第二回戦SS・動物園その3


───



『北の街ではもう 悲しみを暖炉で

 燃やしはじめてるらしい

 理由のわからないことで 悩んでいるうち

 老いぼれてしまうから

 黙りとおした 歳月を

 ひろい集めて 暖めあおう

 襟裳の春は 何もない春です』



               森進一、『襟裳岬』より


───



僕は雪原のど真ん中に立っていた。
北海道だ。
雪が降っている
父さんと母さんが手を振って僕を呼んでてくれている。
僕はそちらに駆けていこうとした。
けれど足が動かなかった。
父さんと母さんが向こうに行ってしまう。
待って、僕も一緒に行くから。
父さん、母さん、待って、僕も連れてって
僕がどんなに声を出しても父さんと母さんは振り向いてくれなかった。
ただ、二人で何か楽しそうに話している。それだけわかった。
僕は足元を見た。
僕の足を誰かの手が掴んでいた。
血だらけだった。
後ろを振り向く。
本屋文。僕が殺した人。
その人が僕の足首を掴んでいる。
本屋文は全身をエゾジャケに噛みつかれていた。
エゾジャケの隙間から僕をにらむ本屋文の眼が見えた。
父さんと母さんに助けを求めようとした、けど声が出なかった。
いつの間にかあたりが暗くなっている。白かった雪は赤黒く染まっている。
本屋文が体を引きずりながら少しずつ近づいてくる。
逃げようとした。動けなかった。倒れこもうとした。動けなかった。
本屋文が僕をにらんだまま近づいてくる。ずるり、ずるりという音が耳に響いた。
本屋文の口が動いた。その瞬間に本屋文に喰らいついていたエゾジャケが一斉に僕に向かってきた。
僕の体がエゾジャケに食われていく。僕の体がどんどんなくなっていく。
本屋文は口からエゾジャケを吐き出しながら笑っていた。
僕はエゾジャケに食べられながらずっとそれをみていた。
叔母さんに体を揺すられて目が覚めた。いつの間にか寝てしまっていたらしい。
叔母さんが心配そうな目で僕を見ていた。
「大丈夫ですから」
とできるだけ明るい声で言ってみた。うまくできていたかはわからない。
叔母さんは無理はしないでね、と言って部屋から出ていってくれた。
あの日から、毎日本屋文が夢に出てくる。
きっと後悔してるのだと思う。
私欲のためにあの人を殺してしまったことを。
あの人が行方不明になったというのはちょっとしたニュースになった。
その時、僕は初めてあの人が本当に立派な人だったということを知った。
国内で唯一の特級司書でありながらその能力を自身の立身出世のために使わず恵まれない子供たちのために使っていたのだという。
そして本屋文に接した子供たちはみな彼女のことを好いていた。少なくともあのテレビで流れた子供たちはそうだと思う。
あの子たちは父さんと母さんと一緒に遊んでいた時の僕と同じ顔をしていたとから。
けど、そんな人を僕が殺した。
ごめんなさい。
僕はそのことを後悔している。
けれど僕は───ごめんなさい
それでも北海道に帰りたい───ごめんなさい
自分の浅ましさが嫌になる───許してください
けれどそれでも───ごめんなさい
僕は父さんと母さんが───許してください
誰かを殺す苦しみと父さんと母さんのいない苦しみ
僕は今日もその二つを天秤にかける。


