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第一回戦SS・病院その1


『久代旧事本紀』に曰く、
いにしえより常敗無勝、必敗必死の闘技あり。

ありとあらゆる毒物の誤用に長け、森羅万象を自滅の武器と化し、
幾万を超える戦いにてことごとく敗北する。

その闘技には名すらなく、ただ使い手の特徴から、人々はこのように呼ぶ。

――敗技の王、《常に温和な笑みを絶やさない、物腰柔らかな糸目の男》――
略するに、《糸目》と。


***


羽白幾也には嫌いなものが多い。
いや、世界は彼にとって嫌いなもので満ちている。
その中でも最たるものが、いま直面している状況だった。
つまり、「他人からの説教」である。

「羽白くん、あなたには未来があります」

と、綾島聖は穏やかな笑みから切り出した。

「後ろを向いたままでは、前へ――未来へ進むことはできません。
 どうか、前を向いてください。
 あなたが未来へ足を踏み出すためなら、この戦い、喜んで私は勝利をお譲りします」

綾島は手を後ろに組み、微笑みながら、ゆっくりと病院の廊下を前進してくる。
羽白は長い廊下の中央で、彼の接近を待つ。手には得物である角材。
観察し、耳を澄まし、憂鬱に思考する。

(お説教はうんざりだ。そりゃ俺みたいなやつ、誰だって説教したくなるよ。
 だから、聞く必要はない)

耳を使うのは、説教を聞くためではない。状況の把握のためだ。
院内は静かで、人の気配はない。
だが、廊下沿いに並ぶ病室には電気が点いている。

(なぜか無人の病院。昼。通電あり。
 ……そういう舞台設定か?)

どこか柔らかな色合いで満たされた、病院の廊下。直線。
羽白にとっては、極めて有利な地形といえる。
だが、相手にはどうか?

まさか、堂々と正面から接触を測ってくるとは思わなかった。
何か策があるのか。
羽白の能力、スペックはとっくに知られていると思った方がいい。
地下闘技大会のデータベースを漁れば、一瞬で見つかる。

(俺の能力を相手に、正面から近づくなんて――ただの馬鹿か?
 お人好し? 神父だから? 本当に? 何を考えてる?)

羽白は、こちらに歩いてくる綾島から、微妙に視線を逸らす。
彼は人の顔を正面から見るのが苦手だ。
それ以上に、人が苦手だ――自分自身を含めて。嫌悪している。

そんな羽白の能力『ネガティブムービング』は、人を嫌い、
己自身を嫌う、後ろ向きな彼の性格側面の発現なのかもしれない。

『ネガティブムービング』の発動は一瞬であり、一度”始めれば”、死角も容赦もない。
この病院に出現した時点で能力を起動し、何もかもを破壊しつくすのが最善手のひとつであっただろう。
だが、彼の内面には、「失敗」へのネガティブな恐怖があった。

(もしもこの病院に、患者が入院していれば? 医者がいれば?)

彼らを殺してしまったとき。
他人から怒られたくない。責められたくない。
そのことを、羽白は根深い心理の底で恐れていた。
”お説教は、うんざりだ”。

「羽白くん、どうか私にお手伝いさせてください。
 あなたが前を向き、先へ進むお手伝いを」

綾島は、羽白へ向かって手を伸ばす。互いの距離は、いまだ十歩以上。
羽白はため息をついてうなだれた。結局、殺るしかない。
相手は本当に善意から話しかけているのかもしれないが、他に道などないだろう。

(仕方ないだろ、俺はクズなんだから……
 そうしなきゃ生きて帰れない)

羽白は心の中で、己のこれからの行いについて正当性を与えた。
そして、角材を持つ手に力をこめる。

「さあ、羽白くん。私の手をとって。ともに生還する方法を考えませんか?」

綾島は片手を羽白に差し伸べた。
羽白は再びため息をつく。
この神父、かなりズレた思考の持ち主のようだ。この戦いは、そんな甘いものではない。
綾島聖は所詮、あのMr.チャンプや、飯田カオルといった手合いの同類か。
――うんざりする。

「あのさ、神父さん。悪いんだけど、俺はそういうの――」

殺すときは一撃だ。
だから、羽白は一言だけ謝罪の言葉を述べようとした。
その瞬間だった。

綾島の神父服の右の袖口から、何か金属のきらめきが見えた。
他人の顔ではなく、やや下方を観察する癖のある羽白だからいち早く察知できたものだ。

(なんだ?)

