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第一回戦SS・大浴場その2


 丸瀬十鳥は悪趣味な椅子に身を預け、紫煙をくゆらせていた。
 つい先程、彼の子飼いの少女「一切空」は迷宮時計の導きにより、異世界へと旅立っていったところだ。部外者に過ぎない彼に出来るのは、酒と煙草を友にただ待つことのみ。
『やはりアレは私共に預けるべきでした』
 先日――自業自得ではあるが――彼女の手にかかり死んだ画商・藤高の幻影が恨めしげにそう言う。
「しつこいねえ、アンタも」
 丸瀬は呆れたように笑った。
『貴方自身「未完に終わるやも」と仰っていたでしょう。ならば――』
 藤高の続く言葉を、丸瀬は手をひらひらとさせて遮った。
「……仮に俺が日和ってアンタの案を呑んでも、結局は許さなかったろう。
 迷宮時計が、と言うか『一切空』が、か」
『あの少女が、ですか』
 藤高が訝しげな反応を示す。接触したのは僅かな時間だったが、「一切空」という至上の芸術はともかく、その土台たる少女自身には知性というものが見て取れなかった。彼女が何かしらの確固たる意志を以って、戦いに臨んでいるとは、この老境の画商には到底思えなかったのだ。
「アンタ、見る目は確かだと思ってたが、老眼になるとそっちも曇るのかね」
 藤高の意を察し挑発的に言うと、丸瀬は脇の丸テーブルの上のグラスへ手を伸ばし、縁を掴んで弄ぶように回した。球形の氷が、琥珀色の酒の中で揺れる。
「この氷がこんな形なのは、人間がそう製氷したからだ。
 所謂『芸術』もそんなものだろう。使う素材、凝らす技巧に差はあれど、あるものを人の手で作り変える――作為の集大成さ」
 酒を一口呑み、続ける。
「だが一切空はそうじゃない。俺がスラムで初めて見た日、あの襤褸(ぼろ)を着た娘は、その時点で既に完成を内包していた。
 『(くう)』という『運命の形』に向かって自転する原石……それがアレだ。
 その超然たる意志、完成の暁に顕現する無上の価値に比べたら、人類が創作と呼んできた行為の何と浅ましいことか」
 一切空と出逢ってからその完成に捧げたあらゆる労力を、彼は何とも思わなかった。呼吸をするか迷う生物がいないように、彼には身を捧げないという発想が無かった。
「俺が『一切空』を作るんじゃない。大いなる運命に俺を利用していただけた……それだけで光栄の極みさ」
 丸瀬は再び、しかし今度は深く笑った。対する藤高は暫し瞠目した後に言う。
『やはり……貴方は至高の芸術家だ』
「話聞いてた?」
『勿論……だから言うのです。
 そして、あの愚挙の後ではありますが、この老いぼれめも共に待たせていただきたい。「一切空」の完成を』
 脅し、殺して奪おうとした男からの申し出に、丸瀬は屈託無く応じる。
「いいぜ。ほれ、供え(もん)だ。一緒に飲もうや」
 酒瓶を差してケラケラと笑った後、煙草を咥えて離し、細く煙を吐いた。
 そうして、近年広がりつつある額を指でつつきながら言う。
「アレが帰って来なきゃあ、俺もアンタと同じになるだけさ」
 その言葉を最後に、丸瀬はまた黙って酒を飲み始めた。

 目の前に漂う紫煙の向こうに、丸瀬は少女の姿を幻視する。
 出逢った日の名も無い少女、そう遠くない未来、完成に至り、「一切空」のイデアそのものとなった少女。それが実は初めから同一の存在なのだと、知る者は二人しかいない。