───



ホワイトハウス、オーバルオフィスでアメリカ合衆国大統領プラチナ・ゴードンは悩んでいた。
今日の昼飯は何にするべきか。
ハンバーガーを食べたいような気もするしステーキも食べたい気分だ。
フライドチキンだって食べたい。思い切ってSUSHIにするのもいいかもしれない。だけどもピザも捨てがたい。
プラチナ・ゴードンは大統領だ。金は腐るほどある。
だから別にそれらを全部買っても懐は全く痛まない。だけどゴードンもう35歳。まだ若いつもりだけど結構年だ。体に嘘はつけない。
あんまりお腹いっぱい食べると3日ぐらい気持ち悪くなるから食べるものはちゃんと絞らないといけない。
いっぱい頼んでちょっとずつ食べて満足したら残すというのもできるけど、それはご飯を作ってくれた人に申し訳ないから絶対しない。
こういう庶民派なところが支持率をキープするゴードンの秘訣。
「だ、だだだだだ、だだだだだだ大統領!大変です!」
大きな声を上げながら入ってきたのはあわてんぼうの秘書、アワーテ・ンボウだ。全く落ち着きのない子で困る。
「ヘイ、何があったんだいアワーテ。ワイフの浮気現場でも目撃しちゃったのかい?」
あわてんぼうに小粋なアメリカンジョークで応対してやろうと思ったんだけど失敗した。でもこういうお茶目なところも人気の秘訣。
「僕とワイフはラブラブです!浮気なんて絶対ありえません!ってそうじゃない、ほんとに大変なんですよ大統領!」
全く落ち着く様子のないアワーテを見てゴードンがやれやれと肩をすくめる。
「少しは落ち着き給えよアワーテ、ほら今コーラを出してやるから」
ゴードンが立ち上がって冷蔵庫にしまってあるコーラを取り出した。ペットボトルのヤツは一つもない。全部ビンだ。
なんかビンの重みがないとコーラを飲んだ気にならない。ゴードン一流のこだわりだ。こういうところにちゃんとこだわりを持つのが人生を楽しむ秘訣。
腰に手を当ててキンキンに冷えたコーラを一気飲みする、この冷えた炭酸飲料が喉を通ってく感じがたまらない。
アワーテもコーラを飲んで少し落ち着いたようだ。紳士たるものどんな時でも冷静でなくてはならないと教えているのに、全然身になってない。ゴードンちょっとがっかり。
「で、いったい何があったっていうんだい、アワーテ」
余裕のある口調でアワーテに話しかける。部下が慌てふためいている時こそ上司は落ち着いてなければならない。これはゴードン家の家訓。
「はい、実はですね。ニュヨーク上空に突然北海道が出現しました」
相変わらずアワーテにはジョークのセンスがない。
「ハハハ、アワーテ。今年のエイプリールフールはとっくに過ぎてるんだぜ?」
部下のつまらないジョークにも大人の対応で返す。これが上司の務め。
「本当です。今テレビでもその話でもちきりですよ」
「えー。嘘でしょー。」
ゴードンの軽口を無視してアワーテがテレビの電源を入れる。
『こちらメトロポリタン美術館前!こちらでは北海道から飛来したエゾオオタカたちが暴れに暴れています!美術館前は混乱を極めており』
ピッ
『私は今、タイムズスクエアに来ております。見てください。このエゾジャケの大群を。エゾジャケが辺りの人々を手当たりに次第に襲って』
ピッ
『た、大変です!エンパイア・ステート・ビルディングが…!エゾヒグマに…エゾヒグマに…!うわー!!」
「今、ほとんどのテレビ局でこのことをやってます。」
ゴードン黙る。ゴードンちょっと思考が追い付かない。
ゴードン考える。ゴードン長考する。アワーテはゴードンが口を開くのを待つ。
「アワーテ」
「はい、なんでしょう」
「これ、ドッキリでしょ?」
ゴードンちょっと現実逃避。
「もしくは夢でしょ?」
ゴードンやっぱり現実逃避。
「いえ、残念ながら現実です。」
でもアワーテはそれを認めない。残念ながら現実です。
「Oh! My God! 」
ゴードン叫ぶ。
「ふっざけんなよー!ちょっおまっっええええええええええ!!!?!?!?」
「大統領、落ち着いてください!」
ゴードンがこんなに動揺するなんてはじめて。アワーテびっくり。
「Holy shit!」
ゴードンまた叫ぶ。
「これっがっ!おちっついてっっ!!え、え!?えええええええ!?!?!?!!」
「大統領、しっかりしてください!」
自分がこんなに慌てるなんでゴードンもびっくり。新発見。
「いやっちょっと待て。日本は!?日本政府は!?っていうか範馬のヤツは何やってんの!?あいつ今度はアメリカとドンパチやるつもりなの!?」
ゴードンが範馬慎太郎のクーデターに協力してあげたのはつい半年ほど前のことだ。
その時は結構いい感じに友好関係が築けたとゴードン思ってたし、そんなクーデター起こして半年かそこらでアメリカに喧嘩を仕掛けるほど範馬がバカな男だとはゴードン思えなかった。
でも、実際北海道がニューヨークで暴れてる。どうなってるのこれ
「っていうか北海道のことは一応監視はしてたはずでしょ!?なんで誰もニューヨークに来るまで気付かなかったの!?国防総省の連中はなにしてたの!」
とゴードンが叫ぶと同時にオフィスのドアが蹴破られた。
「呼んだかい!兄貴ッッ!!」
アバレー・ンボウ。アワーテ・ンボウの実の兄にして現在のアメリカ合衆国国防長官だ。
「確かにキミに用はあったけど、なんでキミはドアを蹴破るものだと思ってるの!?」
「そこにドアがあるからさ。ってそんなことを言ってる場合じゃねえな。こいつをみてくれ兄貴」
アバレーがテキパキと資料を配る。暴れん坊だけどこういうことはしっかりとできる男だ。
「なにこれ。北海道の写真じゃない。これがどうしたの?」
「よくみてくれよ、兄貴。こいつは宇宙にいるだろ。」
「そりゃあ北海道は宇宙にいるもんでしょ?」
「そうだ。そしてこいつはついさっきとったばかりの写真だ。つまり俺たちの知ってる北海道はまだ宇宙にいるんだよ」
ゴードン考える。ゴードン思考する。
「しかし、あのエゾジャケやエゾヒグマ、エゾババアは確かに本物だろう。」
「ああ、だが宇宙に浮かぶ北海道を観測できたのは俺たちだけじゃない。範馬の野郎にも確認したが確かに北海道は日本の領空内に存在しているそうだ」
「つまり、今、北海道が二つ存在していると?」
アワーテの言葉に二人は黙って頷いた。
「こんなもんは科学技術でなんとかなるもんじゃねえ。十中八九魔人の仕業と考えちまっていいだろう。」
「北海道を召喚する魔人か。そんなヤツが存在するとは信じらんが」
ゴードンもう一度テレビに目を移す。エゾヒグマが暴れている。F-22が次々と放射熱線で撃ち落とされていく。信じられない光景だった。
ゴードンの愛するメリカが、ゴードンの守るべきアメリカ国民が、今、北海道に蹂躙されている。
誇りが、穢されている。ゴードンそう思った。
「実際にことが起こっている以上、私にはこの国を守る責任がある。」
「そうだな。で、まずはどうする。とりあえず軍隊の出動の許可は俺が出しておいた。エゾヒグマの足止め、人命救助はヤツらがうまくやってくるはずだ」
「おま…大統領である私に相談もなく何を勝手に…おま…」
「しょうがねえだろ!緊急事態だったんだから!罰ならあとでいくらでも受けてやるよ!」
「いや、そうだな。ナイス判断だ。アバレー」
確かに今回ゴードンは事態を知るのがかなり遅くなってしまった。その判断は待っていたら救えたはずの命を救えなくなっていたかもしれない。ゴードン反省。
「なら今は我々がすべきことは北海道を召喚する魔人の特定か」
「では僕からCIAに連絡してみます。彼らなら何か掴めるかも」
「ああ、頼む」
アワーテが出ていってすぐ、ゴードンの携帯が鳴った。
「誰からだ、兄貴」
画面をみる。そこにはウィッキーさんという名が表示されていた。


