第二回戦SS・坑道その1


最悪の爆発とは何か?

雷酸銀、ニトログリセリン、ニトロトルエン、ナパーム、中性子――
近世以降、この世界にはさまざまな爆薬があり、
それを用いた爆発という現象が存在する。

だが、こと坑道という舞台において、「最悪の爆発とは何か」を問うとき、
『彼ら』は必ずこう答える。

坑道における、最悪最低の爆発は何か。
――すなわち、 粉 塵 爆 発 。


* * *

蒿雀ナキは虚無を見た。
その圧倒的なまでの深淵は、ただ「穴」と呼ぶには空虚すぎた。

数は四つ。
親指ほどの穴が、壁を、あるいは地面を、滑るように近づいてくる。
歩くような速度だった。

蒿雀ナキは、ただその「穴」の空虚な深淵を美しいと思った。
だから背筋が冷えた。
これは、良くないモノだ。

「そうですね。あなたは、」

蒿雀ナキは何か意味のある言葉を発しようとして、途中で声をため息に変えた。
その無意味さを知ったからだ。


彼はいま、一つの存在と遭遇していた。
そこは長く湾曲して続く、坑道の一角。分岐する三叉路の一点であった。
床をトロッコ用のレールが伸び、壁面には灯油式のランタンが灼然と輝く。

存外に明るい坑道だ。
それもそのはず、坑道における照明器具は、作業の安全性に直結する。
最盛期の鉱山が、十分量の照明を確保しているのは当然のことである。

だが、その光でさえ、ゆっくりと床と壁面を進み来る「穴」の、
底知れぬ闇の奥を照らすことはできていない。
その「穴」の空虚さ、ともすれば吸い込まれそうな魅力すらある深淵は、
蒿雀ナキがいま対峙している人間型の《存在》と同質のものであった。

そう、《存在》と呼ぶしかない。
蒿雀ナキには、それが人間や、単なる生き物とはどうしても思えなかった。
全身に無数の穴を持ち、灰色の衣をまとい、四つん這いにうずくまる彼女。
蒿雀ナキは、散策でもするように向かった坑道の先で、それと出会った。

「一切空、さん」

その存在の名前を、蒿雀ナキは知っている。だから呼んだ。
裏の世界では、彼女は芸術品として有名すぎた。

「ア」

一切空に、反応らしい反応はなかった。
ただわずかに口を開け、短い声を漏らす。
垣間見えたその喉の奥にあるのも、また、空虚な深淵。

そこには、確かに美しさがあった。
異界の美ともいうべき何か。
一切空という芸術品を真の完成品へと導びくため、
華麗な残酷殺害で終焉の美を追求したいと思う者もいるであろう。
あなたもその一人ではないだろうか?

それはさておき、このとき蒿雀ナキは、一切空の反応から直感的に理解した。
自分は妖怪であるが、彼女は言うなれば「妖」。
そう呼ぶべきであろう。
人間の中には、時としてそうした存在がいる。

「あなたとは、交わす言葉もなさそうですね」

蒿雀ナキの声には、わずかに惜しむような響きがあった。
深淵たる「穴」が人間の姿をとっているのか。
人間が深淵たる「穴」の姿をとっているのか。
このような存在を、彼の知る『親分』は面白がるであろう。

「――――あーーー」

一切空は、意外にも蒿雀ナキの言葉に応じた。
這いつくばったまま、今度はやや長めに声をあげている。
すると、その体の下から、三つ、四つ――さらに「穴」が滑り出た。
地面と壁面を、歩くような速度で這ってくる。蒿雀ナキはそれを見る。

「さて、この穴……」
いったい何か、と、蒿雀ナキは問わない。
触れれば危険。「穴」にはそう思わせるだけの何かがあった。

「……そうですね。少し間違えました」
そこで、蒿雀ナキは己の失敗を悟った。
周囲を十以上もの数の、小さな「穴」に囲まれている。

「穴」の接近速度が、あまりにも遅かったから。
接触せねば意味のある攻撃ではないと思ったから。
出会い頭、四つん這いの一切空を見て、その様子を見るという心理が働いたから。
――その全てが、一切空の心理的な罠であったのだろう。
思考時間を与えられたが故の、行動の保留を促すトリック。

結果として――もはや蒿雀ナキは「穴」に包囲され、袋の鼠、いや! 袋の雀!
逃げ場など見当たらず、このままでは穴だらけになって蜂の巣貫通残酷死目前!
早くお前の血が見たいぞ、蒿雀ナキ――!

「まったく妖怪というモノは、呑気にすぎます」
蒿雀ナキは、自嘲を含んで呟く。
この状況下での、そうした呟きこそが、彼の根本的な呑気さの表れであろう。
人でも魔人でもない妖怪の身なればこそ、人間の心理や駆け引きを理解し切れぬ。

翻って、一方、一切空はどうか。
彼女の表情から、感情らしい感情はない。読めない。

それでも「穴」はさらに増えつつあり、蒿雀ナキを確実に包囲しつつあった。
このまま座して待てば、間もなく「穴」は彼の足元に触れる。
避けるべき――いや、違う。それも否。

(こちらから、仕掛ける)
打開策は、やはりそこにしかない。
退けば追われる。

逃げるにあたって、照明は十分にあるが、この坑道という状況がいかにも良くない。
壁面と床の地質が織り成す陰影から、「穴」を見分けるのは困難だ。
逃走という余裕のない状態で、密かにこの「穴」を回り込まされたら、回避はなお困難。

(一策、試そうか)
蒿雀ナキは身を沈めた。
手を打たねばならない。本当なら、いますぐ踵を返して逃げたいほどだ。
しかし、蒿雀ナキには危険を冒すだけの理由がある。
帰るべき場所があった。

そのためには、この一切空の穴だらけの体を引きちぎり、
ねじ切って、残虐殺害により妻の元に生還するのが確実。
殺せ、蒿雀ナキ! 一切空を赤く美しく殺せ! 我々は血に飢えている!

