第二回戦SS・坑道その2


「死ヒャッキァーーー~~ッ! おふたりさぁ~~~~~~ン!」

 雄鶏の断末魔かと聞き誤らんばかりの奇声が、二つの影が対峙するほの暗い坑道の静寂を塗りつぶして黒々と光る岩肌に反響した。若き青年と幼き少女の姿をとった二人の異形は、身をこわばらせて振り向き、その光景を見た。すさまじい速度で横穴から一直線に突入する脱線トロッコにしがみついたその怪人は、わずか一秒にも満たない瞬間に、常軌を逸する早口で、確かにこう言ったのだ。

「この圧倒的質量とスピードで圧し潰して轢殺さし上げますよォォ~~ッ! 大丈夫、だァい丈夫……あなた方のことは、きっと誰かが見つけて助けてくれます……土の下で十億年寝ぼけて、冷たい化石になった貴様らをなぁ~~~~~っ!!」

 莫迦な、と、年若き夜雀の怪、蒿雀ナキは戦慄する。ここは炭鉱だぞ。このような場所であんな行為……愚かな……自分が何をやっているのか、わかっているのか!? 彼には知る由もないことであったが、その闖入者はすべてを承知していたのだ。気づかなければならないことに、あえて何一つ気づかない、鍋の火で暖をとる鴨の如き器用な愚かさを。なぜなら、ツルハシを振り上げ、丁寧にもわざわざ「安全第一」のヘルメットをかぶり、口が裂けんばかりの笑みを浮かべながら暴走するそれは、永久必滅、古今東西下に這うもの無き敗技の王――『糸目』であったからだ。だからもう一人の娘もまた、ぽかんと口を開けてただその尋常ならざる事態を見送るしかできなかった。
 案の定、不吉な唸り声をあげて疾走するトロッコはまったくその目論見を果たすことなく二人の間を空しく通り過ぎ、轟音とともに岩壁に衝突した。
「ここでゴロゴロ転がる石コロのお仲間にグゲァアッ!?」
その上の怪人もまた、常人ならば背を真っ二つに折られるほどの衝撃で壁に叩きつけられた。だがそんなことはどうでもよい。蒿雀ナキの、妖の目には眼前すべての情景が麺棒で引き延ばされたかのようにゆっくりと見えていた。問題は、この、辺り一面に巻き上げられた粉塵……トロッコに満載の石炭……そして、致命的衝突……断ち切られた電気ケーブルが火花を散らす。それらが引き起こす結果は、もはや当人以外の、誰の目にも明々白々であった。

 炭塵爆発。小さな火種により産まれた微細な石炭粉の燃焼が、薄汚れた大気の中次々と連鎖する。水に墨が滲むが如く、燃える、燃える、燃える。瞬きほどの間に、坑道は爆風と炎が支配する炎熱地獄と化していた。

「「「アアアアアァァァーーーーッッ!!!」」」

 崩れゆく洞穴の中、骨を砕く衝撃と肉を焼く熱とに蹂躙された三者の叫びが同時に木霊した。


 ● ● ●


「やれやれ、助かりました。貴方がまだご無事でいてくださって」

 この大惨事の根源、焼け焦げた神父服に包まれた糸目の男は、物腰柔らかな笑みの奥から事も無げにそう言った。
「これで万が一勝利などしてしまっていてはまた『糸目』の面汚し、最低の落ちこぼれのそしりは免れ得ないところでした」

「……それは重畳」
男の口から紡がれる言葉は蒿雀ナキにとって半ば以上理解不能であった。彼は岩盤の石炭に赤く小さく燃え移っていた火種からひしゃげたカンテラを灯すと、やや離れた位置に立つその男の姿を朱のあかりの下で見据えた。決して偉丈夫とは言えぬ細身の肉体は、あの凄まじき爆発の中心にいたとは思えないほどの健常ぶり。やけどや切り傷こそ随所に見られるものの、身体動作に支障は見られない。尋常ではありえぬ頑強さである。
 おそらくそれがこの魔人の秘なる力……とナキは推察した。かの者の輪郭は先の強襲で見せた姿と比べて、あきらかに一回りほど小さくなっている。肉体強化の能力。それが彼奴を守った。爆発の瞬間、咄嗟に岩壁のくぼみに逃れて身を守ったナキの方がかえって傷は深いありさまであった。右腕を骨折、手首から先が動かぬ。だがそれも、残るもう一人に比すれば些細な軽傷であったが。

