魔人へと覚醒したのは、中学時代。
学校では、魔人への差別感情は根強かった。当然だ。そんな化け物は他に居なかったのだから。
僕は一人、耐えなきゃならないはずだったのだが、
「一緒に帰ろうか、ひー君」
君はいつも、そばに居た。
「魔人の僕に付き合うことなんて無いさ」
君までターゲットにされるだけだ。そう僕が言っても、
「わたしも魔人だから」
君はそう言って笑った。
どこまで本当なのかも知らないが。きっと僕のための見え透いた嘘だろう。
こんな時でも、君は笑うんだ。表情がころころ変わるから、見ていて飽きない。
こんなことを言ったら、君はまた膨れ面をして拗ねるのだろうけど。
視界の隅に、石を拾い上げる生徒の姿が見える。それで誰を傷つけるんだ?
君が傷つくことを望まないし、僕自身が傷つくのも望みやしない。
君は君自身が傷つけられた時よりも、もっと傷つくのだろうから。
魔人能力を発動する。『ふたりきりの戦争』。
――暗転。
世界が緑色のワイヤーフレームで再構成される。
格子に沿うように、僕の手から赤い線が伸びていく。その道行きは、すぐ近くの君の手へ。
世界が外形を取り戻す。赤い輝線だけは、僕と君を繋いでいる。
魔人でよかった、と、この時だけは思う。こういう使い方ができるのだから。
害意のあるノイズを遮断できる。降りかかる危険も弱められる。ふたりきりの世界を築く事が出来る。
石が音もなく、僕の髪に触れた。そのまま重力に従い落ちていく。
「行こう、由智」
僕は手を差し出す。機械いじりばかりしてきた、固く無骨な手。
君が頷く。手を伸ばす。
感触はない。
――
――――
――
眼を開く。
あいつは居ない。
おれは手を見つめる。機械に完全に代替された、硬く無機質な手。
時計がカチカチとけたたましく動作音を繰り返す。
デジタル表示がいびつに歪み、新たな文字列を築いていく。
うるさいな。
真沼陽赫第1回戦SS『異形の腕、彼女へ』
真沼陽赫(まぬま ひあか)。
欠片の時計である、一針時計がその針先を伸ばす。
巻かれた腕――巨蟹の鋏に、針先が文字を独りでに彫り込む。
そうして対戦相手の名が記されると同時。右野斬子(みぎの ざんこ)は、その人物の調査を開始していた。
希望崎学園の生徒名簿に、その名前はあった。
右野斬子にとっては1年先輩の3年生。現在休学中。
希望崎学園の魔人生徒だからといって、すなわち悪党や変態と即断できるわけではない。
少なくとも、彼女の調査の限りでは、彼を『狂怪』と見做せるような話は聞こえてこなかった。
(出来るならば、戦いたくない)
自らの思考ではない。脳内に声が響く。
(ってー、お姉さん考えてな~い?)
融合した同居人、永久乃挟子(とわの きょうこ)こと、デビルキャンサーの意思からの茶々だ。
(……余裕を持って勝てそうなら、そう考えたかもね)
(お姉さん、弱気~~? 私とお姉さんの力があるのに?)
右野斬子の『蟹の右腕』は、単体戦闘能力としては相当の高性能を誇る。
彼女自身にその自負もある。驕りではない。客観と実績に基づいての判断だ。
神出鬼没の機動力、“斬”。絶対不落の防御力、“突”。文字通り必殺の攻撃力、“挟”。
一つ一つが高水準の能力、しかしながら汎用は全能ではない。
(ああ。戦闘場所が問題だ)
遊郭とも刻まれた、自らの右腕たる大鋏を見やる。
彼女の異形の左目、蟹の眼(スキャンサー・アイ)は、200mもの視界を有す。
“斬”の転移範囲を広漠に定義するそれはしかし、遮蔽物の多い建物内では優位を取りづらい。
“突”と“挟”の無敵の攻防も、動作を行って初めて発揮される。
つまりは、狭い屋内での奇襲に万全に対応できるものではない。
(そりゃあ不利だー。どうすんの?)
(やりようはいくらでもある。師匠の教えと、自分の経験は嘘をつかない)
右野斬子は、川のただ中に転送されていた。
浅い川。膝も出る程度だ。
「ちょっと動きづらい程度か」
(えー。水辺のほうが動きやすいじゃーん)
(それはお前だけだ。私の脚は蟹なんかじゃない)
蟹なのは、片目と片腕。その事実だけで、たまに落ち込む。
「お嫁さんになれねえのかな……」
(私がなってあげようか~?)