───



戦闘空間はニューヨークのブロンクス動物園。
対戦相手はウィッキーさんと蛎崎裕輔。
それが迷宮時計が示した情報だった。
つまり、ここはニューヨークのはずで、ここにいるのはゴリラとかライオンとか地球に生息している生物のはずだった。
頭上を見上げる。
北海道が浮いている。
エゾジャケが頭上を泳いでいく。
北海道の地面が開き、動物が次々と降り立ってきている。
人間の悲鳴が響く。
動物たちの断末魔が聞こえる。
──これのどこが動物園だ。
真沼の見聞きする光景に、動物園という言葉から連想されるような和やかなものはひとつもない。
──まるで地獄だ。
スラスターを噴射させ高速で移動する。
エゾジャケが向かってくる。
拳を打ち込む。
スラスターを急速噴射させ、爆発的な加速度で敵を砕く真沼の拳。
それがエゾジャケには通じない
舌打ちをし、さらに加速。
スピードでもって、エゾジャケを引き離す。
やはり北海道の野生動物は強い。
こいつらは相手にせず本体を見つけることが先決だと真沼は判断した。
悲鳴が耳に届く。義憤に駆られる。本体への怒りすら感じる。
だが、真沼はそれらをすべて無視する。
勝利のために。自分自身のために。神敷由智のために。
──まずは敵を見つける。能力を使うのはそれからだ。
北海道の野生動物は脅威だが、スラスターを使えば逃げることだけなら難しくはない。
真沼は自分の能力を自分の切り札であると認識していた。使用すればするだけ切り札はなくなっていく。
使用する機会は少なければ少ないほどいい。
正面からエゾジャケが来る。スラスターを噴射し、上方へと退避する。
その時、妙なものが視界に映った。
英語らしきものを口にしながら空を自由自在に飛び回る男。
テレビで何度かみたことがあるあの男は──ウィッキーさんだ。


───



「to bell run!!」(トベルーラという意味の英語)
ウィッキーさんがそう叫ぶと同時にウィッキーさんの体が宙に浮いた
推定英検段数、30段以上であるウィッキーさんが英語を使えば空を飛ぶことなどたやすい。
トベルーラで空中を移動しエゾジャケの攻撃をかわし、時には攻撃をしながら電話を操作する。
「ふーむ、こっちの世界でもちゃんとつながるといいんですがねー」
右に旋回。左に旋回。自由自在に空を飛ぶ。
「おう、出た出た。ハロー、ゴードンさん、お久しぶりです」
「chalk to key!!」(直突きという意味の英語)
ウィッキーさんが左直突きを繰り出す。そこから発生する衝撃波により前方にいるエゾジャケが5,6匹まとめて砕け散る。
「Oh、ソーリー。今エゾジャケと闘っている最中でして、いえ、まあ今のところは大丈夫なんですがね」
「soak to kelly!!」(足刀蹴りという意味の英語)
右足を十字に切ってからの、右の足刀蹴り。
十字を切った時に生じた真空のど真ん中を強く打ちぬくことで空気のバランスを崩し前方に竜巻を発生される英語使い独自の技だ。
エゾジャケが竜巻に巻き込まれて吹っ飛んでいく。
「ソーリー、エゾジャケはなかなか厄介ですねー。ゴードンさんはこちらでも大統領をしていらっしゃるということでよろしいですか?」
一度上空へ退避する。
「当たり前だって?Oh、それは何よりです。実はねゴードンさん。私は貴方の知ってる私ではないんですよ」
スピードを上げる。エゾジャケを引き離す。
「信じてください。詳しい事情は言えませんが、私は今並行世界を行き来する戦いに巻き込まれいるのです。」
「soak to kelly!!」(足刀蹴りという意味の英語)
竜巻を起こす。エゾジャケを吹き飛ばし距離を取る。
「恐らく、北海道を召喚する魔人。これは私の対戦相手です。名前は真沼陽赫と蛎崎裕輔。この二人のどちらかが道産子魔人です。」
再び旋回。エゾジャケを蹴り殺す。
「今、私を含めたこの3人はおそらくブロンクス動物園いて、おそらくそこから出ることはありません。なぜならそれがこの戦いの敗北条件の一つだからです」
ゴードンは何も答えなかった。だがウィッキーさんはかまわず言葉を続ける。
「彼らは、必ず私が倒します。だから貴方たちは人命の救助を優先してください。」
この言葉に嘘はなかった。
今、ウィッキーさんは怒っていた。
この世界は自分の住む世界ではない。だがどんな世界でもアメリカはアメリカだ。
だから今北海道に襲われているこの国もやはりウィッキーさんの祖国なのだ。
そして祖国に敵するものをアメリカ人は絶対に許さない。
「それでは。グッバーイ」
これだけ言えばゴードンは必ず最適な判断を下してくれる、とウィッキーさんは信じていた。
少なくとも、ウィッキーさんの知るプラチナ・ゴードンという男はそういう男だ。
ウィッキーさんの言った通り人命の救助を最優先するか、蛎崎、真沼を倒そうしてくれるか。
それとも何か全く別の手を打ってくるのか。それはウィッキーさんにはわからない。
だがゴードンはきっと最善を尽くしてくれる。
ならばウィッキーさんも自分のするべきことをするだけだ。
エゾジャケの大群が迫ってくる。
迎撃。
足で十字を切る。
その瞬間。
一瞬。
世界が暗転。
世界が緑色のワイヤーフレームで再構成される。
視界が戻った時には
「ガァッ!!」
大量のエゾジャケがウィッキーさんに喰らいついていた。
視界が消えた瞬間ウィッキーさんは思考してしまった。何が起こったのか。これは敵の能力なのか。自分はどうするべきか。
しかし、エゾジャケに思考する知能はない。敵を殺すために学習する本能はあってもそれは思考には決して向けられない。
故に、エゾジャケは躊躇わなかった。視界が暗転しようがなんか緑っぽくなろうが関係ない。ただ本能に従い外敵を殺す。
腕が、足が、ウィッキーさんの四肢がエゾジャケに食いちぎられる。
如何にウィッキーさんの英語が堪能といえども英語を使う暇がなければどうしようもない。
視界が無くなったことによる一瞬の混乱、その混乱中にエゾジャケの攻撃を受けたことによる動揺。
それによって生じる隙を。
真沼陽赫は逃さない。