「アー……アー…………」
ナキは眇目の視界の端でうつぶせに倒れ臥す娘の姿を捉えた。全身からおびただしい量の血を流し、その四肢は半ば千切れかかっている。かろうじて口から漏れ出るか細いうめき声だけが、まだその者に命の灯火が残されていることを示唆していた。もっとも、命しか残っていないと言ったほうがより正確であった。焦点の定まらぬ目はどろりと虚ろに濁る。そう長くは持つまい。
 彼は先程一対一の対峙の折にこの少女が見せた恐るべき力を追憶した。このちっぽけな娘の正体は、動く穴を操る魔人。手足から続々と湧き出し、壁や床を伝って襲い来るその穴の移動が、もしあのときナキ自身にまで到達していれば、容赦なく肉をえぐり問答無用で彼そのものを消失させていただろう。だがその災厄はあの馬鹿げた不慮の出来事によって中断、いかなる故にか彼女自身の肉体を襲ったようだ。その手足は機関銃の目前に立ったかのように蜂の巣めいて穴だらけになっている。凶悪な致死能力の使い手が背負うリスクの大きさはここまでのものかと、ナキは己の力を省みて思う。

 それにしても、とナキは全身の痛みに耐えて憎憎しげに呟く。私と迷宮時計との繋がりの欠落、そのなんと歯痒きことよ。今回もまた、ナキの時計は何の前触れもなく何一つ情報を伝えずにこの戦場へとナキを運び入れた。僥倖にしてこの名も知らぬ娘との一騎打ちは万全の状態からはじめられたが、そこへ想像だにせぬ三人目の乱入である。毎度このような調子では、たまったものではない。今回とて、まだ四人目、五人目がおらぬとも限らぬではないか……

「しかし、これは……完全に閉じ込められてしまいましたな」
神父姿の糸目男の言葉がナキの精神を沈思黙考から現実へと呼び覚ました。然り、先程の爆発で起きた小規模な岩盤崩落の際に、三つばかりあった出入り口は全て塞がれ、踊り場のかたちをした坑道内の広間がそのまま二十畳ほどの地中監獄と化していた。
「どうですか、若き御方……こうしてここで我等が出会えたのも何かの縁。ここはひとつ、身の上話などいかがでしょうか。慰みにはなりますし、なにより情報の交換はお互い損にはなりますまい」
 ナキには本格的に男の言うことが理解できなかった。お前のせいではないか。あれだけのことを自分でやっておいて何をいけしゃあしゃあと……それ以前に、こうして時間を引きのばすことがこの男にとってなんのメリットとなる。戦況はあきらかにあちらの支配するところ。閉ざされた坑道、もたもたしていては酸欠やガス中毒の危険すらある。肉体強化の能力……連続使用できぬ、何らかの時間制約があるのか? だったら今こそ仕掛ける好期……いやしかし、穴の女もまだ生きている。やすやすと背を向けるわけにもいかぬ……あれを先に始末すべきか……だがそれこそが奴の思う壷……

 ……ああ、彼には知る由もない。それはまさに己を自滅へと導く『糸目』の技法における真骨頂であった。戦うべき敵といたずらに対話する。みすみす機会を逃す。ここぞとばかりに隙を増やす。いらぬ情報をわざわざ与える。『糸目』は勝利のためではない。敗北のためにこそ戦っているのだ。他者をも引き連れ、断崖絶壁へと邁進する、それは他の何人たりとも理解できない、狂気の生み出した死地への進軍であった。

 ふう、とナキは息を吐いた。カンテラに照らされた端正な青年の横顔に危うい色香が漂う。もともと彼は策を弄するようなせせこましさを持ち合わせてはいないのだ。いかなる場合にものんびりどっしりと構えるのが妖の流儀というものである。
「良いでしょう……どうやら我等四人、ここから出ることはどうにもかなわぬようですから」
「は、四人……?」
此度は糸目のほうがナキの言葉の真意を推し測りかねた。