羽白は咄嗟に体をひねる。
そのこめかみを、銀色の飛来物がかすめた。

(メス……手術用の!)

それは、握手を求める綾島の袖口から放たれたものだった。
しかも避けた羽白の、即頭部をかすめる軌道。
目を狙ったのは確かだ。

「おやおや、避けてしまいましたか」
綾島は、握手のために差し出していた手を、狙いをつけるように羽白の頭の方へ向けた。

「ですが、困難なことを避け続けていては、成長がありませんよ。
 さあ、どうぞ前進してください。前へ。
 私と手を取り、未来への道を探しましょう」

「神父さん」
怒るというよりも、羽白は呆れた。

「あんたさあ。何を考えてるんだ?」
「何を考えているか? ふふ、それは当然」
綾島聖は、その穏やかな笑みを――さらに、禍々しく深めた。

「あなたが、未来へと進む方法ですよ」
綾島の革靴が、床を擦った。動く。
羽白はその初動を捉えていた。







「そう……死という未来へ向かってなァァァーーーヒャァァーーーッ!」





突如としてあげられる、神父の奇声。
そして攻撃。
羽白は当然のように、あるいは他人事のようにそれを迎えた。

(そりゃそうだよな)

羽白はまたしても諦めた。諦めるという行為が、彼の人生の根幹にあった。
己の限界への諦め。環境への諦め。時計所持者となったことへの諦め。
すぐに諦めることは、羽白幾也の最大の長所でもある。
素早く状況に適応できるということだ。

(こんな戦いに参加するんだ。ただの神父のはずがないだろ)

綾島の攻撃は意外にも素早く、鋭かった。
両手で瞬時に何本ものメスを握りこみ、旋回するような挙動で投げ放つ。

だが、羽白幾也には知る由もない。
これは《常に温和な笑みを絶やさない、物腰柔らかな糸目の男》にとって、基礎中の基礎。
あらゆる環境を己が自滅する武器へと変える術。

《常に温和な笑みを絶やさない、物腰柔らかな糸目の男》が病院という舞台で戦うのなら、
メスの大量投擲は当然にして、最善の選択肢であった。

「死ヒャァーーッヒヒャヒャヒャ!」

綾島聖の哄笑が響く。
彼は体を回転させながら、四方八方へとメスを撒き散らす。
無尽蔵と思われるほどの、メスの大量投擲であった。

「どうだァ~!? このメスの360度投擲は!
 回転して投げることにより遠心力で威力を増し!
 さらに死角もなし! 何人たりとも近づけねェェェヒャァアアアァァ!」

綾島はヨダレを飛ばしながら、恐るべき早口で叫んでいた。
おそらく、彼の舌の長さがもたらす滑舌だろう。
その舌、およそ全長三十センチ。
普段はその口蓋のどこに収納されているのか? 常人をはるかに超える長さであった。

なにより恐るべきは、術を繰り出しながらの、完璧な説明。
投げつけられるメスの刃自体にも、非即効性・非致死性の、
獲物を弄ぶための毒が塗られていることは間違いない。

「もはやこの型にハマった以上、羽白さァん!
 あなたの勝率はゼロ%以下ですよォォ~~~ッ!」

勝ち誇る綾島。
これに対して、羽白は――

「……馬鹿か?」

投げつけられる手術用メスは、速度こそあるが、あまりにも軽い。
背面戦闘。
バックフォワード・アーツを練り上げた彼にとって、そのような射撃は取るに足らないものだった。

(360度――死角が、ない?)
羽白幾也は、メスを回転投擲する綾島に背を向ける。
それはあまりにも自然で、流れるような一挙動であった。

(360度も必要はない。180度をカバーするだけで十分。
 バックフォワード・アーツにこそ死角はない)

