第一回戦SS・遊郭その2


「あら、そこの素敵な殿方。どうか寄っていって」

着物姿をした、化粧の深い女が道を歩く男に声をかける。
女の背後には木造りの豪勢な屋敷がそびえ立つ。その通りにはその屋敷の他にも同じような作りの建物が並んでいた。
見れば、他の建物の前にも女と似た格好の人達が目配せをしている。
いわゆる客引き、というものである。女は男が別の店に入る前に、自分の店に引き入れようとしているのだ。

「変わったお姿ですねえ……。どこの国からいらしたのですか?」

女が声をかけた男は、学生服姿で両手には手袋をはめていた。
ここが『現代』であるならば、変わった姿なのは女の方なのだが、しかし今は男の格好の方がこの場では特異であった。

「ともかく、お店に入っていってください。きっと殿方の気に入るお人が……」

女は男の腕を掴み、蠱惑的な態度で男を引きこもうとする。
だが、男は女を一瞥すると。

「うるさいな」

と声をかけ、睨みをきかせた。

「は……?」

女は急なことに戸惑う。
姿がどうであれ、男がこの場所に来る目的は大抵の場合、一つだ。
だから客引きを行われて、それを無碍にあしらわれるとは思わない。

「まあ、まずはお前でいいか」

男は一人ごちて、更に女の方をじっと見据える。
瞬間、男と女の周囲が暗転した。
世界の全てが緑色に染まり、並ぶ屋敷達は、模型細工の様に白いラインとなってその構造を浮かび上がらせる。

「え……何?……なんどすえ?」

女にとっては実に異質な光景であろう。
現代人ならば、こうした映像を見る経験もあるが、この時代にはTVも映画もない、
まるで一昔前のコンピュータグラフィックスの如き立体映像が、今二人を包んでいた。

やがて世界は色を戻す。
つい先ほどまでと変わらぬ光景。
だが唯一つ、それまでと違うものがある。
男と女の体の中心。心臓と心臓とが一本の赤い線によって結ばれていたのだ。


ふたりきりの戦争(ハイ・タイド)


その赤い線こそ、魔人、(まぬま ひあか)の能力が発動した証であった。
女の方は、何が起きたか理解できないというように、きょろきょろと赤い線と男の方を交互に見つめていた。
一方、男の方、真沼陽赫は女から視線を外すと、彼女が今しがた男を誘おうとしていた屋敷……女が働く宿へと目を向けた。
屋敷の中はどの部屋からも明るい灯が外へと照らされており、多くの人の気配があることをうかがわせる。

(さて、敵が襲ってくる前に準備を整えておかないとな……)

******************************************************************

「つったく、こんなところを戦闘の場所に指定するなんて、迷宮時計ってのは何考えてやがんだ?」

川沿いの土造りの道の上を、一人の少女が歩いている。
格好は至って普通の学生服だが、極めて特徴的なのは、その右腕と左眼である。
その部分は紅い甲羅に覆われ、ゴツゴツと棘のある外観は明らかに人のものでは無い。
その右腕の半分以上は巨大な鋏。
左眼の甲羅部分からは触角のようなものが頭上に伸びており、黒い目玉が頭上にある。
そう、いわば蟹と人間とのハーフ。
巨大蟹の呪いによって、半獣人姿となった少女、右野斬子であった。

(うーん、やっぱりこの時代でもお姉さんの姿は珍しいか―)
(当たり前だろ。妖怪とおんなじ扱いだっての)

川沿いの道には、木造りの豪華な屋敷の前で、客引きを行う着物姿の女……遊女たちが何人も並んでいる。
そう、ここは遊郭なのだ。
それも江戸時代の、どこかの川沿いに建てられたものである。
そんな遊女たちは皆、斬子を見るや驚きの表情を浮かべる。
無論、近寄ってくる者など無く、店の中へ入り込んでしまう者までいる。

(どんな時代、どんな場所だろうと、当然の反応だよ)

そう行って、斬子は寂しげな表情を浮かべる。

(ま、長居は無用だ。とっとと標的を探そうぜ)
(うん、えっと……突子さんのところに浮かんだ名前、「真沼陽赫」……だっけ?)

そんな彼女が頭の中で会話をしている少女の名前は「永久乃 挟子」(とわの きょうこ)
現状は潜在意識だけの存在だが、元々は、年齢11~12歳程度の幼い少女であった。
彼女達が同居することになった経緯は色々あるのだが、ここでは割愛する。

(ああ、生徒会の連中から既に情報は得ている。真沼陽赫……同じ希望崎学園の三年生だ)
(うん、引きこもりのプー太郎だったって話だよね)

そんな彼女たちがこの時代のこんな場所に来てしまったのには理由がある。
『迷宮時計』……斬子の右腕にも嵌められている、その時計を巡る争いに巻き込まれたことによるものだ。
迷宮時計の所持者となったものは、同じ迷宮時計を持つ者同士で、現代とは異なる時間、異なる場所、異なる世界で互いに争わねばならない。

(……だが、戦闘能力はかなりものだって話らしい。何でも体を義体化していて、特殊な格闘術を使うとかな)
(引きこもっていて更に体を改造~? 根暗そうな奴だよね~)

迷宮時計は対戦者を決定するとその名前を時計に写し出す。
斬子は希望崎学園で生徒会の助っ人をしており、その伝手によって対戦相手の情報を既にある程度調べていた。
斬子と同じ、希望崎学園の生徒であったことから、かなりのことが事前に分かっていた。

(……あんまり茶化すんじゃねえよ。不登校になったのは相応の理由があったって話だ)
(へいへーい)
(とにかく、油断のならない相手だってことだ。しかも魔人能力は一切不明。できれば穏便に済ませてえが、そう上手くいくかどうか)
生徒会から入手した情報を見る限り、真沼陽赫の経歴には特に犯罪や悪事に関わるようなものは一切ないことを斬子は知っていた
自らに起こった悲劇により、一度は心を閉ざしてしまった少年。
そんな彼が急に外に出るようになったのが、ここ数カ月のこと。
しかし外に出て何をするようになったかは特に分からず。だが、長い時間行方をくらませるようなこともあるという。
おそらく、迷宮時計の所持者となったためだろう。

(うーん……まあ出会い頭、とっとと"斬"で背後に回ってスパッと切っちゃえば問題ないジャン♪)
(お前は気楽でいいよな……)