・・・

 湯煙の向こうに、雨竜院暈々は敵の姿を見た。
 巨大なサウナとも言うべき熱気浴室(カルダリウム)――その内部を入り口から覗きこめば、空間の中心近くに、現代的な着衣の少女がこちらに背を向ける形で座り込んでいる。
 その姿に、暈々はすぐさま確信した。
(「一切空」ね)
 名前の他に情報の無かった対戦相手の正体に暈々は多少驚いていたが、それよりも注意すべきことがあった。
(何を……しているの?)
 斜め後ろから見る限り、彼女は着ているパーカーの前を肌蹴け、胸から腹にかけて穴の空いたナイフを何度も突き立てているようだ。しかも、肉にナイフが刺さる音も、血が飛んでいる様子も無い。
 この少女が自傷行為とも言い難い奇行に走る理由として、思い当たる答えは1つだった。
(魔人能力……発動条件か、或いはこれも効果の一部かはわからないけれど)
 位置を把握し、能力の一端と思しきものまで見ている。相当なアドバンテージではあるが、こちらからアクションを起こす前に、出来れば能力の更に「先」も拝んでおきたい。暈々が当然にそう考えた時だった。
 一切空がナイフを持つ手を止め、ぺたりと床につけていた尻を浮かす。
(別な動きを……?)
 瞬間、尻の下を通って、「何か」が入り口へと走った。
(バレてた)
 暈々は反射的に()()()
 そのまま最大速度で後退しつつ、暈々は床を走った何かが入り口から飛び出す様を目にする。
(穴……?)
 遠目には黒い点のようでもあったが、確かにそれは「穴」だった。
 古代コンクリートの床を硬貨大の穴が音もなく移動し、その場に静止する。
 通った軌道には何の痕跡も無い。欠如、空白という概念が円形を取り、物体上を移動しているのだ。
 放った穴にやや遅れて、一切空自身が、他の数多の穴を引き連れ、飛び出してくる。あの穴を操るのが彼女の魔人能力で間違い無さそうだ。
(少しわかったわ。でも、私も見られちゃったわね)
 前を隠しつつ、一切空も後退する暈々の方を見ている。引いていく自分の姿、その魔人能力「シフト&ウェット」の一端が、彼女に明らかになったということだ。