───



「化け物が」
空から落ちていくウィッキーさんを見ながら真沼陽赫はそう呟いた。
真沼はウィッキーさんの一瞬の隙を突きスラスターでもって胴体を焼き切った。
ウィッキーさんは信じられないというような顔をして地面に落ちて行った。
エゾジャケがウィッキーさんに襲いかかり、ウィッキーさんがそれを迎撃しようとする瞬間、真沼は『ふたりきりの戦争』を発動した。
自分と近くにあった木を赤線で結び、一瞬だけ世界を暗転させウィッキーさんに隙を作った。
そして自分は木に対して降参を宣言し能力を解除。そのままウィッキーさんに向かって突撃した。
結果は上々。エゾジャケはウィッキーさんの四肢を喰いちぎり、ヤツは地面に落下していった。
そして、真沼はもう一人の敵。蛎崎裕輔の位置も掴んだ。
『ふたりきりの戦争』は発動した瞬間、周囲が暗転し、全てが一瞬、緑色のワイヤーフレーム輝線化する。
この時ワイヤーフレームで描かれるのは物体の輪郭のみ。つまり、疑似的な透過に近い。
真沼は確かに見た。この喧騒の中、逃げ惑うでもなく、怯えるでもなく、ただ、歩いていた一人の男を。
そんな人間は今のこの動物園に他にはいない。そしてなによりそいつの周囲には北海道の動物はいなかった。
──ヤツが、蛎崎裕輔だ。
真沼陽赫はそう確信した。
エゾジャケが迫る。
スラスターを噴射、加速し、急下降。地面スレスレを飛行する。
エゾジャケは相変わらず無差別に人や動物を襲っていた。


───



悲鳴が、聞こえる。
遠くで煙が上がっている。
ニューヨークの街が壊されている。
辺りが、血で染まっている。
歩くたびにピチャピチャと嫌な音が聞こえる。
けど歩みを止めることはできなかった。
吐きそうになるのは抑えながら必死に歩いた。
止まると何かに捕まってしまうような気がした。
僕は逃げるように動物園の中を歩いた。
いつの間にかエゾシカが隣にいた。
エゾシカが僕を心配するような目で見てくれている。
僕は少し笑いながらありがとう、と言った。
僕は人殺しだ。
こういう人の多い場所で北海道を召喚したら、北海道が彼らを敵と認識して襲いかかることを知っていて
それでも勝つために北海道を召喚してしまった。
自分の浅ましさがいやになる。
自分の醜さに吐き気がする。
自分のことがどんどん嫌いになっていく。
だけど、それでも。
僕にはもう戻れない。
どれだけ人を殺そうと、どれだけ罪を背負おうとも。
僕は、父さんと母さんと、一緒に北海道に帰りたい。
ごお、と何かエンジンのような音が聞こえた。
人が見えた。
飛んでいる。
真っ直ぐ、こちらに向かってきている。
全身から火が噴きだしている。
それが、僕には彼の怒りを体現しているように見えた。
赤い、光線のようなものが彼の体から出ていた。
エゾジャケが彼に喰いつこうする。
彼はそれを巧みにかわす。
一度よけられたエゾジャケは彼に追い付けない。彼はそれだけのスピードで動いている。
彼が僕の周囲を旋回する。
エゾシカが、僕を守るように前に出た。
エゾジカが槍を構える。
あの人は、ウィッキーさんだろうか、それとも真沼陽赫だろうか。
どちらでも関係ない。あの人は敵だ。
「ネガワクバーーーー!!!!!」
エゾシカが雄たけびをあげた。
槍を振り回しながら彼に迫る。
左に旋回しかわそうとしたがエゾシカは悠々とそれに追いつき槍を彼の頭上から叩きつけた。
「シチナンハックーーー!!!」
エゾシカが再び叫んだ。