迷宮時計の戦いに勝ち残れば、時空を支配し、どんな願いをも叶えられる力が手に入るかもしれないという。
だが敗北すれば、まったくの異世界に取り残されることになる。
一体真沼は何の目的でこの危険な戦いに身を投じているのか。
斬子と同じく、最初はただ迷宮時計の戦いに巻き込まれただけなのか、それとも……。

(お姉さんは考えすぎー。普通に戦いを楽しめば良いのに。私を斬った時はもっと活き活きしてたよー)
(そりゃあ、相手がお前みたいな"狂怪"なら文句ないがな……)

斬子は今、挟子と頭の中で会話をしつつ、河沿いの道をまっすぐに進んでいる。
遊女達からは次々と不信の眼を向けられているが、既に気にすることは無い。

(ま……相手がどんな奴かはともかく、この時代じゃあたしみたいな姿でなくても多分目立つだろ。歩き回ってりゃその内出会う)
(サクッと終わらせたら、私この時代で遊んでいきたいな~。あれやりたい! ほら帯をグルグルグル~って回して女の人を脱がせる奴!)
(お前、どっからそんな知識を得たんだ)
(ワクワク動画の時代劇チャンネルでやってたよ。24時間○殺仕事人シリーズ傑作選の一挙生放送♪ 斬子のクラスの男子が机の下のスマホでこっそり見てた)
(……頼むからそろそろ緊張感を持ってくれ。もうじき半分だ。相手がもし反対側から歩いてきたら、そろそろ出くわしてもおかしくない)

迷宮時計が指定する戦闘空間は決して広くない。
500m四方。人間が全力疾走すれば横断するのには10分もかからない。
斬子が迷宮時計に最初に飛ばされた場所は、その戦闘空間の端の方であった。
その遊郭は川沿いに建てられており、戦闘空間は今斬子が歩く川沿いの道……正確には川の中も数十メートル程含むように指定されているが、そこを西側の線とした正方形状の四方、500mである。

(道の端にまで行っていなければ、色町の中の方か。これ以上、遊女たちには会いたくないんだがな)
(うーん、先に宿の中で遊んでたりして~。良い子には見せられないあんなことやこんなことを~)
(んなわけあるか! けど待ち伏せの可能性はある。そうだとすると厄介な……)

その時だった。
近くの宿の中から、一人の遊女が血相を変えて飛び出してきた。

「た……助けて……!助けておくれやすっ!」

女は店を出るやいなや、斬子の方へ駆け寄る。
ただならぬ様子に歩みを止める斬子。

「どうした……?」
「お、男が……」

女が斬子の傍へと近づく。
女の手が斬子へと伸びる。

(お姉さんっ! "斬"っ!!)
(……ッ!!)

ドオンッ
派手な爆音と共に、斬子が立っていた場所が吹き飛んだ。

******************************************************************

「……やったか?」

今しがた突然起こった大爆発を静かに見下ろす男がいた。
真沼陽赫は屋敷の2階の窓から先ほど爆発した地点をじっと見据えている。
炎と煙がもうもうと上がっており、煙の中ははっきりとしない。

(これで終わってくれれば嬉しいが……)

瞬間、真沼は強烈な悪寒を感じる。
真沼の首筋に、何かが伸びる。

「……!!」

真沼は即座に脚部のスラスターを全開にして前方へと逃げる。
そのまま急速旋回。一回りして部屋の中心部へと移動する。
そして、今自分を襲ったものの正体を見る。

(うそっ……! あのタイミングで避けちゃう!? てか、お姉さんの動きが鈍くなかった?)
(……ああ。確かに妙だった)

そこには制服姿で右腕を伸ばした少女が一人。
その右腕は人間の腕ではない。大きな鋏を付けた蟹の腕。
間違いなく、先ほど爆炎と共に消えたと思っていた真沼の対戦相手、右野斬子であった。
真沼は地面へと着地し、態勢を整える。
斬子もまた、即座に真沼の方を振り向き、右腕を前に構えて戦闘姿勢を取る。

「てめえが真沼陽赫か。なるほど、聞いた通り器用なことをしやがる」

斬子は自らの戦闘相手である真沼の存在を認め、声をかける。
しかし真沼はそれには答えない。ただ、斬子の言葉から得られる情報を頭の中で分析する。

(ふん……生徒会からおれの情報をある程度は聞いているようだな)

斬子は、今しがた真沼が見せた高速でのスラスター移動……その技術についての情報を生徒会を通じて知っていた。
真沼陽赫の両腕は義手である。
今は手袋で隠しているが、外せば機械造りの鋼鉄の手首が見える。
いや、機械なのは両腕だけでは無い。真沼は全身の重要部分を義体化しており、各関節部分にはスラスターが仕込まれ、自在に稼働、噴射、推進が可能である。
それによって、通常の人間には不可能な機動や加速、更にはロボットめいた機械技術を用いた戦闘が可能なのだ。

真沼陽赫はその自ら改造した肉体を用いた格闘技術を"ETC"(Extreme Thruster Combate(極度推進格闘術)の略)と呼称しているという。
独自の戦闘術を駆使するサイボーグ魔人。それが斬子が入手した真沼陽赫についての情報であった。

(器用なのは、お互い様だろうが)

その真沼もまた、斬子の事については事前に自らの情報網を用いてある程度調べていた。
生徒会の助っ人をしており、校内の風紀を乱す不良魔人の取り締まりをしている女。そして、たびたび謎の移動術を使うらしいということも。
まさか2階の窓の中、しかもいきなり自分の背後へ移動してくるとまでは思わなかったが、事前にその知識が無ければ、先の攻撃を回避することはできなかっただろう。
もっとも、回避の理由はそれだけではなかったが。

(戦闘前に保険をかけておいて、やはり正解だったな)

真沼は己の用意深さに心の中で感謝する。

「だんまりかよ……おい」
(う~ん、やっぱり根暗な男かな~。でも顔はやっぱりちょっとイケメンかも。お姉さんも好みじゃない?)
(……てめえみてえに、お喋りすぎるのも困るけどな)

真沼が斬子を睨みながら思考する中、斬子は彼に声をかけつつ、心の中で挟子と会話をする。
なお、この会話は斬子の心の中でのみ行われており、対峙する真沼には聞こえていない。

(けどさっきはサンキューな。助かったぜ。しかし良くあの女の人が爆発するなんてわかったな)
(……ん? いや、そんなこと知らなかったけど? 周囲を見回したら、な~んか怪しげな制服姿の男がこっちを見てる感じだったから、とりあえず後ろに行って斬っちゃえって思っただけだけど?)
(…………)