(いま――)

蒿雀ナキは攻撃に移ろうとした。
異音を聞いたのは、そのときであった。

ォォォォォォ――――

何か。
耳障りな音が、近づいてくる。
それも、相当な速度で。

ォォォォオオオオオ――――

蒿雀ナキの耳は、それが人間の声と、金属の擦れる音が入り混じったものであることを聞き分けた。
一切空も、その黒い穴のような瞳をわずかに動かし、そちらに一瞥をくれた。
そして、それを見た。



「ぉぉぉぉおおおおおおおおやおやおやおやァァァァァァ!
 感心しませんねェェェェェエエエエエーーーーーー!
 争いは何も生みませんからァァァーーーいますぐ皆さんで握手してェェェェーーーッ!
 この坑道で仲良く隣人愛でお互いの左頬と右頬を
 粉塵爆発ゥゥウヒャァァァァァァァァァアガガガガガガガッ!!???」



恐るべき早口から、『それ』が飛び込んできて、轟音を響かせるまでは、
おそらく三秒にも満たない時間であっただろう。
それは神父服に身を包んだ、常に温和な笑みを絶やさない、物腰柔らかな糸目の男であった。

ただし異様だったのは、彼が大型のトロッコに乗り、
蒿雀ナキと一切空のちょうど中間にあたる地点へと、高速で突進してきたことだ。
――三叉路の中央へ。

蒿雀ナキは思った。
(なんだろう、これは)
何一つ、彼の存在と、彼の行動と、彼の言葉が理解できなかった。
自滅のために飛び出してきたとしか、思えなかった。

三叉路であるからには、当然、トロッコの進路を切り替えるポイントがある。
そして、その神父服の男、つまり綾島聖がトロッコの進路切り替え方法はおろか、
ブレーキをかける方法すら知らないことは明白であった。
つまり、高速で突っ込んできたトロッコは高速で脱線し、高速で吹き飛ぶ末路が待っている。

「ァガッ」

綾島聖はトロッコごと空中に投げ出され、壁に強かに打ち付けられた。
壁面に亀裂が走り、カンテラの一つが砕かれ、吹き飛ぶ。
――ほんの一瞬だけ、鮮やかな炎が散った。それだけだった。


* * *

一切空の思考には「穴」がある。
欠落した空虚な部分がある。
一切空にとって、世界は大きく口を開けた穴だ。

(すべては、落下し続けている。私の内に開いた穴の底へ)

一切空はそのように認識している。
彼女の内側にある、埋めることのできない穴の中に、
すべてのものは落ち込み続けている。

それでも一切空は、何もかもを捨て去ってはいない。
ぎりぎりの虚無感の淵で、自我の手綱を手放してはいない。
あるかどうかも知らない終端、永遠に続く落下の終わり、「穴」の底を探している。

それはきっと光のような色をしていると、一切空は推測する。
論理的に推測する。

(――穴が深ければ深いほど、黒ければ黒いほど――
 その底は当然、光り輝いていなければ)

それが一切空の、異形のロジックだった。

だから彼女は炎の瞬きを見た。
闇の中に閃く光こそが唯一、彼女の意識に爪を立てるものだからだ。
同時に、新たな攻撃対象へ「穴」のいくつかを向かわせるべきか、判断にわずかな時間を費やした。
その二つの思考の揺らぎを、蒿雀ナキは捉えた。


* * *

唐突な闖入者に、蒿雀ナキはいささかも動じなかった。
というよりも、まるごとその存在を受け入れてしまった。

(アレは、ひとまず放っておくとして)
訳のわからない存在は、訳のわからないまま、受け入れる。
非論理的なようでありながら、どこまでも自然な思考は、人ならざる妖怪のモノだ。

蒿雀ナキは、その本性の速度を見せる。
跳躍である。

それは野生の瞬発力。彼の身体能力は、人の理から外れた妖怪のもの。
まさにジャパニーズ・モンスター、妖怪変化の『夜雀』。
さあ、ただの人間が、このスピードについてこられるかな?
このまま華麗なるスピードで翻弄し、左右の爪で引きちぎり、鮮血を迸らせるのだ――
殺戮の予感に我々の期待は高まる! 少女の血に染まる、蒿雀ナキの美しき愉悦の表情が見たい!

それはさておき、跳躍する蒿雀ナキには、次に打つべき手があった。
一切空の繰り出す「穴」について、蒿雀ナキは、それが手動操作であろうと見当をつけていた。
自動的に追跡を仕掛けているわけではない。
つまり、一切空には敵の動きを知覚し、「穴」を操作するという二段階の手順が必要となる。

だから一切空は、蒿雀ナキの跳躍を見た瞬間に、自分を守るべく「穴」のいくつかを引き戻した。
蒿雀ナキはそれを無視する。
初手の狙いは、一切空本体ではなかった。

(――ランタン。あれが灯油式ならば)
蒿雀ナキは、懐の内と、手のひらの中にいくつかの小石を握り込んでいる。
彼の手首が翻ると、それらが霞むほどの速度で飛んだ。

それほど狙いは正確でなくても良いし、蒿雀ナキにも正確な狙撃能力はない。
ただ、石の礫をいくつか握り、まとめて散弾状にして飛ばす。
同時に、逆の手では雀の爪を一閃させる。

