂煙が立ち込め、周囲が白く濁る。
――何故だ!? ん?
打撃を喰らいながら、梶原は気づいていた。
善通寺の振るった筆の表面、その持ち手に近い葉書ほどの一部分が周囲から僅かに浮いて見える。
見えていた「伸」はカモフラージュ。善通寺はもう一つ「伸」を書いた上から色紙か何かを貼り付け、梶原の「ベタ」塗りから守ったのだ。単純だが有効な対策であった。
――なるほど、セコい真似するじゃねえの。
梶原は嗤う。
自分の能力がある程度悟られていたわけだが、それはむしろ喜ぶべきことだった。でなければ戦りがいが無いというのが一つ、もう一つは……。
――どうやら、正解だったようじゃの!
善通寺は自分の読みが当たっていたことに些か安堵しつつ、打ち落とした梶原に追撃をかけようと間合いを詰める。
しかし。
――見えん。まるで見えん……。これも術の内かね?
「よく見えない」のでは無い。立ち込める砂煙が、そこにいるはずの梶原を完全に包み隠していた。しかし、彼我の距離はたかだか数mのはず、通常ならありえない。
善通寺が思った通り、これもまた梶原の『G戦場ヘヴンズドア』の一部。温泉回などで湯煙が局部を完璧に隠してくれる、あの効果の延長上だった。
――消えたわけじゃ無いろう!?
砂煙の向こうの梶原へ、袈裟懸けに筆を振るう。しかし、その毛先は空を切る。
――屈んどるんか!? っ……!!
その一筆で煙が晴れ、隠れていた梶原が善通寺の視界に入る。しかしその姿は、彼の予想外のモノであった。
善通寺の足下……そこにいたのは、大きく腰を落とし、拳を突き出して構えた梶原恵介。
ただし身長六〇cm! 二頭身キャラ梶原恵介!!
――何なんじゃ……おまさんの術は……。
肉体を大幅に変形するこの効果はその間身動きが一切取れなくなり、タイミングを謝れば赤ん坊サイズのまま蹴り飛ばされて即死しかねないのだが、この時においては最良の効果を発揮した。
デフォルメを解除! 元の体格に戻った梶原は、不動のままに善通寺の懐に入り、0フレームで“それ”へと繋げる体勢にあった。それとは即ち――。
発勁!!
「がっ!!」
漫拳に四つしか無い梶原のオリジナルアーツ――心臓に撃ち込む、絶招“金剛勁”。
零距離から放たれた勁力に、善通寺の体はそのまま斜め上方へと吹き飛んでいった。
地面の陥没音、衝撃音、肋の破砕音が重なって響き、少し遅れて善通寺の突っ込んだフェンスのひしゃげる音。
四つの音が響いた後、しん……と、会場を沈黙が包む。そして……。
「「「「「WOOOOOOOO!!!!!!」」」」」
『何がどうなったのかよくわからないが、カジワラが0インチパンチでゼンツウジを吹き飛ばしたぁっ!!』
WAAAAAAAAAAAAAA!! KHAM!! GWAM!!