 半透明の触手が急速に引き戻され、温浴室(テピダリウム)を経由して冷気浴室(フリギダリウム)にいる本体の元へと帰った。暈々は頭部からカタツムリの角を紐状にしたような、眼球付きの触手を伸ばしていたのだ。
 暈々はこの浴室に転送されると、備えられた水風呂の水を吸収し、この眼球付き触手を伸ばすことで索敵を行っていた。眼で見るのみならず、一本の触手からは柔毛の如く細い触手が伸びて壁や床に張り付き、音を骨伝導の如くに本体へと伝える。先日見たアニメ『寄生獣』にヒントを得た、能力の応用である。
(あの「穴」に破壊効果があるなら、水と同化した私にも攻撃が通るかも知れない……厄介な能力ね)
 思考の傍ら、暈々はさらなる姿へと変態を始めていた。触手を仕舞い、頭部を元の形状へと戻しつつ浴槽に伸ばした第三の触手から水を吸い上げる。変態が完了した直後、外から水の跳ねる音が聞こえてきた。
(来る……)
 初めに入り口から飛び込んできたのは、やはり穴の群れであった。クリアリングするかのように近くを動き回るが、暈々のところまでは届かない。距離制限があるのか、対象の補足が本体頼みなのかはわからないが。
 直後、その本体が飛び込んでくる。
「いらっしゃい」
 暈々がそう言って出迎えた。声が太い。
 一切空に驚いた様子は無いが、彼女が尋常な感性の持ち主ならば初見で暈々の容姿に度肝を抜かれていただろう。端的に言えば、超肥満体であった。
 かろうじて人型を保ってはいるものの水風呂の水全てを取り込み、半透明の肉襦袢を纏ったその体重は半トン以上。ギネス級の巨デブである。当然全裸の上M字開脚だが、大切な部分は肉が隠してくれているので安心だ。
 当然、この姿ではまともな身動きすら敵わない。それを「厄介な能力」の持ち主に晒したのは、不利を補って余りある攻撃能力をこの姿が有するからだった。
 たるみきった尻肉が軟体動物の如くべったりと接地し、身体を固定。腹を両手で抑える。締め打ち(パワーショット)の構え。
「はあぁっ!!」
 贅肉の超蠕動(ちょうぜんどう)。続いて太鼓腹が文字通り水風船の如き膨張を見せたかと思うと、巨大な水弾を撃ち放った。
 倉庫から出てきた漫画『爆球連発!! スーパービーダマン』にヒントを得た、能力の応用である。
 津波の如き水量が、一切空に回避を許さず迫る。
「ア……」
 対する一切空は直立不動だが、棒立ちでは無かった。
 彼女の少し手前、床に空いていた夥しい数の穴、それら全てが結合するかのように一箇所に集中する。穴が互いに重なり合い、縁の一部が消失すると、概念上の空白であったそれらが一斉に物理的なものへとディセンションする。タイルの美しい床に、突如として歪な大穴が穿たれた。
「えっ……?」
 物理的空白、即ち真空が突如出現すれば、当然猛烈な下降気流が生じる。一切空を飲み込まんとしていた水弾はそれに捕まり、穴に吸い込まれるように落下。
 穴から溢れた水も大きな飛沫をあげて飛び散り、目標に対しては目眩ましと服を濡らす程度の効果しかなかった。
「くっ!!」
 超必(ちょうひつ)は防がれたが、敵は穴を全消費している。ややぽっちゃりになった暈々は武傘(ぶさん)「アタンテヒ」を手に間合いを詰めた。濡れた床に加え、足の裏を半液状化することで速力と滑らかさを得た「蛟」だ。
 一切空は暈々の突進に、先程自身に突き立てていたナイフを投げる。
(“雨流(あめながれ)”で防げ……いや)
 暈々は当初そのまま突き殺そうとしたが、先程の一切空の奇行が頭をよぎり、正面から突くことを躊躇った。急遽攻撃を切り替える。
「ふんっ!!」
 助走の勢いを乗せて床を蹴る、と同時、足裏が爆ぜた。残しておいた水を放ち、反動で跳躍したのだ。ナイフは空を切り、暈々は数mの間合いを、小さな溜池を飛び越して一切空の頭上を取った。
 脳天に傘を突き立てる殺人技 “雷閃(らいせん)”。
 呆けたように見上げた少女の額を、アタンテヒの刃が貫い――
(え?)
 確かに刃を突き立てた。が、何の手応えも無い、空を突くような感覚。額に穿たれたのは明らかに刺し傷では無い、頭蓋も脳も貫通する円形の虚空であった。
(何? この穴……まさか)
「アー……」
 脳を貫かれたというのに、一切空にダメージは見られない。
 彼女の顔には(うろ)が四つ。一つは額、双つの虚がこちらを見上げ、大きな虚からは地の底で響くような呻き声。
「……っ」
 暈々が怖気を感じるのと同時、一切空の右手が傘を掴み、左手が胸へと伸びてくる。その掌を、穴が這い回っていた。
 反射的に叫ぶ。咆哮と悲鳴、その両方だった。
「うっ……あああああぁっ!!」
 撫でられる直前、乳房が水弾となって弾け、死の掌を圧し返した。
 同時に、股間からも水撃(ほんのり黄色い)。その顔面への衝撃に一切空の上体が反る。
「りゃっ!!」
 生じた一瞬の隙――暈々は先程と同じく水撃を乗せた飛び蹴りを見舞う。
 その威力に少女は隣の温浴室まで、暈々も反動で元いた位置まで飛ばされる。
 受け身を取り、片膝立ちの姿勢となる。
 水風船の中身を失った胸はすっかり平坦に。雨竜院家らしからぬ豊満の秘密も明らかになったが、そんなことを言っている場合では無い。
(何あの能力……でも、どうにか無傷で……)
 全身を見回した暈々は、気づいた。「アタンテヒ」を穴が二つ、音も無く這い登っている。
 反射的に柄から手を離した瞬間、それら二つの穴は乾いた音を立て、ただの穴と化した。傘布も骨組みも綺麗に刳り貫かれ、雨竜院家の象徴たる得物は三つに折れた無残な姿を晒す。
「くっ……」
 武器を失った暈々は、先程一切空が投げたナイフに目をやる。自分から少し離れた床にそれは突き刺さっていた。
(……?)
 しかし、何か、おかしい。ちゃんと見ていたわけでは無いが、刃の形状が何か違わないか。そう思った時のこと。
「あっ……」
 左手に穴が空いている。その光景に先ほど以上の怖気を覚えた。ナイフの刃に空いた穴が床を伝播し、移動してきたのだ。先に傘を破壊したのは視線誘導のために過ぎなかったのだろう。穴は手首を通り過ぎ、肘へ到達しようとしていた。
(昇られたら……心臓に届かれたら、終わり)
 ならばその前に止めねばならない。即ち、
「はああ……!」
 暈々の上腕に水分が集中し、歪に膨れ上がってゆく。そして、
「ぐっ……」
 暈々が歯を食いしばると、ゲル状の腕は筋肉や骨もろとも内側から爆ぜた。血と水の飛沫が飛び散り、昇っていた穴も腕の破裂に巻き込まれて消えた。
「アー……」
 隻腕となった暈々が懐かしい声に顔をあげると、そこには立ち上がった一切空の姿があった。ぐりんぐりんと首を回しながら、こちらに歩いてくる。スラックスの裾からはぞろぞろと穴が這い出し、足から床へと伝播して彼女の従者のようにその身を取り囲んだ。
「ふぅー……ふぅー……」
 痛みとプレッシャーに荒くなる呼吸をどうにか落ち着かせようとする。本来は発汗の制御も自在の暈々だが、今は冷や汗を大量にかいていた。
(不味い……)
 得物の武傘、そして左腕を失った。傷口は塞いだが、体組織に負ったダメージはいくら水を吸収しても回復しない。
 加えて、あの能力の凶悪さ。
(一旦退くのが、吉みたいね)
 暈々は足元の水を幾らか吸い上げ、刺さったナイフ、そして折れたアタンテヒの先端部分を拾うと「蛟」で走った。
「アー……」
 通路に向かって走る暈々を穴の群れ、そして一切空が追う。しかし暈々は半ばで足を止め、急に方向を変えた。水風呂? 否、水の補給に時間を費やす余裕など無い。
「やっ!!」
 先程と同様、水を放っての跳躍。その先にあるものは……採光用の小窓。
 幼児が通れるかどうかというサイズ。だが、跳躍した瞬間から暈々の身体は空中で細く長く変形していく。結果、窓枠より遥かにスリムになった彼女は勢いそのままにするりと脱出に成功した。     
 先日見たアニメ『ジョジョの奇妙な冒険・第2部』(再放送)にヒントを得た、能力の応用である。