ランタンが砕け、あるいは吹き飛んで落下する。
未熟とはいえ、蒿雀ナキは魔性の存在。妖怪である。
ほんの、ひと呼吸さえあれば良い。
一切空が対応に移るよりも早く、蒿雀ナキは攻撃を終えていた。

その間に破壊したランタンは、六つ――いや七つ。

この時代、この坑道のランタンは、いまだ灯油式。
それも、ブリキ製の器を用いた粗悪な代物である。
高速の石礫と、人間の首を引き裂く爪があれば、破壊は難しくない。

砕かれたランタンは一瞬の炎を燃え上がらせ、消える。
あたりの照明が急激に奪われる。
完全な闇、とまではいかないが、明るさに慣れた者の視界を閉ざし、
蒿雀ナキが暗がりに身を潜らせるには十分であった。

(やはり)
蒿雀ナキはかすかに安堵する。推測は当たった。
「穴」は攻撃対象を見失い、戸惑ったように動いた。曖昧な軌道で地を滑る。
(対象を知覚できなければ、「穴」を動かしようがない)

蒿雀ナキは暗闇に身を投げ出しながら、さらに一つ、二つ。石を飛ばす。
彼が石を飛ばす度に、ランタンは砕けて闇が深くなる。
(――これで、こちらは弾切れ、としておこう)
実際は、少量の石礫を握りこんでとっておく。ここからだ。

一切空が暗闇に目を向け、凝視しようとするのがわかった。
できるだけ素早く、暗闇に目を慣らそうというのか。
あるいは、彼女には「穴」の深淵を見るかのごとく、闇を見通せるというのか。
しかし、蒿雀ナキが次の手を打つ方が速い。

彼の能力を《五々色鳴》、という。
蒿雀ナキは戦いに臨む際に、必ず己自身に五回触れ、自分を能力の影響下に置くことにしている。
それは例えば、このような状況のためだ。

彼の能力の制約、五感操作の間の自身の感覚失調は、限定的な状況下で無意味化できる。
すなわち、自分自身の能力をコントロールする場合だ。

(聴覚を、視覚に移動させる)
このとき、蒿雀ナキが操作したのは、聴覚のみ。
音声が彼の神経から失われ、変わって特異な視界が彼の前に現れる。

それは音を『視る』、ということだ。
洞窟に住むコウモリのように、音の反射から、周囲の状況を把握する。
蒿雀ナキにはそれができる。

おあつらえ向きに、さっきから騒がしく叫びながら、
周囲の空間に音を反射させ続ける発生源がいる。
――壁面への衝突から復帰した、綾島聖である。

「ぉぉぉぉぉぉぉおおおおおおおやァァ、おやおやおやおやァァァァ!
 暗闇に隠れた程度で、この私の粉塵爆発ショーから
 逃れたつもりですかねェェェェェェ! ギヒィ……!」

常軌を逸して長大な舌が、あるいは人並み外れた肺活量が、
その高速にして途切れぬ喋りを可能とする。

「私の魔人能力、《剛魔爆身》は筋肉の強化だけではなイィィィィ!
 知覚力を強化することで、その聴力は常人のさらに数百倍確実ゥッ!
 100m先に落ちた針の音すら聞き分け! ネズミの吐息ですら大音量で聴くことが可能!」

神父服の男は、自身の能力をペラペラとしゃべりまくる。
なんたるサービス精神か。
そして脱線したトロッコを、恐るべき膂力でおもむろに持ち上げる。

「必ず皆さんを仲良く粉塵爆発で地獄のトロッコに乗せて差し上げますよぉぉ……
 ブヒツ! ブヒヒャッ! ブヒャケヒャァァァーーーーッ!」

綾島聖の見開かれた瞳は、粉塵爆発への期待に膨れ上がっている。
なにより、彼の強化された聴力!
物音を立てれば確実に位置を掴んで、哀れな被害者をトロッコ殺間違いなしであろう!
もはや彼に敵対する者たちの勝率は、0.1%以下と計算できる!

(とりあえず、依然としてアレは無視)
蒿雀ナキは、もはや彼を風景の一部として認識することにした。
あとで殺さねばならないが、放っておくしかない。

いまは、一切空が焦点。
綾島聖か。そんな名前のアレを殺しに向かえば、致命的な隙を晒すことになる。

(一切空は?)
――動き出している。その選択は退避であった。
坑道の奥へと、灰色の衣を翻して走り出そうとしている。

蒿雀ナキは音の反響で、周囲の「穴」の位置と、一切空までの距離、動き、全てを『視』た。
そして目を閉じ、己の指をくわえた。
自身の聴覚は、いま、失われている。

妖怪『夜雀』である、蒿雀ナキの指笛には、特別な力があった。
115デシベルに達する、強烈な音の波である。
その効果は速やかに発揮された。

「――――――ゲパァギッ!!!???」

激烈な悲鳴。
綾島聖のものである。
大幅に強化された聴覚で、蒿雀ナキの指笛の直撃を受けたのだ。
耳から血を噴き出し、仰け反る。

人間は、大音量では死なない。
副次的な死因として、ショック死があるのみだ。
とはいえ動きを止めたことに変わりはなく、蒿雀ナキに綾島聖の状態を確認する暇はない。

蒿雀ナキは、再び聴覚と視力を結合する。
たったいま放った指笛の残響が、彼に周囲を把握させる。
一切空、彼女も指笛の衝撃に無事ではいられなかったらしい。
体勢を崩し、転倒し掛けているのがわかった。

(――いや)
蒿雀ナキは、それが半ば演技であることを見抜いた。
体勢を崩したこと、それ自体は間違いあるまい。
だが、転倒しかけながらも、一切空は「穴」の空いた左手を構えている。