羽白幾也。
彼の人生は、いつだって後ろ向きだった。
後ろ向きなまま、前へと進んできた。
いまさら、他人に説教される筋合いなど微塵もない。

このとき、彼がとった戦術も、常のごとく”後ろ向き”だった。
背中を向けたまま、背筋の隆起でメスを白刃取りする。
踵の蹴り上げで弾く。後ろ手に旋回させる角材で受け止める。

背後に目があるかのように動くことができる。
バックフォワード・アーツは、背後からの音、匂い、空気の振動、気圧変化――。
そのすべての情報を捉え、活かし、背面を完全に認識する。

後ろを向くことで、強くなる。
それが羽白幾也の本領。
そして、その能力――『ネガティブムービング』。

(どうせ、俺なんて)

羽白は心をネガティブなイメージで満たす。

(人を殺しても落ち込むだけ、後悔するだけのクズ野郎だよ)

羽白の姿が消え、そして出現し、また消える。
秒間10回にも及ぶ、能力の超・連続使用。
背後にある対象を問答無用で消し飛ばし尽くすのが、『ネガティブムービング』であった。

「死ィヒャ!?」

綾島が目を見開く。驚愕しているのかもしれない。
投げたメスが捌かれ、あるいは消し飛ばされていく。
羽白の恐るべき、悪鬼の如き背中が、瞬時に迫り来る。
1秒を切る、刹那の時間で対応を迫られる。

ゆえに、綾島が選択したのは、これも《常に温和な笑みを絶やさない、物腰柔らかな糸目の男》にとっての
基礎中の基礎ともいえる回避手段。

すなわち、飛び跳ね。
尋常ならざる足腰のバネを使い、跳躍し、天井も壁も足場にして飛び回る。
おぞましい虫のごとき回避動作を、《糸目》ではこう呼ぶ――

「さあ、このスピードについて来れるかなぁ~~~っ!?」

綾島は叫んで天井へ跳んだ。その手がメスを投擲することは、もはやない。
あれだけ大量に射出すれば、当然の結末。
あっという間に弾切れとなったのだ。
自分自身を追い込むこの技法こそは、まさに《糸目》の真骨頂であろう。

だが、羽白はそれを知らない。

(なるほどね……、三次元での動き)

たしかに、『ネガティブムービング』は、
上下方向に移動する標的を捉えるのは苦手だ。
――しかしバックフォワード・アーツにとっては、別である。

羽白幾也は、己の能力を知っていた。
その欠点を補う方法も、また。
そうでなければ地下闘技場で戦い、生き残ることはできない。

後ろ向きに移動しながら、羽白は床へ――うつ伏せに倒れこむように体を捻った。
相手が空を飛ぼうが、地に潜ろうが、確実に相手を背面に捉える。
それがバックフォワード・アーツ。
上下方向への回避など、とうに解決している問題であった。

床に倒れこむ形で、上方へ方向を転換。
さらなる『ネガティブムービング』が綾島を追っている。

「キ、キヒッ!」

綾島は天井を蹴り、壁面を蹴り、空間を活かしての回避を試みる。
奇声とともに、廊下の先へ。
極めて捉えにくい、無秩序な機動。《糸目》の技法によるものだ。
それでも羽白には、『ネガティブムービング』の利があった。

やがて、羽白は綾島に追いつく。
迫る羽白の背中と、綾島の昆虫めいて四肢を屈伸させる影が交錯する。
瞬間的な接近――その一瞬。

ぎぢっ。
と、何かがちぎれる音が響く。
綾島の左側面を、羽白の背中が掠めていた。

(ぎりぎり外したか……)

相手の左肘から先を、消し飛ばした。
羽白は無感動にその一撃の成果を認識する。
すれ違いざまに角材の追撃を叩きこもうとしたが、綾島の反応速度は速かった。
腕をもぎ取られ、それでもなお、綾島は叫びながら体を捻り込んでいる。