・・・

 一切空は暈々を追おうともせず、彼女が出て行った窓を闇色の瞳で見つめる。暫し見た後、彼女は首をぐりんと回し、別な対象に視線を向けた。それは、暈々が置いていった持ち物。脱ぎ捨てられた着衣に、折れた傘。そして。
「アー?」
 一切空は歩み寄り、「それ」を拾い上げる。形状は砂時計に似ているが、砂時計より複雑に入り組んだガラス管の中を、傾きに合わせて水が行き来している。
 それは水時計――雨竜院暈々の迷宮時計である。
 所持者は迷宮時計を肌身離さず持っていなければならない、というわけでは無い。所持者が迷宮時計を失うのは自身が死す時のみ。だから置いて逃げようと何の不都合も無いのだが……。
「アー」
 首をこてん、と傾け、空いた手でパーカーのファスナーを下ろした。
 肌蹴て見えた上半身には今、穴が一つだけ。特別に大きな林檎大の穴が胸を穿ち、そしてその中心――ちょうど心臓のあるべき位置――には鎖で繋がれた彼女の「迷宮時計」。
 過剰にして無謬、猥褻にして純潔なるその意匠は芸術家・丸瀬十鳥の手によるが、彼はそれも「お前のあるべき姿に近づけただけ」だと語っていた。
 胸元に手を伸ばし、細い指で時計を弄る。ジャラジャラと鎖が音を立てる。
「アー……」
 彼女の呻きが言葉なのか、何の意味があるのか、それは丸瀬にもわかっていなかった。ただ、もし彼がここにいたなら、今のその声がいつもとどこか違うことには気づいたかも知れない。
 水時計と懐中時計。彼我のそれに、交互に目配せする、その瞳に映るものもまた、いつも通りの虚無では無かった。