近づけば、掴まれるだろう――「穴」の危険性が分からない状態で、
蒿雀ナキが接近する理由は何もない。
こと、この一切空という相手に限り、自分の能力応用のみで
勝利への方法を探るのは、下策としか思えなかった。

近づかずに攻撃すること。徹底したアウトレンジ。
蒿雀ナキは、そこに対・一切空の戦略を絞っていた。

「すみませんが、お借りします」
蒿雀ナキは、ここに至っても尚、間の抜けた謝罪文句を呟いた。
自らが壊したランタンを手に取り、体を捻る。

一回戦では、仮初とは言え、龍の一撃を凌いだ腕力。瞬発力。耐久力。
蒿雀ナキにはそれがある。
それは、野生動物めいた身体能力による、高速の投擲であった。


* * *

一切空の思考には「穴」がある。
自我の中に、空虚な一角があるというべきか。

で、あるからこそ、不純物のない思考で行動を選択する。
それも、彼女独自のロジックに従って。

(穴に落ちた)

一切空はそのように認識する。
周囲が闇に閉ざされるとは、彼女にとってそういうことだ。

(この、穴――この穴に、私を突き落とすつもり?)

実際のところ、その思考の過程に目を瞑るなら、
彼女が下した結論は、一般的なそれと同じものだ。

暗闇を作り出したのは、奇襲のためと考えるのが妥当。
接近して、一撃を繰り出すためと考えるのが妥当。
遠距離攻撃を行うのなら、通常、暗闇を作り出すのは不利にしかならない。
可能性として、最も確率が高いのは、暗闇からの不意を打つ近接攻撃であろう。

(いいよ)

一切空は左手の平に穴を移動させた。

(きっと、あなたも穴に落ちる)

そうして、一切空は近距離での攻防のため、意識を尖らせる。
左手を掲げる。
このときは、それが災いした。


* * *

「あ」

一切空は、『それ』を避け損ねた――鈍く、濁ったようなうめき声が漏れた。
彼女が掲げた左手に、投擲されたランタンが激突した。
小指と、薬指の骨が砕ける異音が響き、油がぶちまけられる。

(まだ)
蒿雀ナキは次のランタンを手に取る。即座に投げる。

(もう一つ)
第二のランタンも、一切空に叩きつけられた。
脇腹か、胸か、今度は大したダメージにはならない。
初撃は当たり所がよかっただけだ。ただ、器が砕けて油が飛び散る。

(もう、一つは――)
蒿雀ナキの手が次なるランタンを掴む。
まだまだ第三、第四の投擲物がある。

このままならば、蒿雀ナキは一切空をランタン投擲殺、何もさせずにランタン投擲殺!
これはまさに、蒿雀ナキ様のランタン投擲殺害ショーである!
殺せ! その女をランタンで華麗に殺せ、蒿雀ナキ!

しかし、投げられた第三のランタンは、一切空を捉えることはなかった。
灰色の衣が翻った。
坑道の奥へと駆け出す。彼女は、退却の続行を選択したのである。

その行動は、蒿雀ナキにとって予測の範疇だった。
(追う。油は、十分に彼女に含ませた)
蒿雀ナキは体勢を低くし、まだ壊れていないランタンを一つ、手にとった。
その炎が必要になる。

だが、もうひとりの男、よくわからないあの男はどうなっているだろうか?

「ググヒャアアァァァァァァーーーーーー貴様アアァァァァァ!!!」

綾島聖は、耳から血を流しながら、トロッコを振り回していた。
やはり尋常ではない膂力。まるでトロッコがヌンチャクのようだ。
それはさしずめ、旋回する殺人八つ裂きトロッコヌンチャク!

「よォォォくもこの私の神聖なホーリー聴力を奪ってくれましたねェェェ!?
 この耳で貴様の内臓が爆裂微塵粉砕する極上オーケストラを聞かなければ、
 私の痛みは収まりませんよぉぉぉぉーーーーーッ!」

いや、トロッコを単に振り回しているだけではない。
闇雲に振り回しながら、蒿雀ナキに突進してくる。
あまりに原始的すぎて、蒿雀ナキには当面、彼に対処する方法がないことを認識した。

「いかがですか!? 私のこのトロッコ捌きは!
 すぐに地獄のトロッコに乗せて粉塵爆発させてあげますからねェーーーッ!
 どうだ! どうだ! どうだ! どうだァァァ近づけまいィィィーーーーッ!」

実際問題として、結構それなりに近づきにくい。

なにより、一切空に浴びせた油――時間を与えたことで、対処をされては面倒だ。
間を与えず、一切空を即座に追うべきか。
そうでなければ、いま打った一手が無駄になる。

(この男。行動原理が理解できない、この男)

相手をしている間に、己が不利になりかねない。
ここに至り、蒿雀ナキが選択したのも、また逃走。
ただし、坑道の先へ逃れた一切空を追跡しながらの逃走である。
蒿雀ナキはカンテラを握り直した。

そして、綾島聖はヨダレを垂らしながら、愚直に追ってくる。
互いに追い、追われる三者は、坑道の暗がりの奥へと駆ける。


* * *

この坑道は、騒がしい。
ゴウゴウと音を立てて、採掘用の機械が作動している。
鉱夫たちの怒号に似た声も、彼方から響いてきている。

(どこまで逃げるのかな)
蒿雀ナキは飛ぶように駆けながら、どこか他人事のように考える。
灰色の背中、一切空の姿は、徐々に近づきつつある。

これは、彼女の身体能力が、蒿雀ナキに対してやや劣るということを意味するだろう。
あるいは、「穴」だらけの体は、その分だけ筋肉を損ない、
物理的な運動能力に影響しているのかもしれない。

いずれにせよ、蒿雀ナキは一切空の背中へ、着実に追いついていく。
それは命を賭した鬼ごっこであろう。
いまの彼はまさに少女を追う野生の狼、いや、真夜中の雀だ!
追いついてしまえば、五感を狂わせる猛毒にも等しい蒿雀ナキの魔性の爪が、
一切空の柔肌を無残にもバラバラに引き裂くに違いない。

そして内臓ブッち斬り猟奇殺は確実! 背後からの奇襲で惨殺の幕があがる!
背中を向けたままで、蒿雀ナキの妖怪殺人爪を回避できるわけがない!
殺せる! いまなら殺せる確率は120%だ! 美しき少女の血が見たい!!!!!