───



エゾシカとはなにか!!
それはそのままエゾで暮らすシカのことである!!
読者諸兄の言いたいことはわかる。
なんでシカのくせに槍なんて持ってるの?
なんでシカの鳴き声がネガワクバーなの?
そんなことに疑問に思ったりしただろう。
この疑問にはこの一言で答えられる。
エゾシカはそういう種類もいる!
と、いうことだ。
今回出たエゾシカはヤマナカ族という種類のシカだ。
ネガワクバ、ヤマナカと来てピンと来た読者もいることだろう。
その通り!正解だ!
エゾシカのヤマナカ族とはかの高名な武将山中鹿助の仲間なのだ!名前に鹿って入ってるんだもん!そりゃあ鹿に決まっているさ決まっているとも!
ヤマナカ種の鳴き声は「ネガワクバー」「シチナンハックー」「アタエタマエー」なので
そんな風に普通に鳴き声を上げてたらいつの間にかああいう逸話ができた上がったわけだな。歴史トリビアだ!
っていうかそもそも、山中鹿助とは北海道から青函トンネルを通って抜け出した一匹のエゾシカだったのだ!
そのエゾシカをなんやかんやあって尼子勝久が拾って、なんやかんやあってエゾシカが尼子勝久になついて
なんやかんやあって山中鹿助という名前を授かって、尼子再興運動が広まっていったんだがそれはまあ別の話だ!
そしてヤマナカ族は同族だけあってみんな山中鹿助にそっくりだ。オスもメスもどっちも山中鹿助だ!怖いぜ!
あとこれは余談だけど戦国武将で鹿の兜を使ってるヤツは大体エゾシカの一匹だ。
つまり本田忠勝とか真田幸村とか、そこらへんはもう間違いなくエゾシカだ。近年の研究で明らかになった。
そういうわけだから、まあよろしく!