・・・

 窓から脱出した暈々は草の上に降り立った。
「大浴場」は入浴用の建物のみならず敷地全体を指していた。周囲をぐるりと囲う石塀が暈々と一切空のデッドラインであることを、迷宮時計が教えてくれる。
(あ、時計無い……まあいいか。それより……)
 脱出したばかりの浴場の壁を見る。この向こうの浴室にまだ一切空がいるのか、移動したのか、覗きこむ気にはならなかった。
 彼女の能力なら壁に穴を空けて追って来られそうにも思えたが、それにはまた相当な数の穴を消費せねばならないだろう。武器を捨てても追うという選択を、彼女はしなかった。
(まあ、それが正解でしょうね。時間があれば、穴はいくらでも増やせるみたいだし)
 暈々はそう納得する。その代わりに、彼女も時間の猶予を得た。とりあえずその場を離れ、思考を巡らせる。一切空攻略の為の思考を。
 一時難を逃れたが、穴の数が揃い、休息を取ればすぐに追って来るだろう。万全の彼女と戦い、倒さねばならない。
(あの子は「突き」を無効化しながら、私の蹴りや水弾は喰らっていたし、防御もしていた。
 無効化出来る攻撃、出来ない攻撃があるみたいね。その違いは……)
 あてもなく歩き回りながら暈々は思考を継続していたが、「そうだ」と呟いて建物の屋根に登った。ゲル化出来るほどの保水量は無いので触手を伸ばしてへばりつき、自分を引っ張り上げる。
 「馬鹿と煙は高い所が好き」などと言うが戦いで高所を抑えるのは基本だ。地形全体を見渡せ、一切空が外に出てきても高確率で先手を取れる。あの攻撃無効化も、もしかすると不意打ちには無力かも知れない。
 屋根の上に立つと塀の向こうの古代都市や未開発の大自然も見渡せ、なかなかの絶景だったが、暈々の関心は当然、今いる地形の把握に向けられていた。
 敷地はかなり広く、庭園や小さな神殿、運動用のグラウンドもある。
 そんな中、暈々には見つけねばならないものが一つ。
(水場を、確保しないと……)
 巨デブ体型は今やデメリットの方が大きそうだったが、ある程度の水は当然必要だろう。今の彼女はおっぱいが奇乳な程度だ。もっと水が欲しい。
 かといって、水を得るためもう一度建物に入る気にはならなかった。水を得る前、それも屋内で一切空に遭遇すれば勝算は極めて薄いだろう。
 十分な水を得た状態で屋外に誘い出し、決着をつけるのが理想だった。
「水場、水場」
 くるくると見回す。暈々にこの時代のテクノロジーレベルはよくわからなかったが、こんな浴場を建てられるのならば貯水槽や池など、水の備蓄がありそうに思われた。思われたが……。
「無い……」
 全く見当たらない。因みに、実際は貯水槽がちゃんとあるのだが、場所は建物の地下なので見つからないのは当然だった。
「『大気中の水分を~』とかバトル漫画みたいなことしてたら何時間かかるかわからないわ。
 雨でも降らないかしら……」
 空を見上げれば、突き抜けるような青空。嘗て雨に救われた暈々だが、この世界の天は彼女に味方してはくれないようだ。
 「あっちの神殿みたいな建物ワンチャン」などと思っていた時のこと。
 大きな風の音がした。普通に吹く風とは明らかに違う。猛烈な勢いで狭い空間を通る音。
 ついさっき、冷浴室(フリギダリウム)で耳にしたのと同じ。
 反射的に目をやった先、端近くの屋根にはやはり、歪な穴が空いていた。そして、そこから飛び出してくる敵の影。
「アー……」
「同じこと、考えてたのね……もっとゆっくりでいいのに」
 一切空。
 続いて、屋根の端から夥しい数の穴が現れ、やはり彼女の周囲に留まる。その数はこれまでで最も多い。穴だらけになってもその周辺の屋根が崩れないのが、暈々は見ていて不思議だった。
(そう言えばさっきも……。穴が空いたら即壊れるってわけじゃないみたいね)
 能力についての推察を再開する暈々だが、一切空の行動が注意を奪った。
 パーカーのポケットから何かを取り出し、放り投げる。
「!?」
 先程のナイフのことが頭をよぎり、ひやりとする。さっと飛び退くと、何かは暈々のいたあたりに落下し、転がる。
「これは……」
 暈々の水時計だった。ナイフと違い、穴は空いていない。
「どういうこと……? 返してくれたの?」
 一切空を見る。何か裏がある、というわけでも無いようだ。