 糸目はナキの視線の先、不自然に空けた立ち位置に目をやるが、そこには何者の姿も見えなかった。


 ● ● ●


 鉱山で死した鉱夫の亡霊を、敷次郎と呼ぶ。青白い顔で現れ、その身体からは鉱石に振るうツルハシや水脈の流れる音が聞こえるという。この戦場、過去の鉱山が正確にいつの時代なのかはわかりかねるが、ほんの七、八十年ほど前まで炭鉱での採掘は囚人ドワーフや奴隷エルフなど虐げられしものたちが従事する仕事とみなされていた。人権などという言葉すらない時代、そのような場であったから、その労働環境はまさに熾烈を極めるもので、重大事故は日常茶飯事、常に死と隣り合わせの生活であっただろう。それが故か、炭鉱すなわち「ヤマ」に生きる人々の間では数限りない迷信やまじないが編み出された。曰く、坑内で笛を吹いてはならぬ、拍手をしてはならぬ、坑道をアナと言ってはならぬ、下駄をはいてはならぬ……鉱山の霊、敷次郎もそのような人々が紡ぐ日々の祈りの産物であったのだろう。

「先程までの蒸し暑さから一転、鳥肌の立つ寒気が生じたのはそういった理由でしたか……しかしお恥ずかしい限り。私は神に仕える身でありながら、かれら霊魂と対話するための霊視の力を何も持たぬのです」
男は何もない虚空にその糸目を向けて語る。だが蒿雀ナキの、妖の目には、確かにそこに青白い肌をさらした鉱夫の亡霊の姿が映っているのだ。その佇まいからして、それは今回の崩落ではなくもっと以前の事故によって命を奪われた者であろうと思われた。
「ですが、どうか祈らせてください……この者の魂の安息を。そして、この忌々しき時計にまつわる全てのものたちが救われますようにと……」
糸目は右手で十字を切ると、短く死者への祈りを捧げた。それを聞いても敷次郎は身じろぎもせず、ただ青白い顔でその場にじっと立ちつくしているだけだった。

「申し遅れました、私は綾島聖という者。学園の礼拝堂に住まう神父です。私がこの時計を手にしたのも何かのさだめだったのでしょう……元々の持ち主は、学園の女生徒。優しい子でした。今は、彼女はもう……それから私は時計に運命を狂わされた、たくさんの人々に出会いました。争うもの、傷つくもの、自ら死を選ぶもの、斃れるもの……私は、かれらを救いたい。いや、神でもない人間がこのようなことを言うのはおこがましいでしょうか。しかし、それでも私は……この手の届く人の数などたかが知れているでしょうが、それでも私は何としてもかれらの力となりたいのです……」

 その後も糸目の神父は臆面もなく如何に己が人格者であるかをとうとうと語ってのけた。ナキは冷ややかな目でそれを見やる――この類いの存在を聞いたことがある。うつしよに住まうは人間。かくりよに彷徨うは霊魂。そしてその間を繋ぐは妖怪。人、霊、妖。三界すべてに交わりて、三者いずれにも属さず、ただその下で蠢く外法のものどもがあるという。それが、三下である。その立ち振る舞い、口から吐く妄言、そして何よりその顔に深くふたすじ刻まれし糸目――この男は紛れもなく、幻界の住人、三下であった。

「そして、貴方は蒿雀ナキさん……それとも一切空さん、ですかな?」
「蒿雀ナキ。一介の送り雀です……私には二十二になる妻がおります。私については、それで十分でしょう」
ナキは話を即座に打ち切るとわずらわしげに「次」の話し手を見た。成る程、あれの名は一切空。血まみれでぴくりとも動かぬが、まだ生きている。何も話せる状態ではないだろうが……話したところで、あれから何か得るところがあるとは思えない。先程真正面から目を覗いたが、そこに意思や目的といった類いは感じられなかった。その名が示すとおり、この者の存在は現世に空いた空虚な洞穴そのものなのであろう、とナキは思った。