「脇腹がガラ空きですよォーーーッ! 奇ッヒャァァッ!」

その一瞬、羽白は呼吸を忘れた。蹴り飛ばされたのだ。
『ネガティブムービング』の連続使用も止まる――
これがこの能力の欠点の一つになる。
背中による空間切削がヒットする瞬間、相手に致命傷を与えきれなければ、反撃を食う。

「ちっ」
脇腹をかなり強力に打たれた。近接回し蹴りか何か?
恐ろしく奇怪な軌道の蹴り、羽白の知らない系統の体術か。
舌打ちとともに、羽白は床を転がる。
とにかく綾島――敵を捕捉しなければ。

「キヒャッケァァァァーーーーッ!」

その奇声は、痛みによるものか。
綾島の左肘から鮮血が吹き出し、地面に降り注ぐ。
それでも彼の奇怪な移動が止まることはない。
どん、と、壁を蹴り、今度こそ綾島は廊下の奥に逃れていく。

(あの異常な速さ。魔人能力みたいだ。
 事前情報のとおり、シンプルな身体強化か――)

角を曲がり、跳ねながら駆ける。
その移動には、何らかの目的があるようだった。

(ここで逃がしたくないな)

羽白は追う。
綾島の向かう先を、羽白は横目に視認する。

――『手術室』。
そこへ誘い込もうというのか。
逃げ込んだ部屋には、何らかの罠があるのだろうか。

羽白は気づいている。
左腕を引きちぎられたというのに、あの瞬間、綾島聖が歪んだ笑みを浮かべていたことを。

(罠か何か? どちらにせよ発動する前に、終わらせよう。
 痛い思いをするのは、もう嫌だ……なんで俺がこんな目に……)

ネガティブなイメージを思い描く。
羽白は手術室へ背中を向けた。
後ろ向きに、戦うために。

羽白幾也の戦い方には、根本的な矛盾がある。
だが――その矛盾こそが、彼の強みでもあるのだった。

(『ネガティブムービング』――)

羽白は能力を発動し、手術室へと突っ込んでいく。


***


その部屋に背中から突入した時、羽白は即座に周囲の状況を認識した。
背面に対する認識・把握・対応能力。
それこそが、羽白の戦闘術の根幹である。

そして、羽白は愕然とした。

(なんだこれは!?)

高速で『ネガティブムービング』を連続発動しながら、羽白はその部屋の異常さを知る。
手術室の内部など、羽白幾也が日常的に見慣れているわけではない。
だが、そんな羽白ですら、その部屋の光景を『異常』と判断できた。

白衣を着た医者が――看護士が――患者が――。
腹部を――胸部を――頭部を。
切り開かれ、抉られ、砕かれ。

その手術室のあちこちへ、まるでパーティー会場の飾りつけのように、ぶちまけられていたのだ。

(この病院は――無人、じゃなかったのか!
 間違いない。この男が! 院内の人間すべてを!)

視界の端には、なぜか白衣を着て、手術台の傍らに立つ綾島。
いまだ無事な彼の右手には、手袋――そして、握りこまれた注射器があった。
この数十秒の隙に、そんな準備を。
そして、あらかじめこの病院の人間をことごとく虐殺していたというのか。

(なんて――)
羽白は戦慄した。
それは、そこで行われたであろう残虐な行為に対してではない。
羽白幾也は他人に同情することはあっても、倫理観による動揺はしない。

(なんて、無駄なことを!)
綾島聖が行った、まったく無益な作業、無駄な努力に対してである。
そんな行動に時間的・労力的リソースを振り分けるくらいなら、
もっと、もっと、別のことができたはずだ!!!


「よぉぉ~~~おおおこそ、羽白幾也さぁぁぁぁ~~~ン!」

羽白が室内の状況を確認する、その一秒にも満たない時間。
綾島はいびつな笑みを浮かべ、長い舌を動かして喋った。
鍛え抜かれた早口による、圧倒的演説速度であった。

「私の手術室は、いかがですかアァァ~~~~!?
 クッ、クケッ、クケェェケケケケケ!
 今日はあなたを手術して差し上げますからねェェェ~~~~っ!」

(なんて、なんて、なんて――なんて無駄なことを!)