 何を考えているのかわからないと思っていたが、いっそう不可解な行動だった。何故殺し合いの相手にこんなことをするのか。何らかの善意だとしても、この時計が何だと言うのか。
 拾っても問題は無さそうだったが、結局拾わなかった。暈々にとって迷宮時計は漠然とした不審感を押し切ってまで拾うような物では無かったのだ。
「アー……」
 拾う様子を全く見せない暈々に、一切空は声をあげる。その声のトーンの変化を聴き分けられる程、暈々は彼女に関心を持っていない。
 そして、その声の後、一切空の周囲に留まるだけだった穴の群れがざわざわと動き出した。
(来る……どうする? 地上に降りる……?)
 そう考え、地上に目をやると予想外の光景が飛び込んできた。大量の穴が、建物の縁をなぞるように取り囲んでいる。
(気付かなかった……灯台下暗し、か……)
 安易に高所に登った自分を責める間も無く、一切空の方を向き直る。大量の穴が波のごとくに迫りつつあった。先程の一切空と違い、自分にはこれを防ぐ手段は無い。
「はっ……」
 脚に水分を供給し、ポンプの如くに流動させ、跳躍。『ONE PIECE』にヒントを得た応用である。水弾を放つほどの跳躍力にはならないが、今高く跳び過ぎるのは致命的だ。程々でいい。
 そして。
「はああああああっ!!」
 右腕に水分を回し、鞭のように長く伸ばす。『ONE PIECE』に(以下略。
 その手には、一切空の投げたナイフが握られていた。
 遠心力で加速した逆袈裟の斬撃。
「アッ……」
 迫るナイフの刃を、一切空は大きく飛び退いて躱す。やや大袈裟なほどの間合いでの回避だった。
(結構素早い……けど、やっぱり効くのね)
 暈々は自分の推測が当たっていたことを悟る。
 あの能力は「点」の攻撃には穴を作ることで対応できても、「面」や「線」の攻撃にはそれが働かないのでは無いか。そう考えた。
 「面」で撃つには水量が足りない。しかし「線」ならば――。
「フンッ!!」
 躱された斬撃の軌道を強引に変え、逆袈裟に斬り上げる。更に腕を、間合いを伸ばして。
 今度は、一切空の反応が遅れた。
「ア……」
(捉え……)
 刃が届いたのは、一切空のパーカーだけだった。
 切り口から斜めに肌蹴、無傷の上半身が露わになる。
「……っ」
 無傷の体表に穿たれた多くの穴。予想済みの光景だが、暈々は目を見開いていた。老境の画商に衝撃を与えた美しさに、では無い。胸の大穴に収まった懐中時計に、だ。
(迷宮……時計)
 それを見て、先程の行動の不可解さがほんの少し解消された気がした。
(何故かは相変わらずわからないけど、あなた……でも……)
 着地した暈々にまた穴が迫る。今度は二段三段と分かれて。
「殺し合い……だからっ!!」
 跳躍で回避し、更に一切空へ斬撃を繰り出そうとする。
 が。
「ア」
 腕の軌道の真下に、また一つ大穴が空いた。吸い込むような烈風に腕が引き寄せられる。
「ぐっ……あああっ!!」
 吸引に抗いながら繰り出した斬撃は、一切空にも十分対処する余裕があった。
 刃の軌道の内側に踏み込み、腕を肩で受ける。「線」の打撃の重さに元々猫背の姿勢が更に崩れるが、同時に反撃も完了していた。
「しまっ……」
 身体からパーカーへ、そして腕へと、穴が伝播する。今度は腕を遡ることなく、その場でただの穴となった。
 細く伸びた腕に幾つもの穴が穿たれると、暈々が水で繋ぐ前に自らの重さで千切れて落ちる。
 切断面から触手を伸ばしてナイフを……。一瞬そんな考えが頭をもたげるが、すぐに断念した。捕まる可能性の方が圧倒的に高い。
「くっ……」
 暈々は腕を引き戻した。これで左右の腕、そして最大の武器だったナイフを失ったことになる。
 水も「溜めておいた」分は使ってしまった。もはや量産型女子高生の潤いしか、暈々には無い。
(十分……十分よ……)
 人体の六十五%が水分だとすれば、体重四十八kgの暈々には三十kgもの水分があることになる。無論全て使ったら死んでしまうが、暈々は「シフト&ウェット」の防御機能が生命維持に優先度の高い組織に水分を配分ことで、常人より少ない水分でも生きていることが出来る。
(使える水はまだある……蹴ることだって出来る……残弾は……まだ、あるのよ。それに……)