「冗談。行くぞ」
目の前には、彩り鮮やかな歓楽街が広がっている。
遊郭。白黒の写真やら、ジャンプ漫画の世界で見たものが、自分の目の前に広がっている。
「……物見遊山と行きたい気持ちもあるけど」
人の気配はない。対戦相手の希望とマッチした結果なのか、時計の気まぐれかは分からないが、
関係ない人間を下手に巻き込みたくない斬子には好都合だった。
(……見えてる見えてる。敵だ~)
「奇襲を警戒するまでもなかったか。一撃で決める」
蟹の眼が対戦相手を視界の端に捉えた瞬間。
世界が暗転した。
――
――――
――
世界が暗転、ワイヤーフレーム化する。それをなぞるように伸びる赤い線は、右野斬子の許へは向かわない。
『ふたりきりの戦争』は、対象に対し、一対一の戦いを強要する決闘能力。
その能力対象の一端が、敵である必要などどこにもない。
赤い糸は、川べりの柳に強く結びつく。
その柳と、真沼陽赫の間でのみ、十全に攻撃を通すことが出来る。他者からの攻撃を大きく阻む。
これにより、敵の攻撃を強烈に制限できる。こちらからの攻撃も受け付けなくなるが、
比較的安全に敵の力を見ることが出来る。保険もかけずに正面戦闘はしない。
決闘能力と嘯きながら、聞いて呆れる。
そう、真沼陽赫は自嘲する。だが、止めるつもりは毛頭ない。
決闘をするために能力があるのではない。勝利のためにこの能力はある。
そして勝利はあいつのために。あいつのための能力だ。
突如空間を斬り裂き、少女が現れた。異形の目と腕を備えた、半怪物の少女。
大鋏を広げ襲いかかる。かかった。それが能力か。それが得物か。
下手に防御力を晒すのは困る。そう真沼陽赫は判断する。
スラスターを吹いて回避を試みる。
避けきれない軌道。能力の一端を晒してしまうが仕方あるまい。
『ふたりきりの戦争』は、決闘対象以外からの攻撃を大きく制限する。
そして、その制限を意にも介せず。即死の挟撃が肩肉を浅く抉り消す。
『蟹の右腕』のモードの一つ、“挟”。挟んだ物体を絶対に切断する能力。
それは『ふたりきりの戦争』の防御応用を嘲笑う。
瞬間移動のみを能力と断じた、真沼の判断ミス。そして驚きの表情を見せたことが、次なる失策。
(……あいつの顔)
右野斬子は独りごつ。
(何を見たのー?お姉さん)
(あの表情を見なかったのか?蟹の目は飾りかよ)
(複眼は動きに強いだけで解像度高いわけじゃないも~ん。それにね、今はお姉さんの目でも――)
(あいつは防御能力を有す。少なくとも、単純な切断に耐えるレベルには。
だからこそ、“挟”が防げないことに動揺した)
会話を遮り句を継ぐ。
だから、攻めるべきは今。防御を恃みに突出した今こそが、最大の勝機!
右手を突きだす。“突”のモード。
無敵の防御力を誇るこの構えは、しかしながら攻撃起点としてこそ最大の効果を発揮する。
突きの姿勢。これは防御に回すには、カバー範囲、動作までのタイムラグから使い勝手は良好とは言えない。
だが、攻撃となれば話は別だ。絶対に破壊されない一撃が、確実に相手へエネルギーを伝達する。
破壊力はゼロとはいえ、姿勢を突き崩すにはお誂え向きだ。
“突”。突き出した手が、迎撃をいなしながら対戦相手を突き飛ばす。
“斬”。斬る手振りをする。隙の大きい背後へと、空間を斬って現出。
“挟”。鋏さえすれば正真正銘の必殺技が、義手の手指を挟む。
容易く折れてしまいそうなそれをしかし、傷つけることは叶わない。
体幹を狙った攻撃は、横っ飛びにスラスター緊急回避されたのだ。
“挟”は生物以外を一切断てない。把持を中断し、次の動作に移行する斬子。
生物と認識さえすれば、鋼鉄だろうとこの鋏は挟み潰せる。ただ、それは人格を持ったロボットなどの、
元々無機物で構成されるような生命体に対しての話だ。義手も生物とみなす程の傲慢なまでの認識を、
右野斬子は持ち合わせない。
“突”。スラスター加速の乗った回し蹴りと衝突。効かない。真沼が大きくよろめく。
“斬”。右野斬子の姿が掻き消え、残心姿勢のままに真沼の死角へ踊り出る。
“挟”。必殺の挟撃!凶暴なスラスターが吹き散らされ、真沼が地面に叩きつけられながら転がる。
“挟”こそ空を切ったものの、斬子は手応えを持っている。
決まるまで何度でも繰り返せばいい。何度でも。何度でも。
“突”で弾き、“斬”で回り込み、“挟”で殺す。
単純最強のサイクルを回す。これが最高の基本戦術。
一つ気になるのは、真沼から伸びる赤い線。その先は柳に伸びている。――あれはなんだ?
