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第二回戦SS・駅その1


■12:王道邁進■ より一部抜粋

「これまでの50年に」

「これからの50年に」

盃とコップが控えめに打ち合わされ、小さな音を発した。
お互いの顔を見ることなく、その二人の大男は宝石のように煌めく夜景に目を落としながら各々の飲物を口へと運んだ。
もうその土地に、かつてあったスラム街の趣(おもむき)はない。
半世紀をかけた区画整理の結果、その街は摩天楼と健全な娯楽施設が林立する若者の町へとその様を変えていた。

「……どうだ、これを機に酒を覚えてみねぇか?
それじゃあおめぇ、ムードもへったくれもあったもんじゃねー」

相方のコップに注がれたオレンジジュースを指しながら碧眼の大男が意地の悪い笑みを浮かべてそう言った。

「結構。生涯現役を志す吾輩には不要である」

「けっけ! 素直に下戸(げこ)だって認めろよ、ボーイ」




■13:シシキリ■ より一部抜粋

「ごめんなさい」

失った右脚の付け根から、ドクドクと赤い液体が溢れだす。

「ごめんなさい、ごめんなさい」

失った左腕の付け根から、同様に。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」

失った右腕の付け根から。

「ゆるしてください」

とめどなく流れる涙を拭う腕(すべ)は、もう彼女にはない。




■0: レギュレーション確認■

【対戦カード】
「青空 羽美(あおぞら うみ)」 vs 「ミスターチャンプ」 vs 「シシキリ」

【重要】
○試合会場:旧東京駅
○戦闘領域:敷地内 (敷地内の上空・地下は戦闘領域に含む)
○初期位置:ランダム
○対戦相手に関する情報:氏名のみ
○怪我:勝者に限り、全ての負傷は現実世界帰還時に回復する。

【参考】
○開始時刻:12:00
○勝利条件:対戦相手の殺害、戦闘不能、降参、または戦闘領域離脱
○NPC:存在する




■1:堀町臨次(ほりまち・りんじ)■
11月1日午前2時40分。千葉県某ニュータウン。山あいに建てられた小さな木造ツーバイフォー住宅が見えてきた。全身の力が抜けていくのを感じ、いけないいけないと俺は小さく頭を振ってハンドルを握りなおした。

ここ数週間は年末に向けたデスマーチで、帰宅が深夜を回ることは普通、会社に泊まることも珍しくはなかった。今日だって会社に泊まった方が合理的だったのは明白だ。それでも俺は車で片道1時間半かかるこの家まで帰ってきた。

2階の電気が消えている。もう「彼女」は眠ってしまったのだろうか。音を殺して車のドアを閉めた。昼にためた光をぼんやりと放つ腕時計の針を見やる。「そりゃそうだ」時刻を確認した俺はひとりごち、自嘲した。

がっちゃん。真新しい玄関ドアを開ける。ホワイトソースの香りがした。それと少しだけ焦げた臭い。 ……「盛華」のやつ、またやりやがったな。

『臨次さんお仕事おつかれさまです!今日はお野菜たっぷりのクリームシチューです!』ラップのかかった大皿の横にそんなメモが置かれていた。添えられていた(おそらく)ブロッコリーと(おそらく)人参を示しているであろうへたっぴなイラストに頬が緩む。

大皿をレンジにつっこんだ後、よく軋(きし)む階段を鳴らさないよう慎重に上り、寝室の扉をゆっくりと開いた。廊下から差し込む月光が婚約者・祝薗盛華(ほうその せいか)を照らす。

―――――会社を出る際、気心の知れた同僚に「よくやるよ」「お熱いことで。ごちそうさま」などと冷やかされたものだが、俺も同感だと思った。自分がこんなに情に厚い性分だったことに一番驚いているのは他ならぬ俺自身だ。盛華は、俺の知らない俺をいつも教えてくれる。

―――――「大丈夫ですか」 6年前のあの日、人通りの少ない食堂から理系棟への近道に蹲(うずくま)っていた彼女に俺は声をかけた。「もう大丈夫です!ほら」彼女は舗装されたアスファルトの隙間から生えるたんぽぽを指して誇らしげ言った。たんぽぽの茎には折れた跡があった。

―――――左脳はその埒外の返答に全力でアラートを鳴らしていた。このキャンパスには魔人学生も多く通っている。このように話の通じない相手はえてして魔人である可能性が高く、顔見知りになることでどんなトラブルを呼び込むかわかったものではない。愛想笑いをして立ち去れと左脳は告げていた。

―――――しかし右脳は、それ以上の強い命令を発していた。「ええと……たんぽぽを支えていらっしゃったのですか」「はい!」「花がお好きなんですね」ぱああと彼女の明るい表情が一段と明るくなったのを今でも鮮明に覚えている。「だいすきです!」左脳の理論警鐘は吹き飛んだ。一目惚れだった。

―――――はじめて出会ったあの日から俺は彼女に狂わされっぱなしだ。「点取り眼鏡」などという高校時代の陰口が示すように、俺は「理」に頼って生きてきた人間だった。そんな自分が一目惚れの末、恋愛結婚することになるだなんてかつての自分に言って聞かせて、果たして信じて貰えるだろうか。

数歩、ベッドに近づく。愛しい婚約者の顔を見ただけで、激務で萎(しお)れかかっていた心の花に元気が戻るのが感じ取れた。このために俺は帰って来た。

「さみしい……よぉ……」不意に、夢中のはずの彼女がそう漏らした。心苦しくなって、彼女のふんわりとした髪越しに頬を撫でた。ここ数週間の間、ろくに構ってあげられなかったことを心中で詫びつつこれからに思いを馳せる。

とりあえず山場は今週一杯だ。あと3日乗り切れば、きっと久々の日曜日(きゅうじつ)がある……はずだ。日曜日になったらどこかドライブへ行こう。学生時代何度も何度も通った噴水の綺麗な公園でもいいし、君が大好きな植物園だっていい。あるいは農協の催しも楽しいかもしれない。

あと1ヶ月もすればクリスマスだし、年明けには初詣と親戚巡りも待っている。親戚巡りは少し気が重いが、君のためなら頑張れる。そして来年の春にはいよいよ式だ。会場の選定すらまだだが、何故か俺たちよりも熱心におふくろが準備と根回しをはじめてくれているらしい。

そうだ、日曜日のドライブは式場の下見に行くというのはどうだろう。安直な発想だが、「花の階段」というオプションがある式場が俺の中での最有力候補だ。君はきっと期待通りにはしゃいでくれるに違いない。決めた。朝食の時にこのドライブについて切り出そう。そのために――――

―――――がちゃん。……静まり返った一軒家に、玄関ドアの音が響いた。

血の気が引いた。瞬間的に、心の平穏を取り戻すべく自分の耳を疑ってかかった。(今の音は気のせいではないのか。)(今のは本当に玄関の音だったのか。)(何か違う音を誤認してしまったのではないか。)

息を潜めて階下の気配を探る。人の気配はしない。こんな時間に呼び鈴も鳴らさず他人の家宅に入ってくる者がいるとすれば、それは決して善良な者ではないだろう。……帰宅時に鍵をかけたか思い出す。覚えていない。盛華に会いたいあまり浮足だっていた。

じとりと嫌な汗が浮かぶ。階下に気配はない。「気のせいだ。気のせいだ」そう何度も自分に言い聞かせながら、念のため、いざという時の武器を探す。バットも、ゴルフクラブも、バールも寝室には存在せず、仕方なく粘着テープの筒が先端についたカーペット用清掃器具の柄を握った。