 やや重苦しい沈黙が続いたそのあと、唐突に「四人目」が語り始めた。

 それは敷次郎であった。この場の空気にあてられたか、青白いその身体から、ツルハシの音で、水流のささやきで、ただ、帰りたい、帰りたい……と。その声は目を持たぬ神父にも確かに聞こえていたようだった。蒿雀ナキは敷次郎を見やる。その背には、琵琶を奏でる弁財天の立ち姿があでやかな筆致で美事に彫られていた。その顔かたちは、仏画にしてはふさわしくない写実的な似姿である。この絵にはモデルがいるのだろう。おそらくは、この鉱夫……帰らぬ夫を待ち続ける、女房――

 帰らねば。蒿雀ナキはすうと目を閉じ決意を新たにした。彼は世間話をしに戦場へ降り立ったのではない。ましてや石の下にうずもれるためでもない。妻のもとへ帰るために、妻とともに老いるために来たのだ。

「最後に一つ聞かせてください……」
ナキはゆらりと身を起こしながら糸目の神父へと言葉を投げかける。
「綾島聖とやらは、いまどこにいるのです」

 それを聞いた神父はまるで異国の言葉を聞いたかのように糸目をぴくりと痙攣させ、口の端に引きつったような笑みを浮かべながら答えた。
「はて、妙なことをおっしゃいます。わたくし綾島聖はこうしてここに……」
「私が言っているのは、ほんものの、綾島聖神父のことです」

 それを聞いた瀕死の少女、一切空もまた、うつぶせに倒れたままその目を見開いていた。


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「……あなたは礼拝堂に住んでおられるとおっしゃいましたが、居住施設を含む教会の聖堂まるごとを礼拝堂と呼び習わすのは、プロテスタント宗派特有の物言い。カトリックの神父が用いる言葉遣いではありますまい。また十字を切られていたが、それも作法とは左右が逆。それに何より――」
ナキはそこで一度言葉を切ると、冷たく無慈悲に言い放った。
「――探偵でなくともわかる。貴方のような者が、生徒から信望篤く皆に慕われる神父……何年も? その本性を隠して? できるわけがないでしょう。莫迦にしないでいただきたい。確かにそのような者はおられたのでしょう。貴方が成り代わる、その前には……」

 綾島聖――否――神父姿の糸目の返答は……
「ケヒャッ」
……この世のものとは思えぬ、身を引き裂かんばかりの狂笑であった。


「ケキャケカヒャキャケキャヒキャキキヒャキャケキカヒカヒャキャケヒャカヒケヒキケカヒカヒャキカカヒキャヒャヒャヒャヒヒャヒャケカカヒャカヒヒキキキャカヒヒャヒャキャヒャキキカカヒャカカヒカヒキヒャキキヒャケケカキャカキャヒャケキヒャキャキャカキャキヒキャキャキカヒケキキャキャ」


 糸目は一歩一歩、ナキの元へと歩みを進める。歩くごとに、その身体は、その筋肉は、風船のように膨れ上がっていく。肉体強化の能力。

「キヒ……綾島聖……綾島聖神父はですねェ……今もあの礼拝堂に、おっと聖堂でしたか……シヒャヒャ……迷える子羊のみなさまと共に静かに憩っておられますよォォ……美しいィィ庭の、花壇のその先、共同墓地の、土の下になァァァーーーッヒハァァァーーーーーッ!!」

 来る。ナキは必殺の爪を左手で構えた。その風貌は青年のようであり、少年のようでもありながら、また百年の生を経た妖の凄みが感じられた。全身に纏う敵意が殺気のかたちをとって周囲に漂う大気を孕ませていた。

「よォくも見破ったァ! よォくぞ見破ったァァァ! 白日の下に晒されるその無様な敗北こそ我らが本懐! 開いたその目に焼きつけよ! 糸目は顔を持たず! 糸目は名を持たず! 糸目は森羅万象に偏在す!! ねェあなたの奥さん……無事に帰り着いたならその顔をよくよく見てあげてごらんなさい……その目、その瞳、どんなかたちでしたか? いつから? もとから? 糸目に変わっているかも知れませんよォォっホォォォォーーーー〜〜〜〜ッッ!!」
 その弁舌、わずか零秒半! 口蓋から飛び出た長い長い舌が跳ね回る! 肉体強化の為せる業だ!!