自分の命拾いが神の……否、蟹の気紛れであったことに、斬子は何とも名状しがたい感情に襲われる。

真沼が事前の調査で入手していた斬子の移動術とは、彼女の蟹の右腕、そして蟹の左眼からもたらされる魔人能力であった。
斬子の左眼が映す光景は、彼女の中にいる永久乃 挟子によって知覚される。その視界は周囲200mに及び、挟子は斬子が見ていない景色もその左眼、通称"スキャンサー・アイ"を通じて常に監視している。
そして挟子が左眼で視た位置は、斬子の持つ蟹の右腕を薙ぎ払うことで空間を切り裂き、瞬時に直結することが出来る。
それによって斬子は挟子が捉えた場所へと瞬間移動できるのだ。
これが斬子の右腕……"蟹の右腕"(ゴッド・キャンズ)が持つ三つの能力の一つ、"斬"である。

(それより、なんだろうね。あの人の赤い線)
(ああ……)

斬子と挟子は真沼の身体のある異常に気付く。
一本の赤い線が、彼の胸から伸びているのだ。
事前に生徒会から入手した真沼の情報、義体化の技術に関してもそんな情報は無かった。
その一本の赤い線は部屋の奥へと延びている。
その先には……。

(うわっ、何あれ)
(…………)

斬子と挟子が目で追った赤い線の先には、一人の遊女が転がっていた。
赤い線は、女の胸へと結ばれていた。その女は顔を恐怖にひきつらせ、目に涙を浮かべながら真沼と斬子を見つめている。

(えーと、本当にもうお楽しみだった?)
(そんなわけねえだろ。てか、この部屋……)

斬子には挟子と同様の視界を持つことは出来ないが、それでもすぐに分かるほど、部屋のあちこちに異常があった。
その部屋は、おそらく集団で食事をするための座敷であり、数メートルほどの奥行きがある広い部屋であったが、その所々で遊女たちが倒れていた。
しかも、彼女たちは良く見れば気を失っていない。皆、目を見開き、全身を震わせ、くぐもった声を上げながら倒れている。

「てめえ……どういうつもりだ? さっきの爆発と言い、あたしはてめえがそういう奴ではねえって聞いてたが」
「…………」
「なんとか言えってんだ!」

斬子は激高し、声を張り上げるが、真沼は無表情のまま。
だが、ようやくその口から言葉が出る。

「うるさいな」
「……ああ?」

真沼はそう呟くと、再び脚部のスラスターを吹かせ、赤い線の先にいる女の方へと後方移動した。
斬子は警戒を強め、その様子を眺める。
だが、次の行動は斬子の予測を超えていた。

真沼は倒れる女の首に手を当てると、そのまま無造作にへし折った。
女の口から血が流れ、全身から力が抜けていく。
驚愕の目でその様子を見つめる斬子。
そして、真沼と女の胸を結んでいた赤い線が消えた。

「蝉がどれだけ消えようと知ったことじゃない」
「何っ……!!?」

無感情に呟く真沼。
それに対し、激高する斬子。

「お前も……さっさと消えろ!!」

真沼は叫ぶやいなや、今度は背部のスラスターを前方へと急速噴射。真っ直ぐに斬子へと向かう。
凄まじい高速移動! だが、斬子も対応は可能。斬子は素早く鋏を閉じた状態で右腕を前へと突き出す。

ガキンッ

斬子の右腕の突き出しと突進した真沼がその拳を斬子へ向けて繰り出したのはほぼ同時だった。
そして両者の腕がぶつかり合う激しい音が鳴る。
その結果は、五分であった。
真沼の拳は弾き返され、突っ込んだ勢いそのままに後方へと飛ばされた。

(何っ……)

その結果は真沼にとっては意外だった。
スラスターを全開にした自分の速度は音速にも近い。
更に右腕も同様にスラスターによって超高速で撃ち出されており、今の一撃には二重の加速による衝撃があるはずだった。
その威力は斬子の骨を粉砕し、その体ごと撃ち貫くに間違いなかった。ぶつかった箇所が付き出された『右腕』で無ければ。

(うわっひゃあああーい。落っちる~~)
(くっ……)

真沼の拳を防いだ斬子もまた、高速で飛ばされていた。
その加速により、窓際にいた斬子は開いていた窓からそのまま外へ投げ出され、空中へと浮かんでいた。
だが、真沼とぶつかった右腕には傷一つなかった。
それは"蟹の右腕"(ゴッド・キャンズ)第2の能力、"突"によるものである。
斬子の右腕の鋏を閉じた状態で突き出した場合、いかなる衝撃によっても破壊することが不可能な硬度を得ることができる。
真沼の一撃がいかような破壊力を持とうとも、それがただの物理的な攻撃である限り、斬子が突き出した右腕を破壊することは叶わない。
その代わり、斬子はこの右腕の突き出しによって生物、生きた動物に傷をつけることができないという制約がある。
真沼の右腕も、あれ程の激突を起こしたにも関わらず、傷一つついてなかった。
真沼の右腕は義手であるが、斬子がその義手を既に真沼陽赫という人間の一部だと認識してしまっているためである。
なので、この"突"は普段はもっぱら今のように"斬"による回避が間に合わない時の緊急的な防御用に使われる。

(挟子っ!頼むっ!)
(ほいさー)

"突"による防御では、激突の衝撃による破壊は防げても、その勢いまでは止めることができない。
真沼の拳が生み出した猛烈な慣性によって、斬子はそのままならば地面へと叩きつけられていただろう。
だが斬子はその途上にて右腕を大きく薙いだ。
直後、斬子の体が空中から消える。

斬子と真沼が先ほどぶつかった屋敷の中。
真沼は勢い良く部屋の奥へと飛ばされていたが、脚部のスラスターを下方へと噴射することでその勢いを殺し、停止を試みていた。
その時、真沼は背後に突然何かが出現した気配を見る。
振り向けば、先ほど部屋の外へと飛んでいった筈の右野斬子が右腕を開いた状態で構えている!

「おらあぁぁーーーーー!!」
「……ッ!!」

斬子が右腕を真沼へと勢いよく突き出すべく、バックスイングの動作を取る。
そのまま前方へと右腕を突き出す直前だった。
世界が暗転した。

(……何だ?)