だが、蒿雀ナキがあと十歩ほどで追いつくと思えた刹那、
一切空は不意に足を止めた。
観念したのだろうか。
大人しくその美しい首を晒し、ジュルルジュルルと蒿雀ナキに血を吸われたいというのか!

「さて」
果たして、蒿雀ナキは足をとめなかった。
そのまま攻撃を開始する。

ここで停止したということは、一切空が「ここでいい」と判断したということだ。
それに背後からは、糸目の神父が追ってきている。
何かがある。その何かが、起きる前に叩く。

「どうかな」
蒿雀ナキは、疾駆する勢いのまま、投擲の動作に繋げた。
手に持ったカンテラを、遠心力をつけて射出する。

「……あー」
一切空は、苦もなくかわす。
そのくらいの運動能力はある。
回避しながら、地面に手をつき、「穴」を繰り出す。
今度の「穴」は高速で接近してくる。

だが、蒿雀ナキはそれを想定していたし、動きを止めなかった。
前進して距離を詰める。
この際、「穴」は――ある程度、無視する。
なぜなら、次の手があるからだ。

(おおよそ、五歩分)
自分の腕ではそのくらいが、「当てられる」限界の距離だろうと思っていた。

投げつけられたカンテラは、一切空を狙ったわけではない。
実際は、その横の壁だった。
叩きつけられたカンテラが、油と炎をぶちまけて、燃え上がる。
一切空は、ほとんど動物的な反応で、一瞬そちらを見た。
その左の視界が、痛みとともに不意に途切れた。

「ア」
一切空はのけぞった。

(すみません、一切空さん)
蒿雀ナキは、握りこんだ石の礫を射出している。
これもまた、あまり正確でなくてよい。
石は散弾状に放たれ、一切空の左目を潰していた。


* * *

一切空の思考には「穴」がある。
「穴」の空いた思考で考える。

(左目が、穴に落ちた)

暗闇になった。
落ちた左目はどうなる。どこに落ちる。
左目に空いた「穴」には、なにが落ちてくる。

(あの男も、左目から落ちてくるだろう)

蒿雀ナキは、左側から、何かを仕掛けてくる。
それが彼女のロジックだった。
それは異常な経過をたどりながらも、きわめて合理的で妥当な結論に達する。

視界を奪った敵がどうするか。
視界の潰れた側からの攻撃があるだろう。

だから、彼女もまた攻撃を開始した。
一切空にとって、攻撃も防御も、同じ行為を意味する。
つまり、「穴」を空ける。


* * *

(左目だけかな)

蒿雀ナキは己の腕前の中途半端さを嘆く。
嘆きながら、壁のカンテラに手を伸ばす。一切空の左目側に回り込む。
近づくつもりは、ない。さきほど油は染みこませた。
燃やして始末をつける。

(もう少し、こうした戦いの経験があれば。両目を潰せていたのかも)
しかし、十分な結果だった。
彼が通常の戦いを行う場合、敵の視力を奪うために五度触れる、などという危険は冒さない。
第一に選択すべきは、まず距離をとった攻撃。今回はそれが功を奏し――

「あ」

――いや。

「ああぁぁぁ……」

一切空の曖昧なうめき声とともに、どこからか、轟音が唸った。
それは蒿雀ナキの頭上、いや、周囲のすべてであった。

そのとき蒿雀ナキは気づく。
この区画が、木製の支柱と梁で補強されていることに。

(要するに)
蒿雀ナキは、虚無を見る。「穴」だ。
木製の支柱に、梁に、虫食いのように大小の「穴」が空いている。

(一切空、彼女が『ここでいい』と判断したのは)

一切空は、「穴」を蒿雀ナキへ直接当てる努力を、とうに放棄していた。
そうではなく、当てられるモノへ当てた。

支柱を「穴」で食い荒らし、梁をくり抜き、岩盤にすら深い穴を通す。
すでに坑道を補強すべき木材は、虫食いだらけとなっていた。
さらに、そうした乱雑な破壊行為が引き起こすのは――

(ここが、支柱と梁で補強しなければならないほど、脆い区画だから。
 この道からやってきた彼女は、ここがそういう区画だと知っていた)

さすが、と、蒿雀ナキは他人事のように感嘆する。
しかし死ぬわけにはいかない。
回避しなければ。――どこへ? 一切空はどうするつもりだ?