およそ2分、永劫にも感じられたその時間を、息を潜めて階下の気配を伺うことに費やした。階下に気配はない。それだけの時間をかけ、落ち着けた心でもって這うように部屋を出ることができた。意を決して階段の電気をつける。階下から反応はない。

ギィ。ギィ。軋む階段を一歩一歩確かめるように降りる。「ていやぁ!」階段を降り切る直前、死角である階段脇から何者かに襲われることを想定して、薄暗い空間に向かって武器を振った。手ごたえは無い。階段を降り切った場所にあるスイッチを押す。廊下に明かりが灯る。

玄関を確認。ターン式の鍵は閉まっている。ここにきて、俺はようやく8割方の心の平穏を取り戻していた。「鍵の開いた玄関から誰かが侵入したのであれば、鍵を閉めなければ今の状態にはならない。耳を澄ませて聞いていたが、そんな音はしなかった。」そのような論理的思考が安心感を与えてくれる。

(それでは先ほどの音はなんだったのか。)その考えが頭をよぎった時――――

――――チン! 「わひゃあ!」 突如鳴り響いた電子音に心臓が飛び出しそうになり、勢い余って武器を2度振りまわした。フーフーと一瞬であがってしまった息を整えているうちに、そういえばシチューを温めていたのだったと思い出した。武器が当たって少しへこんでしまった壁を見てため息をついた。

キッチンまで移動し、レンジからシチューを取り出す。シチューを食卓まで運ぶ間に思考を巡らせる。(さっきの音は近所の家のものかもしれない。耳が静寂に慣れていたせいで、過敏に感じ取ってしまったに違いない。きっと疲れのせいだ。これを食べたらシャワーを浴びて早く寝よう。)

そうして食卓にシチューを置き、箸立てにさしてあった大きめのスプーンを手にとった。その時、愛しの婚約者が書いた元気の出るメッセージが目に入った。カラン。俺はスプーンをとり落とした。

『臨次さんお仕■■■れさ■■■■■今日■■■■っぷり■■リー■■■■■で■■』メモは赤い線でグチャグチャに塗りつぶされていた。気のせいじゃない。この家に、何かがいる。そして、そいつは恐らく狂って――――

――――ギィ。ギィ。階段の軋む音。俺の頭の中で小さな爆発が起こった。「盛華ァ!!」気が付いたら叫んで、走り出していた。廊下に通じるドアを力一杯はね開け、階段を全速で駆け上った。寝室のドアを開け照明のスイッチを叩き付けた。

「んぁっ……おかえり、なさい?……りんじさん?」まだ、夢から覚めきっていない彼女がそこにはいた。「盛華……!」一歩踏み出した瞬間、こしこしとこすっていた眠たげな彼女の瞳が見開かれた。「きゃああああああああっ!!」絶叫、直後、鈍痛・暗転。

「ァア、ハ」 背後から、声が し 

おれ は ……―――――




『1998年11月。千葉のニュータウンを震撼させた猟奇殺人事件。
被害者は、堀町臨次(ほりまち・りんじ)24歳と、その婚約者、祝薗盛華(ほうその・せいか)25歳。
堀町は自宅で全身を拘束された状態で衰弱死。その側には斬り落とされた祝薗の四肢があった。』

シシキリの都市伝説が成立する元となったと考えられている一連の未解決事件のうち、最も古い物のひとつである。




堀町臨次(ほりまち・りんじ)は死してのち魔人として覚醒し――シシキリとなった。
堀町臨次は死後三日後、死体安置所で魔人となって蘇生し、人の世から姿を消した。




シシキリは殺した。何度も殺した。
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も殺した。
そうすることで、祝薗盛華を天国に送れると信じていたから殺した。何度も何度も。
それでも一向に天国に行く気配がしないので、更に何度も殺した何度も殺した。
思い付く限りの恥辱を与えながら殺した。
考えうる限りの苦痛を与えながら殺した。
何度も殺した何度も殺した何度も何度も何度も殺した何度も殺した殺した何度も何度も殺した殺した殺した殺した殺した殺した殺した殺した。




■2:見習い天使と誰でもない少年■


戦後間もないその時分(じぶん)。
英国系ヤクザが覇を唱える代々木と大陸系マフィアが牛耳る原宿との国境。
代々木六丁目のスラム街。

その街の小汚い大通りから少し外れた細い路地でどさりと鈍い衝突音がした。

「どこ見てンだ! 気をつけやがれ!」

やせ細った少年がそのような罵声と共に走り去ろうとして、派手に転倒した。
光化学スモッグに包まれた薄暗い路地で足元を見誤ったのだろうか。
違う。その路地は少年の”仕事”の本拠地だった。そんなへまをするはずがない。
少年は足をかけられたのだ。

「おいおいおいおい。
『人のものをとったらドロボー』って知ってるか?
気をつけるのはおめぇのほうだろ、スリのボーヤ」

顔を上げ、足をかけた人物 ( ――自分よりいくらか歳を重ねていそうな外見をしたその少年)を正面から見て、彼は一瞬固まった。

その地区は敗戦民、日本人によって構成される集落であった。
ゆえにその地にあってその容姿は異端そのものであったのだ。

ウェーブがかった鮮やかで短めの金髪、整った小さな顔にギラギラと光る自信に溢れた碧眼、白い肌に長い手足。
その異質な容姿に、”幸せだったあの日に帰れる薬”の取引場であり、男性同士が睦みあうための穴場でもある教会の割れたステンドグラスに描かれている、「ラッパを携えた神の使い」を痩せた少年は幻視した。

一瞬の硬直後、我に返り素早く背を向け逃げ出そうとしたやせ細った少年に声がかけられる。
ジャラリ。
金髪碧眼の少年は懐から取り出した大量の硬貨が入った袋を放って鳴らした後(のち)に言った。

「おい! お前のソレ、にせもんだぞ」

碧眼の少年は袋を逆さまにし、大量の硬貨を地面にまいた。
硬貨同士のけたたましい衝突音。

やせ細った少年は逃走を中断。
振り返り、地面に落ちる大量の硬貨をその目で見た。
次いで、己の懐に抱きかかえていた皮製の財布の真贋を見極めようと胸元に目を落とし―――――

――――「ヒィイイイイイャアアアアーーッ!」―――――

―――――碧眼の少年の近接を許してしまった。

予備動作もなくなく獣めいた速度で近接してきた碧眼の少年に反応することができず、やせ細った少年は、おでこにバチンと強力な張り手を貰った。
金髪碧眼の少年はその攻撃ダメージによって生じた隙を見逃さず、自らの皮製の財布を優雅に奪い返した。

「失せな盗人くん(ピティ・ボーイ)。次はもっと上手くやるんだな」

尻餅をついた少年に哀れんだ視線と共にそんな言葉が投げかけられた。

「―――――ッ!! ざッけんな!!」

痩せた少年は勢い良く立ち上がり、拳を構えた。
見るからに格闘技の心得の無いことが窺えるその構えは、無様と言って差し支えない。
しかし、それなのに、構えた少年には何か妙な威圧感があった。

少年は許せなかった。金髪の少年が我が物顔でこの街を闊歩していたことが。
少年は許せなかった。その少年が裕福であることが。
少年は許せなかった。その少年に哀れまれた事実が。