突然暗闇に包まれた世界は、次に緑色に変わる。
そして目に移る情景は全て白いラインへと置き換わる。
やがてその光景も終わり、周囲の情景は全て元の色へと戻る。
それはほんの刹那の出来事。
だが、斬子はその一瞬の間の前後で自らの体に起きた違和感に気づく。

(また……だ)

斬子が真沼に対して突き出そうとした右腕の動きが急速に鈍る。
急停止をかけようとしていた真沼を確実に捉えようとしたその攻撃はしかし、真沼には全く届かなかった。
非常なスローモーションとなってしまったその鋏の中へ真沼の体が収まることはなく、真沼は斬子の目前で停止を完了する。

(まずいっ……!!)

斬子は最悪の状況に陥ったことを瞬時に理解した。
自分の最大の武器であり、防御の手段でもある右腕は間抜けに突き出された状態。
そして目の前には態勢を整えた魔人サイボーグ、真沼。
この状態で次に何が起こるか。斬子は自分の戦闘経験から予測がつく。

果たして真沼も即座に行動を開始した。
停止に使った脚部のスラスターを今度はそのまま右方向へ噴射。
斬子の体を左回りに背後へと回る。

(くそっ……間に合え!!)

斬子はもはや右腕での防御が間に合わぬと悟り、とっさに左腕を制服の中に入れ、スカートと腹の間に仕込んだ乙女の武器、短刀を取り出して真沼に備える。
だが、全身のスラスターで超高速、高威力の攻撃を繰り出せる真沼に対してそれは無駄な足掻きのように思える。
せめて衝撃を多少緩和できればという思いでの行動であったが、結果は斬子の予想と大きく反していた。

(何……!?)

斬子が短刀で備えた左側に真沼の攻撃は来なかった。
否、真沼は正確には斬子を襲おうとしていた。彼の脚は蹴りの態勢をもって、斬子に迫るところであった。
だが、その脚が斬子の短刀の手前で停止していたのだ。

「ちっ……!」

真沼は舌打ちし、再びスラスターを噴射させると斬子から遠ざかる。
斬子もまた、真沼の方を向き直して態勢を整える。

(どういう……ことだ?)

必勝のタイミングで繰り出された筈の蹴り。それをあろうことか真沼自身が寸止めしたのだ。斬子の戸惑いも無理はない。
自分の短刀を恐れての行動……とは考えられなかった。そもそもこれまで見た真沼のスラスターの機動速度からして、短刀での防御が間に合うかすら怪しかった。
よしんば短刀がすんでのところで届いたとして、真沼の蹴りの威力は容易にそのガードを打ち砕いだであろう。ところが、真沼はそれを選択せずに止めたのだ。
いや、そもそも全力で繰り出したであろう蹴りをそんな簡単に止められるほど真沼の脚は『遅い』のか?

(あれは……?)

そこまで思案した時、斬子は真沼の体に再び浮かんだある異常に気づく。
先ほど、遊女を絞め殺した後に消えた赤い線。それが真沼の胸元に復活している。

(はっはっ~ん。だいたい仕掛け(カラクリ)が読めてきたね~)
(ああ、おそらくあれが奴の魔人能力)

真沼の胸から伸びた赤い線は、彼の背後で震えながら倒れている一人の遊女の元へ伸びていた。
そして、今なら斬子にもはっきりと知覚できた。あの二人……真沼と、彼と線で結ばれている遊女に対して、敵意を向けようとすると体が鈍るのを感じる。
更に二人を意識してじっと見つめようとすると、あの二人の間に何か立ち入り難いような、そんな奇妙な違和感を覚えるのである。

(どうやら気づかれたようだな)

そんな斬子の気配から、真沼の方も斬子が己の能力を大体把握し始めていることを察知する。
真沼を見つめる斬子は、やがて表情を強張らせ、彼に声をかける。

「てめえ、その能力、元々はそういう目的で使う能力じゃねえだろ」
「…………」
「本当は1対1で戦うための能力だ。違うか?」
(ふん、察しの良い、うるさい嫌な女だな……)

果たして斬子の推察は正しかった。
真沼陽赫の魔人能力、ふたりきりの戦争(ハイ・タイド)。それは真沼が対象に指定した相手と一対一の戦いを強要する決闘能力である。
この能力を仕掛けた相手と真沼は赤い線で結ばれ、その二人の間と外部との干渉は著しく制限される。
能力の対象者に対して外部の人間が攻撃を行おうとすれば、その速度は急激に鈍り、当たった場合の威力は元に比べて大きく減じられる。
そして能力の対象者同士が外部の人間に対して干渉を行おうとする場合も同様の制限がかかる。
斬子の真沼への攻撃の動きが極端に鈍り、そして真沼の斬子へ攻撃が極端に遅くなったのも、いわば彼らがふたりきりの戦争(ハイ・タイド)による"決闘者"ではないからであった。

「てめえはそれでいいのか? 本当に何も思わねえのか」
「…………」
「無関係の人たちを利用して、殺して、勝って……」
「……………………」
「それでてめえの大切な人ってのは喜ぶのかよ!!」
「……………………!!!!!!」

真沼は表情を大きく歪ませ、突如自分の背後にいる遊女を左手で無造作に掴むと、その体を斬子に向けて放り投げた。

「なっ……!」

突然の事に戸惑う斬子。
遊女の体は斬子と真沼の間の視界を遮るように斬子の眼前へと迫る。
次の瞬間、狭子の叫びが斬子の頭の中に響く。

("突"っ……!!)

叫びと同時に斬子は右腕を突き出す。
その時、遊女の胸板が貫かれ、鮮血と共に手袋を嵌めた手首が飛び出してきた。
その手首は付け根から強烈な蒸気を噴射しており、真っ直ぐに斬子の元へと向かい、その突き出された右腕に激突する。

ガキンッ

強烈な金属音が響き、その手首は弾かれ、後方へと飛んでいく。

(ざぁーーーーんーーー!!)