「あ」

一切空は、短く呻いて横へ跳んだ。
そこには、いつの間にか「穴」が空いていた。
彼女が軽々と身を隠せるほどの大きな、奥行も知れぬ「穴」――
それは、いくつもの「穴」を集合させたものであろう。

(「穴」は――ほぼ無尽蔵に生み出せるのか)
この蒿雀ナキの戦慄は、やや間違っている。
あくまでも、彼女ができることは体に空けた「穴」を移すのみである。
しかし、準備時間が数分でもあれば、この程度の規模の「穴」を生み出すことは容易い。

蒿雀ナキが戦いを組み立てていたように、彼女もまた、組み立てていた。
このような地形で戦うのならば、退避場所としての、
あるいは攻撃のための大型の「穴」をまず最初に準備するのは当然の発想であった。

そして、坑道が崩落を開始する。

(まずいな)
崩落に巻き込まれる。
逃れる方向は一つしかない。一切空が待ち構える、大きな「穴」の方向だけだ。
そして彼女は、蒿雀ナキを迎撃すべく、両手を地につけて待機している。

(手詰まり、かもしれない)
その可能性が、一瞬、蒿雀ナキの脳裏をよぎった。
それは、まずい。彼には、なんとしても勝たねばならない理由がある。
妻のもとへ、戻らねばならない。何を引き換えにしても。

だが。轟音とともに天井から岩が落ちてくる。
蒿雀ナキは逡巡する。逡巡して――



「ィィ――ィィイイイ――イイヒャァァァァーーーーッ!」



その逡巡を、暴走するトロッコ、否――
トロッコを振り回しながら暴走する、糸目の神父が断ち切った。

「さぁぁぁぁああああ蒿雀ナキさぁぁぁぁあああん、一切空さぁぁぁあああぁぁんんん!
 今度こそ、楽しい楽しい粉塵爆発ショーの始まりですよぉぉぉおおおお!」

綾島聖であった。
トロッコを振り回しながら疾走してきた彼は、蒿雀ナキの背後から躍りかかった。
もとより、「他人の背中をみれば、奇声をあげつつ、手持ちの武器を使って襲いかかれ」という教えが
骨の髄まで染み付いた男である。
一瞬、反応の遅れた蒿雀ナキの背中を、綾島聖の凶悪なトロッコが一撃していた。

蒿雀ナキの体が、いとも容易く吹き飛ぶ。一切空の待ち構える「穴」の方向へ。
それは、幸いにも天井の崩落から逃れることになった。

(――なんだ、コレは?)
蒿雀ナキは、吹き飛ばされながら、綾島聖という存在について考えを巡らせる。
どうにか防御には成功した。
掲げた右腕は折れたかもしれないが、致命傷は避けた。

なぜなら、綾島聖は背後から奇声とともに殴りかかってきたからだ。
しかも、トロッコを振り回しながら追ってきたのだから、ごく自然に彼の腕は疲れていた。
威力は数割減である。
そのおかげで接近に気づき、さらに防御することができたのだ。

(なんだろう、コレは)
蒿雀ナキは、結論を出す代わりに、無事な左手を「雀」の爪へと変じた。
こうなれば、一切空と近接戦闘を覚悟する他ない。

「あ」
また一切空にしても、唐突に吹き飛ばされてきた蒿雀ナキへ、咄嗟の対処ができなかった。
ただ避ける。
蒿雀ナキはすれ違いざまに、「雀」の爪を振り抜いた。狙いは首筋である。
これも、彼女は紙一重で避ける。

そして、綾島聖。
彼は崩落する土砂に巻き込まれ、すぐに姿が見えなくなった。



(本当になんだろう、あの男は?)
蒿雀ナキは、結論を出さないことにした。
それどころではない。
崩落による圧死は避けられた。
代償として、一切空が生み出した「穴」の中に追い込まれ、彼女と至近距離で対峙することになった。
――周囲は完全な、闇である。


* * *

綾島聖は、崩落に巻き込まれながら考える。
いま、彼の頭の中にある思考、目的はただ一つ。

(粉塵爆発)

そして、

(粉塵爆発――)

そう、

(粉塵爆発――粉塵爆発、粉塵爆発、粉塵爆発粉塵爆発粉塵爆発!
 粉塵爆発で死ィヒャヒャヒャ! 粉塵爆発で死ィヒャヒャヒャ!
 粉塵爆発で死ィヒャヒャヒャ! 粉塵爆発で死ィヒャヒャヒャ!
 粉塵爆発で死ィヒャヒャヒャ! 粉塵爆発で死ィヒャヒャヒャ!)

もはや、彼は粉塵爆発のことしか考えていなかった。
なんたる短絡的かつ単純な思考。それは既に昆虫のレベル!
すなわち、冷酷無比な粉塵爆発マシーンの誕生であった!


* * *

蒿雀ナキは息を止めた。

(暗闇か)
それも、ほとんど完全な。
しかし、蒿雀ナキには、暗闇でも相手の位置を感知する手段があった。

《五々色鳴》である。
聴覚と視覚を入れ替える。まだ崩落の轟音が、残響している――
一切空の姿を、居場所を捉えることができる。

(いる)

動いている。四つん這いになり、「穴」を生み出している。
それは彼女の敵の位置を探るように動き、蒿雀ナキに接近してくる。

(好機は、おそらく一瞬)

蒿雀ナキは人間のそれに戻した左手に、かすかな力をこめた。
指笛で隙を作る。
この「穴」の中ならば、音の威力はさらに増幅されるはずだ。

一切空の居場所は、振動の反射で手に取るようにわかる。
この暗闇でもなお、あの少女の存在を感じられた。
その首筋を引き裂き、真っ赤な真っ赤な血を迸らせるのだ。

蒿雀ナキの音波殺法と殺人妖怪爪ならば、それができる!
血飛沫の舞う、芸術的な少女の惨殺死体完成は間近!
もはや一切空に逃げ場なし! 自らが掘った「穴」はまさに墓穴!
ここで血しぶきを散らして、美しく死ヒャァァァァァーーーーッ!