 凄まじき速度で大男が眼前に迫る……だがナキはもう十分理解していた。この者の思考はわからずとも、次の行動ならば読める。適当な挑発で煽ってやれば必ずや直線的な軌道で突っ込んでくる……それが三下という存在だ! まさに自滅! なんたる愚行! いかなる超人的動作であろうと軌道があらかじめ見えていれば避けるは易し。ひらりと身を返し、無防備な首筋を狙って、唐竹を切り裂く爪の一閃……だが! 爪が通らぬ! 筋肉である! もはや内から張り裂けんばかりに膨れ上がった僧帽筋が、ナキの妖爪をへし折った! 道理も節理も捻じ曲げる、それは圧倒的な暴力!
 伸ばしたその手首が、万力の如き怪力で掴まれる。骨が悲鳴を上げる。糸目は笑っていた。次の瞬間、折れた右手の防御をこじ開け、みしり、と、ナキの薄い胸に糸目の肘がめり込んだ。ナキは数秒呼吸の仕方を忘れた。鉛の砲弾に匹敵するほどの、重い一撃。糸目はさらに片腕を振り上げると……力の限りその巨大な拳を叩き込んだ。ナキは紙くずのように軽々と吹き飛び石段を転げ落ちると、崩落した瓦礫に全身を叩きつけられた。膝からくず折れて、木柱に倒れ掛かるナキ。その傷ついた顔は、彼の本来のかお、瑞々しき少年のそれに戻っていた。

「どうしました? どうしました雀の旦那! もっと! もっとそのカワイイ鳴き声をよォく聞かせてくださらないと! その名のとおりにねェ!! さあ鳴いて泣いて啼いて!! 助けなど、絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶ッ~~~~~~~対に来ないのですからねェェェーーーーーーッ!!」

 たった一度の交錯で勝負は決していた。ナキはごぼりと喀血する。折れた肋骨に、肺がやられた。糸目が再びゆっくりと近づく。阿呆らしいほど隙だらけのまま、ゆっくりと、一段一段石段を下りて。ナキに立ち上がる力はもはやない。だが……「四度」触った。それでよい。それで十分。勝負はこれで決した。


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「…………アー……………………」

 ……そのとき地に伏せる一切空は……穴の娘は、己の失われつつある体温を感じながら、ただ一つその身に残された意思に鞭打たれていた。階下にある二人の姿をみとめると、もはや動かぬ四肢の代わりに、彼女は土に顔をうずめたまま口をぽっかりと開け、並び立つ歯の奥、赤く濡れた、丸く穴の空いたその舌で、地をそっと舐めた。穴はただ一つ地に降り立ち、するすると岩を這い――それはあまりにも弱弱しく――目的の場所に到達した。


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 ナキは己の持つ力を省みる。すべてを消し去る穴や、岩をも砕く剛力などといった大それたものではない、身の丈に合ったちっぽけな妖術だ。力の名は、五々色鳴。ただ、ほんの少しかき混ぜるだけの力。触れた対手の、その五感を、ほんの少しだけ……

 勝負は決した。ナキは震える左手で、傍らに転がる石炭を掴むと、坑道を照らす唯一の光源、あかあかと炎を燃やすカンテラへと投げつけた。ガラスが粉々になる。すべての光が消失し、完全なる漆黒の闇がそこに顕現した。

「おや……かくれんぼですかねェ……可愛い可愛い小雀ちゃん……でもどんなに上手にかくれても……可愛いシッポが見えてますよォォ~~~~ッ!?」

 闇の中、糸目の肉体強化は瞬時にその形相を変えた! 服を引きちぎるほどの筋肉増大はなりを潜め、代わりに五感全ての知覚力を極限まで高めた形態へと、力を移し変えたのだ! そして、さらに! おお、今まで頑なに閉ざされていたその糸目が、一筋の光たりとも逃すまいと宣告するが如く、かっと見開かれたではないか! 今やその外気に開かれた瞳は、ほんのわずか岩壁に赤く光る石炭の火をつかまえて、超高感度暗視スコープの如く、暗闇に潜む夜雀の姿をありありと捉えている! 左手を唇に沿えて、今まさに指笛を吹き鳴らさんとする、蒿雀ナキの姿を!!