───



速い、そして強い。
目の前の男を攻撃を受けながらそう思った。
「アタエタマエーーーー!!!!」
言っていることは意味がわからない。
格好も時代錯誤で意味がわからない。
鎧を着こんで頭に三日月の前立てに鹿の角の脇立ての冑をつけて槍を振り回している。
完全に現代人のそれではない。
間違いなく頭がおかしい。
だが、強い。
それだけは確かだった。
スラスターの推進にピッタリついてくる。
「ネガワクバーーーー!!」
槍、横に薙いでくる。
上方に逃げようとする。
男が跳ね、そのまま蹴り飛ばされる。
ダメージは軽減されている。
だが、それでもなお体に響く。
体をひねり。スラスターを噴射。空中でブレーキをかける。
男が槍を振り回しながら追撃をしてくる。
「シチナンハックーーーー!!!!」
うるさい。
エゾジャケが義手に噛みついた。
ダメージは軽減されている。それなのに義手がメキメキを音を立てている。
ふざけるな。
エゾジャケを振り払い、一瞬だけ能力を解除し、焼き払う。
槍を持った男が迫ってくる。
いつの間にか蛎崎の姿は消えていた。
『ふたりきりの戦争』
隙を作り、ヤツに追いつく。
世界が暗転し、全てがワイヤフレームで表現される。
逃げる蛎崎の背中が見えた。
瞬間背中に槍の穂先を叩きつけられた。
「アタエタマエーーーーー!!!」
そして赤い線が俺と建物を結ぶ。
ごう、と空気を吐いた。
エゾジャケが俺の体に集まってくる。
スラスターを噴射し、抵抗する。
攻撃を受けるたびにエゾジャケに体を食われる。ダメージが軽減されているとはいえ随分くらってしまっている。
強い。飛んで行こうとしても叩き落される。
横にも抜けない。
後ろに戻ろうとしても回り込まれる。
もう、ダメなのか。
俺はここでこいつに殺されるのか。
もう二度とあいつと会うことはできないのか。
ふざけるな。
こんなところで諦めるぐらいなら、最初からこんなばかげたことに乗っちゃあいない。
建物に対し降参。能力を解除。そして再び能力を発動する。
世界が暗転する。スラスターで加速。世界が緑のワイヤフレームで再構成されていく。男の顔面に拳を叩きこむ。
赤い光線が俺と男を結ぶ。
「ネガワクバーーー!!」
うるさい。だまれ。
男は殴られながら槍を突いてくる。それを体を大きくそらして避ける。
そのままカカトのスラスターを噴射、ヤツの顎を蹴り上げる。
避けていけないのなら。
倒して抜けるまでだ。
エゾジャケが俺の体を食らう。だがそれを無視する。
噴射。殴る。噴射。蹴る。噴射。殴る。噴射。殴る。噴射。殴る。噴射。殴る。噴射。蹴る。
速度を上げながら拳を、蹴りを叩きこむ。
「シチナンハックーーー!!!」
突き。避けられない。
俺の負けだ。
能力が、解除される。再び発動。暗転。ワイヤフレーム。
赤い線が俺と建物を結ぶ。
槍が俺の胸を突いた。本来なら一撃で俺の装甲を貫いていたかもしれない槍。
だが今はただ痛いだけだ。
何度だって負けてやる。
降参し、能力を解除。そして再び能力を発動する。
何度負けたってかまいやしない。
世界が暗転する。スラスターで加速。世界が緑のワイヤフレームで再構成されていく。男の顔面に拳を叩きこむ。
最後に俺が勝っていれば。
赤い光線が俺と男を結ぶ。
あいつに再び会うためなら。
「アタエタマエーーーー!!!」
槍。避ける。つま先のスラスターを噴射し後ろ回し蹴り。男のこめかみに叩き込む。
何度だって泥にまみれてやる。
エゾジャケが足に噛みついてきた。
メキリメキリ、という音がする。
男が槍をふるう。
突き、払い、薙ぎ、振り下ろす。全て、避ける。
一瞬隙が見えた。槍を戻す瞬間。肘のスラスターを噴射、右フック。
顎をかすめる。ヤツがよろめいた。いまだ。
右に旋回し、ヤツを抜き去る。
一度距離を取ってしまえばもう追いつかせない。
「ネガワクバーーー!!!」「ネガワクバーーー!!!」「ネガワクバーーー!!!」「ネガワクバーーー!!!」「ネガワクバーーー!!!」「ネガワクバーーー!!!」
「シチナンハックー!!!」「シチナンハックー!!!」「シチナンハックー!!!」「シチナンハックー!!!」「シチナンハックー!!!」「シチナンハックー!!!」
「アタエタマエーー!!!」「アタエタマエーー!!!」「アタエタマエーー!!!」「アタエタマエーー!!!」「アタエタマエーー!!!」「アタエタマエーー!!!」
聞きなれた声が八方から響いた。
さっきの男が群れとなって俺に向かってきている。
上方に飛ぶ。
「ネガワクバーーー!!!」「ネガワクバーーー!!!」「ネガワクバーーー!!!」「ネガワクバーーー!!!」「ネガワクバーーー!!!」「ネガワクバーーー!!!」
「シチナンハックー!!!」「シチナンハックー!!!」「シチナンハックー!!!」「シチナンハックー!!!」「シチナンハックー!!!」「シチナンハックー!!!」
「アタエタマエーー!!!」「アタエタマエーー!!!」「アタエタマエーー!!!」「アタエタマエーー!!!」「アタエタマエーー!!!」「アタエタマエーー!!!」
上からも来ている。北海道から降りてきている。
思い出した。
こいつらは。
エゾシカだ。
エゾシカが北海道からどんどん降ってくる。
山中鹿助の槍が次々と体に当てられる。
能力のおかげで体をダメージは軽減されている。
ただ、軽減されているとはいえ、ダメージ自体は受けている。
加えて、この量だ。
「ネガワクバーーー!!!」「ネガワクバーーー!!!」「ネガワクバーーー!!!」「ネガワクバーーー!!!」「ネガワクバーーー!!!」「ネガワクバーーー!!!」
「シチナンハックー!!!」「シチナンハックー!!!」「シチナンハックー!!!」「シチナンハックー!!!」「シチナンハックー!!!」「シチナンハックー!!!」
「アタエタマエーー!!!」「アタエタマエーー!!!」「アタエタマエーー!!!」「アタエタマエーー!!!」「アタエタマエーー!!!」「アタエタマエーー!!!」
山中鹿助は北海道からどんどん降りてくる。
まるで山中鹿助の雨だ。
意識が遠くなる。
由智の姿が見えた。
なあ、由智。見ててくれたか。
僕も、なかなかもんだったろう。
由智が微笑み、僕に向かって手を伸ばす。
僕もその手を伸ばそうとする。
けれど僕は由智の手を掴めなかった。
掴まなかった。
ここでこの手を掴んだらあの時と同じになってしまう。。
現実から逃げて一人で殻にこもってたあの頃と同じになってしまう。
俺はもう逃げない。
俺は、まだ戦える。
真智のヤツに呆れられないためにも、由智に胸を張って会うためにも。
俺はまだあきらめない。
由智が少しだけ悲しそうに微笑んだ。
ありがとう。行ってくる。
「ネガワクバーーー!!!」「ネガワクバーーー!!!」「ネガワクバーーー!!!」「ネガワクバーーー!!!」「ネガワクバーーー!!!」「ネガワクバーーー!!!」
「シチナンハックー!!!」「シチナンハックー!!!」「シチナンハックー!!!」「シチナンハックー!!!」「シチナンハックー!!!」「シチナンハックー!!!」
「アタエタマエーー!!!」「アタエタマエーー!!!」「アタエタマエーー!!!」「アタエタマエーー!!!」「アタエタマエーー!!!」「アタエタマエーー!!!」
エゾシカの雄たけびで目が覚めた。
エゾシカの雨はまだ降り注いでいる。全てを避けることはできない。
なら、蹴散らして進むだけだ。
スラスターを噴射。加速。旋回。山中鹿助を焼き払う。右フック。噴射。左フック。
蛎崎を殺して、俺が勝つ。
そして俺は由智を
「car~~~」(*1)
声が聞こえる。
「may~~~」(*1)
どこかで聞いたことのある声だ。
「how~~~」(*1)
これはテレビで。
「may~~~」(*1)
ウィッキーさん。
「herーーーーーーーー!!!!!」(*1)

*1(全部あわせてかはめは波という意味の英語)