「ぶっ殺す! ブッッ殺してやンよ!! 殺す! ぶっ殺す!!」

ごうと、少年の怒りに呼応するかのように細い路地に熱い風が吹きぬけた。
碧眼の少年の目の色が変わる。

「……ははっ。スリじゃ飽き足らず次は強盗殺人ってか。おお、怖ェ」

そう言いながら、碧眼の少年は自らの首から下げていた精密な細工の施されたペンダントを外し背後の硬貨溜りへと投げた。
次いで、奪い返した財布を。

「いいぜ、かかってきな。もしお前が勝てたなら、それを全部やるよ」

立てた親指を後ろに向けながら挑発的な笑みを浮かべて少年は言った。
懐から小さな酒瓶を取り出し、口元へと運ぶ。
こくりこくりと豪快に喉をならして度数の高い酒を体内へと入れて戦意を高揚させる。

「くっああーーーー! あっちぃーーーーッ!」

もう一度酒瓶を口元へと運び、こくりこくりと喉を鳴らしたあと、空になったその酒瓶を背後へと放った。
その様子を油断無く観察していた痩せた少年に対し、金髪の少年は立てた中指を小刻みに折り、「(どうした?はやくこいよ)」と挑発を行った。

「えいぃぃぃぃぃ!!!」

痩せた少年がその挑発に乗り、突貫する。
対して金髪の少年は腰を深く落とし、両手を高く持ち上げ手を開いた。

痩せた少年が碧眼の少年の瞳をギラリと睨み、その視線誘導が有効な刹那のうちにノールックで足元の土を蹴り上げ目潰しとした。
次いで、倒れた際に抜け目無く握りこんでいた石を頭部に向け投擲。

目潰しの土を顔面に受けながらも金髪の少年は辛うじて投石を防御。

金髪の少年の注意が頭部に向いたことを確認しつつ、身長差を生かして痩せた少年が低い体勢のまま急速肉薄。

「死ねッ!!」

発声と同時に強く股間を殴りつけた。

人の肉を殴ったにしては硬い感触。
殴られた少年には悶絶する様子も、うめき声をあげる様子もない。

殴った感触に対する違和感を覚えたのとほぼ等しいタイミングで、痩せた少年の両肩が捕まれる。
凄まじい握力。

瞬間、金髪の少年の上半身が大きくのけぞっている様子を痩せた少年は視認した。
「(頭突きがくるっ!)」

とっさの判断で、意識が飛ばないように気合を入れ、痩せた少年は頭突きに対する迎撃体勢を整える。

碧眼の少年の頭が勢いよく前方に振られ、

「ブゥゥゥゥゥゥゥゥゥーーーッ!!」

毒霧!
飲み下したフリをして口内に含んでいた度数の高い酒が吹き付けられた。
頭突きのインパクトタイミングを見計らいカウンターをとるべく眼を見開いていた痩せた少年は、それ故に大ダメージを受けた。
獣のような呻き声を上げながら顔を押さえ地面をのたうちまわる。

ダンッ!

「がっ……!!」

苦しむ痩せた少年の腹部を金髪の少年は踏みつけ押さえた。

「俺の勝ち……で、いいよな」

その言葉を聞き、足の下から脱出しようと大きくもがく痩せた少年。
対して、金髪の少年は肋骨の内側にえぐり込むようにつま先をあてがい、体重を乗せた。

びくんと痩せた少年が痙攣し、動きが急速に鈍る。

「はっは、苦しいだろ。こうされると息ができねぇンだよなぁ。
俺もクソみてぇな兄弟子によくやられたもんだぜ」

金髪の少年は続ける。

「こういう時どうするか教えてやるよ。
2回、相手の体を手のひらで叩くんだ。
『タップ』って言ってな、それが降参の合図なのさ」

「……なぁ、少年(ボーイ)。」


―――――「『プロレス』に、……いや、『王座』に興味はねーか?」




■3:青空羽美(あおぞら・うみ)■

”芝小の暴れ乳牛(クレイジーホルスタイン)”、”メスゴリラ”、”ハードパンチャー”などという不名誉なあだ名をつけられ、畏怖されていた時代が彼女にはあった。
小学5年生になって、幼馴染の一生のお願いの効力により「女の子らしく」心がけて振舞うようになるまで、彼女は校区を威力により支配する暴君であり、さながら世紀末に君臨する拳王であった。

彼女は自らの正義を曲げないために拳を振るった。
当時の彼女はそれ以外に、正義を貫く手段を知らなかった。
東にいじめっ子ありと聞けば出向いて無言で殴り、西に性悪教師がいると聞けば出向いて無言で蹴った。

方法こそ褒められたものではないが、彼女は昔から自らの掲げる正義に向かい邁進していたのだ。

そんな彼女と、世界的魔人プロレス団体「代々木ドワーフ採掘団」の擁するレスラーである「ミスター・チャンプ」の親和性は高かった。
「ミスター・チャンプ」は別段「正義超人」だったわけではない。
ただ、彼のプロレス王道の極みともいえる受けて返す正々堂々としたファイトスタイルに、彼女、青空羽美(あおぞら・うみ)は何か感じるところがあったようだ。

幼き日、青空羽美は、多くのちびっ子がそうであったようにミスターチャンプのファンであった。

故にミスターチャンプが迷宮時計バトルに巻き込まれたと知った羽美は、居ても立ってもいられず即座に行動を起こした。

彼女がチャンプ参戦の事実を知って行動を起こした時点で、ミスターチャンプは数度目の迷宮時計バトルの最中であり羽美の世界には存在していなかった。




【迷宮時計】

―――― “迷宮時計” に選ばれた所有者は、互いに争う運命にある。
そこは、この現実とは異なる時間と空間。
負けた者が現実世界へと戻ることは、決してない。

その時計は、「強大な時空操作能力の欠片である」とも「転校生の能力の残滓」とも言われている。

その時計の性質や外見は所有主によって異なり、共通した基本機能以外はバラエティに富む。
生きた肉を纏った生体時計であったり、巨大な時計塔であったりと様々だ。

そのような特性を持つ迷宮時計は、稀に時計自体が特殊能力を持つことがある。

チャンプの所持する迷宮時計がまさにそれであった。
チャンプの時計は「『ミスター・チャンプ』と戦闘した者は、勝者も次の戦闘までは転移先の世界にとどまる。 」という特殊効果を持っていた。

故にチャンプははじめて迷宮時計バトルを行ったその日から、現実世界への帰還を果たすことなく、異世界を放浪しつづけていたのだ。




羽美はチャンプを助けたかった。
羽美は「迷宮時計の真実」を知っていたからだ。

だから彼女はミスターチャンプの後援組織のとりまとめを行っている男に接触した。
ミスターチャンプを助けるためには、チャンプに負けてもらう必要があった。

だが、チャンプは「王者(チャンプ)」である。
一度でも土が着けば、チャンプはチャンプでなくなってしまう。
羽美も、一人のファンとしてチャンプの敗北を望んでなどいない。

チャンプの能力は自身の戦いを時空間を越えて中継するというものだ。
チャンプが負ければその事実は全てのファンに等しく伝わってしまう。

どうしたら、どうすれば。
チャンプの名誉を傷つけることなく安全に迷宮時計バトルから彼を下ろすことができるのか?
そのような悩みを、「その男」に相談した。

「おめー、なんでチャンプに勝てる気でいるんだ?」

その男は心底呆れたようにそういい、上着を脱いだ。

「プロレスラーなめんなよ」

羽美には自負があった。
自分には世界の敵とも呼べるような強大な敵を一方的に葬る人間には過ぎた力があると。
自分は何度も迷宮時計バトルの死線をくぐったベテランであると。