 ――そして、耳をつんざくばかりの指笛の音が、短く鋭く暗闇の坑道に響き渡った。それで終わりだった。


 蒿雀ナキの五々色鳴は五感をかき乱す力。一旦触れてさえしまえば相手の五感は思うがまま、鼻で音を嗅がせるも肌で味に触れさせるも自由自在である。いまその対象者のすべての感覚器官は、音を聞く聴覚へと矛先を向けられていた。己の能力によって数千倍にまで高められた知覚は、長く伸びた舌で、空気に晒した肌で、鼻で、耳で、そして何より大きく見開かれたその目で、すべてこの破壊的な破裂音を漏らさず聞くよう命ぜられていた。
 全身の幾兆もの細胞から、電気ショックの億倍にも達する量の刺激伝達を生身の脳髄に叩き込まれて、糸目はその顔に永遠に張り付いた笑みとともに、立ったまま絶命していた。いや、それはもはや糸目ではない――ましてや綾島聖とも呼べぬ――そのかつて閉ざされていた目は今や血の涙を流しながら、皿の如く開かれていたのだから。皮肉にも彼の悲願、完全なる敗北という至上命題は、彼が糸目をやめたそのときにこそ訪れたのであった。蒿雀ナキのものではない、己自身の強大な力によって――


 ナキは真っ暗闇の中、血を混じらせて咳き込んだ。無理をした。やはり肺へのダメージは大きい。だが、それももうしばらくの辛抱。先の対話で奴が漏らした情報から、もうわかっている。敵は残すところ死にぞこないの一切空のみ。あとはあれをそっとくびり殺すだけ……簡単な仕事。簡単な仕事だ。しかし……彼はほんのわずかな、ささいな見落としをしていた。指笛を彼が吹き鳴らしたとき、その音の衝撃に一切空もまた最後の意識を手放していた。それで終わりだった。彼はヤマのタブーを侵したのだ。


 曰く、ヤマで笛を吹いてはならぬ。木柱のくさびが割れる音が聞こえぬためである。


 ナキは頭上の異変に気が付いた……だが、遅かった。岩盤の天井が、きしみ、歪み、ひび割れ、そして……決壊した。瓦礫が彼の上に降り注ぐその直前、彼は暗闇に隠れて見えざるその存在を悟った。
「……穴……!」
然り。爆発に耐えてかろうじて坑道を支えていた木の柱のうち、ナキの背にあった一本。その末端に差し込まれたくさび状のカミサシに、致命的な穴が生じていた。そしてたったいま、彼は二つ目の禁忌をも侵していたのだった。


 曰く、アナと口にしてはならぬ。墓穴を連想させるがためである。


 一切空が最後にそこへ残した、ちっぽけな穴。彼女が笛の音にその意識を奪われたとき、空想の、形而上の穴は制御を失い、形而下の、現実のものへと変化していた。己の現実を知ったカミサシは天井の重みに耐えきれず、まっぷたつに割れた。柱は支えを失い、その結果が、微塵の容赦もなく蒿雀ナキの身体を圧し潰していた。
 やがて割れた天井から、滝のような水が流入をはじめた。彼は岩の下でその水を全身に受けていた。……塩辛い。海水である。この炭坑は、海辺から海底に伸びてその真下にあったのだろう。荒れ狂う海水は徐々に、確実にその嵩を増していく。ナキは己が残した敵、一切空のことを思った。あれは己よりもずっと高い位置に倒れていた。ずっと高い位置に……

「すまぬ」

 ナキはそう呟くと、最後の力を自身に向けて放った。五々色鳴。五感をかき乱す力。彼の五感は、舌も、肌も、鼻も、耳も、目も、すべてが闇の中に閉ざされた。口中に入る塩水は、もう辛くはなかった。


 ● ● ●


 鉱山で死した鉱夫の亡霊を、敷次郎と呼ぶ。青白い顔で現れ、その身体からは鉱石に振るうツルハシや水脈の流れる音が聞こえるという。終の住処すら溢れる水に奪われた哀れな霊魂は、その内にたゆたう二つの躯を恨めしげに眺めたのち、やがてふっと消えた。

最終更新:2014年11月15日 19:29