・・・

「済まん……済まんなあ……みんなが生きるためなんだ。龍神様に生贄を出さにゃあ」
 嫌だ。死にたくない。
来世(つぎ)は、水に困らねえとこに生まれるんだぞ」
 次なんて知らない。今、今死にたくない。

 暑い。苦しい。水が飲みたい。死にたくない。死ぬのは嫌だ。熱い。肌が痛い。

 生きたい。

・・・


 雨竜院暈々は乾いていた。
 穴を逃れながら一切空に接近し、鞭打で攻撃を試みる。それを繰り返していたが、回数を重ねるほど水分を奪われていく。今や肌は老人のそれよりも潤いが枯渇し、触れば剥げ落ちそうな程だった。
 一切空には何度か命中し、青痣を作ったが、無力化には程遠いダメージだ。

「あああっ!!」
 ふらつく脚で声をあげながら走り、跳ぼうとする。一切空が屋根に穿った穴に飛び込み、浴場を目指す。一か八かの賭けだった。が……
「うっ!!」
 地を蹴る直前、右足に激痛が走る。跳ぶことは出来たが飛距離が足りず、穴の手前に落ちた。
「がっ!! ……あ、足……」
 右足を丸く抉り取られていた。建物を包囲していた穴が壁を昇り、背後から迫っていたのだ。それに気づく余裕が、今の暈々には無かった。
 だが、穴まではもう少し、這って落ちればいい。
「アー……」
 一切空の声と、顔のすぐ前に来た穴が、暈々の思考を遮った。
「一切、空……あ゛っ!!」
 左足も続いて穴が穿たれる。穴だらけになった足は原型を留めていないが、それでも流血が殆ど無いほどに、彼女の体は乾いていた。
 傍らで死を突きつける少女を見上げる。全身が痺れ、吐き気がするが、胃液など出るはずもない。
(まだ、まだ……死にたくない……死にたくない……少しでも、水分を……)
 髪の毛から水分を吸収すると、乾いた髪は老婆のようにパラパラと抜け落ちていった。雀の涙ほどの量だが、今の暈々にはそれも最後の希望だった。
「……」
 少女は、死を目前にした暈々を見下ろしている。その瞳は底無しの虚のまま。迷宮時計に対するような心の熱を感じさせるものでは無かった。死者への憐憫も、自身の生命への執着も、そこには無い。
 無言にして不動のまま、一切空はギロチンの手綱を離そうとする。
 暈々の刺突で穿たれた額の穴。それがす……と動き出した。既に数十の穴が暈々を囲んでいるが、意趣返しなのか、その穴をトドメとするつもりらしかった。
 眉間、鼻、唇から顎、首を伝い、胸へ。正中線をなぞっていた穴は、胸の穴の縁を迂回して腹へと至る。
(……)
 その時、暈々の脳内でパズルのピースがハマる音がした。
 二つの考えが浮かぶ。一つは推測、そしてもう一つは何の根拠も無い、妄想に近しいモノ。その二つが今、反撃の策に繋がろうとしていた。
(到底、現実的じゃないわね。
 けれど、じゃなきゃ勝てない。生き残れない……)
 生きて生きて生き残る……数百年前のあの日から、それが雨竜院暈々の脳に刻み込まれた至上命題であった。
「ん……」
 乾いて癒着しそうな口腔内に――口の中としては――大量の水分を流入させ、組織を液状化する。
 数瞬前スラックスに潜った穴は腿から脚を下り、まもなく足首を通って屋根へ伝播するだろう。
「ううっ!」
 欠損した四肢に力をこめる。ガクガクと震えながら倒れた身体をどうにか起こした。最後の力を振り絞るような動きを、一切空は冷めた目で見ている。
 そのままならば頭に穴を空けられて終わっていた。だから身体を起こして遠ざけた。数秒の延命に過ぎないが、数秒あれば出来ることがあった。
「ふ……」
 暈々の頬が僅かに膨らみ、すぼめた口から何かが飛び出そうとする……が、一瞬早く、一切空の膝が顎に突き刺さっていた。
「ぶぇっ!!」
 衝撃で飛び出した舌は血に濡れているが半透明で異常に長い。その先端には、人体で最も硬く鋭い部位「犬歯」が埋め込まれていた。
(ダメ……ダメか)
 一切空の能力で空いた「仮の穴」が「本物の穴」へと変わる条件は二種類ある。
 一つは彼女が意識的にそうした時。
 一つは縁が欠損し、円の体を成さなくなった時。
 彼女が斬撃を恐れるのは単に無効化出来ないからでは無い。ごくわずかなかすり傷でさえ、「仮の穴」に受ければ致命傷となり得るのだ。
 しかし、暈々の刃はその体に届かなかった。