しかし羽美はその男に敗北を喫することとなる。
その男の名は、アークエンジェル平井といった。




「けっけ! 柔軟で悲鳴をあげてた小娘が、随分立派になったじゃねーか」

羽美が「代々木ドワーフ採掘団」の門下生となって9週目のことだ。
彼女の持つ迷宮時計は満を持して対戦相手として「ミスター・チャンプ」の名を示した。

ここは、アークエンジェル平井の所有する高級マンションの一室。
数分後にはじまる迷宮時計バトルに向けた最後の語らい。

「でも……やはり少し恥ずかしいです」

くるりとまわってみせる羽美。
平井から受け継いだ夜空の様な輝きを持つ鮮やかな色をしたマントがふわりと舞う。
胸元に大きな青色のリボン、丈の短い光沢生地によって形成された華美な青基調のスカートと、同色のスパッツ。
手首の部分にリボンのついたアームカバー。両手両足には青きリストバンド。ショートカットに映える羽飾り。
その魔法少女時代の彼女の戦闘服をモチーフとしたステージ衣装は露出が多い。

「『ウィーアーチャンプ(フィニッシュブロー)』潰しの首尾は」

平井が尋ねる。

「上々です」

「リングネームは」

「『ラピスラズリ青空』」

「フィニッシュブローは」

「『アークエンジェル・キュア・ストライク』」

「ちがう 『アークエンジェル・ニュークリア・ボンバー』だ」

「ええっ、……昨日聞いたのと違います」

「けっけ!そうだったか?細かいことはきにすんな。要は―――――」

「チャンプのやろーさえ倒せればそれでいい」と男は言った。
羽美は覚悟の炎を瞳に宿し、ゆっくりと力強く頷いた。

男が右手を差し出す。
羽美も右手を差し出し、それを掴む。

「ヒィイイイイイャアアアアーーッ!」

奇声をあげ、平井は右手を強く引き、羽美に頭突きを見舞おうとした。
羽美の左手の防御を同じく左手ではじく。

ゴツンと、鈍い音がした。

「……同じ手は喰らいません」

羽美は額で平井の額を受け止めた。

「けっけ!本当に立派になりやがって」

額を付き合わせたまま、平井はうれしそうに笑った。
右手に力がこもる。

「勝ってこい!バカ弟子!」

「はい!師匠!」

転送がはじまる。
羽美は傍にあった大きなトランクの持ち手を掴んだ。

体が透けていく。
羽美は己が覚悟を再度確認する。

(必ず救ってみせます。チャンプを、もう一人の対戦相手、「シシキリ」を。
いえ、これまで戦ってきた全ての対戦相手を、これまで救えなかった未来・過去、亜空間を含むすべての多次元並行宇宙に存在する善良な人々を……!
私は助けたい。―――――――


――――――――たとえ、【アルティメット・ゴッドモード】を使うことになったとしても。)




■4:旧東京駅■

旧東京駅最大の広さを誇る中央改札前のエントランスで、戦いの火蓋は切って落とされた。
チャンプの魔人能力により集合せしファン約40名、戦闘空間世界の野次馬500名超による満員御礼。
娯楽の少ない当時の民衆はその刺激的なショーを歓迎した。

駅員への会場使用交渉は集合せしファンの一人が恐るべき辣腕をもってあたり、円滑に雌雄を決する特設リングは用意された。

会場のボルテージは戦闘開始前をして既に最高潮に達している。
会場を温めるために流される戦前PVでミスター・チャンプの兄弟弟子にして、永遠のライバル、アークエンジェル平井が「この試合に自らの選手生命を賭ける」旨を発表したからである。
平井は、弟子である青き新鋭レスラー、ラピスラズリ青空にベットした。

アークエンジェル平井といえば、ミスターチャンプと並んで「代々木ドワーフ採掘団」を牽引する大御所である。
知名度こそチャンプに劣るものの、団体内での権威はチャンプ以上だ。

そのような男の突如の引退宣言に、現実世界から集結した筋金入りのファンたちは、金切り声のような狂気染みた歓声をあげ、その無茶苦茶な勢いが何も知らぬ野次馬たちにも伝播したのである。

「青のコォオオナァアアアッ! 『代々木ドワーフ採掘団』所属! 110ポンド!
ラッピイイイイイスラッズゥウウリィーッ! アオゾォ~~~~ラァ~~~~ッ!!」

「「うっおおおおおおおおおおおおおおおっーーーーー!!!」」

選手紹介。
ラピスラズリ青空こと、青空羽美は青きマントを脱ぎ捨てた。
それは、師匠アークエンジェル平井から受け取った魂のマント。

“キュア・コレクト”

プロレスラーの羽美は、プロレスラーであると同時に、魔法使いでもある。
彼女は魔力といわれる生命エネルギーを自由自在に操り、物体を強化したり、魔力自体を弾丸のように放つことができる。

彼女は、両のこぶしに魔力を集中させ、こぶしを強化した状態で打ち合わせた。
軽自動車が正面衝突を起こしたかのような轟音が奏でられる。

一瞬の静寂を経て、見学者達の歓声が一際大きくなった。
その一撃をして、自分がチャンプに挑戦する権利を持つ者であることを知らしめたのだ。

「赤のコォオオナァアアアッ! 同じくゥッ! 『代々木ドワーフ採掘団』所属! 
309ポンド! ミスタァァァ~~ッ! チャーーーーーーンプッ!!!」

「「うっおおおおおおおおおおおおおおおっーーーーー!!!」」

こちらはただ、悠々と歩を進めるのみ。
しかしその体つき、纏うオーラはまさしく王者のそれであった。
ただ歩く、それだけのありふれた動作が名画のようであり、ファンたちの心を否応なしに昂ぶらせる。

両者は一触即発の間合いで互いの目を真っ直ぐ見た。

ボディチェックが入る。

その間に、羽美は発声を行わず口の形を変えてみせた。
「え」の形、「ん」の形、「い」の形。

それはありふれた日本人の名前を示すものだった。
平井が羽美に伝えた、ミスターチャンプがどこにでもいる少年だった時代の名前。

チャンプはそれに何か感じ入ったようで、安らかな表情のまま目を瞑った。
そうして、一言、年老いた母親に語りかけるような優しい口調で言った。

「友は、なんと」

「『今日がお前の命日だ』……だそうです。」

チャンプの口角がわずかに上がったのを眼前の羽美だけは見逃さなかった。

――――ッカァアアアアアアン!!

時間無制限デスマッチ開始を知らせるゴングが鳴り響いた。




■5:ウィーアーチャンプ■


青空羽美は魔法使いである。

魔法使いは魔力と呼ばれる生命エネルギーを自由自在に操ることができる。
また、羽美はその魔力を「触る」ように感じることもできるし、視認することもできる。

彼女の魔力応用のひとつに「キュア・サークル」というものがある。
これは、自らの魔力を薄く伸ばし広げることでその広げた範囲内を感覚的に探知できるという魔力応用である。
この魔力応用を用いて、彼女は簡単に魔人と非魔人を選別することができる。

魔人とは強い思い込みや妄想が現実に反映され、人間が転じて成るものである。
また、魔人は多くの場合屈強な肉体を持つ。

一方、魔力は精神力と肉体の力を練り合わせて捻出するエネルギーだ。

つまり、魔人は一般的な人間に比べ、「精神力の特色が強い魔力」を多くまとっているのである。
魔人の肉体が屈強なのはそのためだ。




ゴングの直後、羽美は飛び下がった。
戦闘態勢に入ったチャンプを覆った魔力に気圧されたのだ。
これまで見たどの魔人よりも多量の魔力をチャンプはまとっていた。
彼は魔法使いというわけではない。
故にその魔力は鍛錬により身につけたものではない。
だからこそ際立つ才覚。