青白い光が無数のエゾシカを包んだ。
山中鹿助達が次々と消滅していく。
「ハロー、お久しぶりですね」
ウィッキーさん。俺が殺したはずの男が宙に浮いていた。
俺が焼ききったの胴体も繋がり、エゾジャケに食いちぎられた四肢も生えている。
「ふふ、何故私が生きているのだって顔をしてますね。」
ウィッキーさんの言葉を無視し、スラスターを噴射。加速。距離を詰める。
建物に対し降参、能力を解除。『ふたりきりの戦争』を発動。暗転。ワイヤーフレーム化。
赤い光線が俺とウィッキーさんを結ぶ。
貫手。心の臓を貫く。ウィッキーさんが血を吐いた。
ウィッキーさんの体から手を抜き。追撃をしかける。
「zig call sign say」(自己再生という意味の英語)
ウィッキーさんの傷がみるみる修復していく。何故か服も修復されている。
「私が英語を使えばこの程度の傷はすぐに治ります。そして私は喉だけでも無事なら発声ができるように訓練をしている。」
ウィッキーさんが俺の拳をかわした。
「soak to kelly!!」(足刀蹴りという意味の英語)
ウィッキーさんが足を十字に切った。
真空が発生し、ウィッキーさんがそこを蹴ることで竜巻が起きた。
吹き飛ばされた。体がぐるぐる回り、上下の感覚もつかめない。
ガンガンと音が響いた。どうやら地面に叩きつけられたらしい。
ウィッキーさんが地面に降りてきた。
「念のため確認しておきます。貴方は北海道を召喚する魔人ではありませんね」
質問には答えず、ウィッキーさんの顔面に拳を打ち込む。
「残念です」
ウィッキーさんがそれをかわす
何故だがその動きがひどく緩慢に見えた。
「car may how may her!!!」(かはめは波という意味の英語)
ウィッキーさんから両掌から出た青白い光が俺の体を包んだ。
俺の体が、崩れていく。
その感覚もひどく緩慢だった。
なあ、由智、真智。
まあ、俺にしてはよくやったほうだよな。
お前らは、また俺と会って笑ってくれるかな。


───



ずしん、ずしんと地面の震える音がする。
エゾヒグマの足音だ。
エゾヒグマは動物園に近づいてきている。
動物たちの悲鳴が聞こえる。
鳥が一斉に羽ばたいて逃げていく。
みんなエゾヒグマが怖いんだ。
そんな中まるでエゾヒグマなんていないかのように歩いてくる人影が見えた。
エゾヒグマが口を大きく開いた。
放射熱線を吐くつもりだ。
男がエゾヒグマの方を向いた。
両手を体の前に突き出してからゆっくりと腰の方に手を持っていく。
エゾヒグマが放射熱線を吐いた。
男は
「car may how may her!!!」(かはめは波という意味の英語)
と叫びながら両手を前に突き出した。
その両手から出た青白い光がエゾヒグマの放射熱線を跳ね返す。
次の瞬間にはエゾヒグマの上半身はなくなっていた。残った下半身がゆっくり倒れていく。
男がゆっくりと僕に近づいてくる。
「貴方があの北海道を召喚している魔人ですね」
「ええ、そうですよ」
僕がそういうとその男は嬉しそうに笑った。
「では、もう一つの質問です。あれは貴方が死んだら元の場所に戻りますか?」
「さあ、死んだことがないのでわかりません。」
男がわざとらしく困った顔をした。
感情表現の大げさな人だ。
「では、能力を解除してあれを元に戻してはもらえませんか?」
「何故ですか?」
「貴方も見たでしょう。私はエゾヒグマすら一撃で屠る力を持っています。」
男が僕の目を射抜くように見てきた。
「例えエゾヒグマが群れでかかってきても私は殺せません」
一拍置いて、男は言葉を続ける。
「貴方の北海道では、私を殺しきることはできません。」
確かに、エゾヒグマは北海道で最強の生物だ。
その北海道より強いこの人を殺せるような生き物はいないだろう。
「だから、私は貴方に能力を解除して、降参することを勧めているのです」
この人は自分が勝ったあとのことを心配しているのだろう。
僕が殺してから北海道が残り続けるのか、それとも元に戻るのか。
それがわからない限り、僕をむやみに殺すわけにはいかない。
だから、僕に能力を解除するように促しているのだ。
この人は、自分の勝利を確信している。だから、こんなことができる。
エゾヒグマを倒して、自分が北海道より強いと確信している。
だけど
「それは、できません。」
エゾヒグマを倒せることが北海道より強いということじゃあない。
「何故です。貴方に勝ち目がないのはわかるでしょう?意地のために死ぬつもりですか」
男が理解できない、といった顔で僕を見る。
僕は男を無視して頭上を見上げた。
北海道から黒いモノがが降りてきている。
エリモが、くる。