真沼が柳を焼き払う。赤い糸がほつれて消えた。能力が解除された証。
確認するやいなや、再び世界がワイヤーフレームに包まれる。シームレスな連続発動。
真沼陽赫から、赤い線が出ることはない。
その能力対象の一端が、真沼自身である必要さえどこにもないからだ。
バシュッ!
噴射音が鳴る。スラスターによる急転速。
瞬間、真沼陽赫の姿は、右野斬子の上空にある。
襲い来るは、非人間的な軌道と速度のフック攻撃。インパクト直前で増速!威力を増す!
攻撃をいなした刀に、逆噴射からの肘打ちが襲う。
迎撃のための、鋏の一突きは空を切る。
構えた“突”を横っ飛びで交わしての加速膝打ち。“斬”で逃れる!
開こうとした鋏に、噴射連続掌打。一撃、二撃、三撃!
息をもつかせぬ高速連続攻撃。
そのすべての攻撃を、“突”で弾き、“斬”で躱す。“挟”は使わせさえしてくれない。
(ぴょんぴょん飛んで~!人間ロケットかっての!)
永久乃挟子が思わずぼやく。
守勢に回るのは拙い。“斬”で100mほどの距離を取る。
障害物越しに、真沼を見据えた。
態勢を立て直すためではなく、ここで決めるための一手。
刹那。右野斬子は鋏で空を切る構えを取っていた。
“斬”!
真沼の直上。石灯籠が出現する。
“斬”で転移できるものは、右野斬子自身と、斬撃範囲内の“生物以外の全て”。
すなわち、自分と共に質量弾を送り込む事ができるのだ。
数十キロの質量が頭部に着弾!よろめきながらも、咄嗟に噴射で前方へ逃れる。
これは悪手だ。斬子は二度目の“斬”を終え、逃げ先で大鋏を構えている。
“挟”による必殺挟撃。真沼は両腕で左右からの刀身を阻む。
がっちりと挟み込む形。生物でない義手を切断することは出来ないが、その把持力は常人離れだ。
真沼が全身のスラスターを噴射。抜けない!
義手で鋏を食い止められている。このままでは互いに――
「……互いに決め手がないな」真沼が同意を求めるように呟く。
それは意識を顔近くに反らす誘導。同時に、自由な下半身から噴射蹴撃が迫っている。
斬子の腹部を掠める。軽く呻き声を上げるが握力は衰えず!
「ぐっ……嘘吐き野郎め。だがこっちにはある!」
右腕を水面に叩きつける。川の水深は浅い。30cm程度だろう。
だが人を溺死させるには十分な深さだ。そのまま水底に鋏を押し付ける。
5秒。10秒……手を離す!
鋏を引き戻し、バックステップで離れる斬子。
火傷の痛み。鋏が焼け焦げている。一拍遅れて、スラスターにより灼かれ続けていたと悟る。
追撃にそなえ正面を見据える斬子。視界の先で、真沼はよろめきながら立ち上がっていた。
頭からは流血。灯籠の直撃は確実にダメージを与えているようだ。
真沼陽赫は、スラスターを吹きながらその場を離れていく。
迷わず追い縋る。“斬”ならば距離が一気に詰まる。
長屋の中へ。斬子は脚を止める。
気配を殺している。待ち伏せるつもりか。
トラップの類は用意していない。自分の、もとい、挟子の巨腕は、閉所での工作にも誘導にも不適当。
だから相手が持久戦で来るならば、彼女は長期戦を避ける。
相手の誘いには乗らないこと。可能な限り先手先手で攻めること。師匠の教えだ。
戸を刀で、そして鋏で斬り裂く。“斬”。
斬り開いた視線の先に飛ぶ。木っ端がばらばらと音をたてた。
(ちょっと!考えなさすぎじゃないの~?)