もはや羽白は恐怖すら覚えた。
羽白が背中を向けて迫る、その瞬間まで、この無意味な台詞を喋るために時間を費やすとは。
まさか、この男は、この一連の茶番を見せつけるためだけに戦っているというのか。
それこそが目的だというのか。

(いや、動揺するなよ。ただそれだけのことだ)

羽白は理解するのを諦めた。その判断力を戦いにのみ集中する。
注意すべきは、綾島の目的ではない。
自分の目的――どうやって相手に勝ち、生き延びるかということ。
羽白はネガティブではあるが、自殺志願者ではない。断じて、そうではなかった。

「私の特別なオペで、内臓ブチ撒け究極残酷手術で殺しヒャァァァハァァァーーーーーッ!!!
 ドクター綾島の殺人手術の始まり始まりィィーーーーッ!!!!!!」

綾島は哄笑しながら跳躍した。天井を蹴って、また「飛び跳ね」を始める。
先ほどの交戦で、羽白はおおよその綾島の機動力の限界を把握していた。
捉えることは、そう難しくはないと判断していた。
だが。

(身体能力が、上がってる。あの足の筋肉)

異様な筋肉の膨張。神父服がその肥大に耐えかね、破裂している。
間違いなく魔人能力によるもの。
壁を蹴れば壁が砕け、天井を蹴れば天井が砕ける。
それを見てもなお、羽白に動揺などあるはずもなかった。

(いままで、このタイプの魔人とは腐るほど戦ってきた)

手術室内は、広い。
綾島が回避するスペースも十分にあった。
それでも、羽白の背面移動により、徐々に綾島の回避軌道は絞られる。
部屋の隅へと追い詰めていく――綾島が逃れられない方向へ。

移動と回避、攻撃と破壊が一体。
それは、”後ろ向き”であること、”前向き”であることが奇妙に調和した、
羽白幾也の生き方そのものであった。

(どうせ俺はクズなんだから。わかってるから)

そうして、ついに羽白は綾島を部屋の隅に追い詰める。

「ヒッヒヒャーーーーッ! 注射の時間ですよぉーーーっ!」

なぜか楽しそうに笑う、綾島の右腕が蛇のように動く。
その手に握られた注射器が、弾丸の速度で射出される。
おそらく内部には、毒。それとも麻酔か。

いずれにせよ、羽白には苦し紛れにしか思えなかった。
その判断は正しく、しかし同時に間違っている。
苦し紛れこそが、《常に温和な笑みを絶やさない、物腰柔らかな糸目の男》の真髄。

(当たらない)
羽白は冷静に、『ネガティブムービング』で注射器をすりぬける。

綾島の目が見開かれた。信じられない、とでも言いたいのか?
いままでお前は何を見ていたんだ?
なぜそんな手段で勝てると思っていたんだ!?

羽白には、綾島の思考が理解できなかった。
理解できないまま、殺そうと思った。

(確実に勝てる)

標的である綾島が迫る。また別の苦し紛れか、無事な右手を伸ばそうとしている。

(通用するわけがない)

なにを飛ばしてきても対処できる。

(もう、どんな手を使おうと無駄だ。
 奴が悪あがきをしたとしても、俺が負ける確率はゼロ――)

高速で処理されていた思考が、そこでわずかに引っかかった。

(待て)

移動しながら、羽白はさらに思考する。
何か、致命的な何かを見落としている気がする。

(いま、俺はなにを考えた?)

思考速度は、『ネガティブムービング』に追いつけない。

(俺が負ける確率はゼロ%!?
 そう考えたのか!? なんだ、何かが――この思考はまずい)

羽白の背中が、綾島の体を消し飛ばそうとする。
その、能力のインターバル0.01秒の瞬間。

(背中――)

瞬間移動の後に羽白が見たのは、綾島の白衣の背中であった。
それも、はち切れんばかりに筋肉が肥大している。

『ネガティブムービング』は、1メートルの距離を転移する能力。
その移動の途中に物理的障害物があろうと、それを無視して、ただ転移する。
追い詰められた綾島が、能力使用の瞬間を捉えて前進すれば、すれ違いが発生するのは自明だ。