(策は、特になし。……困ったな、本当に)
だが、やるしかない。
蒿雀ナキは、ことさら殺意を煙のように薄めた。
その一撃の瞬間、軌道、速度を悟られないように。
そして、四肢に力をこめる。

だが、彼はついにその攻撃の瞬間にたどり着くことはなかった。
崩落したはずの「穴」の入口から、ボロボロになった神父服の男が這い出てきたからだ。
綾島聖である。

「粉塵……ふ、粉塵爆発ゥゥ……ヒャァァ……!
 皆さん、粉塵爆発という現象を……ご存知ですかァァ……?」

負傷は多々あるが、いまだ生存。
それは綾島聖の持つ、魔人の身体能力のせいだけではない。
崩落の瞬間、咄嗟に振り回したトロッコが遮蔽物となり、威力を減衰させたのだ。
鉱山で使われるトロッコの頑強度は、その独特の形状が衝撃を逃がすことで、
爆薬の炸裂を防ぐほどである。

(あれは)

そこで蒿雀ナキは気づいた。
この暗闇だ。蒿雀ナキだけが、それを『視』ることができた!
綾島聖がとてつもなく危険な物体を、その両手に所持していることを。

「粉塵爆発とは、このような鉱山で起こりやすい現象なんですよォォォオオオオ!!!」

そう、綾島聖は、その両手にダイナマイトを抱えていたのである。
おそらくはトロッコとともに奪い取ったのだろう。

しかしそんな推測には、いまや意味がない。
この坑道には確かに爆薬の貯蓄も数多くあった。

だが、それを武器に使おうとは、蒿雀ナキは思わなかった。
危険すぎるからだ。武器としては扱いづらすぎる。
防御能力に秀でていない蒿雀ナキにとって、それはほとんど自滅の道具にしかならない。
一切空にとっても、似たようなものであろう。

だというのに、この男は!

「不注意な炎が、大気中の粉塵に着火することで! 爆! 発! 死! 殺!
 キィヒャヒャヒャヒャヒャ! 皆さんはご存知ない現象でしょうがァァァァ!
 この私ィィの神聖なる粉塵爆発マジックでェェーーッ! 鉱山もろとも眠りヒャァァッ!」

綾島聖はジャグリングするように何本ものダイナマイトをお手玉していた。
その光景は、あたかもサーカスのピエロ! まさに道化!
もはやその蛮行は、粉塵爆発とは何も関係がなかった!
ただのダイナマイト心中自爆である!
なにが粉塵爆発か!!! 粉塵爆発に謝れ!!!

しかし思えば、誤解しているとはいえ、なんという粉塵爆発へのピュアな執念であろうか。
ただ、ただ、粉塵爆発させたい。ここは鉱山なのだから、粉塵爆発するべきだ。
絶対確実粉塵爆発! その一念が、綾島聖を突き動かす!



この想いは止められない! 走り出した情熱!
もう、爆発さえすればなんでもいい!



(だめだ、アレは)
綾島聖に何かを告げる代わりに、蒿雀ナキは一切空を振り返った。

「逃げてください! 粉塵爆発――いや、ダイナマイト爆発です、退避用の『穴』を――」
「あー……」
かくり、と、一切空は首をかしげた。代わりに、手を伸ばしてくる。
攻撃のつもりか。
蒿雀ナキが常人の神経を備えていれば、舌打ちしたい気分になったであろう。

周囲は完全な暗闇。
なにが起きているか、彼の言葉だけで正確に判断できる者は、まずいない。

(それならば――)
自分が、やるしかない。
指笛で一瞬の隙を作り、一撃で喉を掻ききることで、綾島聖を殺す。
返す刀で、一切空を。それが達成される可能性は奇跡に近い。
間に合うかは不安だが、賭けてみるしかなかった。

そして蒿雀ナキは己の指をくわえ、あることに気づく。
(そうか……綾島聖、この男は、さきほど)
すでに耳から血を迸らせ、聴力を失っている!
勝手に自滅しやがって! この野郎!
蒿雀ナキが通常の人間ならば、激高し、いますぐミンチ肉にしてくれると叫んでいたであろう!

(まずいか――しかし)
蒿雀ナキは、すぐに攻撃に移ろうとする!
狙いは綾島聖のみ! その喉を引き裂き、真っ赤な鮮血を迸らせるのだ!
愛する妻のもとへと帰るためだ、仕方がない! 仕方がないのだ!
殺戮など望みではないが、とにかく殺すしかない! 理由はなんでもいいから殺せ!
五感を狂わせる妖怪殺人爪で、その喉を引き裂けば死ィヒャヒャヒャ間違いなし!

「あ」
一切空もまた、空虚な声をあげながら、必殺の行動に移る!
彼女は自らが作った、この穴の広さを完全に把握している! 綾島聖と蒿雀ナキは手の届く場所にいる!

ならば彼女の魔人能力・殺人貫通穴の移動能力で、接触! 即! 穴開け殺!
殺れ、一切空! その能力で二人の男を闇の中で美しく蜂の巣虐殺!
自分と同じ芸術品へと変えるのだ! 『アルバートホール』は無敵の殺人能力だ!
接触さえすれば必殺! この状況下では、一切空の勝率は100%――いや120%ォォォォ!!!

「粉塵爆発ゥゥゥウウウウウウウヒャアアァァァァガガガガガガ!!!」
一方、綾島聖! 彼が両手に振り上げるのはダイナマイト!

なにが粉塵爆発だというのか! そのおこがましさ!
だが、数本のダイナマイトは綾島聖の尋常ならざる膂力によって投擲され、
咄嗟に回避しようとした蒿雀ナキの足元に叩きつけられる!
バカめ、少しは粉塵爆発の意味を調べろ!

三者のうち、もっとも早く行動を完了したのは、最初から最後まで一つの信念を通した者!
その者にとっては、自分の命と引き換えにしてでも、
何を犠牲にしてでも、果たすべきことがあった!
信念、使命、願い、祈り、ゆずれぬ想いがあった!