 蹴りの衝撃で仰け反った上半身を、仮の穴が昇っていく。正中線をなぞり、そして一切空の時計があるのと同じ場所、心臓へと辿り着いた。
(やはり貴女は、心臓を……)
 頭部より近くなったが、コンマ数秒早く仕留めるためだけに、致死性が脳より薄い心臓を穿とうとするだろうか。これもやはり、意趣返しの一部なのだろう。暈々は一切空が額の穴を使った時点で、何となくこうなることがわかっていた。
 ごく僅かな、常人に比べれば(さざなみ)ほどの心の揺れ。しかし今の一切空は、その名が示す境地からは程遠いところにいたのだ。
 そして、その瞬間は訪れた。
「あっ……」
 呻き声と共に口の端から血が漏れ、暈々の肢体がびくりと痙攣する。
 胸の仮の穴は今、本物となった。
 赤い虚空は心臓を穿ち、雨竜院暈々の生命を
(良かった……心臓で)
 奪ってはいない。穿ってさえいない。
 暈々はまだ生命の光を宿した瞳で、一切空を見上げている。
(これが脳なら、少しずらすなんて無理だったもの)
 心臓を狙うはず――根拠の薄い確信があればこそだった。しかし致命傷には違いなく、死は目前。
(それで、十分……!!)
 穿たれた穴より少し左、逃した心臓のある位置が盛り上がる。直後、肉の裂け目、絞りに絞った射出口より、形態変化した心筋と、四肢をミイラ化させてかき集めた水のエネルギーが、「異物」を体外へと放つ。一度目は防がれている。だが真打ちは、やはり締め打ちであった。
 一切空がそうであるように、暈々の胸に埋まっていた「異物」もまた、彼女を象徴する物。
 即ち――「アタンテヒ」の刃。
 あるはずの無い攻撃。降らぬはずの雨を降らせる。雨竜一傘流(うりゅういっさんりゅう)奥義“狐の嫁入り”。
「アッ……」
 放たれた刃が胸の穴の僅かに左、暈々の心臓の位置に小さな穴を穿った時、一切空があげたそれは初めての、純粋な呻き声であった。
 二つの穴の縁が重なり、互いに円形を失う。それが意味するのは
「……っ!!」
 左右非対称(アシンメトリー)のメビウスの輪から、大量の血が噴き出す。有と無の間で脈打っていた心臓が、完全な無となったのだ。
 穴に繋がっていた鎖が外れ、迷宮時計が転がり落ちる。その直後、一切空、いや、名も知らぬ一人の少女もまた、屋根の上に崩れ落ちた。


・・・

『今朝未明、芸術家の丸瀬十鳥氏が所有するアトリエで死亡しているのを発見されました。発見者は丸瀬氏のマネージャーで……』
「悲しい。本当に悲しいわね。世を去る人がいるなんて」
 雨竜院暈々は夕食後、ニュース番組を見て涙ぐみながらそんなコメントをしている。普段の彼女なら興味を懐きそうも無いニュースだったが、異世界で死の恐怖を味わった彼女には、生還してからのこの世界のあらゆる情報が意味深いものに思われた。
「ね、姉ちゃん、風呂入ってくるね」
 弟の暈哉がやや上ずった声で言う。今日の姉は家族にやたらベタベタしたり母の作った永谷園のチャーハンに涙を流したりと正直気持ち悪いので、あまり傍にいたくなく、足早にリビングを出ようとする。
「暈哉」
「……何?」
 姉に名を呼ばれて、暈哉は嫌そうな顔で振り向いた。
「久しぶりに、一緒に入らない?」
「嫌だよ!!」

『丸瀬氏の遺体周辺には争った形跡が無く、また、外傷は額から後頭部にかけて空いた「穴」のみだったということです』
「……穴?」
 暈々は丸瀬の死因を聞いてそう呟き、暫し物思いに耽る様子だったが、暈哉は大人しくなってよかったとしか思わなかった。

 丸瀬十鳥が何故死んだのか、正確なことを知る者はいない。丸瀬が傍に置いていた少女の存在もそうだ。
 少女が本当は何者で、何を求めていたのか、それを知る者は少女自身だけ。

 その永遠の秘密の一端でさえ、この世界に雨竜院暈々を除いて知る者はいない。