息つく間もなく狭子の叫びが更に響く。
斬子は突き出した右腕をそのまま薙ぎ払う。斬子の体がその場から消えるや否や、それまで斬子が立っていた空間を真沼の左足が凄まじい勢いで通り過ぎた。
真沼は遊女を投げると同時にその体に隠れた状態から高速旋回し、斬子の背後へと回っていたのだ。
だが、真沼の体は斬子の右目の視点からは隠れていたが、彼女の頭上に伸びる"蟹の眼"(スキャンサー・アイ)の視覚からは逃れられなかった。
彼の挙動を確認した狭子がすんでのタイミングで斬子に指示を送ったのである。
蹴りの動作にあった真沼の背後に斬子が出現する。
斬子は右腕を開き、その体にその紅い鋏を伸ばそうとするが……。

「くそっ……!」

またしても世界は暗転。ふたりきりの戦争(ハイ・タイド)が発動する。
結局、斬子の鋏は真沼に届くことなく、再び空を斬った。
新たに赤い線を伸ばした真沼は噴射によって宙に浮かびながら、先ほど斬子が弾いた手首……己の義手の一部である右手が落ちた場所へと向かう。
その右手を拾い、己の腕に嵌めなおす。

(わーおー、ロケットパンチって奴だー! 凄ーい!)
(はしゃいでる……場合かよ……)

斬子は己の体が血に濡れていることに気づく。
先ほど、狭子の言うロケットパンチ……強烈なスラスター噴射により打ち出された真沼の右手によって貫かれた遊女から噴き出された鮮血によるものである。
遊女は口を大きく開けた絶叫の表情で、見るも無残な姿で斬子の近くに倒れている。
これで屋敷の外で爆発した女、真沼が最初に攻撃する時に首を折られた女に続けて犠牲になった遊女は3人。
そして部屋の中にはまだ数人の遊女が震えながら転がっている。その内の一人には既に新たな赤い線が真沼から伸びている。

「てめえには……本当に何もねえのか……。その戦い方に躊躇いも、戸惑いも」
「…………」

ない、と言わんばかりに無表情な真沼。
そしてその視線の先には、自分と赤い線で結ばれた遊女。
真沼は背部のスラスターを噴射させ、その遊女へと向かい……。

「ちくしょうっ……!!」

斬子は右腕を上へ大きく薙ぎ払うと、その場から忽然と姿を消す。
その動きを見て真沼は噴射を止め、迎撃の態勢を整える。
だが、数十秒程待っても斬子が再び現れる気配はなかった。

「逃げたか……?」

真沼は呟き、周に持ち込める物には限度がある。
今女たちの動囲を見回す。
変わった様子はない。先ほど自分が貫いた遊女の血の匂いが濃い程度。
真沼は一息つき、まだ周囲を警戒しつつも、ゆっくりと今自分と結ばれている遊女のところへと歩いて向かう。

(やはり遠隔式の小型爆弾をいくつかは持ち込んでおくべきだった。そうすればわざわざ直接捻り殺す必要もなかったな)

機械技術に詳しい真沼は爆弾の製造も可能である。
最初に爆発した女も時限式の火力の高い爆弾を背部に仕掛けており、脅して右野斬子にけし掛け、タイミングを見計らって爆発させたのだ。

だが、こうした自分の体以外の武器や物を戦闘空間にどれだけ持ち込めるかは不透明であった。
今遊女達の動きを封じているのは、義体化した自分の体の中に仕掛けられていた催涙ガスを噴射したことによるものである。
これは自分の体の一部なので問題が無かったが、小型の爆弾とその遠隔装置となると、用意するのも、持ち運びの量もかなりのものになる。
また、一人一人に爆弾を仕替ける時間まで確保できるかも分からない。
ゆえに、今回は奇襲用の大型爆弾を一つ用意しただけにとどまった。

――てめえはそれでいいのか? 本当に何も思わねえのか
――無関係の人たちを利用して、殺して、勝って……
――それでてめえの大切な人が喜ぶのかよ!!

ふと、先ほどの右野斬子の言葉が思い出される。

(由智(ゆさと)……。お前は、おれを軽蔑するか? するんだろうな)
(だが、それでも構わない)
(お前を取り戻すためなら……おれは全てを捨てる、全てを賭ける)
(そのためにはあらゆる奇手を厭わない)

決意を胸に、真沼は次なる手を打つべく行動を開始した。

******************************************************************

(ねーねー、なんで逃げちゃったのー?)

斬子は浴槽の前で先ほど血に塗れた髪を洗っている。
血にはある程度慣れている斬子であったが、それでも顔にべっとり付いたまま、というのは気分のいいものではない。
服に付いた分はどうしようもないが、顔に関してはお湯で洗い、近くにあった手拭いで吹くことで何とか血を落とした。

(一旦、立て直しだ。奴の能力を破る算段をつけねえと)
(算段、ねえ……)

斬子は先ほど真沼と激しく戦った場から"斬"による瞬間移動で一度遠くに離れ、戦闘空域内で落ち着ける場所を探し、そこへ移動したのである。
挟子に戦闘空間内の様々な建物の中の様子をスキャンサーアイで窓から覗ける限りで探させたところ、幸いに中に誰もいない部屋がある宿を見つけられた。
無断での立ち入りには気が引けるものがあったが、緊急的な避難なので止むを得ないと、"斬"による移動でその中へこっそりと侵入したのである。

(対策なんて簡単じゃん。あの転がってる女の人たちの首を先に刎ねちゃえば、能力は使えなくなるんじゃない?)
「んなことができっか! くそっ!」

斬子は髪を整えると、浴槽の外へ出て、部屋の中心に敷かれた布団の上へ座り込んだ。
布団や毛布の装飾はやたら豪華であり、二人分の枕が敷かれていた。挟子の言う、『お楽しみ』をする場所なのだろう。

(ふ~ん。でもどうすんの? 正面切って戦っても女の人たちはどうせ次々死んじゃうんじゃない?)
「分かってる……だから考えてんだ!」

頭を悩ませる斬子に対し、挟子が横から茶々を入れる。
斬子にとってはもう慣れたことのはずであるが、今回ばかりは苛立ちを隠せなかった。

(挟子の言うとおりだ。あいつと正面きっての戦闘はできねえ)

斬子は真沼の戦術について、これまでの攻防でその概ねを把握していた。
真沼陽赫の特殊能力(斬子はその名を知らないが、ふたりきりの戦争(ハイ・タイド)という)は、真沼陽赫と別の人間との間に不可視の結界が張られるような能力と考えてほぼ間違いない。
それは元々は他からの干渉を無くして、対象者と純粋な決闘(タイマン)を行うための能力だと思われるが、真沼はこれを他人を犠牲にすることで、敵対者からの襲撃を緩和し、更に自分は任意の状況で攻撃を行うことのできる能力へと転換して使用している。
能力の解除条件はおそらく、真沼かその能力の対象者となった人間のどちらかの死亡。
真沼は手近な遊女たちを既に十数人押さえている。彼女たちを能力の対象とすることで、次々に結界を貼り、そして彼女たちを切り捨てることで真沼の方からは自由なタイミングで攻撃できるのだ。