彼女はその声を無視する。
止めこそするものの、挟子自体に確たる作戦があるわけではないだろう。
――ならば黙って私を見ていろ。
狭い屋内。障害物は、全て突き崩しながら進む。
匂いが鼻を刺す。
(うっ、なんだろー、これ)
「……麝香か」
強烈な密度の臭気。ここまで充満しているということ、それは。
香油がたっぷりと、ぶちまけられた後であることを意味する。
瞬間、障子戸を突き破り、槍のごとく何かが差し込まれる。
予測済み。斬子は足下の畳を跳ね上げる。
投げ込まれた燭台が、畳に弾かれ床に転がる。
その燭台の奇襲を、斬子は横目で事前察知していた。
蟹の目の複眼ならば、相手に視線を悟らせずともそれができた。
悟らせずに動いた理由はひとつ。その隙を狙って自分が動くため!
“斬”。奇襲の主の元へ一跳び。
彼の姿は、跳んだ先にない。
天上から手刀攻撃!天井を蹴って加速している。
“突”で跳ね除ける。壁を蹴って再加速してくる。攻撃の手が早い!
閉所での機動戦闘こそ、ETC(極度推進格闘)戦術の真骨頂。
連続した回し蹴り!斬子は“斬”で攻線をずらす。だが、彼女はそれどころではない。
スラスターの噴射炎が、建物全体に塗り込められた香油に引火している。
いつの間にか、火が急速に燃え広がりつつあった。
炎で視界が揺らめく中でも、右野斬子の右眼、人のそれであるその右眼は、それを知覚していた。
真沼の狙いが読めた。彼女は得心する。
限界戦闘域を示すのであろう、赤い死線が仄かに見える。
炎で逃げ場を奪うとともに、視界を悪化、ぎりぎりでの攻防からのエリアオーバー狙い。
“斬”も迂闊に使えない。“突”の防御でも対処できない敗北条件。
だが、分が悪いわけではない。
迂闊に動けないのは相手の噴射駆動も同じだし、“突”の突き崩しは押し合いにも優位を取れる。
しかしまったく、とんだリスクジャンキーだ。
躊躇なく、自分へのデメリットの方が大きな戦術を選択できるのだから。
攻撃を続けてくる真沼の攻撃を捌きながら、しかし彼女は少しの余裕を持っている。
追い詰めるのは彼女の側だ。徐々にライン際へと戦闘範囲を狭めていく。
相手の四肢が満足なら、五分にまで追い込まれていただろう。
しかし、右手の動きだけが甘い。当然ではある、肩を抉られているのだ。
あの戦技。目まぐるしい手数と、姿勢によらない格闘手段の多さこそが脅威。
だからこそ、その四肢の一端を欠いた状態では隙が生まれる。
惜しかったな。斬子は素直にそう感じる。
一瞬の隙を突き崩す。“突”で一気に押し出せる位置。
バック噴射で躱される。だがその位置は。
――ラインを超えた。終わりだ。
静寂。燃え盛る音だけが響く中、対戦相手はこちらを見据えたままだ。
――終わらない。何故?
動揺が判断力を鈍らせる中、右野斬子の蟹の目は捉える。
今にも溶け切りそうな和蝋燭を。
赤い線で柱と結ばれた、風前の灯を。
「フェイク……!」
火が溶け切る。同時に真沼陽赫が、能力を起動した。
『ふたりきりの戦争』が始まる。
世界が“一瞬”、暗転する。
それは一瞬ではある。
そしてその一瞬は、多大なる時間である。
高速機動戦闘を得意とする真沼陽赫には。
数年馴れ合った魔人能力を、徹底的に検証し続けてきた真沼陽赫にとっては!
暗転した世界に、色を失った光条がごうと鳴る。
そして、視界を暗闇に支配されるということ。
それは、“斬”による視界瞬間移動能力が、その射程を完全に失うことを意味もする。
右野斬子が見た景色。それは赤く線引く鋼鉄の魔手であった。
ワイヤーフレームの世界が終わる。視界が裏返る。
斬子は強烈なスラスター突進により、地面に叩きつけられる。
馬乗りになる真沼が、右腕を振り上げる。体を押さえ込まれている。大鋏は動かせない。
真沼の左腕が、スラスター噴射膂力で完全に抑えこんでいるためだ。
噴射加速の乗った破壊的右ストレートが、もろに顔面に突き刺さる。
「ぐっ!」
(ぎゃあっ!)