響く歓声、溢れる擬音が闘技場を、コマ全体を突き破らんばかりであった。
「……」
この日最高潮の興奮に沸き立つギャラリーの視線を浴びながら、梶原は安堵の笑みを浮かべもせず、切原赤也の如く鉄柵にめり込んだ善通寺を怪訝な目で見つめていた。
――硬ぇ……。
あの発勁には間違いなく、「芯」を捉えた感触があった。だがその一方、接した拳からは善通寺の尋常ならざる「硬度」も伝わっていた。人間、否、哺乳類の胸骨に筋肉、脂肪をどれだけぶ厚く重ねても得られない感触。
ざわ・・・ざわ・・・
直後、善通寺に近い客席の受刑者達が俄にざわめきだし、間近の何人かは席を立ちさえした。そして。
ゆらり
梶原の視線に答えるかの如く、善通寺がその場で体を起こす。会場の熱狂がさっと引き、その姿を映すべく、コマから背景が消えた。
梶原が与えたダメージは、確かに大きかった。白衣は引き裂かれ、全身に生傷を負い、口の端からは血が流れている。
「痛い……痛いわぁ。1秒ちっくと、気失っちょった。
これ、書いちょらんかったら死んどったよ」
善通寺が白衣の下に着込んだパーカー、その首の紐を緩め、指でクイと引いて胸元を見せつける。
発勁を受けて青くなった肌の上に「金剛」と書かれていた。
「『金剛』の真上、一番頑丈なとこでこれやからねえ。怖いわぁ」
「『金剛』ね……」
梶原は皮肉なものだ、と独り笑う。やはり「消されない仕込み」は万全のようだ。
傷は負っても口調はいつも通り、善通寺は軽々しい調子で喋る。
「しかしのう、攻めて来なかったがか? 変に慎重じゃの」
「ふん、乗るかよ」
「いやいや~これはまっことよ? 攻められちょったら、わしぁ『描く』隙なかったき」
「……」
直後、善通寺の背後、客席から黒い影が立ち上がった。近くの受刑者たちから悲鳴があがり、一斉に避けていく。
そこには白と黒の、雄々しい虎の立ち姿。
吹き飛んで鉄柵を突き破った善通寺が右掌より小筆を実体化し、重傷の身でありながら自らの体の死角に素早く描いて見せたのだ。
「お客さんら、見てくれてありがとう。すまんのう。怖がらせて。わしが言わんと襲わんき」
周囲の客を一度見回してそう詫びると、善通寺は再び梶原へ向き直る。
「梶原さん、どうした? 怒っちゅうが?」
「……善通寺」
善通寺が指摘した通り、梶原の顔には怒りが浮かんでいた。
苛立ちや焦りとは違う。この戦いで、初めて見せる怒りの表情であった。
「気づいてるだろうが!!
あの烏と同じだ! 龍だろうと虎だろうと、俺が『ベタ塗り』すれば消えてなくなる!!
無駄だ!!」
激しく怒鳴る。善通寺の打った「対策」から見ても、梶原が述べたそれは共通認識のはずであった。
「別におまさんが怒らいでよかろうよ。わしの勝手やき」
「……くっ」
善通寺に対する不条理な怒りは、闘士として侮辱されていると感じたから、というばかりでもない。残りは極めて不条理な、彼の個人的な怒りであった。
善通寺が描き、この現実世界へ生まれ落ちた八咫烏を自分の能力で消したのだと気づいた時、戦いで敵を殺傷するのとは違う、何とも言えない嫌悪感が胸の内に走った。自分の能力が、その一瞬初めて疎ましく思われた。
現実に漫画的影響を及ぼす自分の能力に対し、絵を現実化する善通寺の能力。そこに梶原は酷く身勝手なシンパシーを覚え、だから酷く身勝手に憤っていた。
「そんな能力があるなら……消されるだけの絵を、描いてやるなよ……」
わけのわからぬ言葉で喋っているだけの両者に受刑者達がブーイングをしなかったのは、「彼の言葉を悪戯に妨げてはならない」――そう感じさせるものが、男の様子から漂っていたからかも知れない。
チェッカロッシは腕を組み、真剣な眼差しを二人に向ける。
「若いねぇ、梶原さん」
梶原とそう変わらぬ年に見えるのに、善通寺はそう言ってけらけらと笑う。その反応に梶原は怒りを強め、体から発散された漫画的オーラが地面に亀裂を入れた。
「いい絵描きなんやろね。おまさん」
「……」
おちょくっているのか、褒めているのかわかりにくい善通寺の言葉に、梶原はやや毒気を抜かれたような表情になる。
善通寺は話しながら大筆を杖代わりに立ち上がる。肩からずり下がった白衣を脱いで小脇に抱え客席から飛び降りた。「痛っ」と呻きながら着地する。続いて虎も同じように飛び降り、主とは違いネコ科らしくすたりと着地して見せた。
少しの間を置いて、善通寺が再び口を開く。
「けんどね……この子が『消されるだけ』なんて、勝手に決めたらあかんよ。