能力による絶対の防御と、全身に仕込まれたスラスターを始めとした巧みな機械技術による戦闘能力。
その二つを兼ね備えた真沼陽赫は、並みの魔人、いや、かなりの戦闘能力を有した魔人であっても容易に突破ならざる相手である。
勿論、斬子も自分の戦闘力、経験、そして能力には多少の自信がある。
強引に何とか押し切っていけば、あるいは真沼の防御を破り、致命打を与えることも不可能ではないかもしれない。
だが、それまでに何人の遊女が犠牲になるのか。

「なんとかその前に奴に一撃を……」

斬子は更に思索を巡らせる。
真沼の能力による防御も絶対ではない。これまでの奴自身の行動がそれを証明している。
例えば最初の爆弾による攻撃の様に、あらかじめ威力が決められたもの、対象物への速度等が関係ないものは、問題なく効果を発揮するようだ。
あの部屋にいた遊女達はおそらく薬で動きを封じられいたようだが、毒物等の致死性の攻撃も充分に効果を持つのだろう。
となると、そういった類の攻撃を奴が遊女を手にかける前に叩き込めばいい。だが、どうやって。

(三味線糸を~~こっそりと~~あいつの首に掛けて~~一気に吊り上げる~~!)
「うるせえ! てめえは黙ってろ!」

暗中模索の考察に突如横槍を入れられ、思わず声を張り上げる斬子。

(いや、だが発想はそんなに悪くねえ……か)

そう、要は真沼に気付かれぬように、確実に息の根を止めることのできる方法で攻撃すれば良いのだ。
無論、斬子に爆弾や毒物の持ち合わせは無い。だが、必殺となる一撃ならばその右腕に宿していた。

斬子の魔人能力、"蟹の右腕"(ゴッド・キャンズ)第3の力、"挟"。
それはその紅い右腕の鋏で対象物を挟み込むことで、それが『生物』の体の一部であれば確実に切り裂くことが出来る、というものである。
これは第2の能力、"突"と対になっている。"突"はその硬度とは裏腹に『生物』の体には絶対に傷をつけることが出来ない。
"突"を防御にしか使えぬ代わりに、斬子は"挟"による一撃によって敵を攻撃するのだ。

真沼の義手部分が"突"で傷付かなかったことから、例え機械化された部分であっても、『生物』の一部として認識されていることは既に証明済み。
先ほどの戦いでは尽く不発に終わったが、"挟"による一撃ならば真沼を斬ることは可能。斬子はそう確信していた。
しかし問題はどうやって己の右腕を真沼に気付かれぬよう、その体に当てることが出来るか、である。

("斬"による移動じゃ……厳しいか)

"斬"による瞬間移動ならば確かにある程度不意はつける。しかしそれも万能ではない。
真沼の反応はかなり早い。加えて鋏を真沼へ素早く伸ばそうとする動作すら、その能力の前では大きく速度が減じられてしまう。それで真沼を捉えることが困難なのは先ほど何度か試して既に分かっている。
鋏を開いた状態で真沼と密着した形で瞬間移動ができれば良いが、そこまで綿密な位置関係の移動が可能かどうかは流石に自信が無い。
よしんば可能であったとしても、急に密着した状態で出現すれば、基本的に警戒状態にあるであろう真沼は瞬時に気付くだろう。鋏を閉じるより早く反応される可能性もある。

理想は真沼が全く予期しない位置、形からの攻撃である。
それこそ三味線糸の様に、自分の腕を宙で伸ばしてこっそりと真沼の首筋に当てることが出来ればいいが……。

(馬鹿馬鹿しいな……)

空中を漂う巨大な蟹の腕など目立って仕方ない。
真沼への途上で遊女たちの目につくことは間違いないし、真沼もそんな怪しいものが近づくことを見逃さないだろう。
ならば結局は正面突撃で、無理やり当てるしかないのか。しかしそれではどれだけ遊女たちの犠牲が……。

(くそっ……! 結局思考が元に戻っちまった)

考えが一巡したことに気付き、斬子は苛立つ。
冷静さを取り戻すために頭を何度か振り、顔を上げる。
すると明るい陽光が、その顔に差し込んできた。

「ん……もう夕暮れか」

窓の外を見れば、オレンジ色の光が遊郭を染めている、
太陽が川の向こう側に見える地平線へと沈んで行くのが目に写る。
この世界に来てから、それ程長い時間が立ったとは思えないが、元々日暮れが近い時間に飛ばされてきたのだろう。

「時代が違っても、景色の綺麗さは変わらねえか」

そんな美しい情景に見惚れてるうち、斬子の中にある考えが浮かんだ。

「……そうか」
(お、どうしたい?)
「この場所なら、手はある。あとは……」

あとはどうやってその状況を作り出すか。
斬子が次の考えへと移行するとき、挟子が頭の中で声をかけた。

(ねえねえ。なんか向こうの方がえらいことになってるよ。それになーんか、焦げ臭くない?)
「何っ……!?」

斬子は窓から身を乗り出し、挟子が指示した方向へ目を向ける。
すると、斬子の目にもはっきりと分かる程の異変を視界の彼方に見て取ることが出来た。

「野郎っ!! まさかっ……!!」

斬子は、すぐにその右腕を大きく薙ぎ払った。

******************************************************************

燃えさかる炎。
立ち上る黒煙。
まさに地獄絵図とも言うべき光景が真沼陽赫の眼前に映し出されていた。
だが、その景色を生み出したのは他ならぬ真沼自身である。

彼の両腕……既に手袋が外され、機械仕掛けの鋼鉄の外皮を表していた、その両の手の平からは絶えず赤い炎が放たれている。
その炎は真っ直ぐに真沼の目の前にある木造屋敷へと伸び、その派手で煌びやかであった外観を既に見る影もない程、焼き尽くしていた。
屋敷を焼いた炎は、瞬く間に隣に並ぶ屋敷にも燃え移り、今、遊郭の全てを同じ色へと染めようとしていた。

真沼は無表情に火炎放射を続ける。
これは義体化した彼の肉体に仕掛けられた数多のギミックの一つである。
その彼の近くには、先ほどの屋敷の中にいた遊女が一人倒れていた。その胸は真沼と赤い線で結ばれている。
更に少し離れて所々に遊女たちが転がっている。当然、全身は震えたまま、上手く身動きすら取れない状態のままである。

真沼の眼前の炎は更に勢いを増す。
やがてあちこちから大きな悲鳴が真沼の耳にも届くようになる。
近くの別の屋敷から、全身を炎に包まれて外へと飛び出す人間がいるのが視界の隅に移る。

(そろそろいいか)