「ヴァルキリーモード!」

羽美は自らの魔力を増強した。
全身を強化し、体を戦闘用に作り変える。

「(なるほど)」

チャンプが彼女の変化を優れた感性で捉えた。

「(いい闘志である――――)」

次の瞬間、チャンプを覆っていた魔力が倍以上に膨れ上がる。
その量は鍛錬を重ねた魔法使いの遥か上をいった。

「(――――発展途上、だがな)」




師匠、アークエンジェル平井は言った。
「あいつをはじめて見た時は、『太陽が服着て歩いてやがる』……なんて思った。
いやいや、冗談なんかじゃねー
後にも先にも、あれほどのオーラを放つ奴を見たことがねー
『王の器』っつーのは、ああいうのを言うんだろうな」




羽美は可笑しくて笑った。
これまで何度も何度もくぐってきた“世界の敵”との死線でも、迷宮時計バトルでも、羽美は常に圧倒的な力でもって相対する者を粉砕する役割であった。

それが今は挑戦者。
十全に力をふるっても良いという快感に打ち震えた。

「「うっおおおおおおおおおおおおおおーーーーーっ!!!」」

ただの棒立ち。
魔力を感知できない観客達にはそう見えたことだろう。

しかし、彼らは得体の知れない熱気を体中に感じ、気づけば叫んでいた。
二人の放つ正の魔力が、観客達に熱を与える。




「ヴァルキリー・キュア・コレクト!」

自己強化。
戦闘思考強化に2割、機動力強化に3割、残りをどこにでもふれるよう余らせる。

羽美は周囲の観客へ配慮して、飛び道具ではなく肉弾戦を主軸とした戦闘を選択した。
彼女の得意技は広域索敵からの遠距離攻撃である。
実際この戦法一本槍で数々の対戦相手を葬ってきた。

しかし、彼女の魔法使いとしての特性は放出・射撃よりも肉体をはじめとした物体強化にある。
つまり、彼女の真骨頂はショートレンジにて発揮されるのである。




「す……すごーーーーーーーーーーーーーい!!
一瞬の間の火花の出るような攻防皆さんご覧になれましたでしょうか!!」

「「うっおおおおおおおおおおおおおおーーーーーっ!!!」」

数度の攻防の後、有利不利が明確になりつつあった。
両者無傷ではあるが、ラピスラズリ青空の精神力は確実にすり減らされつつあった。

ラピスは、攻撃の際も防御の際も当該箇所に魔力を集中させる必要があった。
そうしなければ、魔力量・素の膂力の差によりまともな攻防を行うことができなかったからだ。

チャンプ側が漫然と攻撃を繰り出したとしても、ラピスはそれを絶妙の魔力移動によってぴたりとガードしなければ致命傷を負ってしまう。
そのような状況であるにも関わらず、チャンプは的確かつ模範的な王道の攻めを敷いてくるのだ。
数度の交差を経て、“漫然とした攻撃”などただの一撃もなかった。
一撃一撃が必殺の威力を持ち絶妙のタイミングで繰り出される。
それでいて、必殺の一撃は次の一撃への布石でもあるのだ。
さらにそこにフェイントを混ぜるだけの技量がチャンプにはあった。

体術スキルにおいて、ラピスはチャンプに遅れをとっていた。
その差を戦闘思考強化と反射神経強化によって強引に埋めつつの攻防がここまでのあらましである。

「ふむ」

間合いを開けた状態で、チャンプが髭をひと撫でする。

「そろそろ、頃合ではないだろうか」

羽美のコスチュームの一部である四肢についた4つのバンドに目をやるチャンプ。

「……気づいていましたか。」

“キュア・サイレント” 解除。

それまで使い続けていた「魔力を見え辛くする」魔力応用をラピスは解いた。
そして4つのバンドを脱ぎ捨てる。
右手と左手、右足と左足を繋ぐ魔力の鎖が出現した。




――――およそ2ヶ月前。

「うわぁ!? なっ、なんですかこれ!?」

その術を施され、羽美の四肢が一所に集まる。
捕らえられた小動物のごとき無様な姿を晒した。

「カンタンに言えば筋力増強ギプスといったところだ
まず それをつけたままでも大の字で寝れるくらいに慣れろ
そうすれば今のフルパワーが二分の力で出せるようになる」




「(『代々木ドワーフ採掘団』の新人泣かせの名物修行――――)」

「――――『修の行』ッ! 開(アンテ)ッ!」

軽い音を立てて、鎖がはじけ飛ぶ。
直後、ラピスの魔力が噴出する。

「全ッ開ッだァーーーーーーーーーーッ!」

チャンプと同等の魔力を纏い、全肉体性能を強化したラピスが神速移動からの拳打を放った。

しかし、その拳がチャンプに致命的なダメージを与えることはなかった。
チャンプは防御もせず棒立ちのまま、魔力放出のみでその拳を受けた。

「(懐かしい……我輩もデビュー前の『八年間』その修行をやっていた)」

ラピスは見た、広いエントランスを埋め尽くす超魔力放出を。
それは、過去最強の世界の敵「ブラックドラゴンつよし」を天秤の片方に据えても量ることのできない、圧倒的な暴力であった。

「エイイイイイイ!!!」

チャンプの竹刀が煌いた。




『さあッッッ!!! 皆さんご一緒にッッッ!!!』


打ち上げられたラピスをフィニッシュブローが待ち受ける。


( ( ( ( (ウィー!) ) ) ) )


ラピスは見た、会場の観客の生命力が、チャンプに上乗せされる瞬間を。

“ウィーアーチャンプ(私たちはチャンプだ)”

そのフィニッシュブローは衆人が多ければ多いほど威力を増す。
周囲の人間の生命力を少しだけ拝借して放たれる一撃は、並大抵の防御を貫通するまさに必殺の技である。
周囲の人間の「チャンプに勝ってほしい」という気持ちが、彼を無敵へと押し上げる。


ミスター・チャンプの右(踏込胴薙ふみこみどうなぎ)!

( ( ( ( (アー!!) ) ) ) )

左(跳込逆胴とびこみぎゃくどう)!!

( ( ( ( (チャンプ!!!) ) ) ) )

右アッパー(右アッパー)!!!


フィニッシュブローが、綺麗に全弾叩き込まれた。




中継を見ていた平井が笑った。

「へっ!よくやった」




それは、たった一度だけの反則。

「な、なんということでしょう!!?
ラピスラズリ青空選手! 倒れませんッッッ!
一度放てばKO率120%のフィニッシュブロー神話がァーーーッ!?
こんなことがあっていいのでしょうかッ!!?」

ラピスの青きコスチュームが虫食いのように穴だらけになっている。
そのコスチュームは魔法使いの、女の命である髪を多量に編み入れ作られたものだった。
ラピスのショートカットが揺れる。
高魔力攻撃を受けた際に、一度だけそれは防弾チョッキのようにダメージを軽減する。

それに加え彼女は特殊能力を発動していた。

“エフォート・モア・フルドライブ”

瞬間的な魔力増強による魔力噴出防御、ブロッキング。
事前にフィニッシュブローの本質を教えられ、対策のためにラピスはいくつもの努力を積んだ。
ラピスの努力は必ず報われる。

“エフォート・モア・ミドルドライブ”

魔力応用可能範囲での魔力増強。

「キュア・エフォート改め!ラピスラズリ青空!アークエンジェルモード!」

魔力放出が大気を攪拌し、それによって発生したプラズマが、大天使(アークエンジェル)の持つ6枚の羽のように光り輝く。
体外に多量の魔力を噴出!
とどめておくことのできない魔力は、推進力に、そして防御へと回すことで有効活用する。

「私のターン!」

一撃!・二撃!・三撃!