───



『襟裳岬』という唄がある。
1974年に歌手であり北海道探検家でもある森進一が発表した唄だ。
その唄は『襟裳の春は 何もない春です』という一節で締められている。
これは襟裳という土地は田舎だから何もないという意味ではない。
これはそのまま襟裳の春には何もないということなのである。
生命が芽吹くはずの春に何もないということは、夏も秋も冬も常に何もないということになる。
つまり襟裳とは即ち無であるということだ。
北海道の人間は古くから岬に浮かぶ黒いモノを、エリモと呼んで畏れた。
黒いモノ──エリモが空を覆っていく。
エリモの中には何もない。
そしてエリモに触れたらものも同じく何もなくなる。
それを森進一は『襟裳の春は 何もない春です』と表現したのだ。
エリモの一部がのびてウィッキーさんに迫っていく。
「to bell run!!」(トベルーラという意味の英語)
空を飛び、それをかわす。
エリモには何もない。
何もないエリモに触れられたら、同じように何もなくなる。
ウィッキーさんが立っていた地面は、何もなくなっていた。
ウィッキーさんの額に汗が流れた。
「car may how may her!!!」(かはめは波という意味の英語)
ウィッキーさんが蛎崎に向かってかめはめ波を撃った。
エリモが蛎崎を守るようにかめはめ波を覆った。
エリモには何もない。
どのような強い力を叩き込もうと、エリモに触れた瞬間何もなくなる。
「murder murder!!」 (まだまだという意味の英語)
エリモが大きくなっていく。
エリモが少しずつ下に降りてくる。
空が少しずつ何もなくなっていく。
ウィッキーさんが蛎崎に向かって飛んでいく。
「chalk to key!!」(直突きという意味の英語)
ウィッキーさんが左直突きを繰り出す。
エリモがウィッキーさんの腕に触れ、ウィッキーさんの肘から先が何もなくなる。
「zig call sign say!!」(自己再生という意味の英語)
後ろに跳びながら腕を生やす。服の袖も修復される。
エリモはどんどん大きくなっている。
少しずつ何もなくなっている。ニューヨークが何もなくなってしまうのも時間の問題だった。


───



時間がない。
あの黒いモノはどんどん大きくなっている。このままではニューヨークが飲み込まれるのも時間の問題だろう。
その前になんとかしてあの少年を倒さなければ。
「car gain boom scene!!」(影分身という意味の英語)
影分身で手数を増やす。
あの黒いモノの隙をついて少年を殺す。そのためには手数を増やすのが一番だと判断した。
他のウィッキーさんたちが散開する。
『TAI-Kansoku』を発動。視覚、聴覚、嗅覚を強化し、攻撃に備える。
黒いモノが何か触手のようなを伸ばしてきた。速い。
かろうじてよけれる。しかし何人かのウィッキーさんは何もなくなっていた。
思わず舌打ちをし、少年をにらむ。
「car gain boom scene!!」(影分身という意味の英語)
さらに分身を増やす。
分身を一斉に少年のほうに向かわせた。
「chalk to key!!」(直突きという意味の英語)
「soak to kelly!!」(足刀蹴りという意味の英語)
「car may how may her!!!」(かはめは波という意味の英語)
「hurry ten!!」(張り手という意味の英語)
「sow show darts!!」(双掌打という意味の英語)
分身たちの攻撃。一撃でどんな敵でも殺しうるそれが、黒いモノによって全て無効化されていた。
黒いモノは分身たちを取り込んだ。分身が消える。
「car gain boom scene!!」(影分身という意味の英語)
繰り返した。何度も何度も繰り返した。
分身をした。一斉攻撃をした。連携攻撃もした。だがその度に分身は黒いモノに取り込まれた。
黒い手をかわし。分身をする。分身たちが消えていく。
繰り返した。繰り返した。
何をしてもダメだった。
何度攻撃をしても無駄だった。
全てが黒いモノに阻まれる。
あれに触れると全てがなくなってしまう。
黒いモノはどんどん大きくなっていく。高層ビルの一部は既に取り込まれていた。
このままですべてが消える。
この状況を打開する方法は既に思いついていた。簡単なことだ。自分が負けを認めればいい。
しかし、それを選ぶことはできなかった。この場所を守りたいというのは私事だ。
私はこの迷宮時計の謎を解明するという依頼を受けている。
ならば私はその依頼を達成するために全力を尽くすべきである。降参をするというのは依頼人への裏切りに等しい。
しかし。
分身が攻撃を仕掛け、消えていく。
悲鳴が聞こえる。『TAI-Kansoku』されている分だけ、それは鮮明だった。
強化された視覚は黒いモノに取り込まれる人々の苦悶の表情を容赦なく私に伝えてきた。
分身が攻撃を仕掛け、消えていく。car may how may herも消えていく。何もなくなっていく。
黒いモノが手を伸ばしてくる。私はそれをかわす。後ろにあった木がなくなっている。
「私は…私は…!」
無数の黒い手がうねりながら私のほうに向かってくる。手が伸びるたび、何かがなくなっていく。
分身が攻撃を仕掛け、消えていく。
迷宮時計が時間を刻むたび少しずつ何かが無くなっていく。
呑まれていく。消えていく。無くなっていく。
手が、震えている。
私だけがこの惨劇を止める方法を知っている。それなのにそれを実行しないのは祖国への裏切りではないのか。私がみんなを殺しているのも同然ではないのか。
分身が攻撃を仕掛け、消えていく
いつの間にか分身が全て消えていた。
もう一度影分身をしようとする。しかし声が出なかった。
声が出ないことに気付くと、トベルーラの力もなくなった。地面に落ちる。
そのまま、倒れこんだ。
黒いモノがゆっくりとニューヨークを飲み込んでいく。
何もなくなっていく。
立ち上がることができなかった。ただ、空を見上げるしかできなかった。
涙が流れてくる。それをぬぐう気力すら湧いてこなかった。
自分の無力さを噛みしめながら、私は迷宮時計の所有権を放棄した。
しばらくして北海道は消えた。街を包んでいた黒いモノも消えて行った。
太陽が北海道の傷跡の残る街に光を差し込んでいる。
私はその光から逃げるように目を瞑った。



最終更新:2014年11月12日 23:12