部屋の角に追い詰められ、回避が限定されていたということは、接近の軌道も限定されていたということ。
あとは前へ飛び出すタイミングの問題だ。綾島の強化された反射神経にはそれができた。

そして、羽白はこのケースも想定していた。
タイミングをあわせて、羽白の前に飛び出す。
そういう対処の仕方をしてきた魔人も過去に存在する。

(問題ない。相手の背中が目の前にある。このまま――)

手に持った角材に力を込める。
頭をかち割ってやればいい。

(かち割ってやる! もう十分だ。生きて帰る。
 こんな戦い、うんざりだ。くだらない! 俺は生きて帰る――)

それは、この戦いにおいて初めて、羽白が”前へ”攻撃を繰り出そうとした瞬間だった。

「さあぁぁぁ~~~~~羽白さぁ~~~ん」

綾島が、何かを右手に持っている。
あれは――羽白も、その手のドラマで見たことがあった。
心肺に電気的刺激を与えて、蘇生を促す装置。

そして、綾島聖は、そうした機械の『誤用』に誰よりも長けていた。
羽白は知る術もないが、それは《糸目》に伝わる必滅の秘技である。

本来ならば、羽白に向けて放つはずだったであろう、電気ショック――
それを、己自身へ向けて放ってしまう。
なんという卓抜した不注意力か。

「電気ショックの時間ですよぉぉ~~~~ッヒャァァァァーーーッ
 ギャヒィャァァァァアァァァァッアッァッ!!??」

愉悦に満ちた綾島の奇声は、途中から絶叫に変わった。
電気ショック装置の取り扱いに失敗し、己自身に圧倒的な電撃を与えてしまったのだ。
それもおそらく、患者の蘇生に通常用いる以上の電流で。

(ウソだろ――)

羽白は、床の状態に気づいた。
虐殺された者たちの血、あるいはよくわからない薬品の液体で、ぐちゃぐちゃに濡れている。
そして何より、電気ショックで仰け反った綾島の背中が、羽白の顔面に触れた。

『ゲッギャッギャッギャッギャッギャッギャ!』

ふたり分の絶叫があがった。

魔人能力により、超常の生命力を手にしている者と、そうでない者。
電気ショックによって、どちらが先に限界を迎えるかは、自明の理であった。


***

『久代旧事本紀』に曰く、
いにしえより常敗無勝、必敗必死の闘技あり。



「やれやれ……またやってしまいましたねェ。
 羽白くん。あなたは前を向くべきではなかった。
 そのまま”後ろ向き”に逃げ続けてくださればよかった……
 まだまだお見せしていない、病院ならではの技で楽しんでいただきたかったのですが」



ありとあらゆる毒物の誤用に長け、森羅万象を自滅の武器と化し、
幾万を超える戦いにてことごとく敗北する。



「私はこの流派の使い手の中では、最低の落ちこぼれで、劣等生なんですよ。
 里からも追放されてしまいました」



その闘技には名すらなく、ただ使い手の特徴から、人々はこのように呼ぶ。



「これだけ負けるために努力しても、私は勝ってしまうのですから」



――敗技の王、《常に温和な笑みを絶やさない、物腰柔らかな糸目の男》――
略するに、《糸目》と。



「なかなか上手くいかないものですねェ。
 羽白くんの性格ならば、あの状況ではまた”後ろ向き”に逃げると思ったのですが」

もはや無人となった病院で、常に温和な笑みを絶やさない、物腰柔らかな糸目の神父はひとりごちる。

「ですから、羽白くん。悲観することはないですよ。
 最後の最後で、”前向き”になれたではありませんか――
 あなたは素晴らしい人間だ。クズなんかじゃありません」

綾島聖は、黒焦げになって床に倒れる羽白を見下ろしていた。
その糸目が、さらに一層、細められた。

「安心してください……いま、蘇生手術をして差し上げますよ」

メスを手に、綾島はかがみ込む。

「ケヒャッ」

その肩が、奇怪な笑い声とともに痙攣した。