三連撃がわずかに、しかしこの試合はじめてチャンプにダメージを与えた。

ウィー!・アー!・チャンプ!

返す刀でチャンプも3連撃を放つ。
しかし、先ほどまでの威力はない。
“ウィーアーチャンプ”は一度だけの魔法。
一度破られてしまえば、観客はその魔法を信じられなくなり、チャンプに力が乗ることはない。

一撃!・二撃!・三撃!

ウィー!・アー!・チャンプ!

一撃!・二撃!・三撃!

ウィー!・アー!・チャンプ!

まるでターン制の戦闘システムのように、愚直にチャンプとラピスは3連撃を真正面から受け、その返しに3連撃を繰り出す。

●!・●!・●!

●!・●!・●!

何度も、

●・●・●

●・●・●

●・●・●

●・●・●

何度も、何度もその応酬は続いた。
その中で、魔力を介して二人は精神対話を行っていた。




●・●・●

(チャンプ、あなたは何故戦うのですか)

●・●・●

(勝利は王者の責務である)

●・●・●

(この戦いに果てがないことを知っていて、それでも……なのですね)

●・●・●

(無論)

――――チャンプも、ラピスも迷宮時計の真実に到達していた。
何度か「最後の一人」となった彼らは知っていたのだ、その戦いがエンドレスであることを。
最後の一人となった時、起こるのは商品(魔人能力)の贈呈式などではない。
参加者の補充である。
そうして、また新たな戦いがはじまるのだ。

迷宮時計は未来・過去・多次元並行宇宙から対戦相手を呼びつける。
故に対戦相手が尽きることはありえない。

チャンプは戦った。二刀流の剣豪と、中華一の猛将と、神話の英雄と。
ラピスは戦った。宇宙人と、未来人と、異世界人と、超能力者と。

戦って、戦って、戦って……。

青空羽美は今年22歳となった。
迷宮時計バトルに参加した回数は200回を超える。

何度も、何度も最後の一人になり、新たな対戦相手が補充され、それでも絶望することなく自身の信じる道を歩んできた。

●・●・●

(そうと分かれば、なおのこと、――――「私はあなたを助けたい」)

●・●・●
●・●・●
●・●・●
●・●・●
●・●・●
●・●・●




■6:ウィーアーチャンプ■

「シックスッッ!!」

「セブンッ!!」

カウントの7つ目でラピスは意識を取り戻した。

いつの間に倒れてしまったのだろうか。

ゆらりと立ち上がり、愚直に前へと出る。

チャンプはそれを待ってくれている。
「(ああ……私のターンか……)」

ゆれる視界と吐き気をこらえながら、ラピスは弱弱しく腕を振る。
その拳には最低限の魔力しか乗っていない。
その一撃に――――

―――( ( ( ( (ウィー!) ) ) ) )

観客の声援が、観客の魔力が乗った。

困惑しつつも、二撃目を繰り出す。

( ( ( ( (アー!!) ) ) ) )

三撃目。

( ( ( ( (チャンプ!!!) ) ) ) )

返す刀の、チャンプによる3連撃。

( ( ( ( (ウィー!) ) ) ) )
( ( ( ( (アー!!) ) ) ) )
( ( ( ( (チャンプ!!!) ) ) ) )

ラピスのターン。

( ( ( ( (ウィー!) ) ) ) )
( ( ( ( (アー!!) ) ) ) )
( ( ( ( (チャンプ!!!) ) ) ) )

チャンプのターン。

( ( ( ( (ウィー!) ) ) ) )
( ( ( ( (アー!!) ) ) ) )
( ( ( ( (チャンプ!!!) ) ) ) )

ラピスのターン。

( ( ( ( (ウィー!) ) ) ) )
( ( ( ( (アー!!) ) ) ) )
( ( ( ( (チャンプ!!!) ) ) ) )

チャンプのターン。

( ( ( ( (ウィー!) ) ) ) )
( ( ( ( (アー!!) ) ) ) )
( ( ( ( (チャンプ!!!) ) ) ) )

――――衆人は、観客達は、何十回もの魂の打ち合いを演じた挑戦者を認めていた。
チャンプ相手によくやった。華奢な体でよくぞここまで戦いぬいた、と。

その時だった、ミスターチャンプの豪腕が体から離れ、宙を舞った。




【7:シシキリ その1】

ミスター・チャンプは対戦相手であり王座を狙う挑戦者の背後に突如出現した異形のナタ使いを認め、とっさに体を入れ替えて挑戦者を庇った。
チャンプはファンを何よりも大切にする。
彼女は、挑戦者である前に守るべき大切なファンだった。

羽美は、回復に注力した。

乱入者を倒すにも、チャンプの腕を回復させるにも、魔力が足りない。

1秒。悲鳴が聞こえた。

2秒。血しぶきが見えた。

3秒。異形がこちらを見て笑った。

4秒。悲鳴

5秒。血しぶき。

傷も、魔力も全回復。
チャンプの腕を拾い上げ治療を施そうとした羽美に、声がかけられる。

「ここは私に任せて行きなさい」

先ほどまで、時に絶叫し、時に大仰なリアクションを行っていた実況者がマイクを置いてそう言った。

「なぁに、片腕切断くらい、怪我のうちに入りませんよ」

“ウィーアーチャンプ”

考えてもみてほしい。
チャンプは、羽美は、いや、すべての迷宮時計に巻き込まれし選手達は、時間遡行や空間遡行に支配されているのだ。
戦いたくもないのに、戦わされている。

それを、その理を、ここに集いしチャンプのファン40名は軽く超越しているのだ。

“ウィーアーチャンプ”

例えばこの実況解説者など分かりやすい。
常人なら目視適わぬ高速攻防を、技の種類や繰り出した意図を含めて解説し、不可視のはずの魔力を当然のように解説対象に含む。
当然ながら彼はチャンプやエフォートより強い。

“ウィーアーチャンプ(私たちはチャンプである)”

集った40人の中には運や金銭特化の者もいて、彼らに関しては戦闘力は並以下である。
しかしながら、半数以上はチャンプと同等か、それ以上の実力を持つ。

「行きなさい 今戦っているのは貴女なのですから」

実況者はそう言った。
羽美は、チャンプの顔を見やる。
彼もまた、行けと言っていた。

構内は悲鳴で染め上げられている。
先ほどのナタ使いが暴れまわっている。

狙撃を試みるも、人が多くて斜線が通らない。

そうして、彼女は駆け出した。




【8:シシキリ その2】


“キュア・サークル”でシシキリの位置を掴みつつ追跡を行う。

シシキリは、通り魔的にNPCを切り裂きながら疾走している。
そこにどのような戦術的意味があるのだろうか。

瞬間、シシキリが羽美の索敵網から消失した。
こんなことは今までなかった。

羽美は“キュア・サークル”の精度を高め、消失した付近を重点的に捜した。
見つからない。

サークルの範囲を広げる。
駅構内すべてをおさめるのそ索敵網はしかし、シシキリを捉えられない。

その代わり、恐ろしいものを捉えた彼女は、吐き気を堪える。
彼女の瞳が暗く沈む。

“ダーク・エフォート・クレイジーチェーンソーエッジモード”