それはすなわち、「粉塵爆発」への想いである!
例え手段が間違っていても、いや、間違っているくらいが美しい!
それは狂気の芸術品、一切空の美しさと同義!
届け! 粉塵爆発へ、この想い――!


* * *

「あなたは」
と、蒿雀ナキはかつて問われたことを、いまでも覚えている。

「後悔していませんか?」

それは、問うた側自身も、すでに理解していることを尋ねる言葉。
尋ねる意味もない言葉。
敢えてそれを尋ねる者が、ヒトなのだろう。

そのときは、その問いを、ただあるがままに受け入れた。
だから、蒿雀ナキもまた、ごく自然に答えを返した。

「その問いかけに、なんと答えるべきか、そのことばかり考えています」
と。
蒿雀ナキの本心であり、偽りのない言葉であった。

その答えに、問うたヒトは困ったような、まるで幼児をあやす保護者のような笑みを浮かべた。
蒿雀ナキは、その笑みを、なぜか寂しく感じた。
そこに彼我を隔てる何かがあるように感じたのだ。

――そして、いまでは思う。
自分は、あのとき、あるがままで在りすぎたのではないか。

もとより、不自然なのがヒトの有り様なのではないか。
どこかに「穴」があるのがヒトではないか。
己ではない何者かに変化し、己ではない何者かに寄り添うのがヒトではないか。

決して手に入らない何かを、探し求めるのがヒトではないか。
あるいは欠落した「穴」の充足を。
あるいは誰かとともに歩む、ヒトとしての人生を。
あるいは――そう。粉塵爆発を。


* * *

――爆発の瞬間に、蒿雀ナキはこの結末の原因を、論理的などこかに求めようとした。
だが、本当の最後の瞬間に浮かぶのは、何に換えることもできない存在――妻の顔だけである。

(許しを)
蒿雀ナキは、ただそれを請う。妻へ。

爆発の瞬間が、やけにスローに感じる。
衝撃に対する安全性を高めているとはいえ、ダイナマイトはニトログリセリンを使用した爆弾である。
綾島聖ほどの腕力で叩きつければ、その衝撃により、炸裂は必至。

一瞬の衝撃。
引き起こされた爆発は、一切空と蒿雀ナキ、そして綾島聖自身をも吹き飛ばした。

(許しを――)
蒿雀ナキが真に願うのは、それのみであった。

最後に思い描くのは、妻の顔――だが、それすら許されなかった。
爆発の閃光で、彼が今際の際に見たのは、死ヒャ死ヒャと穏やかに笑う神父の顔であった。
光に包まれ、なんと神聖な微笑みであろうか。

(――最悪だ)
蒿雀ナキは、最後に野生の妖怪の本性を露わに、短く吐き捨てた。
そして死亡した。


* * *

一切空は、死を想う。
母の死。
それは自分の中で「穴」となり、決定的な欠落となった。
埋めることもできず、目をそらすこともできない。

それができれば、どれほどよかっただろうか。
母を殺したのは、運命などではない。
母を殺したのは――。

一切空は、その答えを「穴」に落とし、埋め続けてきた。
何度も何度も、粘つく感傷をすくいあげ、「穴」に注いだ。
いつか、その「穴」が満たされ、空虚な欠落を見なくて済むかもしれないと。
そんな愚かしい悪夢のような思い込みを、信じようと決めたこともあった。
しかし悪夢はすぐに覚める。

目を覚ます都度に、一切空は、己の内側の「穴」を自覚した。
そして、その空虚さを嗤いたくなった。

丸瀬十鳥が見ているのは、私に穿たれた「穴」だった。
一切空自身は、何者でもなかった。
ならば、この私自身には、なにが。意味が。「穴」ではない何かが。

――その問いかけの答えを得るには、「穴」の外に出る必要があった。
一切空はとうに気づいていた。
「穴」の中にいるのは、自分自身だと。

(私は、私自身のいる場所を、埋めようとしてきた)

長らく「穴」の底から、自分でもわからぬ何かを問いかけ続けてきた一切空は、
ここへ来てようやく答えをもたらすモノに出会った。

銀月のように明るく、朝焼けのように熱く、狂い咲く桜のように激しい。
彼女を唯一の答えへと導くモノ。
それは、粉塵爆発であった。


* * *

爆発の瞬間、一切空は「穴」を見た。
そして「穴」の底を見た。
炎の閃光を見る――それは、あるいは目の錯覚であったかもしれない。

(きれい)

「穴」の底の光であった。

そこには、穏やかな微笑みを浮かべる神父の顔があった。
まるで幼き日の彼女ではなく、現在の彼女を肯定するかのように、
ケヒャケヒャと温和な笑みを浮かべて――。

(あの人、たのしそう)

と、一切空は思った。
あとついでに、生まれ変わったらブチ殺そうと思った。
そこで意識が途絶え、一切空は死亡した。


* * *


――綾島聖の、肉体はすでに死んでいる。
そのはずであった。
既に十分以上のダメージを受けている。

岩が、土砂が、あるいは爆発の衝撃が、彼の肉体を潰していた。
頭部ですら半壊していた。
しかし彼は動いていた。
これは、そういう魔人能力。《剛魔爆身》――『狂戦士』の形相。

もはや自分の意志でも、脳から命令がなくとも止められない。
彼の肉体の目的は、ただ一つ。
唇から漏れる、かすれた音声――

「粉塵爆発……ゥゥ……、粉塵ンンン……」

それはまるで、愛する者を求める囁き。密かな甘い睦言。
夜毎交わされる恋人たちの愛撫に等しい。

その後しばらく、うわごとのように呟き、
粉塵爆発を求めて土砂の隙間を蠢く綾島聖の姿があった。

最終更新:2014年11月15日 19:28