プロローグ


日下景プロローグ「あの日夕焼けの中で」

 夕焼けに染まる帰り道。僕の隣には君がいる。

 ずっと、ずっと続くと思っていた穏やかな日々。

 二人の間には一歩の距離、手をつなぐにはちょっと遠い。
 でも、それが今は心地よい。
 踏切の前、他愛もない雑談が途切れた空白の時間。

「ねえ」

 君の口から、さっきまでとはぜんぜん違う硬い声が漏れる。
 緊張した声色。僕より少し背の低い君は、僕の顔をじっと見つめる。

「私……」

――ああ、ダメだ。

 君の言葉に心臓が高鳴る。
 もしかして、という気持ち。
 まさか、という気持ち。
 僕達の関係が変わってしまうのか。ぐるぐると巡る頭の中、君がゆっくりと口を開く。

「君のことが………」
「ん……何?」

―――カンカンカン

 踏切がなり、遮断機が降りる。
 君の言葉は電車の音にかき消され、僕の耳には届かない。
 僕はゆっくりと君に手を伸ばす。二人の影が重なる。

 この日、僕は君を…………………



         ◆       ◆


「んー、やっぱ外の空気は気持ち良いね!ずっと病室の中だと気が滅入っちゃう」

 わずかに身を震わせながら歩く君の手を引き、僕たちは病院の中庭を歩く。
 あの時より、ずっと細くなってしまった手。あの時は繋がなかった手。

「ほんと、早く退院したいんだけどねー」
「……うん、そうだね」

――治る見込みはあるの?

 口から出そうになった言葉を僕は飲み込む。
 僕の隣を歩く君。その足取りはおぼつかない。

「新しい服も買いたいしさ。髪だって、病院の中の床屋じゃ飽きちゃう」

 君の笑顔、僕は何もいうことが出来ない。
 なんとか笑顔を浮かべて頷く僕の額を、こつん、と君は指で突いた。

「もう、いつもいつも、そんな辛気くさい顔してさ」
「……ごめん」
「謝らなくていいよ、でもね、約束して」
「約束、って。なにを」

 君はよろめきながら一歩前にでて、僕と正面から向かい合う。
 入院着の端から見える四肢は細くなり、顔色はあまり良くない。
 それでも、それでも、君は笑顔を浮かべる。

「私、絶対治すから!必ず治して、また学校通うから!」

 ああ――お願いだ。言わないでくれ。
 もうダメだ、もう耐えられない。だからそれ以上言わないでくれ。
 君がいればいいんだ。変わることなんて望んでいない。
 だから、だから、そんな笑顔を浮かべないでくれ。
 だから……

「だから………!」
「ん………何?」

 だから僕は能力を発動する。

 ちょうど僕らの横にあった院内放送のスピーカーが、少し大きめの音量で放送を流し始める。
 君の声はかき消される。僕の耳には届かない。
 これが僕の能力。望まぬ事態を妨害する力。
 だけど、この能力は一度発動するとインターバルが空いてしまう。
 この放送が終わってしまったら、僕は君の言葉を聞かなければならなくなってしまう。

 だから僕は、そっと君の顔に手を触れる。

 違う、違うんだ。僕は君と関係が変わることなんか望んでいない。ずっと同じ距離でいたいんだ。
 だから君の告白を受け入れられない。
 このまま浸透勁を撃ちこめば、君は脳を揺さぶられ気絶するだろう。
 僕の浸透勁の威力は絶大だ、前後5分程度の記憶は軽く消し飛ぶ。
 そうやって、僕は君の告白を回避してきた。君との関係を変えないために。
 そして今回も……

 頬に触れた僕の手に、君の手が重なる。

 君の細い指が僕の手首をそっと掴む。
 力は感じられない。否、必要無い。

――……小手返し!?

 ひねられそうになった手首を慌てて外す。馬鹿な、君に記憶はないはずだ。
 君は僕に告白した。その度に僕は君の記憶を飛ばしてきた。浸透勁を打ち込まれた記憶など残っていないはずだ。
 ……だが、脳に刻まれた記憶はなくとも体はどうだ?
 重度のパンチドランカー症状が出るほど繰り返された告白のやりとり。それが君の脳に重大な障害を残した代わりに、体に消えない記憶を刻み込んだということだろうか。

 とっさに手首を外した僕の隙をついて、君は僕の前に身体を滑り込ませる。
 あの夕焼けの一歩よりもっと近い、触れそうになる至近距離。君の瞳に、僕が映る。
 打撃技を主体とする僕にとってこの距離は不利と見たか、ならばそれは甘いと言おう。
 発勁は別名ワンインチパンチと呼ばれる。
 1インチ……3cm足らずの距離があれば、僕の打撃には十分だ。

 顔を狙って打ち込まれた僕の拳。
 君が僕に正面から向かっていればきっとあたっていたはずだ。だけどそこに君はいない。
 脇をくぐるようにするりと抜けて、君は僕の背後に回る。
 君の細い腕が、僕の首元に回される。吐息が掛かりそうな距離、腕から伝わってくる君の体温。

 そう、これは裸絞。

 君は背後から僕の首を締める。完全な密着状態。1インチの距離すら無い。
 耳に君の吐息がかかる。そう、君の口は僕の耳のすぐ横に。
 君は僕を絞め落とす必要すらないのだ。この状況から告白してしまえば、それで全てが事足りるのだ。
 放送は、終了のチャイムを鳴らしている。
 まずい、これが途切れれば君の声が聞こえるようになってしまう。
 ダメだよ、ダメなんだ。僕はこの関係を変えたくない。
 ぬるま湯のような、穏やかな、けっして変わらない日々。それが僕の願いなんだ。
 それだけは、譲ることはできない。

「私、君のことが――」

 君が口を開く。君の裸絞をまだ解けていない。
 だけど――

「すっ!?」

 だけど、背中からというのが良くなかった。
 背中からの体当たり、鉄山靠、と呼ばれる技だ。
 普通は体当たりである以上ある程度距離がなければ威力はでない。だが、僕の浸透勁を合わせれば話は別だ。
 君の体が背中から剥がれ宙に浮く。逃げ場はない。
 僕は君の顎に手を当てる。鉄山靠の衝撃で君は声が出せていない。

――ごめん

 発勁は正確に顎を射抜き、君は意識を失った。




 病院の中庭で、倒れた君を前に僕は涙を流す。
 どうしてこうなってしまったのだろう。あの日、君が僕に告白した日から。
 僕は幾度と無く君の告白の邪魔をした。告白したという記憶すら消し飛ばした。二人の関係を変えないために。
 だけど君は告白した。なんどもなんども、僕に思いをつたえようとした。
 度重なる発勁の衝撃は君の体にダメージを蓄積させ……ついには、戻ってこれないところまで来てしまった。

 僕は、幸せな日々を失いたくなかった。ただそれだけなのに

 立っていることができないのは悲しみのせいか、それとも裸絞で酸欠になったせいか。
 膝をついた僕はふと気づく、僕の目の前に時計が転がっている。

 何気なく、僕はそれを手に取り―――――――


続く

最終更新:2014年11月09日 20:24