魔法少女の闇落ち形態。
魔法は精神と肉体から捻出されるエネルギーを練って生成される魔力を運用する技術である。
練りこむ精神の質を調整すれば、それは魔力を纏わない生物に対して致死性を持つ。

これは、世界の敵を倒す際に羽美が用いる流法。

――――羽美は見た。
――――先ほどまで自分達に声援を送ってくれていた人達の惨死体を。
――――羽美は見た。
――――異世界から応援に駆けつけてくれた人達の惨死体を。

サークルによって索敵を行っていた羽美が突如転倒する。
足と胴体が離れていた。




【8:シシキリ その3】

『1998年11月。千葉のニュータウンを震撼させた猟奇殺人事件。
被害者は、堀町臨次(ほりまち・りんじ)24歳と、その婚約者、祝薗盛華(ほうその・せいか)25歳。
堀町は自宅で全身を拘束された状態で衰弱死。その側には斬り落とされた祝薗の四肢があった。』

―――― 1、堀町臨次が死亡した時に、彼の妻の遺体は持ち去られていた



堀町臨次(ほりまち・りんじ)は死してのち魔人として覚醒し――シシキリとなった。
堀町臨次は死後三日後、死体安置所で魔人となって蘇生し、人の世から姿を消した。

―――― 2、堀町臨次は死後三日後魔人となった



シシキリは殺した。何度も殺した。
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も殺した。
そうすることで、祝薗盛華を天国に送れると信じていたから殺した。

―――― 3、堀町臨次は祝薗盛華を何度も殺した



堀町臨次が魔人となった時点で彼の妻の遺体は“何者”かによって持ち去られていた。
つまり、堀町臨次は妻の遺体を入手してはいない。
彼が何度も殺したのは、気がふれた彼が祝薗盛華だと思っていたものだ。

シシキリは二人いる。




【9:真・シシキリ】

それは、呪いの機構だった。
人間の負のエネルギー、「怨」を使って組まれた、災厄をもたらす装置であった。

拷問により生じる、苦痛・憎しみ・恐怖。
それらの感情エネルギーを糧に作動し続ける擬似的永久機関がシシキリという存在であった。

その装置は潜在エネルギー量の多い魔人、特に感情豊かな女性で、不幸になった時のふり幅が大きい幸せの絶頂にいるような、そんな人材を見つけては達磨にし、拷問を加えていた。

堀町臨次はそんな営みの一端を見て、憎しみのあまりシシキリを模した存在になってしまった。

何年も、何十年も、何百年も負のスパイラルを繰り返してきたその呪いは神の如きエネルギーを内に蓄えている。
その発露の一端が無制限テレポートであり、本体である13個目の笑うダルマを破壊されない限り発揮する不死性である。

どんな防御をその身に施そうと、肉体の間から出現するナタによる四肢切断は防げない。




■10:アルティメット・ゴッドモード■


「ごめんなさい」

失った右脚の付け根から、ドクドクと赤い液体が溢れだす。

「ごめんなさい、ごめんなさい」

失った左腕の付け根から、同様に。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」

失った右腕の付け根から。

「ゆるしてください」

とめどなく流れる涙を拭う腕(すべ)は、もう彼女にはない。
彼女の謝罪は決してシシキリに対して向けられた懇願ではない。

それは、友に対する謝罪。

彼女は友のためにこの戦いにしがみついてきた。
勝ち抜いた末に正しい方法で時間遡行を手に入れ、友と再会する。

そのような甘い希望にすがり、彼女は彼女の手をこぼれ落ちた善良な人を、救えなかった多くの人から目を逸らしていた。
本当は、彼女には救う力があった。救う方法があった。

ダンッ!

最後の四肢が切断される。

(ひせき、さつき、わこ……ごめんね)

正義の魔法少女、世界の敵の敵、キュア・エフォートは未来・過去、亜空間を含むすべての多次元並行宇宙からその存在を消失させた。

アルティメット・ゴッドモード。

それは横紙破り。
優勝商品の不正入手。

時空間を行き来する魔人能力、神の箱舟(ゴッド・マシン)の奪取。

彼女は、時空間操作能力の残滓である迷宮時計の性能を、無限の魔力によって強化した。




【11:____】

意外と早いお戻りで。
4年ぶりですか?
決心はつきましたか?

制約は以前申し上げた通りです。
・貴女の存在は未来・過去、亜空間を含むすべての多次元並行宇宙から消失します。
貴女の望む干渉を行う上で、貴女という存在がいてはそれは成立しません。
・契約撤回は不可能です。
こちらも上記と同じ理由です。

本当に。いいんですね。

これは、係としてではなく、善良なあなたに対するサービスです。
上の人には内緒ですよ。

いいですか、あなたのやろうとしていることは、ほんとうに途方もないことです。
多次元並行宇宙は広がっていますし、そこに存在する不幸の数も増大しています。
貴女のやろうとしていることは……そうですね。
海岸の砂粒をひとつひとつ取り上げて、綺麗になるまで磨くような、そんな作業なのです。
波がまた砂粒を汚すので、決して終わりはありません。
しかも、やめようと思ってもやめられません。
どうですか、とてつもなくブラックなお仕事だと思いませんか?

……ああ、そうですか。そう言うと思ってました。

はい。はい。

お好きになさって下さい。
どうせ何を言っても無駄なんでしょう。
私はちゃんと忠告しましたからねっ!




【12:王道邁進】


「これまでの50年に」

「これからの50年に」

盃とコップが控えめに打ち合わされ、小さな音を発した。
お互いの顔を見ることなく、その二人の大男は宝石のように煌めく夜景に目を落としながら各々の飲物を口へと運んだ。
もうその土地に、かつてあったスラム街の趣(おもむき)はない。
半世紀をかけた区画整理の結果、その街は摩天楼と健全な娯楽施設が林立する若者の町へとその様を変えていた。

「……どうだ、これを機に酒を覚えてみねぇか?
それじゃあおめぇ、ムードもへったくれもあったもんじゃねー」

相方のコップに注がれたオレンジジュースを指しながら碧眼の大男が意地の悪い笑みを浮かべてそう言った。

「結構。生涯現役を志す吾輩には不要である」

「けっけ! 素直に下戸(げこ)だって認めろよ、ボーイ」




■13:vsシシキリ■


11月1日午前2時40分。千葉県某ニュータウン。山あいに建てられた小さな木造ツーバイフォー住宅が見えてきた。全身の力が抜けていくのを感じ、いけないいけないと俺は小さく頭を振ってハンドルを握りなおした。

ここ数週間は年末に向けたデスマーチで、帰宅が深夜を回ることは普通、会社に泊まることも珍しくはなかった。今日だって会社に泊まった方が合理的だったのは明白だ。それでも俺は車で片道1時間半かかるこの家まで帰ってきた。

2階の電気が消えている。もう「彼女」は眠ってしまったのだろうか。音を殺して車のドアを閉めた。昼にためた光をぼんやりと放つ腕時計の針を見やる。「そりゃそうだ」時刻を確認した俺はひとりごち、自嘲した。

がっちゃん。真新しい玄関ドアを開ける。ホワイトソースの香りがした。それと少しだけ焦げた臭い。 ……「盛華」のやつ、またやりやがったな。

『臨次さんお仕事おつかれさまです!今日はお野菜たっぷりのクリームシチューです!』ラップのかかった大皿の横にそんなメモが置かれていた。添えられていた(おそらく)ブロッコリーと(おそらく)人参を示しているであろうへたっぴなイラストに頬が緩む。