真沼は放射を止め、じっと周囲の様子を見つめる。
自らが放った炎は、やがて遊郭全体を焼き尽くすであろう。この勢いならば戦闘範囲の500m四方を包むのにそれ程時間はかからない。
そうすれば、自らの標的、右野斬子はやがて燻し出されてくる。勿論、炎に包まれて勝手に死んでくれるならそれが一番有り難い。

(既に迎撃の準備は十分だ)

真沼は周囲の道端に転がせた遊女たちに目を配る。
先ほど自分がいた屋敷から、動きを封じて運び出した女たちである。
その数、十数人。能力の資源(リソース)としては十分である。
おそらく全てを消費する必要もなく、右野斬子は倒せる。先ほどの攻防で女の能力は概ね把握した。
確かに厄介な能力を持つが、自分の能力を破れるほどのものではない。奴が再び姿を現したならば、全力をもって排除する。
よしんば逃げ回ったままでも、この炎の中で先に息絶えるのは奴だ。
自分の肉体の心肺機能は既に義体化されており、酸素をそれ程必要としない。その気になれば川の中に潜り込んでもこの状況をある程度はやり過ごせる。
後はゆっくりと奴が来るのと、この遊郭全体が炎に包まれるのを待つだけ……そこまで考えた時だった。

「よお」

真沼はすぐに声のした方向を向く。
紅蓮の炎が照らす中、凛とした姿で佇む女が一人。
真沼がちょうど待っていた相手、右野斬子であった。

(私、こういう状況知ってる~~。吉原炎上って言うんだよね~~)

斬子の頭の中では、狭子が冷やかすような声をかけてくるが、彼女はそれに全く取り合わない。
その瞳、その表情は真沼が見てもはっきりと分かるほど怒りに燃えていた。

「てめえは、ここまでやるのか? そこまでして勝ちてえのか」
「……………」
「答えろ。他人をどれだけ犠牲にしても、この戦いに勝ち残ればそれでいいのか」

その時、真沼が何を思ってそれに返す気になったかは真沼自身でも分からない。
これでこの女との戦いも最後に近いと思ったからなのか。
真沼はこの時ようやく、斬子の問いかけに対して口を開いた。

「犠牲を嫌うなら、お前が降参すればいい。それで終わりだ」
「それはできねえ」
「何故だ?」
「…………」

言われて斬子はふと考える。
反射的に言ったが、斬子にはよく考えてみれば何を犠牲にしてもこの戦いに勝つ理由、というのは存在しない。
勿論、この蟹との合成人間状態となった体から元に戻りたいという切実な願いはある。だが、他人を押しのけてまで、となると話は違う。
それ以外にも、できれば……という願いはあるが、それは口に出すのも気恥ずかしい。
もちろん、この戦いに負ければ異なる世界、異なる時代に取り残されてしまうのだから、それだけでも戦う理由としては十分なのだが、改めて自分の戦う理由を問われると堂々と返せるようなものが無いのは確かであった。

「そうか。お前には特に願いはないのか」

そんな斬子の戸惑いを見透かしたかのように真沼が声をかける。

「少し残念だ」
「何……?」
「お前がこの腐れ時計でつまらないことを考えている奴らの方がおれには良かった」
「は……! あたしは嬉しいね! あんたが腐れ外道でな! おかげで躊躇いなく斬れる!」
「そうか。そいつは良かったな」
「…………」
「…………」

沈黙。
わずかな言葉を交わした後、互いに再び押し黙り、張りつめた空気に変わる。
ほんのわずかな時間が流れる。これから命を賭けた最後の勝負に挑む二人にとって、とても短く、とても長い時間が。

「おれには生きる目的がある。なにを投げ打ってでも取り戻したいものがある」

先に口を開いたのは、意外にも真沼だった。

「そのために、この腐った戦いに必ず勝つ」

もはや言葉は不要、とばかりに真沼は戦闘態勢を取る。
左の手で、傍に倒れる赤い線が伸びる遊女を掴みあげる。
右の手が、前方へと構えられる。

その真沼を静かに見つめる斬子。
彼女もまた己の五感を研ぎ澄ませ、戦闘の態勢を取る。

(この戦いにかけるもの……あたしには、そんな大層なものはねえ)

その瞳に、燃え上がる炎に包まれた遊郭が目に映る。
その耳に、燃え上がる遊郭から逃げ惑う人々の悲鳴が聞こえる。

(けど、一つだけ分かることはある。それは……)

斬子は、その紅い右腕を前方に構える。

(思い出せ……あたしが何であるか……)

真沼が斬子を睨む。
斬子が真沼を睨む。

「時計の戦いも、叶えたい願いも関係ねえ」
「狂怪ハンター、右野斬子として、あたしはあんたを倒す!!」

斬子の右腕が、大きく横一線に薙ぎ払われた。


******************************************************************

(ふん、結局はまた逃げの一手か?)

斬子が姿を消し、数秒の時が流れる。
警戒を続ける真沼であったが、しかし斬子が彼の周囲に再び現れる気配は無かった。

(何を考えているかは知らんが、どんな手で襲おうと無駄なことだ)
(正面きって攻めて来ない方がおれにとっては有り難い)

真沼は現在、周囲180度に対して、センサーを張り巡らせている。
義体化された彼の肉体の知覚は脳内に埋め込まれたチップから特殊信号を発することで、ロボット同様に、前方、後方、上方に映るあらゆる映像を見ることができる。
右野斬子がどこから瞬間移動してこようとも、今、彼の肉体は瞬時に反応が可能なのだ。

(相手が悪かったな)

真沼は今左手に遊女を握り、右手を胸の前に構えている。
遊女にはふたりきりの戦争(ハイ・タイド)がかけられている。これにより斬子が彼の近くに出現して攻撃をしようとしてもその動きは鈍る。
だが、自分は斬子は現れると同時にその動きを見切り、そして遊女の首を握り潰して、それと同タイミングで右拳でのカウンターを放つ。
そうすれば真沼に対するふたりきりの戦争(ハイ・タイド)の影響はゼロ。彼の拳は確実に斬子の体を貫くだろう。
それは刹那の感覚が要求される際どい行動であったが、真沼には完璧にこなせる自信があった。
"ETC"(Extreme Thruster Combate(極度推進格闘術))に死角は無い。この義体化された肉体は全てが完璧に連動する。