既に次の攻撃の動作に入っている。右腕を振りかぶる。
続いての右フック。左手の刀で受ける。衝撃に耐え切れず弾け飛んだ。
スラスター連撃が入る。受けきれず、何度も攻撃を食らう斬子。
しかし、反撃の算段は整っている。
この義手は、恐らく魔人能力ではない。スラスターの推進剤は有限のはず。
拘束のため、奴は恐らく全力噴射をし続けている。義手に入る程度の推進剤が、そう長く保つものか。
右腕の拘束が解けるまで凌げば、勝機は掴める!
右腕の拘束が解けるまで――
右フックが顔面を捉える。
「うっ……!」
(んああああっ!)
――私より痛そうに呻くもんだな、こいつ。
右腕の拘束が――
右フックが顔面を捉える。
「ちっ……!」
(うくっ……んんっ!)
――化け物のくせに。お前がそんな痛そうな声を出すな。
右腕の――
右フックが顔面を捉える。
(ひぐっ……!あああああっ!)
――ああ、こいつはまだガキだったんだっけか。
ったく……!
――
右フックが顔面を捉える、直前。
「……だ……!」
何かを呻いた気がするが、攻撃は止まらない。
「かはっ……!……降参だ。降参」
バシュッ! と、無理矢理といった風に急制動がかかる。
幾度と無く振り上げた真沼陽赫の右腕は、ようやく動きを止めた。
「ほらよ、持ってけ。自分で取れないんだよ」
右野斬子は鋏を、それに巻きついた一針時計を突き出す。
「……何故降伏したんだ?」
真沼が問う。
「人をさんざ殴っといて言う台詞かよ」
(そーだそーだ!)
こいつは降伏させようという気はさらさらなく、殺す気満々だったわけか。
斬子は気が滅入る。
「こっちは嫁入り前の乙女なんだから。顔を潰されたくはないだろ、リョナ野郎に」
「そいつは悪かったな」
(お姉さん、りょなやろーってなに~?)
「お前は黙ってろ。……悪い悪い、気にすんな」
脳内の同居人を黙らせる。これでは不審者だ。
「詫びに、元の世界に戻してやるよ。最後に覚えてたら」
真沼が軽口を叩く。
「どの口が。私たちのことなんて、全く興味が無いくせに」
「ああ。全くない」
「はっきり言うなよ。お前モテないだろ」
「うるさいな。だけど」
「あ?」
「最後の一人になれば、おれだって気が変わるかもしれない。最後の一人にさえなれば……」
「……あっ、そう。じゃあ、期待せずに待つけど」
真沼が時計に触れる。時計は溶けるように消える。
斬子には重みが消えた実感さえない。腕の重量感覚は変貌したきり当てにならないからだ。
真沼陽赫の身体も、溶けるように輪郭を失っていく。
「……私たち、か」
最後に真沼がそう呟いたのを、斬子はなんとなく覚えている。
(良かったの~?)
間の抜けた声が頭を走る。
「何がだ?」
(確かに、物の怪だったらこの時代のほーがたくさんいると思うけど。
このまま私と一緒でさー。良かったの~?)
「……今回の戦いで分かっちまった、私はお前の力に依存してる。
もっと強い『狂怪』とやるなら、こいつ抜きではやってられない」
かつての自分であれば、あのような思考には至らなかっただろう。斬子は思う。
腕が解放されるのを待つのではなく、義手を喰いちぎろうとでもして、無理矢理に抵抗をしただろう。
どれもこいつのせいだ。斬子は嘆息する。
(私のありがたみを理解したのはいーんだけど)
(お嫁さんになれないー、って叫んでたのはいいのー?)
「良くはねえ。あの猟奇ロケット野郎は許さねえけど」
「この姿だって、誰にも受け入れてもらえないなんてことはない。いつか素敵な人は現れるさ」
(ふーん?へえー?ふ~~ん?)
(ああ、もううるせえな)
床に転がった刀を拾い、鞘に納める。
「行こうぜ、挟子」
彼女は手を見つめる。分厚い甲殻に被覆された、硬く凹凸のある手。
この姿もまあ、悪くない、のかもしれない。
【右野斬子】:敗北。どこかの次元にて、永久乃挟子と二人での人生を歩み続ける。
【真沼陽赫】:勝利。元の世界にて、最後の一人になるための戦いを続ける。