大皿をレンジにつっこんだ後、よく軋(きし)む階段を鳴らさないよう慎重に上り、寝室の扉をゆっくりと開いた。廊下から差し込む月光が婚約者・祝薗盛華(ほうその せいか)を照らす。

―――――会社を出る際、気心の知れた同僚に「よくやるよ」「お熱いことで。ごちそうさま」などと冷やかされたものだが、俺も同感だと思った。自分がこんなに情に厚い性分だったことに一番驚いているのは他ならぬ俺自身だ。盛華は、俺の知らない俺をいつも教えてくれる。

―――――「大丈夫ですか」 6年前のあの日、人通りの少ない食堂から理系棟への近道に蹲(うずくま)っていた彼女に俺は声をかけた。「もう大丈夫です!ほら」彼女は舗装されたアスファルトの隙間から生えるたんぽぽを指して誇らしげ言った。たんぽぽの茎には折れた跡があった。

―――――左脳はその埒外の返答に全力でアラートを鳴らしていた。このキャンパスには魔人学生も多く通っている。このように話の通じない相手はえてして魔人である可能性が高く、顔見知りになることでどんなトラブルを呼び込むかわかったものではない。愛想笑いをして立ち去れと左脳は告げていた。

―――――しかし右脳は、それ以上の強い命令を発していた。「ええと……たんぽぽを支えていらっしゃったのですか」「はい!」「花がお好きなんですね」ぱああと彼女の明るい表情が一段と明るくなったのを今でも鮮明に覚えている。「だいすきです!」左脳の理論警鐘は吹き飛んだ。一目惚れだった。

―――――はじめて出会ったあの日から俺は彼女に狂わされっぱなしだ。「点取り眼鏡」などという高校時代の陰口が示すように、俺は「理」に頼って生きてきた人間だった。そんな自分が一目惚れの末、恋愛結婚することになるだなんてかつての自分に言って聞かせて、果たして信じて貰えるだろうか。

数歩、ベッドに近づく。愛しい婚約者の顔を見ただけで、激務で萎(しお)れかかっていた心の花に元気が戻るのが感じ取れた。このために俺は帰って来た。

「さみしい……よぉ……」不意に、夢中のはずの彼女がそう漏らした。心苦しくなって、彼女のふんわりとした髪越しに頬を撫でた。ここ数週間の間、ろくに構ってあげられなかったことを心中で詫びつつこれからに思いを馳せる。

とりあえず山場は今週一杯だ。あと3日乗り切れば、きっと久々の日曜日(きゅうじつ)がある……はずだ。日曜日になったらどこかドライブへ行こう。学生時代何度も何度も通った噴水の綺麗な公園でもいいし、君が大好きな植物園だっていい。あるいは農協の催しも楽しいかもしれない。

あと1ヶ月もすればクリスマスだし、年明けには初詣と親戚巡りも待っている。親戚巡りは少し気が重いが、君のためなら頑張れる。そして来年の春にはいよいよ式だ。会場の選定すらまだだが、何故か俺たちよりも熱心におふくろが準備と根回しをはじめてくれているらしい。

そうだ、日曜日のドライブは式場の下見に行くというのはどうだろう。安直な発想だが、「花の階段」というオプションがある式場が俺の中での最有力候補だ。君はきっと期待通りにはしゃいでくれるに違いない。決めた。朝食の時にこのドライブについて切り出そう。そのために――――

―――――がちゃん。……静まり返った一軒家に、玄関ドアの音が響いた。

血の気が引いた。瞬間的に、心の平穏を取り戻すべく自分の耳を疑ってかかった。(今の音は気のせいではないのか。)(今のは本当に玄関の音だったのか。)(何か違う音を誤認してしまったのではないか。)

息を潜めて階下の気配を探る。人の気配はしない。こんな時間に呼び鈴も鳴らさず他人の家宅に入ってくる者がいるとすれば、それは決して善良な者ではないだろう。……帰宅時に鍵をかけたか思い出す。覚えていない。盛華に会いたいあまり浮足だっていた。

じとりと嫌な汗が浮かぶ。階下に気配はない。「気のせいだ。気のせいだ」そう何度も自分に言い聞かせながら、念のため、いざという時の武器を探す。バットも、ゴルフクラブも、バールも寝室には存在せず、仕方なく粘着テープの筒が先端についたカーペット用清掃器具の柄を握った。

およそ2分、永劫にも感じられたその時間を、息を潜めて階下の気配を伺うことに費やした。階下に気配はない。それだけの時間をかけ、落ち着けた心でもって這うように部屋を出ることができた。意を決して階段の電気をつける。階下から反応はない。

ギィ。ギィ。軋む階段を一歩一歩確かめるように降りる。「ていやぁ!」階段を降り切る直前、死角である階段脇から何者かに襲われることを想定して、薄暗い空間に向かって武器を振った。手ごたえは無い。階段を降り切った場所にあるスイッチを押す。廊下に明かりが灯る。

玄関を確認。ターン式の鍵は閉まっている。ここにきて、俺はようやく8割方の心の平穏を取り戻していた。「鍵の開いた玄関から誰かが侵入したのであれば、鍵を閉めなければ今の状態にはならない。耳を澄ませて聞いていたが、そんな音はしなかった。」そのような論理的思考が安心感を与えてくれる。

(それでは先ほどの音はなんだったのか。)その考えが頭をよぎった時――――

――――チン! 「わひゃあ!」 突如鳴り響いた電子音に心臓が飛び出しそうになり、勢い余って武器を2度振りまわした。フーフーと一瞬であがってしまった息を整えているうちに、そういえばシチューを温めていたのだったと思い出した。武器が当たって少しへこんでしまった壁を見てため息をついた。

キッチンまで移動し、レンジからシチューを取り出す。シチューを食卓まで運ぶ間に思考を巡らせる。(さっきの音は近所の家のものかもしれない。耳が静寂に慣れていたせいで、過敏に感じ取ってしまったに違いない。きっと疲れのせいだ。これを食べたらシャワーを浴びて早く寝よう。)

そうして食卓にシチューを置き、箸立てにさしてあった大きめのスプーンを手にとった。その時、愛しの婚約者が書いた元気の出るメッセージが目に入った。カラン。俺はスプーンをとり落とした。

『臨次さんお仕■■■れさ■■■■■今日■■■■っぷり■■リー■■■■■で■■』メモは赤い線でグチャグチャに塗りつぶされていた。気のせいじゃない。この家に、何かがいる。そして、そいつは恐らく狂って――――

――――ギィ。ギィ。階段の軋む音。俺の頭の中で小さな爆発が起こった。「盛華ァ!!」気が付いたら叫んで、走り出していた。廊下に通じるドアを力一杯はね開け、階段を全速で駆け上った。寝室のドアを開け照明のスイッチを叩き付けた。

「んぁっ……おかえり、なさい?……りんじさん?」まだ、夢から覚めきっていない彼女がそこにはいた。「盛華……!」一歩踏み出した瞬間、こしこしとこすっていた眠たげな彼女の瞳が見開かれた。「きゃああああああああっ!!」

その時だった! 「アークエンジェル・キュア・ストライク!」背後から素っ頓狂な叫び声がした。青白い明滅と爆発音を経て、嫌な気配が霧散した。 振り向くが、誰もいない。 一体なにが起こったというのか……。

ほりりん@Hori_rin_say_ho
わからない、わからないが……俺は取り乱す妻の手を握った。その手はとても温かかった。 26