十秒。
二十秒。

斬子は現れない。

「助けておくれ……やす……」

ふと、手に握る女が悲鳴を上げた。
痺れ薬の効果はまだ続いているはずだが、声を発せられるレベルには回復したのか。
うるさいな。真沼は思う。声帯を切っておくべきだったかもしれない。
ふたりきりの戦争(ハイ・タイド)から逃れる方法に、決闘者に対して降伏するというのがある。
もっともこれは能力にかかった人間がこの能力が決闘能力だと認識していればの話だ。
恐怖に震える遊女たちには最初から降伏などという選択肢が出てこない。
ただ気を失ってしまうと、解除条件の一つである『戦闘不能』というものを満たしてしまうため、痺れ薬で動きを封じたのだが、このまま女が降参といった類の台詞を吐くと厄介だ。

「助けて……助け……」

涙を浮かべ、哀願する女。
ふと、由智の顔が浮かぶ。
やめろ、今は考えるな。いつ奴が襲ってくるか分からない。センサーに集中しろ。

三十秒。

ひとまず気を落ち着け、再び周囲に気を張る真沼。
斬子はまだ現れない。

三十五秒。

四十……

ザシュッ

下半身に違和感が走る。
何故? 下を向く。
次の瞬間、紅い刃が目の前に迫っていた。

真沼の体は真っ二つに両断された。

******************************************************************

赤い火の粉が降り注ぐ。
右野斬子はその中で、右と左に分かれた真沼を見下ろしていた。
その全身は、土埃で汚れている。

「そういう……ことか」

二つに分かれた真沼は、まだ微かに意識があった。
だがそれが続くのもほんのわずかな事。先ほどの右野斬子の一撃は真沼の心臓部、義体化された肉体の全身をコントロールする、コアとなる部分をも一刀両断にしていた。
それはちょうど胸の中心、ふたりきりの戦争(ハイ・タイド)による赤い線が伸びる位置にあった。
そこが無事であれば、首を刎ねられても真沼は動くことが出来るのが、もうどうにもならない。やがて真沼の機能は停止する。
今はほんのわずかに残った声帯系機能を使って声を発するのが精一杯である。

「蟹は、確か地中に潜る奴もいるんだったか」

真沼の目は斬子の足元、先ほどまで自分が立っていた場所を写していた。
そこには大きな丸い穴が空けられていた。

「実際に掘ったのは初めてだよ。一か八かの懸けだったけどな」

つまり斬子の計略はこうであった。
斬子は、最初の"斬"で遊郭に隣接する『川の中』へと瞬間移動していた。
挟子の"蟹の眼"(スキャンサー・アイ)には、四方200mが映る、川の中もその視界である。
否、挟子は元々デビルキャンサーと呼ばれた巨大蟹の意思であった少女。むしろ水中の方こそ良く見える。

そして水中へ移動した斬子は、川の中から土中を掘り進んで、川沿いの道の上にいる真沼陽赫へと迫ったのである。
なお、土を掘るには当然、彼女の蟹の右腕(ゴッド・キャンズ)を使用した。
"突"の応用技である。"突"は『生物』を傷つけることは出来ないが、それ以外の物ならばダメージを与えることが出来る。
そして"突"状態の蟹の右腕はドリルのように高速回転させることが出来る。これによって、いかな固い岩盤でも掘り進むことが可能となるのだ。

真沼の真下へと進んだ斬子は、土中で完全に気配を消し、ひっそりと真沼の下半身へと蟹の右腕を当て、そのまま切り裂くことに成功したのであった。
真沼がセンサーで警戒していたのは周囲180度。真下は、完全な死角だった。

「くそ……が……」

己の敗北。それにただ悔しさを覚える真沼。
やがて、その意識が薄れてゆく。
その脳裏に浮かぶのはただ、自らの大切な人間の顔。
怒った顔、泣いた顔、笑った顔、最後の別れの顔。

「会えるかな……おれは……お前に……」」

呟く真沼。
斬子は彼から顔を逸らし、ふと空を見上げる。
燃えるように赤い空。どこまでも広がる炎。立ちこもる煙。
斬子は真沼の方を向きなおす。

「そりゃ無理だろ」
「ああ……」

真沼の意識が闇に消えていく。
その瞳が閉じられていく。

「うるさい……な」

それきり、真沼は喋らなくなった。

直後、右野斬子の蟹の右腕に嵌められた腕時計が光を放った。
斬子が視線を向けると、その時計の中心部、この闘いの前に対戦相手の名前や戦闘空間の場所を表示した白い文字盤の部分に、デジタル表示で現在の時刻が映っていた。

(おお~、突子さん、バージョンアップだ~~)

戦闘が終わったことを察し、挟子が斬子の頭の中でまた声をかけ始める。
突子さんと言うのは、挟子が斬子の入手した迷宮時計につけた名称である。
斬子、挟子、突子で蟹の右腕(ゴッド・キャンズ)の三つの能力の名前と重なる、ということで挟子はこの呼び方を気に入っていた。

(これで、時間の表示が分かりやすくなったね。戦いにも無事勝ったわけだ。めでたしめでだし)

斬子の手にした迷宮時計は1針時計という一本の針で時刻を表す珍しい時計であった。
その為、多少の知識が無いと何時を表示しているかが分からなかったが、今は一目瞭然である。
デジタル時計が示す時間は17時過ぎ。
陽が沈みかける時間だが、周囲の景色は太陽の有無に関わらず未だ明るい。
真沼が死んでも、彼がこの世界に放った炎は消えない。

「……………」

斬子の瞳に燃える炎が写る。
もう斬子にはこの世界でどうすることも出来ない。
せめて真沼によって動きを封じられた遊女たちだけでも助けられればと思うが、斬子にはその手段が無い。
"斬"による移動は、斬子以外の『生物』を移動できない。彼女たちを逃がそうにも、斬子一人の手では間に合わない。
更に闘いが終わった今、斬子はいつこの世界から消えるのか分からない。

----おれには生きる目的がある。なにを投げ打ってでも取り戻したいものがある
----そのために、この腐った戦いに必ず勝つ

斬子は真沼の言葉を思い出す。
この迷宮時計の戦いに、斬子が賭けるもの。

(少なくとも、今はもう一つある)

斬子の体が少しずつ透けていく。
この世界から基準世界へ、斬子が元いた世界へと迷宮時計が転送しようとしているのだ。

(この戦いで、あたしが出来る限りどんな犠牲も出させない。間違った人間に、迷宮時計の力を手に入れさせない)
(それが、あたしがこの戦いに挑む理由だ)

そして、斬子の体はこの世界から消えた。

最終更新:2014年10月25日 16:25