八咫烏には悪ぃことしたと思うちゅうが」
「消されるだけにはならない、か?」
「どうやろか」
はぐらかした答え。梶原の表情からは怒りが消えたというわけでもないが、それでも先程までの迸るような昂りは鎮まっていた。
「こぉー……」
梶原が深く息を吐く。「息吹」、空手の呼吸法だ。
呼吸と心を整えながら、梶原は善通寺を見据える。
――確かに、ダメだな俺は……。
漫画の「達人」たちに憧れていた。如何な強敵を前にも心乱さぬ在り方に。
修練を重ね、それなりの技量を、誇ってもいいものを身につけたと思った。しかし。
――乱れる、ブレる、揺れる。心も、軸も、線も……。
それでも揺れぬようになりたいのなら、揺れながら戦わねばならない。ブレた線で描き続けなければならない。
だから。
「『消すぞ』。俺は」
息を吐き終え、構えを作る。形意拳の一派“龍形拳”の構えだ。
「……どうぞ」
あちらも、ダメージを負いながらも淀みの無い歩みで距離を詰め、やがて立ち止まる。何か指示をされた様子もなく、虎もその隣で飛びかからんとする姿勢を取った。恐らく、一足跳びで梶原の喉元に喰らいつくだろう。
対峙した三者の間の張り詰めた空気が、闘技場全体に伝播していた。客席の全ての人間が、呼吸をするのを忘れて、見入っていた。
如何程過ぎただろうか。火蓋を切ったのは、善通寺だった。
脇に抱えていた白衣。それを宙に放る。空中で広がり、梶原の視界を塞いだ。
と同時、虎が足音一つ立てず、遠方の梶原へと跳ぶ。
――悪いな……。
梶原が世界をベタで塗り潰そうとした、それより一瞬早く。
眼前をはためく善通寺の白衣。
『南無大師遍照金剛』
――カッ――
背に刻まれたその字の並び、「遍く照らす光」を意味する言葉が、その名の通り、闇を掻き消す輝きを放った。
「うっ……」
間近で不意打ちに光を受け、視力を失う梶原。彼は気づかなかった。あとコンマ数秒で喰いつかんとしていた虎が消え去り、客席の悪戯書きへと戻ったことに。善通寺が自分の体から流れ落ちる血で、筆先を濡らしていたことを。
――ベタ!!
光に包まれた世界を、闇が覆う。
その時、善通寺は「技」に入っていた。「ベタ」の暗闇は梶原自身にも隙になりうる。それは当人にもわかっているが、善通寺はそれを最大限引き延ばすため、白光による隙と「繋げて」使わせた。
この隙にも、「滅」と梶原に書き込むことは不可能だろう。だが、この状況だから可能となる、もう一つの即死技が善通寺にはあった。
無明の世界で黒に混じらず、筆先に滴る血の朱墨。それでなくては、出来ない技。
漫画家が夜空にホワイトを散らすように、善通寺も記憶と気配を頼りに闇の中の梶原へと、筆先の朱墨を一斉に散らす。
直接筆で触れることなく、人体に八十八箇所ある点穴に血の点を寸分違わず打ち込み、即死させる遠方からの呪殺の書――“死刻八十八箇所”。
ピチチチッ!
無数の水音が重なって闇の中に響き、そして。
「あっ……」
梶原の呻き声。
――すまんのう。やが……。
自分も四国を守るために、精一杯尽くさねばならない。闇が晴れた世界で、死した梶原を見た。
「……は?」
口から血を吐きながら、梶原は生きていた。
呪いが急速に蝕む中、デフォルメの解けたその肉体は先程までのアメコミ体型と比べると比較的現実味のあるモノへと落ち着き、結果、その体表に穿たれた朱の点は、本来の点穴を微妙に外れることとなった。
「……ホントは俺の、負けかも知れん。でも、勝って次に、進ませて貰う」
「あ」
視力を取り戻した梶原は、スピード線によって猛烈に加速し、善通寺の間合いへと入る。直後、地下のはずの闘技場が、広大な空と海へと変わっていた。
迫る梶原のアッパーカットを前に、善通寺は言った。
「参った」
「ウィニングザ・レインボー!! ……あ」
海から空へとそびえる虹の架け橋を目に焼き付けながら、善通寺は天に昇っていった。
・・・
アメリカ合衆国カリフォルニア州立アルカトラズ刑務所。
その外壁に描かれたあるアートが、アメリカのナード達の間で話題を呼んでいた。
壁に大きく描かれた日本的な萌え絵の美少女。
その少女が、今にも動き出しそうな活き活きとした墨絵の虎と組み合っているのだ。
一体誰がこれを描いたのか。受刑者も刑務官も語ろうとしない。
ただ、「これを描いた人物は今どうしているのか?」――そう尋ねると「描いて、戦って、それに明け暮れているだろう」と答えた。